第342話 手作りクッキー


 カサンドラは手作りのクッキーを丁寧に袋に入れ、ラッピングをした。

 メッセージカードを添えて、何処からどう見てもプレゼント仕様である。


 王子と放課後に会える一日なので、とても楽しみだ。

 毎週王子と会える時間はとても短い。

 だが余程の事が無い限り彼はカサンドラに会いに来てくれたし、短時間でも楽しい時間を過ごすことが出来た。


 あの日勇気を持てず、王子に話しかけることが出来ないままだったら……

 王子とろくに話をする機会も持てなかったのではないかと想像するだけで身震いがした。


 いつも大勢に取り囲まれている王子にカサンドラが割って入るのは心理的に大変難しいものがある。

 王子は王子でカサンドラとどうやって婚約解消しようか思い悩んでいた時期だ、振り返るとかなり危機的な状況だったのだろう。


 少しずつでも彼の事が知れたら良いと思っていた。

 そして自分の事も知って欲しいと。

 ……その想いはどうやら叶ったようだ。




 しかもなんと、王子と会話を出来るのは今日だけではない。

 以前王子からの提案にあった通り、明日は同じ歴史学の講義を選択しているので――一緒に下校が出来るはずだ。


 こんなに幸せで良いのだろうか。

 まるで一寸先に見えない落とし穴でもあるのではないか? と急に不安に駆られることもある。


 だが先の事など誰にも分からない。

 既にこの世界はカサンドラの知る『シナリオ』から抜け、全く違う過程を歩むことになるはずだった。


 王子が悪魔に取りつかれ、凄惨な事件を起こすような事がないのなら当然ゲームでそんなイベントなど起こらない。

 この世界の未来はカサンドラにだって推測できない。


 ただ、少なくともカサンドラと王子にとっては希望に満ち溢れた未来であることは間違いない事だ。


 そう思うと、切羽詰まった事案もない。

 王子を始め、王家の現状は憂慮すべきだが――近々にどうにかしなければいけないという差し迫った危機は無い。


 学園を卒業するまで、協力者……理解者を増やし、人脈を築いていくのは大切なことだろうか。

 個別具体的にどう動くかというビジョンはないまでも、一人で悩む必要がないことが嬉しかった。


 自分がどうするべきか、隠し立てる事情もなく相談できる相手がいるのだ。

 王子、アレク、そして父。

 今までの閉塞感がウソのようだ。




 ※



「………王子!?」


 午後の講義を終えていそいそと中庭までやってきたカサンドラ。

 だが急いで向かった先のベンチには、既に人影が見える。

 この時間こんな場所に他人がいる可能性は極めて低く、ぎょっと目を丸くしたものの――

 視界に入って来た王子の姿に息を呑んだ。


 まさか先に着いて待っていたなど思いもよらない事態に、あわあわと急ぎ足になる。

 彼は手帳を広げ、上から指でなぞりながら何やら難しい顔をしていた。

 が、カサンドラの声に気づいてパタンと手帳を閉じる。


「申し訳ありません」


 特段遅くなったつもりはないが、まさか王子に先を越されるとは。

 だが彼はいつもの優しい微笑みのまま言葉を続ける。


「いつも君を待たせてばかりだったから。

 ……たまには、ね」


 王子は自分の腰を下ろしているベンチの隣をぽんぽんと掌で叩いた。

 そこに座れということなのだろうが……

 わざわざ端っこに身体を寄せて勧められては座らないわけにはいかない。

 かなり緊張したが、隣に腰を下ろした。


「君より先に来たのは初めてというわけではなかったかな」


「はい、勿論です。

 先にいらした時、お休みになっていた事もありますし」


 カサンドラにしてみれば普段見れない王子の午睡姿だったので忘れるわけがない。

 生憎すぐに目を醒ましてしまったけれど、本当に何をしていても絵画のように素晴らしい絵になる王子である。

 ありがたや、と拝み倒したくなったのもそう昔の話ではない。


「…………。

 そうだった……ような……うーん、良く覚えていないな」


 本人はあまり思い出したくない事なのか、口元を掌で覆って視線を逸らした。

 意外と恥ずかしがりやなのだなぁ、と。

 前から薄々思っていたが、彼は意外と感情を表に出しやすい人なのかもしれない。


 嫌悪や不快感という負の感情は抑えることは出来ても、嬉しかったり恥ずかしかったりという事態には耐性が無いということだろうか。

 人間、痛い事を我慢する事は出来てもくすぐったい感覚だの心地よい感覚を表情に出さないようにするのは難しいものだ。


 カサンドラの気持ちを知って感情を抑えることなどできるはずがない、と彼が言っていたことを思い出す。

 確かにこの様子では、快や好意という感情は覆い隠すことは難しかったかも知れない。

 隠しきれるわけがないのだからこれ以上一緒にいられない――と彼が自己完結してしまってもしょうがないかも。


 そう思うと、完璧聖人というよりは、年相応に照れ屋な男性には違いない。

 少しだけ彼を身近に感じられる気がしてカサンドラも嬉しくなった。



「アーサー王子、実は王子にお渡ししたいものがあります。

 そう嵩張るものではありませんので、受け取っていただけますか?」


 機を逸しない間に、と。

 彼の気まずさをとりなすように、カサンドラは声をかけた。

 鞄の蓋を開け、ごそごそと中を手の先で探りながら。


「私に? 何だろう、キャシーからもらえるものだったら何でも嬉しいよ」


 物凄い視線の圧を感じ、カサンドラが横を見る。

 爽やかな言葉とは裏腹に彼の蒼い瞳は期待に満ち、キラキラと輝いていた。

 普段他人に対して何かを求めるような人ではないので、余計にその視線に圧力を感じたのかもしれない。


 この期待度百パーセントというオーラを浴び、カサンドラも少し笑みが引き攣る。

 ここまでワクワクさせておきながら、素人の作ったクッキーなどを渡してもいいのだろうか。

 胸の奥に少しの罪悪感を残しながらも、ここで渡さないという選択は出来ない。


「こちらです。

 ええと、先日作ったクッキーなのですが。

 ……あの、お口に合うかどうか……」


 しどろもどろになりつつ、彼の前に綺麗に先日ラッピングしたばかりの袋を差し出す。

 蒼と緑の縞のリボンで結んだ小袋を両手包み、おずおずと彼の前に。


 彼は一瞬時が止まったかのように硬直する。


 その生命活動が停止したのではないかと思うくらい、急激に動かなくなった彼に戸惑ったのだが……

 やおら彼はカサンドラから包みを受け取り、それを両の掌に乗せ顔の高さまで持ち上げた。


 まるで希少な鉱石を陽光に透かすかのような仕草に、カサンドラは肩を跳ね上げた。

 一層煌めく彼の期待に満ち溢れた視線は、見ているこちらが恥ずかしくなるくらい嬉しそうだ。


「ありがとう、とても嬉しいよ。

 ……差し支えなければ今開けてみても良いかな」


 そんな大層なものではないという自覚がある。

 だが王子とて、カサンドラが一流菓子職人のような出来のお菓子を持ってくるなんて思っていないはずだ。

 素人仕事で恥ずかしい限りだというエクスキューズをふんだんにちりばめながら、彼の言葉に頷いた。


 双肩に”わくわく”という擬音を乗せた王子がリボンを解いて小袋を開けると――

 お菓子特有の香ばしくも甘い香りが漂った。


 何度も何度も厨房でお菓子作りに勤しんでいた時にはすっかり気にならなくなっていたその香りは、学園の中庭という場所で強烈なインパクトを齎した。


「マフラーを編んでくれたりお菓子を作ってくれたり、君は本当に器用だね」


「そ、そのような事はないのですが……」


 純粋な彼の誉め言葉が良心にグサグサ突き刺さる。

 実は事前に必死になって練習していますから! なんて言えやしない。


「どうぞ召し上がって下さい」


 出来ればカサンドラの目の届かないところで食してもらいたかったが、一度紐解いた以上味を見るのは後で……というのも変な話だ。

 王子が膝の上に乗せた袋から覗くクッキー。

 それがチラチラと目に入って、カサンドラはドキドキしながら勧める。


 カサンドラにもう一度礼を言って、四角い形のクッキーを一口齧る。

 知らず、緊張でごくりと喉が鳴った。


 アレクに試食してもらうのとは全く質を異にする緊張感に、カサンドラは手に汗を握る。


 彼は残りを全部口の中に収め、何度も大きく頷いた。


「うん、本当に美味しい。

 ……まさか望みが叶うとは思ってなかったから、余計にそう感じるのかな」


「望みですか?」


「この前シリウスが、リナ君にもらったお菓子を食べているのを見ていてね。

 ほんの少し……いや、本音を言えば凄く羨ましかったから」


 そう言って彼は指先で頬を掻き、照れ笑う。

 なんとアイリスの想像はまさにその通り、当たっていたということらしい。

 あまり人の物を羨ましがるなんてことのないだろう彼が、まさか手作りのお菓子を欲しがっていたなんて驚きの事実である。


「でも……どうしようかな」


 彼は顔を俯け、真剣な顔で袋の中を見下ろしている。

 何か不審な点でもあったのだろうかとカサンドラの背中にひんやりとした悪寒が走っていった。


「このようなお菓子はどれくらいもつものだろうか。

 とても勿体なくて、食べ終えるのが惜しいのだけど」


 ポンっと、こちらの心が一気に弾けそうな事を真顔で悩んでいるのだから困る。

 顔が赤くなるのを何とか必死で堪え、彼の疑問に答えた。


「お気持ちは有り難く存じますが、今日中にお召し上がりください。

 その、どうしても劣化してしまいますので」


「そうか」


 彼は少しがっかりしたのか、包みを再びガサガサと閉じる。


 ここまで惜しんでくれる程、喜んで受け取ってくれてカサンドラも嬉しくなってしまう。

 普段自分が彼に出来ることなど多くない。

 でもこうやって喜んで欲しいと思ってしたことに、ここまで感動してもらえるならつい欲が出てしまう。


 ……人間とは、調子に乗る生き物なのだ。


「わたくし、他のお菓子にも挑戦してみたいと思っています。

 成功したら食べていただけますか?」


「勿論だよ、ありがとう!」


「アーサー王子の好きなお菓子は何でしょう、是非チャレンジしたいです」


「君の作ったものなら何でもと言いたいけど、それは困る返答だろうし。

 そうだね……シュークリームやエクレアのふわっとした生地のお菓子が特に好きかな」

 

 はにかんだ彼は、悪気なくとんでもないことを言う。




    よりによって!

    高難度のお菓子!?





 調子に乗ったせいで、藪蛇の結果を生み出した。

 王子も流石にお菓子作りの難易度など知らないだろうが、全く無意識に偶然に、最も苦手で難しいお菓子を注文されるとは……!

 心の中で頭を抱えてゴロゴロ転がりながら、素知らぬ顔でカサンドラはにこりと微笑んだ。


「はい、またお渡しできるよう挑戦してみたいと思います」


 これが見栄なのだろうか。

 相手に対し「出来ません」と言えない悪い癖。


 膨らまないシュー生地……。

 ぺしゃんこに潰れた生地が、メリーゴーラウンドのように周囲をぐるぐると回っている。


 だがチャレンジすると言った手前、臆することはできない。

 今度の挑戦は長引きそうだ。

 心の中の味見協力者アレクが既に逃げ出そうとしているではないか。

 想像上の彼の襟首をつかみながら、カサンドラは色んな意味で小刻みに身体を震わせていた。





 ※




 残ったクッキーを大事に大事に鞄の中にしまった王子は、パチンと金具の金属音を響かせた後。

 首を横に捻りながら、ここに辿り着いた時に見せた難しい顔をする。


「……それにしても、本当にジェイクはどうしたんだろう」


「先週も仰っていましたね」


「前よりは落ち着いてきたみたいだし、もしかしたら忙しすぎて疲れていただけかも知れない。

 ――中々、難しいよ。

 相談してくれれば関われるのだけど」


 自分の気持ちに余裕があるからこそ、気になってどうにかしたいと思ってしまう。


「王子のお気持ち、とてもよくわかります」


 頭をよぎったのは三つ子のことであった。

 相談され、困ったことがあると言われればそれに介入したり助言できるけれど。

 こちらから押しつけがましく「何でも話せ」なんて言うのは難しい。


 いくら友人であっても、ずけずけと相手の心の深奥を勝手に探って掻き乱す権利はない。


 ――事実、カサンドラが誰にも言えない状況で一人鬱々としていた時、誰にも深く理由を聞かれず救われたということもある。

 相手が胸襟を開いて相談してくれない以上、様子を伺い上手くいくように祈るしかないのだ。




「もどかしいですね」



 

 カサンドラの呟きは、もうすぐ春を迎える王国の午後に溶けていく。

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