第343話 <リゼ>



 今日はいい天気だ。

 もうすぐ春が訪れる季節ということで、日中の気温も緩やかに上がってきている。


 あんなに寒く、防寒具が無ければ耐えられない寒さだったというのに。いつの間にかマフラーを置き、手袋を置き、普段着になっていった。

 季節の移り変わりの早さには驚くばかりである。


 もうすぐ学園に入学して一年が経とうとしているが、一年前の自分では全く想像もつかない現状に我ながら苦笑いだ。


 決して後悔なんかしていない――はずなのに。

 ふとした瞬間に胸が詰まってしまう。


 これが挫折の味というものだろうか。

 努力して叶わないことなどない、順風満帆、恵まれていた自分がどう足掻いても登攀できない絶壁に突き当たり、転げ落ちて呆然と立ち尽くしている。


 不思議だなぁ。


 リゼは苦笑いを浮かべた後、真っ青な空を見上げて大きな息の塊を吐いた。

 周辺は鬱蒼と樹々が生い茂る森の中。

 だが湖の周辺は陽が良く当たり、風の心地よい場所である。



 一緒の空間にいれるだけでいいと思っていた。

 名前を覚えてもらえるだけでも。

 挨拶が出来るだけでも。

 クラスメイトとして普通に話が出来るだけでも。


 そして剣の話が出来、実際に組手までしてもらえ、家庭教師役を任され――


 次第に欲が深くなっていった。

 初対面の状態に戻れ! と言われたら物足りなさで圧し潰される事だろう。それくらい現状に慣れ、今が当たり前だと慢心していたのだ。


 今一度自分を戒めなければいけないと、ぐっと気合を入れ直す。


 こういう気まずい状態になるのが嫌だから、リスクだと思っていたから!

 告白だの、そういう関係変化に繋がるような行動はしないぞと決めていたはずなのに。



 全く記憶がない自分の行動。もはや何をしでかしたのかさえ定かではない現状。

 かえすがえすも、お酒って怖い。



「浮かない顔してどうした?」


「フランツさん」


 馬上から、剣の師であるフランツを見下ろす。

 ざっくばらんな性格の体格の良い壮年男性は、元々貴族の三男坊だったのに傭兵経験者で現在はロンバルド家の兵士の指導者でもあるらしい。

 学園にいない時はロンバルド家の兵舎で常に怒号を発して彼らに発破をかけている。

 騎士団試験を勧められたにも拘わらず、速攻で固辞するくらいには規律が苦手な性状の持ち主だ。


 そんな彼は、リゼが入学したての右も左も分からない頃、剣術講座の担当として追加で雇われた教官。

 厳しいが腕は確かだし、何より彼もリゼの事をとても気にかけてくれている。


 学園内で最も親しい男性は誰かと訊かれたら、クラスメイトや好きな人という枠を超えてこの人を挙げなければいけないとさえ思う。

 一時は気の迷いで「こんなお父さんだったらなぁ」と思ったこともあったほど。


 今日は土曜日だが、フランツに頼み込んで乗馬の訓練のためロンバルド家の裏庭を借りることになった。

 馬上の人となっているリゼは訓練の真っ最中。


 フランツの補助も介添えもなく、自力で湖の周辺を何周も回れるくらい慣れて来たところだ。

 まだゆっくりそろそろ歩むだけだが、そろそろ走らせる練習に入る――らしい。

 馬の速度で振り落とされたら擦り傷では済まないだろうな、と今から緊張してしまう。


「そういや土曜日って珍しいな、初めてじゃないか?

 なんで今日なんだ?」


「……。」


 リゼは慎重にゆっくりと馬の背から降り、ようやく足の裏を地面につけた。

 ほぅ、と安堵の吐息を漏らす。


「ジェイク様に会わないように、です」


「ほう?」


 彼は眉を跳ね上げた。

 それは不快だったり顰めるというものではなく。

 純粋に驚いた、という顔だった。


 日曜日は本来、ジェイクの休日だと聞いている。

 休みだから、ロンバルド家の裏庭やフランツ、馬を借りていることでジェイクも顔を出したり様子を伺いに来ていたのだ。

 差し入れまで持ってきてもらったのは、一度だけのことではない。


 その点、土曜なら彼も騎士団の方に顔を出さなくてはいけないのでリゼの訓練にはやってこない。仕事中だから。


 気まずくて顔を合わせたくない――なんて殊勝な理由で、土曜日の訓練をフランツにお願いしたわけではなかった。



 彼が様子を見に来ないのは用事があるのだから当然だ、と。

 自分が傷つかないための予防線を張っただけだ。

 今までリゼがフランツから乗馬の指導を受ける時にちょくちょく顔を出していた彼がぱったりと来なくなったら……

 しょうがないこととは言え、ショックを受けてしまう。


 余計に心理的ダメージを負いそうなので、リゼは訓練の曜日を今日にすることで逃げたのだ。


 もう少し、時間が欲しい。

 殆ど失恋状態と変わりはしないが、現状を受け止めるだけの時間薬が欲しかった。


「喧嘩でもしたのか。珍しい」


「違いますよ」


 そんな対等な関係なんかじゃないと知っているくせに、彼は意地悪くそんな事を云う。


 はは、と笑う頬が攣りそうだ。無理に力を入れ過ぎてしまった。


 口籠って曖昧に誤魔化そうとしたのだが――フランツを見ていると、知られてもいいか、と思えた。

 他にこんな話を出来る相手もいないし、何より彼は自分より遥かに年上でリゼのプライベートになど興味もないはずだ。


 もしもロンバルドに属する人にあの出来事を話せば、物凄く不快な思いをさせるかもしれない。

 不敬だとか痴れ者とか言われて投獄されてもおかしくない気がする。


 その点フランツはジェイクに対しては大らかな態度なので、リゼの酒に酔った末の大失態を笑い飛ばしてくれるのではないか、と期待した。


 おじさんの余裕で、『そんなこと程度で気まずいって? 気にしすぎだろ』と鼻で笑って欲しかった。


 比喩としては正しくないかもしれないが、リゼの目から見て五歳や六歳の子どもが何らかの偶然で添い寝状態だったとしても「可愛らしい」「微笑ましい」の感情しか湧いてこないように。

 フランツにとってリゼも歳が離れすぎて、殊更騒ぎ立てる事でもないと思ってくれるのでは?

 是非とも、軽い口調で笑って欲しかった。



「実はこの間の学園行事で――」



 妹達にもカサンドラにも到底話せたことではないとんでもない失態を彼に話すと、少し心が軽くなった気がする。

 全ては水と間違ってお酒を飲んでしまったせいだ。

 自分がそんなにアルコールに耐性がないなんて、知らなかった。

 あれは不幸な事故だった、リゼに何らやましい心などなかったのだと。苦しい事この上ないが、自分に言い訳をしたかった。




「……そうか……」


 しかしフランツの反応は、リゼの予想とは全く異なるものであった。





「超久しぶりにアイツに同情したわ。

 お前、なんつーことしてんだよ」


 

 

 遠慮もなくリゼの息の根を止めかねない言葉を浴びせてくる。

 迫真で真顔のフランツを前にし、本当に自分はとんでもないしでかしたのだという後悔の波が押し寄せてくる。


 説教はされなかったけれど、こちらを睥睨する彼の視線が怖い。


 もしも誰かに見つかってしまったら、彼の立場もないし迷惑どころの話ではなかったはず。


「すみません、金輪際お酒は口にしません……」


「マジでその方がいいわ。

 いやぁ、とんだ災難もあったもんだ」





   ――ですよね!






 軽く笑い飛ばれるどころか傷口に塩を直接塗りこめられる結果となり、リゼの魂は天へと召されかけた。まさかフランツにまで真顔でドン引きされるとは……



 最悪だ。

 悉く、現実がリゼを嘲笑っている気がしてならない。




 だが過ぎてしまった事は今更なかったことには出来ない、それが残酷な事実だ。

 今後の教訓、戒めとして自分を律しなければ。



「フランツさん!」



 ああ、もうなんだか考えれば考えるだけ、自分を嫌いになっていきそうだ。

 今まで受けたことのないストレスを跳ねのけるようにリゼは両手を天に向かって勢いよく掲げた。


「馬の練習が終わったら、剣の指導もお願いします!」


「良いけど、疲れてないのか?」


「大丈夫です」


 リゼは力強く頷いた。

 身体を動かして鬱憤を晴らすというのは効率的なストレス解消法だ。

 今まで苛々することがあっても、それを噛み殺すか押し殺すか、大きな声を上げるくらいしか発散方法が無かった。


 だが今は違う。

 運動音痴とはもう誰にも言わせないくらい身体を動かすことが好きになった。

 走って来いと言われればどこまでも駆けてやるし、剣の素振りでも好きなだけやってろと言われれば延々と続けられる体力もついた。


 へとへとになるまで一心不乱に剣を打ち込んでいれば、嫌な事も忘れられる。

 おまけに心地よい疲労感で、ぐっすり眠ることも出来るはずだ。


「今日はとことん付き合って下さい!」




 フランツが「もう勘弁してくれ」と。

 兵舎の訓練場でギブアップを宣言した時には、既に陽が暮れていた。




 足も手も棒のように疲れていたが、フランツにそこまで言わせたのなら満足である。

 しごきの鬼の教官も、迫りくる過去の事象を忘れるべくがむしゃらに剣を振り下ろして来るリゼの勢いを前に――完全に一歩引いていた思う。






 ※






 気をつけて帰れよ、とフランツに言われた通り既に夕方という時間も通り過ぎたようだ。

 暗がりに覆われた街には街灯がともり、真っ黒い闇を球形に切り取っていた。


 この調子では人通りも一気に減っているのだろうな。


 兵舎に籠っていたせいで、ここまで暗くなる時間になっていたと気づかなかった。

 大きな時計をちらと見上げれば夜の八時を回ったところだ。


 ……そりゃあ、お腹も空くわけだ。


 寮の食堂は閉まっているだろうが、おばちゃんにお願いして握り飯の一つでも作ってもらうしかないだろう。

 生憎買い食いする資金もない。


 流石にこの時間の風は肌に刺さるなぁ、と眉を顰めてリゼはロンバルド邸宅の常識はずれに大きな外門を潜り抜けた。





 道の向こうから、大きな馬がパカパカと歩いて来るのが見えて条件反射で端っこに飛びずさる。

 馬に轢かれるなんて事故に遭うのは御免だ。


 早く通り過ぎないかなぁ、と俯きながら足元の小石を軽く蹴っていると――


「……リゼか? お前こんな時間まで何やってるんだ」


 大きな馬、どう見ても軍用に配備されているとしか思えない黒馬の背から誰かが降りて来た。

 灯りの反射具合で姿の把握に手間取ったが、声を聞き間違うはずがない。


 思わず悲鳴を上げそうになり、リゼは背を真っ直ぐ伸ばして正面に向き直る。

 ジェイクは制服姿だった。

 と言っても学園の制服ではなく、騎士団支給の裾の長い上着とかっちりしたズボン、王国紋章と騎士団のシンボルが刺繍されているモノだ。

 カラーリングは制服と似ているのに、全くデザインの違う騎士姿を見るのは久しぶりである。

 無意識にその姿を凝視していた。まじまじと。



「フランツさんと乗馬の練習してました」


「その話は聞いてるけど、こんなに遅くまでか?」


 物凄く怪訝そうな顔で見られ、心臓がキュッと縮み上がる。

 休みとは言っていたが、フランツはこの屋敷に雇われている人だ。人的リソースを勝手に使うなと言われれば謝るしかない状況である。

 しかも場所や馬、剣という備品まで貸してもらっていた身の上である。

 一気に後ろめたさに襲われた。


「兵舎で剣の指導も受けていたもので……気づいたらこんな時間に」


 予想に反し、特に気にする様子もなく「そうか」、と彼はつぶやいただけだった。


「それでは、私はこれで……」


「お前まさか一人で帰るつもりか?」


「はぁ?」


 リゼは首を横に捻った。

 限界ぎりぎりまで、うーん? と。


 一人で帰るも何も、来る時だって徒歩で一人。

 帰りだってそのつもりである、逆に一体誰と帰れと言うのだ? と呆けた顔をした。

 この屋敷にフランツとジェイク以外の知り合いなどいない。


「分かった、もういい。

 寮まで送る」


「えっ? ……いいですよ、まだ夜って時間じゃないですし」


「駄目だ!

 ちょっと待ってろ」


 彼は全くこちらの話を聞く気が無いのか、掴んでいる馬の手綱を引いて外門を守る衛士たちにそれを預ける。

 鼻息荒く前足をカッカッと地面に叩きつけていた黒い軍馬は、しばらくジェイクをチラチラ振り返りながらもそのまま中へと入っていった。


 筋肉質な馬の下半身、ふさふさの尻尾が歩く度に左右に揺れるのは可愛かった。

 あんなに厳つい面構えの馬なのに。


「ほら、行くぞ」


 

 ここでジェイクを振り切って走って逃げるのも、物凄く感じが悪い。


 彼の胸元を飾る金糸の紋章が視界に入って、ようやく気付いた。

 そうか……

 今は完全にお仕事モードなのだな、と納得して頷く他ない。


 もしもここにいたのがジェイクではなく他の騎士だったとしても、女性一人夜道に歩かせられないと申し出てくれることだろう。

 周囲の目もある、騎士職の人間が見て見ぬふりで送り出すようなことがあっては後で叱られるのかもしれない。


 だとすれば意地を張って遠慮して固辞するのは逆に迷惑だろう。


「すみません」


 なんて不運で、幸運な日なんだ。


 彼に会わなくてもいいように選んだはずの日なのに、結局彼に会うことが出来て。

 その上一緒に帰る事が出来るなんて、何かの計らいの結果としか思えない。



 気まずくてもいいや。

 結局、一緒にいられるのが嬉しい。





「今日はどうだったんだ?

 そろそろ一人で走れるようになったか?」


「何とか! 真っ直ぐなら……! 短時間ですけど。

 振り落とされそうで怖くて怖くて」


「最初と比べたら全然マシだな」


「あの時と比べないでください……!」


 忘れたいのに忘れられない、惨憺たる乗馬デビューのことを思い出して頭を抱えた。

 仄暗い道なので、こちら顔の色までは分からないだろうが恥ずかしいものは恥ずかしい。


「もう少しうまくなったら、いいところに連れて行ってやるよ」


「………?」


 ジェイクは一体何を言っているのだろうと記憶をたどる。

 ふと彼の様子を確認しようと、横を覗き込んだが……

 暗くて良く見えない。



「約束しただろ。

 ……まぁ、まだまだ先は長そうだし。いつになるかは分からないけどさ」






 少しだけ、空いた距離。



 人一人余裕で間に挟むことのできる、ギリギリ手を伸ばせば届くかな? という距離。




 もう縮まることはないのだろうと、諦めを受け入れようとしている最中なのに。







  


    やっぱり 好きなので


      諦めきれなくなる。

 




 


 寮まで、もっともっと遠かったら良かったのに。

 

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