第339話 <リゼ>
一生の不覚だ。
リゼはあの事件以降、旅行先はおろか寮に戻ってようやく一息ついた後も延々と心の中に大嵐を吹き荒ばせていた。
お酒なんか飲むつもりは無かった。
あんなに強く拒否し続けていたのに、誤って飲んでしまったことは痛恨のミスだ。
その結果、とんでもないことになってしまった。
まさかの事態に顔が赤くなったり青くなったり、全く忙しない。
寮の部屋に帰りつき、荷物を紐解くことなく寝台の上に身体を放り投げた。
大きな抵抗がある寝台に何度か弾みながら、ずぶずぶと身も心も沈めていく。
ジェイクの客室の寝台は、もっと広くて、もっと柔らかかったなと余計な事を思い出してしまう。
ふと目を醒ました時、薄っすらとした闇の中に光る橙色の玉を見つけた。
それはジェイクの目に似ているなぁと一瞬思った。
次第に自分が何者かにしがみついているということに気づき、歯がカチカチと鳴ったのを覚えている。
それまで夢の世界に浮かんでいた意識が弾け飛び、まさか、そんな、と全身が震えた。
もう一度目を閉じれば全て夢だった事にならないか、なんて甘すぎる考えだ。
『――おう、目が覚めたか』
現実は過酷である。
怒気をはらんだジェイクの声が聴こえ、全身総毛立つ。
もはや身の毛も弥立つ体験としか言いようがなく、平身低頭で謝罪したはいいものの。
彼は怒っていた。
館の個室備え付けの壁時計は三時をゆうに過ぎており、記憶がない七時間以上自分は一体何をしていたのかと戦慄した。
全く記憶がない。
もしかしたら、気持ち悪くてしこたま吐きもどしてしまったのではないか。
酩酊状態で変な発言をしてしまったのではないだろうか。
抜け落ちた記憶の断片を拾い集める事も出来ず、足が震えた。
……酔っ払って介抱され、挙句の果てにこんな時間まで彼を拘束していたのだというなら……
もう合わせる顔がない。
そりゃあ折角の自由時間や夜の時間をリゼのせいで台無しにされたら苛立ちもするだろう。
酒好きの彼が途中で抜けてくれたのだとしたら、本当に申し訳ない。
しかもずっと彼の部屋の寝台を占拠して、あまつさえ彼を抱き枕状態にしていたと?
控えめに言って最悪である。
大袈裟に言うなら死にたい。
ぎくしゃくするなんて騒ぎではなく、彼の顔もまともに見る事が出来なかった。
いくらなんでも無礼が過ぎる上に、普段あまり怒ることもないだろう彼を怒らせてしまったというのも後悔の原因だ。
だが謝ろうとすればするほど、言葉が思いつかなかった。
ずっと手を煩わせてしまって申し訳ないとしか言えない。
詳しく言葉にすれば身体が羞恥心で蒸発してしまいそうである。
何の前触れもなく同じクラスの女子生徒に無礼を働かれて、困惑したり怒ってしまうのは当然のことだ。
リゼだってもし自分が男性の立場だとしても、誤解を生むだけで勘弁して欲しいと疎ましく思ってしまうに違いない。
今までに何度も”やらかした”と後悔したことはあったが、今回は特大級のやらかしだ。
申し訳なさと恥ずかしさで顔も見れない、話も出来ないなんて重症である。
※
どうにかこうにか新しい週が始まり、出来ればこの間の事は忘れて普段通り彼に接しようと胸に決めて登校した。
いつまでも彼を避け続けるのは本意ではないし。
それに今日は月曜日、家庭教師の仕事もあるのだから恥ずかしくて話も出来ないなんて言っていられない。
折角得た、彼との接点。
一週間に一度の二人きりの時間。
一緒に下校することが出来るなら、旅行での醜態を誠心誠意謝ろう。
そう思っていたリゼである。が、しかし。
「ああ、リゼ」
昼、食堂に向かう途中の廊下で彼に呼び止められた。
彼から話しかけてくるなど珍しい事もあるものだと、ドキドキ高鳴る鼓動を抑えつつ立ち止まる。
「今日の放課後は、ナシにしてくれないか?」
「えっ」
「先週は授業二日しかなかったしさ。
……たまには早く帰って良いか?」
曖昧な笑みを浮かべて、そうですか、と首を縦に振るしかなかった。
先週は授業がほとんどなかったから。
学年末試験は一学期二学期含めた総合的な広い試験範囲だから復習でもすればいいんじゃないか。
そう判断し、自分なりに用意してきた準備がパァになってしまった。
いや、準備がフイになることは別に構わない。
でもジェイクはあまりリゼの顔を見なかったし、視線も殆ど合わなかった。
言いたいことを言うだけ言って、手を振って王子達に追いつこうと彼は早足で向かう。
そんな彼の後姿を眺めながら、今まで感じた事のない胸の痛みに眩暈を起こして蹲ってしまいそうだ。
……避けられている。
それは自意識過剰でも被害妄想でもない。
明らかに彼と視線が合う回数が減った。
気のせいだと思っていたかったのに、一度気にし出すと何もかもがよそよそしく感じる。
今日はしょうがない、旅行帰りで疲れているのだろう。
早く帰りたいと彼が言うなら、無理矢理勉強させることはリゼには出来ない。
そう自分を納得させて――
次の日の剣術講座も、その次の講座も。
折角ジェイクと同じ集まりに属することが出来ているのに、殆ど会話をすることもない。
今まで当たり前のように出来ていた雑談さえ欠片もなくなったことにリゼは尋常ではないショックを受けた。
物凄く自然に避けられている。
こちらの動きを察知して先に相手に動かれては、立場上追いかけて話をすることは難しい。
そうか、今までリゼはジェイクと親しくなれたと思っていたのは……
彼が気を遣い、自分に話しかけてくれていたからなのか。
間に隔たる川の広さは変わっていない、ただ向こうが橋板を渡してくれたから会うことが出来ただけ。
彼がこちらに話しかける気が無くなったなら、今まで通りにはいかない。
自分は――彼に遠慮なく取り巻いて話しかける他の女子生徒達のように、並ぶような真似は出来ない。
ずっと遠目から見ているだけだった。
少しでも近づけたと思っていたのは彼の気遣い、僅かな仲間意識があったせい。
でも自分が調子に乗って彼に不利益を被らせてしまったから、疎まれてしまったに違いない。
……毎日少しずつ順調に距離が縮まっているのだと思い込んでいた。
あちらから拒絶されるなんて初めての事だ。
よっぽど嫌だったんだろうな。
原因が分からず急に避けられ始めたなら原因を究明するために意地になったかもしれない。
だが明らかに明白な理由、己の落ち度がある以上もはや逃げ道を作ったり責任転嫁する事さえできないではないか。
今更どうしたらいいのだ。
あの日の彼の記憶を消すにはどうしたら?
そんな無茶な事を考え、一人心をキリキリと痛めた。
謝るという行為さえ、話が出来なければ無理だ。
本来あるべき距離感に戻っただけだと言われればそれまで。
上に登るだけだった関係が、いつの間にか自分一人が足踏みしているだけの幻想だったと知った。
どうしたらいいのか分からない。
……恋愛ごとに明確な答えを知っている人なんて……
ふと脳裏を過ぎったのはカサンドラの顔だ。
彼女はジェイクと親しくなれる手段を正確に教えてくれたし、リタの事も上手い具合に導いてくれたではないか。
もしかしたら適切なアドバイスをもらえるかもしれない。
だがそんな一縷の望みを託したいカサンドラも、最近は何だか思いつめているようで上の空状態に見えて……
声を掛けることさえ憚られる。
そう言えば王子もどことなく元気が無いように見えるし、いつもより輝きオーラに冴えが無いような気がしてならない。
もしかしたら王子と喧嘩でもしたのだろうか。
いくら恋人だろうが婚約者だろうが夫婦だろうが、人と人とのやりとりだ。
仲違いをしたり、意見の食い違うこともあるはず。
でも彼らの人間性を考えれば、きっと前向きで、関係を改善するための喧嘩なのだろう。
最初から互いの関係に何一つ具体的な名前をつけられていないリゼとは違う。
大きく豪華な舞台の上で正々堂々と『喧嘩』ができるのがカサンドラ達だとして……
自分はただ広い砂浜で砂の城を作って一人で楽しんでいただけだ。
こうして波に浚われてしまえば……原型さえ留まる事無く、粉々に崩れ落ちる関係。
土台が最初から違う。
凄く羨ましくもあり、妬ましいとも思ってしまった。
それが一層あさましく感じ、頭がズキンと痛みを訴える。
一度ネガティブな思考にハマるとごろごろと坂道を転げ落ちるようにリゼの気落ちは止まらなくなっていく。
金曜日など、一度も視線が合わなかったのではないか。
どれだけ目で追っても、彼の顔がこちらを向くことはない。
すれ違う時にこっちを見て、気軽に声を掛けてくれることももうないのだろうか。
……週が明けても……
もう、家庭教師のアルバイトも要らないと解雇されるのではないかと、そればかりが辛い。
誰のせいにも出来ない。自分のせい。
記憶はない間、確かに自分は『幸せ』だったし、心地よかったのだと思う。
でもその対価がこの状況か。
リゼは机に向かって、月曜日のアルバイトの準備を進めている。
日曜日の夕方から夜にかけては、リゼが一番やる気に満ちている時間だった。
一週間の授業内容を思い出しながら、ジェイクが少しでも分かりやすいように試行錯誤しながら問題を作ったり、記憶があやふやな個所を調べ直す作業も楽しかった。
ここで手を抜いたら一緒にいることは出来ないのだと、常に全力だった。
自分とジェイクを近づけてくれたのは、剣のおかげでもあり。この得意としている勉強のおかげでもあった。
彼の役に立てることなどこれくらいしかない。
一つでも何か出来るのなら嬉しいとさえ思ったものだ。
こうやってノートにまとめても、明日も要らない、と言われるのかも知れない。
簡単に想像できる近未来図にリゼは唇をぎゅっと噛み締める。
背を丸め、痛む頭を抱えてノートを見下ろしていた。
ノートの上に無造作にころんと転がる、男性向けのペン。
それを見ているだけで切なさが押し寄せ、その痛みに必死で抗おうとする。
「……………っ……」
駄目だ。
耐え切れない。
誰かを好きになることは良い事ばかりではないと分かっていたはずなのに。
他人の感情や行動に左右され、自分の軸を見失う。
恋愛なんて他人あっての不確定要素に身を滅ぼすことはない。
でもどうしようもないじゃないか。
ここまで膨れ上がった好きという感情を、今更なかったことになど出来るものか。
ノートに書かれた文字が滲む。
黒いインクで書かれた文字列は、水滴によって大きく滲み次のページ以降も徐々に浸食していった。
今、こうして準備をしていることは無駄になるかも知れない。
でも頼まれたことは責任を以てやり遂げるのは当たり前のことだ。
直接
剣だって辞めるものか。
彼と親しくなれなかったから、じゃあ諦めます、なんて。
すごすごと逃げ出すほど自分はか弱い人間ではないはずだ。
元々、仲良くなれたように感じる方が奇跡だった。
最初の頃のように遠巻きに見る状態に戻るだけの事じゃないか。
ぐっと腕で顔を拭い、リゼは涙で滲み、汚れたページを全てビリビリに破って放り捨てた。
※
次回の
中庭で落ち着いて待つなどとてもできなかった。
もし彼が来たら、もう一度謝罪するべきなのだろうかと思い悩みながら、たった五分が一時間にも二時間にも思える緊張の時間を過ごしたのである。
「……お、もう来てたのか。相変わらず早いな」
だがそんなリゼの心配、気を揉んでいた時間を返してもらいたいと抗議したくなるくらいジェイクはごく普通に現れた。
先週までのこちらの避けっぷりを見るに、もう二度と気さくに話しかけてくれることもないかも知れないと覚悟していたのに。
張っていた気が、一気に抜ける。
その場に腰砕けになってしまいそうだ。
「い、いえ。私も今来たところで……」
ジェイクと一緒に生徒会室に入る。
二週間ぶりの場所だが、相変わらず塵一つ落ちていない綺麗な部屋で、ジェイクの机以外は整理整頓されている。
整然とした空間はリゼも落ち着くけれど、流石にこの状況では落ち着こうにも落ち着けない。
「……先週は悪かったな」
彼は鞄を机の上に乱暴に放り投げ、きまり悪そうにそう呟いた。
苦虫を噛み潰したような顔だ。
「いえ、遠方の旅行から帰って来たばかりですし!
疲れていたのは仕方ない事なのでは」
自分からあの旅行の話を持ちだし、完全に墓穴を掘ったと頭の中が真っ白になる。
見えている罠にわざわざ足を引っかけに行ったも同義ではないか……!
「やっぱこの時間がなくなったら、辛いしな。
さっさと前の分のも合わせて終わらせるぞ」
あまり気乗りしない様子だったが、彼は椅子に座ってこちらを凝視する。
こんなにすんなりと
もしかしたら彼も色々思うことがあったのかもしれない。
出来ればリゼと二人きりになるのは敬遠したいが、やはり一対一の勉強は効率が良いので完全にクビというのも勿体ないと思ってくれたのか。
……芸は身を助ける、という言葉がラッパの音とともに思考を埋め尽くす。
「わかりました、頑張りましょう!」
どういう思考過程を経たにせよ、ここで彼にお役御免と手を振られることはなかった、それが全てだ。
今までのように、彼が隔たった濁流の間に頑丈な橋を渡してくれる事はなくなるかも知れないけれど。
「何かお前、遠くないか?」
机に座り、リゼの渡したノートをパラパラと捲って確認しているジェイクが不思議そうに声を出す。
彼に言われるまでもなく、今までより二倍以上の距離を保って座る。
間違っても彼に接触するような悲劇が起こさないために。
可能な限り、事故の確率を下げるために。
「はい。
大丈夫です、ご迷惑をおかけすることないよう気をつけます」
金輪際、酒など口にするものか。
そして幾度かあった接触事故も避けなければ、とリゼは真顔で切り返す。
「はぁ……。まぁ、そっちの方が助かるけど」
ですよね!
と心の中で血を吐いた。
今更ショックを受けてもしょうがない、現実は斯様に非情である。
「っていうか、何でこんなにページが破れてるんだ、これ」
「……昨日、飲み物を零してしまったので……」
昨日の自分の心情を思い返すと、思いつめすぎて少々こっぱずかしい。
だがこうして彼と話が出来ているからそう思うだけで、今日もやりとり如何では部屋で一人膝を抱えていたかもしれないのだ。
「お前って案外、そそっかしいよなぁ」
ノートとリゼの顔を見比べ、彼は笑った。
それはこちらの失態を
普段の彼が見せる事のない、とても穏やかで優しい表情で零れた言葉だったから、一気に血流が早くなる。
「もう酒は飲むなよ」
「分かってます……。その節はご迷惑をおかけしました」
互いに気まずく、視線を逸らす。
いつもより二倍、離れた距離で
下校はいつもの三倍――目いっぱい離れて、わざとらしく大声で話を交わす。
きっとこれが、適正な距離ってものなんだと心の中で頷いた。
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