第338話 王子との語らい・Ⅱ


 水曜日を迎え、カサンドラも一日中そわそわと落ち着かない時間を過ごしていた。

 ここ二週間は王子と一緒に放課後話をすると言った状況とは程遠かったので、何だか久しぶりに感じる。


 そう言えば――

 丁度二週間前、自分はシリウスから『教えてもらった』のだと思い出す。


 行きの馬車の中、王子に想いを告げるのだと意気揚々と旅行先に向かっていた。

 だがそんな自分に冷や水を浴びせるように、彼は王子の本音を聞かせてくれたわけだ。


 今でこそあの時の王子の言葉は本音ではなかったと知っているが、当時は本当に王子に迷惑がられているのだと思い込んでしまった。

 ……もしも、あの時シリウスに声を掛けられなかったら、どんな状態になったのだろう。


 ふと、そんな事を考えてしまう。

 生徒会室近くの中庭に向かう最中、カサンドラは起こらなかったIF《もしも》の世界を想像していたのだ。


 もしも王子に「好きです」と言ったら?

 きっと彼も困ってしまっただろう。

 カサンドラにそうやって言語での感情を要求されてしまえば、彼は本音を押し殺すしかない。

 だからシリウスの言う通り、曖昧に言葉を濁されていただろうか。


 もしくは――これ以上婚約関係の持続は難しい、潮時だと冷たく突き放されていたのだろうか。


 分からない。

 そしてそんな世界を経験せずに済んで良かったとも思う。



 王子に好きだと告白するのは、とても大きな勇気が必要だった。

 ラルフの証言があったから強い気持ちで以て王子に臨むことが出来たのだと改めて思う。


 シリウスやラルフのお陰で現状いまがあるのだ。

 ……尤も、ラルフはともかくシリウスの場合はまた勝手が違うわけだけれど。


 ギリギリ首の皮一枚で繋がった。



 ぼんやりと三段噴水が水を飛沫しぶく様をのんびりと眺めていた。

 幾重もの偶然が積み重なって、こうしてカサンドラは中庭のベンチに座って王子を待っている。



「カサンドラ嬢」


 前方から声を掛けられ、顔を上げる。

 良かった、彼もこの時間の事を忘れていたわけではないのだとホッとした。


 視線に飛び込んできた彼の姿を確認し、前後に身体を揺らす。

 胸に手を当て安堵の吐息を落としていると、近づいて来た彼が突然立ち止まった。

 怪訝そうに彼の様子を伺うと、彼は口元を片手で覆い隠して顔の色を朱に変えたのだ。


「あ、ごめん……

 ええと、キャシー……そう呼ぶと自分から言っていたのに、ごめん」


 あわあわ、とカサンドラも立ちあがった。

 彼に愛称で呼んでもらえるのはとても嬉しいが、それが義務だというわけではない。呼びやすいように呼称してくれればいいのだ。

 王子が謝まる事ではないと慌てて手を左右に振った。


「お気になさらないでください、王子!

 ……いえ、アーサー王子――!」


 結局のところ、まだ全然慣れていないのだ。

 カサンドラもハッと気づいて硬直し、王子としばらく向かい合ったままだ。


「お互い、急には変われないようだね。

 ……隣に座っても良いかな?」


 一年近くずっと呼んできた名前だ。

 急に愛称で呼べと言われても中々難しい事だろう。

 彼は自分から言い出したことなのにと若干落ち込んでいるようだが、何も気にすることはない。

 出来るだけ彼が思い詰めないよう、カサンドラも殊更笑顔で頷いた。


「はい、勿論です」 


 それはいつものやりとりで、自然にカサンドラの口から衝いて出た言葉だ。

 だが「ありがとう」と小声で言い微笑む王子は……


 彼が言った通り、カサンドラの隣にストンと腰を下ろしたのだ。

 一瞬、「???」と鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔になってしまった。


 すんでのところで動揺を出さないように微笑んだものの、内心では大騒ぎだ。

 いつも二人掛けのベンチに座るカサンドラの”隣のベンチ”を使用するのがいつもの光景であった。


 この間の事も考えれば、二人掛けのベンチなのだからこれが普通なのだと分かる。

 予想していなかった自分が悪いとは言え、カァッと脳内が真っ赤に染まっていった。



 ……距離感が……距離感が分からない……!



 一応カサンドラと王子は婚約者同士だ。

 だがいくら婚約をしていようと家同士のお使いをしている貴族同士の仲だろうと、人前で過度な接触をするなど――眉を顰められる行為と言える。


 未婚の貴族女性など貞淑さが全てだ。


 異性とのお付き合いについて、実際に教えを乞う機会は無かった。

 普通は友人や侍女などから知識を得ることもあるのかもしれないが、カサンドラにそんな話を吹っ掛けてくる人間は今まで皆無である。


 更に問題なのは、前世の自分の記憶も役に立たないことだった。

 ――全て、ゲームや物語などの架空の恋愛話でしか経験したことがないのだ。

 現実と虚構は違う。


 例えこの世界が虚構の上に築かれたものだとしても、ここに生きている自分にとっては現実。

 当然王子も誠実にこの世界に生きる、一人の人間。


 恋愛ゲームではこうだったなんて思い込んだ突飛な行動をしてしまい、相手にドン引きされたら困る……!


 女性に夢を与える架空の人間関係でしか、恋愛したことがないことに愕然とする。


 多くの物語に接する中で「こんなに男にとって都合のいい女がいてたまるか」と鼻で笑ったこともあったが、前世の自分だって女性プレイヤーにとって都合よく動く男性と架空の恋愛をしてきただけに過ぎない。


 全くの無知より質が悪いのではないか。

 中途半端に疑似恋愛の経験があるせいで、変な事を口走ったりしないだろうか。


 など、諸々の事情が絡み合ってカサンドラは石像のように固まっていた。



 折角王子と両想いだということが分かったというのに。

 緊張して手に汗を握ってしまう……! 

 


 大きな動きをすれば、肩が触れ合ってしまいそうだ。


 カサンドラが息を詰めて俯いていると、隣に座っている王子はクスクスと可笑しそうに笑い出したのだ。


 何か変な態度だっただろうかと再び彼の姿を見遣った。

 想像より近い位置に彼の顔があり、心臓が跳ね上がる。


 遠くから見ていても彼の美しさに圧倒されると言うのに、こんなに近くで……


「先日は君の家で先走った事ばかり言ってしまったけれど、時間は沢山ある。

 どうか気負わず、今まで通りに接して欲しい」


「は、はい……」


「私は、今とても幸せなんだ」


 彼は空を見上げた。

 吹き荒ぶ風は少しずつ冷たさを和らげていて、日中は防寒具を必要としない気温まで上がる。

 恥ずかしさのあまり火照った頬を鎮めるのには丁度良い風が二人の間を駆けていった。


「いつ婚約関係を解消しようか、無理矢理にでも一方的に破棄しないといけないのか。どうすればいいのか、ずっと悩む日々だった。

 長く一緒にいればいるほど、その時は辛い。

 これ以上好きになったら辛いと分かっているのに、どうすることも出来なかった」


 正式な婚約など、余程のことが無い限りそうそう解消されるものでもない。

 一度契約が成立しているのならその期間で彼を『攻略』すればいいと思っていた。

 でも彼は逆で、敢えて情が移る前に契約を解除しなければいけないとずっと焦っていた。


 ずっと追い詰められていた心境だったのだろう。


「君の事を好きだと思っても良いという事が……嬉しい」


 そうやって改めて言われると凄く恥ずかしい。


 だが自分の事か否かは置いておいても――好きなものを好きだと思えない、という状況は確かに辛いだろう。

 思う事は自由なはずなのに、彼は無理矢理心を捻じ曲げなければいけなかった。

 元々叶わぬ思いというならまだしも、相手は自分の事を好きで、しかも婚約者というつながりがある。その上で関係を打ち切らないといけないのは、確かに辛い。


「アーサー王子……」


 ただ相手の事を好きだ、慕っている、と好意を態度に出すだけだったカサンドラ。

 そんな自分より王子は辛い想いをしていたのだと思い知らされる。


「思ってもない事を言うのは、とても負担だからね。

 ……今は君に全てを分かってもらっているから、心が軽いけれど……」


 彼はどこか遠い目をしながら、そんな事を小声でつぶやいた。


「思ってもないことと仰いますのは。

 シリウス様への、お気持ちを偽った発言のことでしょうか……?」


「うん、そうなんだ。あれは心が削れ……

 ……?

 何故キャシーがそれを知っている……のかな?」


 自嘲気味に頷いた後、王子はぎょっとした。

 まるでこっそりやっていた悪戯がバレてしまった子供みたいな動揺、焦りが溢れ出ている。

 ギクッという擬音が表出したかのようだ。


「あの……実は、地方見聞研修の旅行先で……

 お聞きしてしまいまして」


「……?

 ………!?

 ま、まさか。

 いや、あの部屋にはシリウスしか」


「実はわたくし、シリウス様に『王子の本音を聞かせてやる』と言われ、クローゼットの中で……その……」


 王子の顔は真っ青だった。

 背後に落雷でもあったのか、というくらいの凄絶な表情をしつつ、言葉を失い固まっている。


「申し訳ございません!

 わたくし、その……王子の本音というお言葉に釣られてしまい、非常識な行動を」


「そう言えば、妙にシリウスの言い方はしつこかったような気がする。

 ……そうか。

 君はあの時の会話を聞いていたんだね」


 王子は、察しが良い。

 まさかの盗み聞きの事実判明に動揺しつつも、当時の事を反芻してカサンドラの行動を理解してくれた。


「だから君は婚約を解消しようと申し出た。

 ――迷惑と言う表現はそこから来ていたのか……」


「はい。わたくしの存在が王子にとって斯様に迷惑なものであると分かった上で、のうのうと関係を継続することは王子のためにならないと判断いたしました」


「なるほどね……」


 はぁ、と彼は肩を竦めた。


「シリウスの話にもあったから、てっきり……

 もしかしたら――君に告白でもされるのかと、一体その場合はどうやって誤魔化そうかと……」


 告白を受けるのかもしれないと身構えていたら、いきなり婚約解消をお願いされた。

 王子の胸中もまさにフリーフォール状態だったのだと改めて推測できる。


 シリウスの部屋で盗み聞いていたカサンドラは、ずっと奈落の底へ紐無しバンジージャンプをしている真っ最中だったわけだが。 


「ショックを受けたけれど、ようやくこれで諦めもつくとホッとしたのも事実だった。

 そうか、シリウスが……」


「わたくしの事を憐れんで下さったのでしょう。

 見るに堪えないと仰っていました」


 もしもシリウスがカサンドラの事などどうでもいい、嫌っているというならば……騙され掌で踊らされる自分を見ていい気味だと笑っていればいい。

 でも同情し、憐れんで王子の本音を聞かせて目を醒まさせようとした彼は善意だったのだと思う。

 カサンドラを部屋に招くと言う危険を冒してまで伝えてくれた彼を、責めようとは思えない。



「アーサー王子。

 その事を踏まえ、お聞きしたいことがございます」


 王子の話を盗み聞いていたなんて本当は知られたくなかった。

 一体何をやっているのだと呆れられてもしょうがない。

 だが……


「シリウス様に対し、そこまで徹底し本音を隠さなければならなかった理由をお聞かせください」



「……。」 



 王子は蒼い目を細め、じっとカサンドラを見つめていた。

 驚いたような。

 それでいて、安らかな表情でもあった。


「君はとても勘が良い。

 ……そう、私はシリウスの事を疑っている。

 確証はないが、恐らく彼は三家の意図を汲み、情報を渡しているのだろうと」


「何故そう思われるのですか?」



「――”彼ら”が私を野放しにするとは考え難い。

 学園では寮に入るからね、外からは見えない場所に行くわけだ。

 私の状況を監視する必要があると考えるはず。

 誰が適任だろうね?

 友人として私に近く、”彼ら”の命令に逆らわないクラスメイト。

 監視の目として使うとしたら……シリウスが適役なのではないか」



 決定的な証拠があるわけではないのか。


 学園において、男子生徒はほぼ全寮制と言える。

 そんな中自由に交友関係や人脈を作られるのは三家の当主にとっては都合の悪い事態のはず。


 王子を監視できる者と言えば、確かにシリウスくらいしか思いつかない。

 ジェイクはそんな肚に一物を抱えて友人に接せられるような器用な人ではない。絶対に顔や態度に出る。

 そしてラルフは……この間のカサンドラへの喝で察する通り、王子の事を本気で心配しているし気にかけている。


 三人の中で誰がと問われれば、王子の疑惑も頷けるか。


 三人全員が実は、という可能性を想像すると下手なホラーより怖い。

 だが少なくとも王子はジェイクやラルフを信用しているのだということは伝わって来た。



「――私の思い込みなのかもしれないね。

 でも用心に越したことはない。

 君の事だけは、絶対に本心を悟られないよう立ち回っていたつもりだ。


 そのせいで君を傷つけるような発言をしてしまったことは、申し訳なく思う」


「勿体ないお言葉です」


「キャシーは彼らの事を信用しているようだったから、ちゃんと私の抱く疑いについて話をしないといけないと思っていたんだ。

 でも私自身も、そこまで友人を疑っているのは嫌で……言葉にし辛かった。

 ――確たる証拠もないのに友人を疑う私は、酷い人間だと思われるのではないかと」


 彼は静かな口調で、そう語る。こんな内容の話なのに、王子の優しい声をずっと聞いていたいと思ってしまう。 

 確たる証拠などシリウスが掴ませるはずもない。

 恐らく、何かの折に触れて訝しむような機会があったのだろう。


「君が思慮深い人で、とても有難い。

 ……好きになった人がキャシーで良かったと心から思うよ」


 何気なくそう会話に想いを入れてくるものだから、カサンドラも余計にドギマギしてしまう。




「一方的に危険に巻き込んでおきながら、私が言えた義理ではないけれど……

 何か困った事や怖い事、不都合な事があったらいつでも私に相談して欲しい。

 絶対に守るから」 




 彼は本当に、想いが深い――情愛深い人なのだ。

 そういう人だから、本音と建前だけではない”事情”によって屈折した状況下で辛かったことだろう。



「アーサー王子、わたくしも同じ想いです。

 シリウス様の事を打ち明けて下さってありがとうございます」




 彼は照れたような表情で頷いた。






 ※




「ところで、一つ聞いてもいいかな。

 完全に別件なのだけど」


 そろそろ帰宅の途に着こうと立ち上がった時、不意に王子が首を傾げながらカサンドラに話しかけて来た。


 今日だけは、たまたま帰宅時間が同じだったという体で一緒に下校しようと提案されたのだ。

 一緒に登下校くらいで一々眉を顰める生徒もいないだろうが、態度や行動に大きな変化があるのも良くない。


 一週間に一度、偶然講義が一緒だったから仕方なく一緒に帰る。

 それが『親から押し付けられた婚約者』への態度として言い訳が効くギリギリの範囲なのではと彼は言った。


 王子はいつもそういう線引きをしながら行動していたのか……と今更カサンドラも身につまされた。

 己の好意が漏れないように、且つ、婚約者として接する。それが王子の今までの行動に表れているのかもしれない。


「どのような事でしょう」



「その、ジェイクとリゼ君は……何かあったのかな?」


「……?」


 急に彼らの名前が出てきて、カサンドラも虚を突かれた。


「先ほど旅行先での話があって、ふと思い出してね。

 どうもあれから、ジェイクの様子がいつも以上におかしいような気がして。

 ……まぁ、私も人の事を言えたものではなかっただろうけど」


 ジェイクの態度があまりにも挙動不審だったので、王子の動揺する様は多くの目から隠れた……というところらしい。

 明らかにおかしい態度の人間が傍にいたらそちらの方に関心が向かうだろう。


 だが生憎カサンドラもその期間は全く現世のあらゆる事に無関心で、出来れば消え去りたい心境だった。

 注意力は散漫で、リゼ達の事さえ視界に入れることを躊躇う程。


 彼らの間に何かあったのか、気づけるような心の余裕は全く無かったのだ。



「申し訳ございません、わたくしにはわかりかねます」



 クラス旅行から態度がおかしい?


 ……そういえば地方見聞研修ではイベントが発生したはずだが……。


 リゼのイベントは、お酒を誤って飲んでしまうというハプニング系だったはず。





 ああ、そう言えば意識が朦朧としていた状態で相手に抱き着いてしまうスチルがあったなぁと思い出す。 




 しかし、”今更”ではないか。

 それくらいで過剰な動揺をする必要はないと思う。

 本気で分からず、カサンドラは首を捻った。



「そうか、リゼ君関係のことだと思ったのだけど……」



 もしもその動揺の原因が、彼女絡みでなく王子やアレクに纏わることだとしたら。

 王子の懸念も尤もだったが、彼が本当に事情を知ってしまったら自分の親に殴り込みに行く気がする。もしくは虚実を確認するため、王子に直談判にきそうだ。


 挙動不審程度で収まっているなら、恐らくリゼと何かあったのだろうとは思うが。





「一体何があったのでしょうね?」

 

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