第347話 <リゼ>


 今思い返しても、どう反応すれば良かったのかさっぱり分からない。

 リゼはここ二日間、消化不良のモヤモヤを抱えて学園生活を送っている。




 ジェイクが自分に話しかけてきたのは、家庭教師アルバイトの時間だ。

 

 少し前まで大変に気まずい空気だったが、ようやくお互いに――あの研修旅行中の出来事を無かったことのように振る舞えるようになった。

 未だに彼との席の距離は離れているが、ぽつぽつと会話は戻って来た気がする。


 離れて座った方が良いと言われた時はショック過ぎて心を抉られた思いだったけれども。

 例え少し距離が空こうが、ジェイクと一緒に同じ部屋にいることの出来る時間はかけがえのない時間だ。


 勉強のことだけではなく、少しだけ雑談出来る雰囲気に戻れたことに心から安堵している。

 ジェイクにとっては単に勝手知ったる家庭教師役としてリゼを都合が良いと判断した結果かも知れないが、理由はどうであれ馘首クビにならなかった幸運を噛み締めている最中のことだ。



「――なぁ、リゼ」


「何ですか?」


 少し遠い位置に座り、黙々と問題を解いていたジェイクが「出来た」とノートを差し出して来る。

 それを受け取りながら首を傾げるリゼ。

 難しい問題など入れていなかったが、質問事項があったのかと眉を顰める寸前。

 彼は耳を疑うような質問を繰り出してきた。



「お前、腹筋割れてんのか?」





 好きな人――ジェイクには今まで度肝を抜かれるような質問を受けた事が何度かあった。

 だがこれはかなり高い水準の予想外の質問事項である。

 リゼはノートを受け取る中腰の姿勢のまま固まった。


 彼の質問の意図がサッパリ分からない。

 なに?

 これは何のための質問?


「ええ? ジェイク様、急に何を?」


「いや、お前ら朝凄いうるさかっただろ?

 体重がどうの腹筋がどうのとか」



 いやーーーー!


 リゼは内心で大絶叫した。

 あの一連の会話を聞かれていたというのか? 自分は直接関係ない事のはずなのに……


「き、聴こえていたのですか……?」


「リタの声が大き過ぎるんだよ、何事かと思った」


「……。」


 確かにジェイクの指摘する通り、リタの声量はとても大きい。ハキハキして元気と言えば聞こえはいいが、あんな雑然で騒々しい教室内で話す内容を聞き取られてしまうくらいの声なのである。


 彼女に内緒話なんか絶対出来ないだろうなと思うのは、あの声の大きさが理由の一つだった。

 元気で明るいのは長所のはずなのに、時と場合で使い分けないからこんなことになってしまうのだ。


 心の中でリタの首をぎりぎりと締め上げる。


「そ、そうでしたか……」


「別にお前ら減量する必要ないだろ?」


「私もそう思いますよ、第一カサンドラ様はもう少し増えて丁度いいくらいだと思いますし」


 彼女は自らを太ったと言っていたけれども。カサンドラが太っているだなどと思う人間はいないだろう。

 制服を着ていてもわかる、メリハリのある体型には憧れる。


「……そんなに痩せて、棒切れみたいになりたいのか? あいつ」


「流石に言い過ぎですジェイク様」


 この人にこれ以上女性についての話題を言及されたくない。どんな言葉が飛び出すのか恐ろしい。


「で、リタが言ってたけどお前腹筋割れてんのか?」



 更に二回目の同質問!

 リゼは視界がグルグルと回った。


 これは一体どう答えるのが正解だ?

 刹那の時間、リゼは持ち前の思考力をフル回転させて考えていた。


 ――腹筋が割れているか……と訊かれるということは、要するに運動、筋力トレーニングを欠かさず続けているかのチェックの意味があるのだろうか。

 そう言えば最近走り込みや腹筋などの基礎的な体力づくりを軽んじてしまっている気がする。


 無意識のうちに、片方の手は制服のお腹の部分に触れていた。


 一端の『剣士』という立場で答える正解は「腹筋は割れている」であることに相違ない。


 だが残念ながらリゼはあまり筋肉がつくタイプではないようで、他人に誇れるような腹ではなかった。

 確かにウエストは運動を続けているという自然の摂理で締まって来たけれど、別に割れてない。


 

   普通の腹だ。何の変哲もない。



 嘘をつくことは出来ない。

 もしも見せてみろと言われたら……くだらない見栄がバレてしまう。


 悲しい事に、誰かに堂々と見せられるような腹じゃない。

 くっ、と唇を噛み締めて歯を軋ませた。





「――。割れてません」



 顔を伏せ、忸怩たる想いでリゼは返答を呻くように伝える。


「なんだ、そっか」


 彼は「ふーん」と、一気に無関心そうな反応に変わってしまった。

 

 日頃訓練に手を抜いているからそんな体たらくなんだ、と。

 彼に失望されたかのような被害妄想に陥る。


 今朝もリタにがなり立てたけれど、普通の女子は腹筋が割れるような生活はしていない。




 だが本当にリゼが高みを目指そうとすれば――腹筋が割れていて当たり前なのではないか?

 そこに到達していないリゼに、彼は興味を失くしてしまったのか。


 一気に精神的ダメージを負った気分だ。

 ノートを放り出して転げまわりたいくらい大騒ぎだった。


「はぁ、全くジェイク様までおかしなことを言わないでください」


 誰の机か分からないが手前の机にノートを置いてリゼは目を通そうとする。


 駄目だ、心臓が物凄くバクバクと音を立てて全然文字が読めない。


 自分は返答を誤ったのだろうかと、答えのない疑問が周囲を旋回している。


「……それもそうだな」


 彼は足を組みなおし、机に頬杖をつく。



 ……まぁ、間違っても女性相手する質問ではない。

 それだけは確かだ。





 分かってたけど、本当に全く女扱いされていないのだなと改めて心の中で滂沱した。






 ※






 剣術講座の前には更衣室で着替えを行わなければいけない。

 男子更衣室とは離れた校舎の奥に設けられた一室で、動きやすい服装に着替えようとしていたが、未だに燻るモヤモヤした想いのせいで着替えも遅々として進まなかった。


「元気がないようですけど、大丈夫?」


「――先輩」


 後から来たというのに、先輩であるジェシカの方が先に着替えを済ませてこちらを矯めつ眇めつジロジロ見遣る。

 昨日は彼女の姿は無かったが、どうやら今日は一緒に剣術講座に出てくれるようだ。学年こそ違うがお互い女子同士だ。


 彼女が一緒だとかなり心が楽だった。


 ジェイクとあまり話せなくなった、あからさまに避けられていた時期もジェシカが気遣ってくれたから乗り切れたようなものだ。


 最初は意地の悪い先輩だと思っていた、その後は失恋の愚痴を言ってくる厄介な先輩になって、その後はやはり腕の確かな頼れる先輩――と。


 本当に同じ人物なのかと疑う程彼女に対する印象はコロコロ変わっていって、今に到る。


「くだらないことを聞いても良いです?」


「何です、改まって」


 彼女はこの学園で一番の女剣士だ。

 剣術大会ではまぐれのような形でリゼが勝利することが出来たが、実力も経験も彼女の方がまだ上だ。

 代々腕っぷしの強い家系に生まれたお嬢様だが、周囲に認められる剣豪の一人。


「ジェシカさんって、腹筋割れてますか?」


 こんな質問を自分が誰かにするなんて想像したことさえなかった。

 本当に自分は何を口走っているのだ。


 こんなことを言われたら女性は良い気持ちはしないよなぁ、と思ったのも束の間の話。

 何故かジェシカは誇らしげに、自分の上着の裾を持ち上げてその見事な腹筋をリゼに見せてくれたのである。


「当然ですね」


 背が高く、スレンダーなジェシカ。

 そして女性らしい美しさを持ちつつも、その腹筋は綺麗に縦に線が入っているではないか。


 流石に”六つ”に割れているなどという隆々なお腹ではなかったけれど。

 腰に手を当てて素肌の腹を見せつけるジェシカは日頃重たい剣を携えて猛者たちと切り結んでいることを証明するかのごとく。

 綺麗に割れていた。

 白い肌に浮かぶ、黒い影で出来た陰影のコントラスト。


 同性の目から見ても、引き締まったくびれにしっかりと線の入ったお腹はカッコいいと思えた。

 思わず瞳を輝かせて彼女のお腹を間近で見てしまう。


 女性で腹筋が割れるくらい自己鍛錬を続けているなら、さぞ全身が筋肉質で大柄で骨格も大きくて角張っているのだろう――

 そうイメージしがちだったが、しなやかな女性らしい体の線を残しながらも引き締まったお腹は一周回ってセクシーだ。

 意外だと思って、口を両手で覆った。


 普段人に見せびらかすこともないからか、結構長い事鑑賞させてくれたジェシカ。

 彼女は再び服を整えながら、フフンと笑う。どこか誇らしげである。


「バーレイドの人間ならば当たり前ですしね、特別なことなどありません。

 兄も父も、それはもう日頃の鍛錬の成果が身体に出てますもの」


 流石武家の名門一族のお姫様は言うことが違う。

 家族皆がそんなに筋肉で出来ているのか……想像したら少々身が竦む。


 彼女の長い銀髪のポニーテールが”えへん”と胸を張る度に左右に揺れていた。


「凄いですねー」


「でもやっぱり鍛え抜かれた腹筋と言えばジェイク様が一番でしょうね!」


 藪から棒に出現した人名に、リゼは息を飲み込んだ。


「バルガス様のように完全に筋肉の化身とでも言うべき身体も素敵ですけど。

 私はジェイク様の筋肉は素晴らしいと思います、美しさという意味では王子やラルフ様を指すのが王道だと思いますけど……

 ジェイク様の腹筋はもはや芸術の域!」


 カッ、とジェシカは目を見開いた。


 急に熱くなって何を語りだしているのか。

 思わぬ事態に、リゼは口を差し挟むことも出来ず誰もいない部屋を見回した。

 落ち着かずにそわそわするリゼの事など見ていないのか、いかに理想的な体型なのか熱弁をふるいだすジェシカにリゼは冷や汗が止まらない。

 

「あ、あの。

 先輩、もう良いです。もう分かりましたから」


 剣だの槍だの弓だの、武器のことになったら語り始めるフランツやジェイクの事が走馬灯のように脳内をぐるぐると駆け巡る。

 ロンバルドに関わる人たちは皆こうなのだろうか。



 ただただ、驚きだった。

 恐らく家族だけに留まらず、数多くの剣士や騎士の筋肉を見て来た思われるジェシカがそこまで言うのなら、理想的な鍛え方をしているのだろう。

 全く想像もつかないけれど。


 しっかり制服を着ているし、そうそう接触する機会もないから分からな――



 ………。


 そんな時に限って、今まで服越しにだが覚えている触感が――まざまざと蘇ってくる。


 折角記憶の奥底に沈めていたそれらが、一気に思考力を奪っていく。


 人一人を軽く担ぎ上げる事の出来る腕力。

 がっしりとした上体、厚く広い胸板の質感を思い出しリゼはその場に頭を抱えて蹲った。


 恥ずかしさの波に平常心を乱されながらも、何とか着替えを終える。



 そもそも、なんで家族でもない相手の腹筋の様子なんてジェシカが知っているのだ。

 全くシチュエーションが想像できないのだが……


 もしかして日頃剣で切磋琢磨し合うような間柄なら、それくらい普通なのか?


 リゼがいちいち気にしている方がおかしいのか?

 何だか一人で右往左往して身悶えている自分がバカみたいではないか。



 彼女の発言内容から想像するに、腕の力こぶを見せるような感覚なのだろうか。

 だとしたらこの間のジェイクの質問も、こちらの鍛錬具合を確認しただけでほぼ意味のない質問だったわけだ。


 あんなに動揺して一人モヤモヤしていたが、気にする必要は無かったのだろうと分かると、自分の早とちり具合に苦笑した。


 ドキドキして損した。




 こちらの沈黙をジェシカはどうとらえたのだろうか。

 



「――そんなに気になるなら、見せてもらえばいいのでは?」



 興味があるんでしょう?



「出来るわけないですから!」


 とんでもない提案をノータイムで打ち払いながら、リゼは講義が始まる前からもうフラフラだった。



 別に見たいわけでは…………




 頭を横に振るけれども、一度こじ開けてしまった記憶をすぐにしまい直すことは難しい。

 ガンガンに痛む額を掌で押さえ、ジェシカに付き従うように自分の得物を持って更衣室を出る。


 勝手に思い出してしまう。





   もう 接触事故を起こすわけにはいかない

   彼を怒らせたり困らせたりしたいわけではない




 だというのに!

 ジェシカがあまりにも気軽にいうものだから、勝手に想像力が暴走を始める。




 自分が変態の眷属にも思え、一気に落ち込む。



 後ろめたいよこしまな感情がどんどん湧き上がってくることが許せない。

 自制心を以て打ち消すべきだ。





 きっと自分の腹筋が割れていないのも

 こんな煩悩を浮かべてしまうのも








    日々の鍛錬が足りないからだ。そうに違いない。





 


 





「そう言えば……」




 今日からカサンドラ達は放課後、中央広場でランニングをする予定だと言っていた気がする。

 ダイエットなどする必要はないと思うが、走るくらいなら部屋に籠っているより健康的で良い習慣だろうし、止める必要もない。



 リゼには関係のない事だとスルーを決め込んでいたのだけど。

 ここにきて、自分にこそ必要なのではないか? という疑念が沸き起こる。







    私も混ぜてもらおうかな。   








 打ち消しても打ち消しても湧き出る煩悩を抹消するため、決死の走り込みを決意したリゼだった。


  

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