番外編 -ジェイク- 2/2
扉の向こうで自分を呼ぶ声がする。
僅か一秒にも満たない僅かな時間、ジェイクは脳内をフル回転させた。
まず、カーテンを完全に閉める。月明かりの淡い光を射し込ませていた窓を完全に閉めきった。
これで室内は完全な暗闇である。
廊下から自分を呼ぶ人物――ラルフは人の部屋をまじまじと覗き込むような奴ではない。
他人の客室に興味を持つような性格ではないし、自分が目の前に立てば室内への視界は遮れる、はず。
だが廊下から入り込んだ光が寝台の上を煌々と照らすのは流石にまずい。
ジェイクはクッションと枕を彼女の背中に添えるように置き、急ぎ上着を脱いでその上に適当に放りだした。
幸い彼女は完全に丸まっていて、人が横たわっているよりは着替えや荷物だと誤魔化せるかも知れない。
少なくとも何もカバーしないよりはマシだろうと咄嗟に手を動かした後、出来る限り目覚めたばかりの気怠そうな声を出す。
……なんでラルフ相手にこんなことを、と自分の不運を呪う。
いや、完全無欠な自業自得なのだが。
一度起こしてしまった事を悔いるよりは全力でこの場を凌ぐよう行動することが急務である。
「んー、何だよ」
扉に近づき、ノブを手で握りしめる。
外開きの扉を肩で押し開くと、そこには予想通りラルフが立っていた。
「本当に部屋にいるとは思わなかった」
ラルフは少し驚き、怪訝そうな表情でこちらをじろじろ見つめる。
確かに無類の酒好きの自分が、談話室で思う存分振る舞われているワインを無視して部屋に戻っているというのは不思議な話だろう。
不審そうな顔も当然と言えた。
「腹が冷えて調子が悪くてな。
横になってたんだよ」
あまり嘘は得意ではない。
だが全く嘘をついたことがないなどありえない、自分はそこまで清廉な人間ではない。
意図的に相手を騙すような会話を平常心を装って行うのは気が咎めるが、それ以上にヤバい状況を文字通り背後に抱えているのだ。
迫真の演技でラルフに答えた。
「……そこまで飲んだか」
はぁ、と彼は肩を竦める。それくらいならやらかしそうだと納得されるのも癪に障るが、今は助かったと心の中で盛大な吐息を落とす。
「で、何か用か?」
「ああ、実は……
リタ嬢が、リゼ嬢の姿が見えないと探し回っていてね」
ギクギクッ、と動揺が走りそうになるのをジェイクは懸命に抑えていた。
「どうも途中から姿が見えなくなったみたいで、彼女の部屋も施錠されて返事もないのだとか」
「リゼ? 知ってる知ってる」
ジェイクはとりあえず一旦廊下に出て扉を閉めた。
のそのそとした動作で、明るい場所に出る――という行動は別に不自然ではあるまい。
バタン、と扉が閉まった音を背にジェイクは死地を脱したと拳を作りたくなったが、まだ肝心な用件は終わっていない。
リゼの姿がどこにもない?
当たり前だ。今ジェイクの部屋にいるのだから、他の場所にいるわけがない。
出来る限りいつも通りを心掛けて慎重に言葉を選んだ。
「あいつ、酒飲めないのにうっかりワインを誤飲してさ。
気分が悪そうだったから、部屋まで送ってやったぞ」
完全な嘘を言えば絶対にバレる。
だから自分でも常識的に考えてそうするだろう、という
「そうか、ならば彼女は部屋にいるんだね」
「かなり辛そうだったし、外からドンドン叩いて起こしたら余計気分悪くなるかもな。
しばらくそっとしといてやれって、言っといてくれるか?」
我ながら完璧な誤魔化しぶりだと自画自賛したいところだったが、それをぐっと堪える。
酔いつぶれた彼女を見つけ、連れて行って寝かせたのは自分だ。
その場所が彼女の部屋か自分の部屋であるかの違いで、誰にも目撃されていないならまさかここで寝ているなんて疑う事はないだろう。
だって自分でさえ、本当に自分の行動なのか不思議でならないくらいだ。
あんな事故めいたことさえなければ……
「じゃあ、リタ嬢達にはそう伝えておくよ。
……君は随分元気そうだけどね。……――お大事に」
ラルフは特に追及の手を加えることなく、あっさり引き下がる。
その様子を見て、ヒヤッと背中に汗が一筋流れた。
恐らくジェイクの友人知人の中で、最も騙し辛い相手がラルフだ。
彼の直感は馬鹿には出来ない、やたらと勘が鋭いのは知っている。
今までその目がこちらに向くような事態が無かった、隠し立てすることが無かったから知らないままだったけれど。
彼の紅い両目に、全部見透かされたような気がしてウッと息を呑んだ。
それでも別に疑って家探しをしようとするわけでもないが、誤魔化せたと思ったのは自分だけなのではないか。
そんな暗澹とした気持ちに陥れてくるラルフの後姿を、しばらく呆然と眺めていた。
アイツに隠し事はもうやめよう、心臓に悪い。
やむを得ずラルフに嘘をついてしまったが、今後同じように誤魔化しを強いられる場面が来ないことを祈ろう。
そんな事を考え再び部屋の中に戻る。
短時間でも光のある場所にいたせいで、もう一度暗闇に慣れるまでしばらく立ち止まった。
うすぼんやりとした視界の中に映る景色が先ほどと全く変わらないことを確認し、ホッと胸を撫でおろす。
部屋の中に本当にリゼがいないか確認させてもらうなんて言われたら完全に終わっていただろう。
相手の反応如何では、ひょいっと中を覗き込まれていたかもしれない。
もしかしたら――勘付かれているかもしれないが、敢えて追及されなかったことは豪運だった。
今後しばらくの幸運を使い果たし、ジェイクはもう一度寝台に近づく。
彼女の存在を隠すように小高く作った小高い枕とクッションの山。
その上にぞんざいに放り投げられた上着を手に取って、床の上に放り投げた。
ついでに枕も除く。
彼女は一度寝返りを打ったのか、窓側を向いていた顔がこちら側だ。
固く瞼を閉じた彼女と目が合う事はないが、ドキッとした。
さて、これで当面の危機は去った。
このまま彼女が目を醒まし、状況を把握して自室に戻ってくれればいいのだ。
何事もなかった
皆が寝静まった深夜なら、彼女が自室に戻ることも難しい話ではあるまい。
屋敷の外周は騎士達ががっちりと固めているが、高位貴族達の子女も宿泊する施設なので屋敷内を彼らがうろうろすることもない。
騎士団に監視されるのは嫌だと言う者にも配慮してのことだ。
――騎士団は殆どがロンバルド関係の人間で埋まっているので、彼らの警備と言う名を借りた監視を善しとしない層も一定以上いる。
学園側の配慮の結果許可なく屋敷内を哨戒する騎士もおらず、その点は助かっている。
……はぁーーー、と大きな吐息を落とす。
こんなとんでもない不祥事未遂を起こしてしまったが、何とか事なきを得そうだ。
希望の光にようやく心が落ち着いてきた。
「………。」
少しカーテンを開ける。
半分ほど開けたカーテンの隙間から、月光がくっきりと暗闇を割った。
寝台、そして彼女の顔に射し込む光。
静寂の中、遠くで梟の鳴き声だけがやたらと耳に障った。
ジェイクは安堵ついでに寝台に乗り上げ、しばらく彼女の様子を見ていた。
自分が腰を下ろしている箇所とは反対側。近いのだか、遠いのだか、微妙な位置でスヤスヤと寝入るリゼ。
柔らかい銀の光は、彼女の微細な表情の変化も浮かび上がらせる。
ここに連れて来たころとは違い、随分穏やかになったと思う。
体調が悪いのが少しは治まったのだろうか。
折角熟睡しているのだ、わざわざ起こすこともあるまい。
ラルフが闊歩しているように、起きている生徒達も多いだろうし。部屋の外に出るには最悪のタイミングだ。
――もう少し、彼女が起きるまで。
取り立てて何かするわけではない。
寝台の端っこにあぐらをかいて座り、少し背を丸めたまま彼女の姿を見ていただけだ。
それだけで、色んな想いが込み上げてくる。
この一年近く、気づけば傍に彼女がいた事に思い至って橙色の目を細めた。
一つ一つの出来事を思い出すのはキリがない、どこが始まりかなんて決めたってしょうがない。
自分が彼女の事を好きであるという事実を認識した、それが全てだ。
出来れば気づきたくなかった。
一生、知りたくなかった。
何故あのタイミングだったのかと、神に呪いの言葉を吐き捨てたくなる。
時機さえずれていればまだマシだったろうに。
脳裏に明滅する影が、”自分”をじっと睨み据えている。
それは幼い人影であり、そして巨躯の大男でもあった。
『お前も同じか』と嘲る声が聴こえる。
ありえない。
そんな事になるなら自分を串刺しにした方がマシだ。
違うと証明するには、この気持ちは無かったことにするしかない。
口に出さなければ良い。
望まなければ良い。
「…………ん……」
彼女は軽く呻いて、自分に背を向けるように再度寝返りを打った。
金縛りに遭ったように動かなかった体が動き、肩を大きく上下させて息を吐く。
ここにいるのは、ただの友人だ。
……そう、仲の良いクラスメイト。
自分にそう言い聞かせ、寝台から降りようとしたが……
もうこんな機会は二度と訪れないだろうなと思うと、物凄く勿体ないような気がした。
このままずっと内に抱えて沈めて葬っていく感情だというのに。
だがそういう理性の声とは裏腹に、突拍子のないことをしでかしてしまう自分もいる。
彼女をここに連れて来たことと同じように、今、耐え難い衝動に支配された。
広い寝台だ。
大の大人が三人は余裕で横に慣れるサイズの寝台、その端っこ同士に寝転がるくらいはいいんじゃないか。
どうせこれっきりだ。
少しだけ……
少しくらいなら。
何か話しかけるわけでもないし、視線さえ合っているわけでもない。
そのまま横に身体をパタンと倒し、リゼの姿を見る。
白いシーツにくるまり、水平目線で見ると白い何かの塊以外の何者でもない。
人一人、二人分の距離。
このままずっと埋まることのない、近いようで遠い距離だ。
手を伸ばせば触れる事は出来るけれど、絶対に許されない、遠い遠い向こう側。
幸せなのか、不幸なのか分からない。
誰かを好きになるのは嬉しいことのはずなのに、ただただ、しんどい。
毎日毎日消耗戦を仕掛けられている。
でもしんどいからと言って傍にいられなくなるのも嫌なのだから自業自得としか言えない。
ああ、ちくしょう。
昨日の朝、出発前に学園内で馬車を待っている彼女の姿は可愛かった。
今日、ワインの試飲会で話した時の不機嫌そうな顔も可愛かった。
――完全に酩酊し、気分が悪そうな彼女も不謹慎ながら可愛かった。
きっと明日も変わらないだろう。
……でも、今は背を向けて寝ている彼女をこちらに向けるような事も出来ないし。
そもそも指一本だって触れるつもりはない。
悪態をついたところで現実は変わらない。
本当の愛だの恋だの、そういう言葉遊びに興味もない。
ただ、今が続けばいいと思う。
何も得ることもないが、何も失うこともない。
……自分の唯一の『弟』の顔が思い起こされる。
こんな自分を見たら、彼はどんな気持ちになるのだろうな。
それから一時間近く経っても、大きな変化が訪れることはなかった。
寝返りをもう一回打ってくれればいいのにという自分の望みは叶わず、その体勢のままただただ時間だけが過ぎていく。
暗闇に慣れた目が時計の文字盤を拾った。
――もうすぐ日付が変わるらしい。
絶対に明日の朝には自分の部屋に戻ってもらわなくては困る。
でも、まだ大丈夫だから。もう少し様子を見よう。
我ながら未練がましいと吃驚しつつ。
腕の上に頭を乗せて横臥していたジェイクは、いつの間にかうとうとと寝入ってしまった。
※ ※
ハッと目が覚めたのは人の気配を間近に感じたからだ。
一体何だと意識を覚醒させた後、違和感に気づく。
「………。」
何故かリゼの寝顔が近くにある。
物凄く近い。
先ほどまでゆうに一メートルは離れていただろう距離が気づかない内に詰められ――
「……?」
状況が理解できずに唖然とした。
誰かが自分を拘束している、いや前面から抱き着かれているのかと気づく。
それまで鈍重だった思考が一気に駆け巡る。
完全に寝惚けているのか、物体移動の原理、法則の何かが働いたのか。普通に考えてありえない状況にジェイクは大声をあげそうになった。
こんな夜中に騒ぎ出すわけにもいかず、それは堪えた。
だが肩を掴んで揺り起こそうにも……
物凄く心地よさそうにスヤスヤと寝入られていては、それは躊躇われる。
――何だこれ。
眠気など完全に何処かへ消し飛んだ。
この状況で眠れるほど、彼の心は鋼で出来ているわけでもない。
完全に行き場を失った片腕を絶対にリゼに触れないように後ろ手に持って行ったまま。
この世の地獄かという精神的苦痛をしばらく味わうことになったのである。
※ ※
「………ぅ……ん?」
ようやくリゼがうっすらと瞼を開け、意識を取り戻した時には深夜二時近く。
本当にどうしてくれようかという忍耐の極致を味わっていたジェイクは、完全に表情が引き攣っていた。
「………え? え?」
当然リゼは己の状態を認識し、呆然と目を瞠る。
ジェイクに思いっきりしがみついている状況を理解し、彼女は寝起きとは思えぬ俊敏な動作で、弾かれるようにごろごろと後方に転がって行った。
余りにも勢いがつきすぎて、どしん、と彼女は寝台から落ちる。
「い…痛い……え?
あれ? 夢じゃない??」
強かに打ち付けた背中をさすりながら、リゼは小声でぶつぶつと独り言を言う。
「おう、目が覚めたか」
こんな状況を作り出した張本人だが、額に青筋を浮かべるを抑えることは出来なかった。
「え? あの、ジェイク様、これは……どういう状況……なのでしょう……」
彼女はパニックになりながらも、正確な状況を確認しようと声を絞り出す。
おずおずと声を掛けて来た。
床に落ちたまま座り込み、ひょっこりと顔だけを出す彼女の顔は蒼い。決して飲酒のせいではないのだろう、顔面の色。
「お前、ワインを誤飲したの覚えてるか?」
はぁ~、と大きな溜息を吐いてジェイクは上体を起こす。
首の後ろに手をあて、頭を左右に振るとコキコキと固まっていた関節が鳴る音がした。
「はい、気分が悪くなったので外で涼もうと……」
そこから完全に記憶を消失しているのだろう、言葉尻を窄めて視線も一緒に下におろす。
「酔っ払って石にしがみついてるお前を見つけたから、引きはがしてここまで連れて来て寝かせた。――以上。
ああ、ここは俺の部屋だ」
ひっ、と彼女は悲鳴を押し殺す。
冷静に考えればリゼは抗議をするべき立場である。
酒に呑まれていたところを、男子生徒の部屋に連れ込まれたのだ。
それは女子として、怒るべきところだろう。
一体何をしたのかと詰め寄って来られても、謝る事しか出来ない。
「ご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした……!」
彼女は寝台の上に飛び乗って、平身低頭頭を下げた。
綺麗な土下座である。
完全に身もちぢまるほど恐れ入っているリゼの姿にジェイクも心がグサグサ痛い。
こんな状況でも謝るのか、と。
問題行動を起こしたこちらを怒るのではなく――
「いや、別に……。
今なら誰にも見つからずに部屋に帰れるだろ、ちゃんと鍵はあるか?」
ゆるゆると頭を上げたリゼは、皺だらけになったスカートのポケットに手を入れる。
「あ、あります。大丈夫です……」
完全に状態が戻ったわけではないが、歩行は十分可能らしい。
彼女は寝台を降り、そそくさとふらつく足取りで部屋を出て行こうとする。
本当に自分は彼女にとってただのクラスメイトどころか、偉そうにしている貴族の坊ちゃんと認識されているに過ぎないんだろうな。
そんな当たり前の事に今更気づいて苛々する自分にも腹が立つ。
「あ、あの、ジェイク様」
扉を開けようと手を伸ばす彼女が振り返った。
「さっきは、本当に失礼しました……!」
そう言って彼女は頭を下げて部屋を出て行く。
ゆっくり密やかに遠ざかっていく彼女の足音は次第に小さくなり、やがて消えてなくなった。
くしゃくしゃになったシーツ。
床に落ちたままの上着。
適当な場所に放り出された枕。
真っ暗な中、月明かりだけが照らす部屋。
「………あーーー、もう、ホント何なんだ!?」
ごろん、とその場に仰向けに倒れ込む。
最後の最後で、顔を赤くして出て行くのは狡い。
本当にこちらの感情をわざと掻き回しているのかと腹立たしい程だ。
彼女の言葉が鮮明に、色さえつけて蘇る。
恋愛なんか、している場合じゃない。
興味あるように見えますか?
憮然と言い放った彼女の言葉を信じたい。
ずっとずっと、彼女の言う通りであればいいのに。
――これは歪んだ独占欲だ。
最初からずっとそうだった。
自分のものにできないのなら、誰のものにもなってくれるな。
そんな都合の良い話など、あるわけがないのに。
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