第336話 今後のお話?


 心はとても幸福感に満たされている。

 口元に手をやって、こぼれる笑みを抑えきれないカサンドラだった。



 嬉しい!

 勿論、王子に想われていて嬉しいという気持ちが一番だ。

 でもこれで彼を救うことが出来るのだと、その事実だけでも胸がいっぱいになる。

 ……やっと、やっと願いが叶うのだ。



 しばらく後王子がゆっくりとカサンドラから手を離し、照れたように顔を赤くしていると――



「さぁ、お話がまとまったところで、今後の事を話しませんか?」



 こちらの様子を無言でじーっと眺めていた義弟、アレクが呆れ声で背後から割って入ってきたのである。


 まさかこんな顛末になるとは、王子にとってもカサンドラにとっても想定外の事態である。

 王子と噛み合った視線に恥ずかしくなって、思わず視線をそらしてしまった。


 まだドキドキしている。

 満ち足りるとは今の状態をさすのかと、カサンドラは視線を落としたまま前傾姿勢。


「今後の事……か」


 王子も声のトーンを少し下げ、頷く。


「はい。まずは兄様――いえ、王子。

 折角お会いできて嬉しいのは山々ですが、王子クリスはもういないんです。

 僕の事を以前の名で呼ばないでください」


「そう……だな。

 クリス、いやアレクの言う通りだ。

 君はアレク・レンドール。

 私にとって、今日が初対面の少年だ」


 アレクの言わんとすることは分かる。

 王子が弟が生きていると知っていることを、誰にも知られるわけにはいかない。

 アレクの身は危険に晒されることになる。

 僅かな油断や隙、言動の中に弟が生きている――という事を僅かでも悟らせるわけにはいかない。


 それにアレクの寂寥感に満ちた表情を見ると、悲しい気持ちが伝わって心が痛い。

 彼もまた何度も呼びかけられることで”クリス”であったことを思い出して胸が苦しくなるのだろう。


 場面によってアレクとクリスを使い分けるよりも、これからは以前から決めていたように『アレク』として一生を過ごす。


 彼の強い決意だ。

 王子も悔しそうに唇の端を噛んだ後、緩慢な動作で頷いた。


「名を変えてでも生きているということは、望外の喜びだ。

 今後はそのように接しよう」


 自分の血の繋がった弟が他人になっている、という心境はカサンドラには分からない。


 意見の一致コンセンサスを得たことでホッとしたのか、アレクはようやく表情を明るくして笑うのだ。


「ま、他人と言ってもせいぜい数年でしょう?

 近い将来、義兄にい様と呼ぶことになるわけですから、それでよしとしてください」


 今までカサンドラに王子との恋愛相談で振り回されていた鬱憤を晴らすかのような物言いに、カサンドラは硬直する。


 頬に掌を添え、反論の言葉が浮かばず口籠った。

 いきなり示された近い将来の展望に想像が追い付かないのだ。


 ここしばらく色んなことがありすぎて、まるで濁流に呑まれる一枚の木の葉のような存在と化している。

 


「お二人は今後、学園ではどのように接するおつもりですか?」


 カサンドラからは言いづらいことを、アレクはズバッと切り込んでくる。

 彼からの告白の余韻に浸っていたいところだが、決して問題が解決したわけではなかった。根本的な困難は、依然王子の周囲に立ち塞がっている。

 カサンドラとて、今後安寧でいられるわけではない。


 大きな難題という名の壁に立ち向かわなければいけないのだと、ようやく自覚できた状態である。

 一気に現実に引き戻され、カサンドラも困惑した表情で王子を見上げた。


「カサンドラ嬢に対し、急に態度が変わっては目立ってしまうだろうね。

 ……出来る限り現状を維持した方が望ましいとは思う」


「そう……ですね」


 ちょっと寂しい。

 でも彼の話が本当ならば、あまり目立たず立ち回っていた方が良いような気もする。


「君の気持ちを知った以上、演技など難しいと思っていた。

 隠し通せる自信が無かったからね。

 でも心に余裕が生まれたお陰で、何とか……、努力出来ると思う」


 彼が真顔で自己分析をしているのを、カサンドラは汗をかきながら聞いていた。

 なんだか恥ずかしい……


 婚約者同士。

 学園内にも婚約関係の貴族の子女はいくらでもいる、珍しいわけじゃない。

 彼らに倣い、人前での節度ある対応を心がければいいのだ。


 貴族の令嬢たるもの、いくら婚約者とは言え衆目の前で品性を疑うような接触はとてもはしたないものである。

 他の婚約者持ちの令嬢の様子を見ながら自制していくべきだと思う。


 この期に到って、カサンドラは自分のことを正確に理解する。

 今までそれとなく好意を伝えて来たつもりだったが、本当に想いが通じた後どんな態度でいればいいのか分からない。

 誰かとお付き合いをした経験もなく、いざ両想いです、と言われても中々思考の方向を矯正するのは難しかった。


 王子のさりげない言葉の一つ一つにおろおろしてしまう。

 

 好きという気持ちが空回っているみたいだ。


「では姉上も同様、目立った言動は控えるべきです。

 単独で何かを探ろうだの、どこかに潜入して情報を集めるだの、ホントやめてくださいね」


 捕まって足枷になられたらたまったもんじゃない、と。

 言外にそう匂わせながら、アレクは腕組みをしてこちらを不審な目で見つめる。


「わたくし、無謀な事はいたしません!」


「その言葉を信じました。

 ――僕は近々レンドールに戻って、侯爵への報告に向かいますね」


「待って欲しい、アレク。

 侯爵に会えるのなら同行したい。

 ……私達の事情に煩わせてしまったことは、是非私の口から謝罪したい」


「わたくしもご一緒したいです!

 ……お父様に、ちゃんとお礼を申し上げなければ」


 今まで父親の愛情なんてつぶさに感じた事は無かった。

 だがそこまで自分のことを気にかけ、裏で気を揉ませていたのかと思うと何も知らなかったことが恥ずかしく思える。

 アレク一人に伝言を任せようとは思えなかった。


「流石に全員でレンドール行きは無理ですよ!

 お二人の気持ちは分かりますから、侯爵にお越し願う他ないですね」


「何から何まで申し訳ありません、アレク」


「この程度なんてことないですよ。

 今まで姉上の相談や諸々に付き合わされたことに比べれば、やりがいもあるってものです」


 そう言われて、走馬灯のようにザァッとアレクとの過去のやりとりが思い起こされる。

 迷惑をかけて来たという自覚はあるので、手を拳状態にして胸の前でふるふると震わせるしか出来ない。



 重々しい雰囲気は御免だとばかりに飄逸とした仕草、軽快な口調。

 大人しい、顔だけの綺麗なお坊ちゃんというわけではない。

 一度殺されかけた過去、そして自分を偽らなくてはいけないという抑圧が今のアレクに表れているのかもしれないと思うと、少し切なかった。


 ふぅ、とアレクは嘆息を落とす。

 天井を見上げ、時計を目にする義弟。

 つられて文字盤を確認すると、既に十一時近かった。


「……。

 喋りっぱなしで喉が渇いてしまいましたね。

 飲み物を頼みに席を外しますから、少し待っていてください」


「いや、これ以上長居するわけにはいかない時間だ。

 私はもう帰ろう」


「いいじゃないですか、他所の女性の家ならいざ知らず。

 婚約者の家に多少遅くまでいたって誰も文句は言いませんよ、それに僕だってもっと王子とお話したいんですから」


 ね?


 と上目遣いでそう言った後、彼はすっくと立ちあがる。

 軽快な動きで部屋を出ていくアレクがひらひらと手を振って、一度部屋を出ていく。

 完全に人払いをしているため、使用人が待機している場所まで行くのに時間を要するだろう。


「なんだか、随分性格が変わってしまったな」


「そうなのですか?」


 アレクと言えば、今の義弟しか知らない。

 小賢しく、ちょっと生意気で、でも年の割に頼り甲斐はある。

 ……慇懃無礼なところもあったりするけれど、根は優しく世話好きの良い子だ。


「昔は泣き虫で、いつも私の後ろをついて回るような子だったから。

 逞しくなったと驚くばかりだ」


 王子とアレクが今より幼く、一緒にいる姿はさぞかし可愛らしい光景だっただろう。

 彼が泣き虫というのは中々想像がつかないが、王子が言うのだから間違いない。べそをかくアレクの幼年時代……是非見てみたかった。


「少しだけ、隣に座ってもいいかな」


「は、はい!

 気が回らず申し訳ございません!」


 そう言えば彼はカサンドラの前で立ちっぱなしだった。

 彼を立たせて自分はソファに座っているなど、流石にあるまじき行為だと顔が一気に蒼褪める。


 ついさっきまでアレクが座っていた場所、カサンドラの隣に王子が腰を下ろす。

 ゆったりとした幅があるものの、二人掛けのソファだ。

 隣に王子が座れば、その振動でカサンドラの身体も同じく揺れる。


 室内に二人きりである――と言う現実を急に実感し、カサンドラは狼狽した。

 緊迫し、向かい合ってた二人きりの話とは全く違うシチュエーション。


 二人掛けの椅子に一緒に座った事は初めてではないだろうか。

 放課後の中庭では、いつも距離を取るように彼は別のベンチに腰を下ろしていたのだ。


 距離で言えば、観劇の時が最も近い。だがこうして並んで座るという事実に、脳内が沸騰しそうだ。



「カサンドラ嬢。

 申し訳ないけれど、学園内での接し方についての話に戻っても良いだろうか」


「は、はい! 何なりと仰ってください!」


 何か特別な注意事項があるのだろうか。

 喉を鳴らす。


 カサンドラが迂闊な言動をすれば、変な噂が立ってしまうかもしれない。

 まだ自分達が学園内でどう行動するべきかの指針は決まっておらず、それは父との顔を突き合わせて善後策を考えるべきだろう。

 ……カサンドラの代では、もしかしたら何も変えることは出来ないかもしれない。

 百年以上続いた三家の結束を、こんなちっぽけな自分がどうこうできるなどあまりにも都合の良い話だ。


 少しずつ味方を増やし、発言力を得られるように立ち振る舞わなければ。

 決して王子の足を引っ張るわけには……



「これから週に一回は、同じ選択講義を採ってもらえないだろうか」


「え?」


 全く予想していなかった方向から言葉の矢が飛んできて、さっくりと脳天を射抜かれる。

 カサンドラは動転し、ほんの一瞬呼吸を止めた。

 ぽかんと口を開く。


「その、そうすれば……

 週に一度は一緒に帰れるんじゃないかって」


 ――彼は自分で言いながら、片手で顔を覆って前傾姿勢になる。

 彼の細長い指では隠しきれない程、白い顔が朱に染まっているのでこちらも釣られて赤くなる。


「も、勿論嬉しいです……!

 申し訳ありません、急なお話に驚いてしまって」


 決して否定の意味合いの硬直ではないが、彼に勘違いさせてしまったのだろうか。

 カサンドラは慌ててぶんぶんと手を横に振った。


「本当に、ごめん。

 ……ジェイクが毎週リゼ君と一緒に帰宅しているから……

 それくらいなら許されるかと思っただけで、決して困らせようとしたわけでは」 


「そ、そうですね。お二人は勉強が終わった後はいつも一緒に帰られていますし。

 わたくしも王子と一緒に下校できるなら嬉しいです」

 

 何だろう、やたらと気恥ずかしい。


 彼の本心が分からず、どう思われているのか探り探り接していた時とは違う。

 隣にいる彼から、疑いようもないストレートな好意を感じられるのだ。その差異に混乱してしまう。


 良かった、と、彼は自身の心臓の位置に手を押し付ける。

 王子の笑顔に心がきゅんと鳴った。


「それと……もう一つ、お願いしたいことがある」


「はい!」


 今度こそ何を提案されても驚かないぞと、キリッと真剣な表情で隣に座る王子を見つめる。

 でも、カサンドラの決意など紙装甲の防御力なのだ。


「今まで君に対し、とても他人行儀な呼び方しか出来なかった。

 ……良かったら、別の呼び方で呼ばせてもらえないだろうか。

 二人だけの時だけしか使わないから、――ええと……」 


 ポンっと簡単に確固たる決意が砕け飛び散る。


 今まで”カサンドラ嬢”と呼ばれていたことに違和感はなかったし、そういうものだと思い込んでいた。

 こうして呼び方を変えても良いかと打診され、今度は地面から槍が生えてきて串刺しになった気持ちである。


 まさに言葉で追い詰められ、殺される寸前のように息も絶え絶えだ。


「”カサンドラ”の名前に使われる愛称は何だろう」


 デイジーやミランダのように女性らしい名前と言うわけではない自分の名前。

 どこか固さを含んだ響きを持つ名前だという自覚はあった。


「あの、父や母からは、キャシーと……。

 王子に抵抗が生じないのであれば、どうかそのようにお呼び下さい」


 家族以外に自分をそう呼ぶ人はいない。

 だから王子にそう呼んでくれというのは顔から火が出る程恥ずかしく、声が完全に上滑りしていた。

 

「ありがとう。……キャシー」


 もうこのまま湖の中に飛び込んでしまいたいくらい全身が羞恥の炎に塗れていた。

 彼の照れの入った声で愛称で呼ばれるなど、恥死量を超えている。

 瞬間最大秒速の脈拍を記録し、卒倒寸前。


 にこにこと微笑んでいるつもりだが、内心ではゴロゴロとのたうち回ってドンドンと床を叩き、声にならない声を上げ悶絶しているカサンドラ。

 一人で大騒ぎである。


「君も私の事は名前で呼んでくれないだろうか。

 折角、固有の名前があるのだから」


「わ……分かりました。

 ええと……

 アーサー……王子……」



 カサンドラの名前は短縮して呼ばれることになったのに。

 何故かカサンドラの場合は、長くなってしまった。


 それでも彼の名前を口に出して言ったのは初めてのことで、彼から顔を逸らして頭を抱えた。




 ああ、今日は何て心臓に悪い一日なんだろう。







 ※ ※ ※






「……ごめんね。

 入るの、ちょっと待って?」


 応接室前の廊下で声を掛けられ立ち止まる。


 紅茶を入れたカップを三人分もって歩く使用人は怪訝そうな表情になった。

 何せ、飲み物を持ってきて欲しいと頼みに来たのは他ならぬ彼本人なのだから。



 レンドール家の養子、アレク。

 彼は相変わらず整った顔立ちの美少年だと、使用人は惚れ惚れと見つめる。

 窓から射し込む月の光が、少年の綺麗な銀髪を一層幻想的に煌めかせていた。



 何故アレクは部屋の中に入らず、廊下で難しい顔をしているのだろうか。



「紅茶が冷めてしまいますよ、アレク様」



 すると彼はカップの一つを手に取って軽く一口、口にする。

 あちち、と小声でぼやく幼い主人。





「タイミングに困ってるんだ。

 今入ったら、馬に蹴り飛ばされそうだし」 





 少年は大仰に肩を竦め、悪戯っぽい表情のまま片目を閉じた。



 

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