第335話 氷解の刻


 一頻ひとしきり、離別していた兄弟が再会する場面に翻弄されていた。

 中々実感がわかず、未だに夢心地である。


 カサンドラにとっても、まさに寝耳に水状態でわけがわからない。



『姉上、王子に会わせてください』



 彼の訴えの意味が分からないままだった。

 だが、アレクが実は王子の弟なのだと告白され――まさしく驚天動地の想いを味わった。


 王子に「さようなら」と言われたショックとはまた別のベクトルだが、その衝撃は大きい。

 事情を説明したいから会わせて欲しい、その時に話すと言われてはカサンドラも半信半疑ながら受け入れエレナに伝言をお願いしたのは良いものの……

 この状況は、一体。





 もしも、もしも。

 虚言ではなく、アレクが王子の本当の弟だとするならば――






 ※






 いつまでも事態があやふやなままなのも据わりが悪い。


 アレクもそれを重々承知しているのか、浮かべた涙を袖口で拭っていた。

 ようやく王子から身体を離し、大きく肩を上下させて高揚を押さえているようだ。


 再び目を開いたアレクは決然とした表情で強く拳を握りしめている。

 何て整った綺麗な顔だろう、と今更惚れ惚れする。


 義弟の常人離れした美形っぷりは、王子の血縁者だったからか……と納得してしまう。

 この歳にして端整な顔立ちのアレクを傍で眺めていると不思議な気持ちである。


 再びカサンドラが立ちっぱなしの王子にソファを勧めると、最初は首を振って断っていた彼も態度を少し変化させる。

 流石に動揺を隠せない様子で、ゆっくりとソファに腰を沈めた。


 レンドールの姉弟、カサンドラとアレクと向かい合って座る王子。

 アレクは人払いは完璧だと言っているから間違いはないだろう。


 少なくとも王宮のどの場所より、三家の目の届かないここは王子にとっても安全地帯のはずである。





「――そうですね……

 まず、僕がレンドール家の跡取りとして養子に迎え入れられた経緯を説明します」



 アレクは静かに言葉を続ける。


「ご存知の通り、僕と母上の乗った馬車は山道から谷底へと落とされました。まぁ、時期的にもあの人たちの仕業でしょうね。

 ――落とされた直後の記憶は、曖昧です。

 正確な事は覚えていません。

 覚えているのは……ただ、ごうごうと落ちる滝の轟音と水圧と……

 身体がバラバラに引き裂かれるような痛みだけです」


 そう言ってアレクはシャツの上ボタンを少し外す。

 首のあたりから胸元、そして背中まで大きな傷跡が残っている。水の中で木の枝や尖った石などに傷つけられたものだろう。

 ほら、と前髪を上げるとその生え際にもうっすらと跡が見える。


 ああ……と、カサンドラは知らず声を漏らしていた。


 その痛々しい様子に悔しさが込み上げる。


 彼の体の傷跡は、虐待の痕跡だと察していたけれど。

 まさか事故を装って殺されかけた事件で負った傷だったなんて。


 今思えばアレクも自分を励ますためとはいえよくも高所の崖の上で話をしてくれたものだ。しかも滝を見ながら。

 ずっと、自分のことを励ましてくれていた頼もしい義弟だ。


「このようなことを聞きたくはないが……

 本当に、事故ではなく仕組まれたものだと?」


「……。

 危険な山道中に怖いもの見たさで馬車の窓を開けていたら、全く見覚えのない騎士姿の男に気づきました。

 何者かとの問いに答えず、無言で馬車を牽いていた二頭の馬に剣を突き刺しました。――強烈な痛みに暴走した馬は御者も制御が及ばず、諸共馬車ごと谷底に落下。



   それが事故なら、僕は何も言えません」



「成程……」


 この証言にはカサンドラも王子も呻る他なかった。

 ただ、それを証明できるかと言われると数年も前のこと。既に馬は処分され目撃者が死んだはずのアレクだけ。

 うーん、と難しい表情を作る。


 王族が乗る馬車がそう簡単に事故を起こすはずがない。

 誰かの思惑が入らなければ止める間もなく谷底に落下など考えづらいことだ。


 しかし、もう事故と言う結論が出てしまった。



「僕は――命だけは助かりました。

 何とか落ちた場所から遠ざからないと、と這い続け……行倒れ寸前のところを地方の領主さんに保護されたんですよね」


「……だが、クリスの遺体は国葬という形で王宮の墓地に埋葬されているはずだ」


 王子にとってアレクは自分の弟のクリスだ。

 だから話だけ聞いていると、ここに四人の人間がいるように思えた。


「そうですねぇ……」


 彼は表情を翳らせた。


 恐らくですが――とアレクは続ける。


 遺体を発見できたのは王妃だけ。王子の姿が見当たらず、指示された下手人はさぞかし焦った事だろう。

 彼は背格好が似たどこかの少年を攫い、遺体を作り出したのではないかと考えられる。山奥の村なら子どもが行方不明になっても大きな騒ぎにはなりづらい、ただでさえ当時は大騒ぎだった。

 顔は潰せばいいし、それらしい遺体を用意できるような非情な人間だから信じがたい凶行に及べたとも言える。


 地獄のような話をサラッと言われて、ごく普通の一般人の精神しか持たないカサンドラは身震いした。

 恐ろしい話過ぎて、心臓がバクバクと煩い。


 だが実際に手を下した人間は、第二王子の遺体がないから生きている可能性があると知っている。

 もしも彼らに生存が知れては危険な事ではないかとぞっとした。


「アレクが生きていると知っている人が……王都にいる可能性が?」


 恐々とした口調で隣の弟に聞く。

 本当に詳細を聞かされていないため、アレクの言葉一つ一つに大きな緊張を走らせるのだ


「さぁ、どうでしょう。その人も結局、用済みですしねぇ。

 僕の生存の可能性を知る下手人は、当の昔に依頼主によってお星さまになっているのでは?」


 弱みになる証拠など残すはずもない、金か脅されたかで手を下した実行犯は既に当人が行方不明扱いにされているかもしれない。

 やるなら、とことんまで。


 証拠も全て消す――喉を鳴らした。

 王子生存の可能性を黙ったまま下手人がこの世から消されたなら、埋葬された王子の遺体は王子のものだと誰もが思い込んでいることだろう。


「とにかく僕は、偶然兎狩りをしていた領主に匿われ、少しの時間過ごしたわけです。

 流石に僕の存在は手に余ったのでしょうね。

 彼が盟主と仰ぐレンドールの侯爵とお会いすることになりました」


 アレクの話を、王子は視線も逸らさず真剣に聞いていた。

 一言たりとも聞き逃すまいという強い意思を感じる。


 今まで知らなかった事実を多く知り、ここ数日でカサンドラの思考はジェットコースターに乗せられているようだった。




 父であるレンドール侯爵クラウスは二十年以上前の王立学園内で――国王と友人関係であった。

 当時は世継ぎの貴族令息と王子と言う関係である。


 その時父は、友人である王子に何度も現状を訴えかけられた。

 今の体制はおかしい、どうにかしたい。

 

 力を貸してくれと協力を要請し、言い募っていたのだと言う。


 二人が学園で同じ時期に通っていた事を初めて知った。


「まぁ……お父様は、昔から……王家の事情をご存知でしたの!?

 何故、協力なさらなかったのでしょう」


「基本的にあの方は保守的ですから。

 他所を攻める野心はなく、とにかく現状手の内にあるものをとても大切にされていますね。

 義憤で自分の領地に不利益を被らせるような迂闊な真似をする方ではないです」


 レンドール家は地方でも有力、豊かで広い領地を持ち侯爵の称号を与えられた名家である。

 味方に引き入れれば心強いのはその通りかもしれない。


 国王がそんなに昔から、レンドールに協力を申し出ていたのかと驚いた。



 そして父の考えは昨日聞かされた王子の考えと似ている、と思う。


 三家の人間はこの国を牛耳って入る。

 だが別に圧政を敷き民を虐げていたわけでもない。


 多少中央と外様である地方の扱いに差はあれども、それだけだ。

 国としての体制を維持し、それなりに平和で広大な王国をまとめている――そこでお飾りの王は嫌だ、何とかしてくれと訴えたところでけんもほろろな対応にもなるだろう。

 野心家なら話は別だが、内政に重きを置く一領主として、父はその協力の申し出を蹴り続けたのだ。


 堅実な父らしい話ではないか。





 聴かなかったことにするから、今の状態を維持するべきだ。

 現状国が回っているなら、それもまた”善い”ことなんだろう。


 誰か一人が圧倒的な権力を持って血筋での独裁を強行するより、実績ある家系に任せるのは民たちにとっても利益に適うことではないか。




 ああ、父が無表情で語る姿が目に浮かぶようだ。


 あまりにも情が無い、淡々とした言い方で。

 悩んでいる友人への回答としては突き放したようにしか聞こえない。


「そんな……お父様……」


「いや、仮に私がクラウス侯でも同じことを言うだろう。

 レンドールを抱き込もうとした父が無策ゆえ失敗した、それだけの話なのだから」


 王子は非難めいた声をあげた自分を制するように言う。

 自虐めいた口調で。



「……クラウス侯は命からがら逃げのび、匿われていた僕から事情を聴き――……

 後悔されているように見えました」




  ”まさかここまでするとは思わなかった”




 自国の王に言う事を聞かせ黙らせるために、王妃や王子を殺そうとするなど尋常ではない。

 狂っていると言っていい。


 あの時真剣に力になってやれば、結果は違ったのかも知れないと父は落ち込んだ。

 だが、それは結果論だ。


 それはカサンドラも分かっている。

 もしも何事もなければ、お飾りでもちゃんと王と王妃と、王子二人は王宮で健在だったのだから。


 殊更周囲が騒ぎ立てて王権奪還だなど錦の御旗を掲げて内部分裂、挙兵など現実的な話ではない。




「……クラウス侯は僕に同情し、本当の名と身分を完全に捨てる条件でレンドール家に迎え入れてくださいました。

 まぁ、クラウス侯も色々お考えがあったのでしょうけれどね」


 ちらりとカサンドラを一瞥するアレク。

 色々、と含みを持たせた言い方に若干の悪意を感じる。


「な、何ですかアレク、その目は」


「いえ、総領娘で家を継ぐはずの姉上があまりにもあまりな状態だった事もあったのでしょうねぇ」


 しみじみと訳知り顔で義弟は頷く。

 何ということを王子の前で言うのか、とカサンドラは頬の筋肉を引きつらせた。


 まぁ、去年までの自分は明らかに周囲からの信頼など皆無だっただろう。

 仕方のないこととは言え、何とも情けない想いだ。



「このままレンドールの養子として、静かに暮らそう。

 匿ってくれている侯爵の恩に報いるつもりで過ごしていました。


 ある時、契機が訪れたのです。

 ――……姉上、貴女が発端でした」


「わたくし? わたくしが何か?」


 今度は何だ、と指先で自分を指す。


「王宮舞踏会で初めて見た王子に一目惚れをしただのなんだの騒ぎ立てて。

 皆を困らせていた事をお忘れになったわけではないでしょう、姉上……?」


「……そ、それは……その」


 カサンドラは、向かいに座る王子を視界にいれ、すぐにパッと逸らした。

 膝の上に置いた手をもじもじと動かし、動揺した。


 王子を前にそんな一目惚れだなんて……恥ずかしい!

 間違っている話ではないから余計に羞恥心に襲われカッと頬を赤に染めた。


「素敵な方だなと言った事は覚えていますが……」


「クラウス侯は悩んでいたんですよ。

 陛下はまだレンドール家の協力を諦めておらず、一人娘を王家にくれと執拗に書簡を送ってくる。

 王家の内実を知っている以上、姉上を王族に嫁がせたくないというのに。

 でも姉上は一目会っただけの王子に入れ込んでいる……相当頭が痛い状況だったでしょう」


 娘を愛する親としてはかなり難しい判断を迫られることになる。

 娘の想いは叶えてやりたいが、かと言って危険な目に遭わせたいわけではない。


 そこまであの父が自分を思っていてくれたのかと思うと衝撃だ。

 身内には結構厳しい人だったような記憶があるが……

 地顔のせいで誤解されやすいが、優しい人なのだと今になって改めて思う。



 ――父自身も負い目を感じていた部分もあったのではないだろうか。

 アレクを養子に迎えたものの、結局王妃は殺されてしまったまま。

 決して父のせいではない。が、根が善人の彼には中々割り切れない苦い想いが残ったことだろう。



「……クラウス侯は、徹頭徹尾、姉上むすめのために動いています。

 それだけは、今も昔も変わらないんです。

 姉上の望みだからと一旦縁談をお受けすることにしましたが、姉上の身に危険が迫るようなことがあれば即座に白紙撤回して二度と王家には関わらせないと決めておいででしたよ。

 毎週のように姉上の近況を報告書に書かされて結構大変でした」


「えっ」


 まさかあの近況報告にそんな意図があったとは。

 カサンドラが良くやっているかという報告と言うよりは、こちらの情勢を把握してカサンドラを避難させやすくするためか。


 いや、王家がカサンドラに対し協力を要求し露骨に権力闘争に利用しようと言う算段が見えたら、手を引く予定だったのかもしれない。




「全ては姉上次第だったんです。


 僕や陛下、兄様が訴えたところでクラウス侯は動きません。

 かと言って何も知らない姉上を利用しようとしたところで、あの方は一切の協力を拒否しますよ。

 むしろ無理矢理にでも、姉上を奪還するよう動くでしょう」


 国王にとってのカサンドラの存在価値は、父に由来するものだ。

 だからいくらカサンドラを騙して実家を動かそうとしても、父は利用されてやる気などさらさらない。


 我が家を巻き込むな、と。カサンドラを連れ戻す方向にシフトしたのだろうな。






   実情など何も知らない、昔の自分だったら……

   ただ王子と婚約出来たことに浮かれ、脳内にお花畑を広げる自分だったら。


   アホな娘を利用して王権復古の足掛かりなどとんでもない、と父もカサンドラを連れ戻したはずだ。






 では……


 全てを教えてもらった、『今』のカサンドラなら?





「……ただ……

 もしも姉上が全てを知り状況を理解し、その上で兄様の傍にいたい、お役に立ちたいと覚悟を決めたのなら――

 その時は、話は別です。

 姉上のため・・・・・に協力を惜しまないでしょう」



 シーン、と水を打ったように応接室が静まり返る。

 夜半の暗闇を切り取る部屋の明かりだけやたらと煌々としていた。



「……侯爵にとってみれば、姉上が問題山積状態の王宮に入る事は嬉しい事ではありません。正直、兄様が突き放してくれたのならホッとしたはずです。


 でもあの方は、姉上が望めばきっと陛下や兄様の力になってくれますよ。

 姉上が少しでも過ごしやすい場所になるよう、全力で後見してくれるでしょう。

 誼のある他の地方貴族達を動かしてでも」


 親馬鹿ですよねぇ、とアレクは笑う。

 少年のくしゃっとした微笑みにカサンドラは仰け反ってしまった。


「――とまぁ、兄様達のことは気がかりでしたが。

 僕はレンドールで保護され、こうして今は姉上のお目付け役として王都に滞在しているんです」

 




「……何故……生きているなら帰って来てくれなかったんだ……」




 王子は声を震わせ、俯き感情を吐露する。

 それは彼がいかにアレクの事を大切にしていたのかがうかがえるもので、カサンドラも切ない気持ちになった。



「一番の理由は、既に”王子クリス”は埋葬され、死んでしまったと公に認められてしまっていたからです。

 名乗り出たところで、彼らは僕が本物の王子だと認めてくれないでしょう。

 仮に兄様の尽力があって王宮に復帰できたとして――事情を知る僕は常に命の危険に晒されることになります」


 死んだはずの王子である証拠……顔が同じと言っても、この世界に写真や映像記憶装置があるわけでもない。

 死んだ弟王子です、という動かぬ証拠なんてそうそう見つかりっこない。……言われてみれば、本人だと証明するというのはとても難しい。


 生きていたことにして迎えられても、暗殺されかけただなんて主張すれば――アレクは王宮でどういう扱いになるのだろうか。


「僕の死体が埋葬されたと知った時、もう僕は死んでしまったんだ、帰れないんだと悟りました。

 三家にとって、僕は生きていては都合が悪い人間なんです。無策でノコノコと王都に帰ることなど出来ません」


「……そうか……

 そうだな、もしもクリスが帰ってきたとして……こんなざまではお前を安心させることも出来なかっただろう」


「王子」


「そして僕がレンドール家に迎えられる条件は、今までの名前と経歴を捨てることでした。

 死んだはずの王族を匿っていたなんて誹りを受けては面倒ですからね。


 僕は兄様に会っても名乗るつもりはありませんでした。

 一生、誰にも言わず墓の下まで持って行く覚悟で、レンドール家のアレクとして……弟として話をすることはないと決めていましたよ」


「では何故今になって、私の前に姿を見せた? 打ち明けてくれたんだ?」


 王子の疑問は尤もである。

 今まで絶対、頑なに本当の生まれを口外するつもりのなかった彼が、急に王子に会いたいと――

 弟だということを告白するなんて、方針が全く違っているではないか。

 父への裏切りでさえあるのでは。




「――僕は……姉上のお話をお聞きして、自分が甘かったと……痛感しました。

 自分はなんて楽観的だったんだろうと」


 彼は握った拳の上に、ぽつ、ぽつ、と途切れ途切れの言葉を落とす。



「話を聞く限り、兄様は姉上の事を好きなのだから。

 姉上が告白して……兄様もそれを受け入れて、それでハッピーエンドだと、思っていたんです。

 ここまで想われていると兄様が知ったら……。

 姉上の真剣さに心を打たれて……全部上手くいくんだって、ずっと、そう信じていました」



 王子が自分の現状を教えてくれたとしても、カサンドラは一緒にいたいと思ったはずだ。

 危険だと言うことは承知でも、王子と一緒にいたい。

 その想いは彼には伝わらなかった……いや、伝わり過ぎてしまった。



「兄様が、そんなに僕の事を想って、未だに、ずっとずっと、傷ついて……姉上を遠ざける程、失うことを怖がっているなんて……

 僕が名乗り出なかったせいで、兄上がこんなことに……

 貴方が目の前の幸せから手を離してしまったのは、半分僕のせいだったんだと」




  もう失いたくない。


  大切なものを理不尽に奪われたくない。


  だから、一緒にはいられない。




「ほら……僕は、生きてます。

 全部奪われたわけじゃない。知って欲しかった!

 ……どうか、自分から幸せを手放すようなことは、しないでください……」




 このまま大切なものも作れず、ずっと心を閉ざして生きていかなければいけないという思い込み。

 大切だから傍にいてはいけない、好きになってはいけないという強迫観念。失うことへのトラウマ。






 そうか……

 アレクは最初から最後まで、カサンドラだけではなく王子の協力者でもあったのか。

 父クラウスとの約束を反故にしてまで、王子を救いたいと思った。

 それが、”今”だ。





「……王子、わたくしは……

 貴方のお話をお聞きし、ずっと考えていたのです」 

 


「カサンドラ嬢?」



 アレクのことがなければ、彼の諦めの想いの前に婚約解消を受け入れざるを得なかったに違いない。

 大切に想われているからこそ、遠ざけられる。

 傍に置けないと言われては涙を呑むしかないと、絶望していた。



 アレクの存在が少しでも彼の心を勇気づけられたのなら……

 彼が恐怖心を克服してくれるのではないかと僅かに望みが見えた気がした。



「わたくし、王子のお優しいところは大好きで、尊敬しています。

 ですが……

 確かに今の王国は表面上目立った問題のない、『普通』の国かも知れません。

 おかしいです。

 ――誰かを犠牲にしないと成り立たない国のどこが平和なのですか?

 ……王子さえ、正しい事を正しいと言えないこの国です。

 同じように理不尽を強いられている人がいないと、どうして言えましょう」 


「……それは」


「わたくしの力は小さく、とても王子のお役に立つには及ばないかもしれません。

 ですが、王子には現在頼りになるご友人がいます、それにアレクもわたくしの父も必ずお力になります。

 今すぐに何かを変える事は出来なくても、王子の理想とする国を少しずつ取り戻していきませんか?」



 必要なのは、覚悟。

 そして王子の恐怖心をやわらげる事。



 どこにもいかないと言う、安心感。




「駄目だ! やはり君に過度な危険を背負わせることに変わりはない」




 王子は渋面を作り、何度もかぶりを振る。

 だが明らかに、少しずつ彼の顔色に活力が戻って来たように見える。

 今まで敢えて触れないようにしていた希望、期待。








 不意に、重たい場面に似合わない明るめの声が響いた。



「兄様、もういいじゃないですか」



 アレクは苦笑を浮かべ、カサンドラをもう一度指差した。



「結構長い間一緒にいましたが、この人はちょっとやそっとの事で死ぬような弱い人じゃないですよ。

 タフです。

 仮に死んだと思っても僕みたいにひょっこり戻ってきますよ」


「アレク! 貴方は本当に、いつもいつも、わたくしのことをなんだと……」



「ああ、そういえば兄様は仰っていたそうですね。

 姉上との婚約が解消されたら僕が姉上と結婚するんですか?

 あれ? いいんですか?


 僕と姉上が結婚して。僕が獲ってしまってもいいんですね?」




 間隙が、数拍。

 王子が強張った表情でこちらをまじまじと眺めていたかと思うと、カッと頬を赤らめた。



「駄目だ! ……そっちの方が、何だか凄く許せない、気がする……!」



「兄様がそこまで姉上や僕の気持ちを無下にするなら――もうそうするしか」




「待って欲しい。

 ………ああ、駄目だ。死んだと思っていた弟に会えたのは嬉しい、嬉しいが……」



 彼の心が少しずつ氷解し、融けていくのが間近で感じられる。

 現状に王子が大混乱しているところに、畳みかけるよう詰め寄ってみることにした。




「王子。どうかわたくしの幸せの事もお考えになって下さいませんか?

 わたくしは王子の傍にいることができなくなれば……もう二度と、幸せになどなれないでしょう」




「ああ……もう、君達は」


 両手を挙げる、王子。


 彼は諦める事を諦めてしまったらしい。



 ――ははは、と大きく笑った。



 彼がこんなに嬉しそうに笑う姿を見たのは初めてで、カサンドラは驚きながらその姿を真正面から捉えていた。

 王子の目の縁にも、僅かに涙の玉が浮かんでいる。

 可笑しそうに笑い出しつつも、込み上げてくる想いを抑えられないようだ。




 そしてしばらく経って、彼が笑うのを辞める。


 やおら真顔に戻り、真剣な面差しのまま――ソファから立ち上がりカサンドラの傍に歩み寄って来た。


 吸い込まれそうな程美しい、蒼い瞳がカサンドラを見下ろしている。






「――カサンドラ・レンドール」


 急に厳かとしか表現しようのない声で名を呼ばれ、カサンドラは弾かれたように背筋を伸ばす。

 立ち上がるべきなのかと、身体を捩るその前に――


 彼は足元に片膝を着いて跪いた。


「今まで、ずっと言えなかった。

 婚約を解消するべきだという考えばかりに捕らわれ、君の幸せが何なのか、勝手に決めつけてしまっていたようだ」





 誤解も、間違いも、見栄も偽りもない真摯な彼の本音が聴こえる。






  「君を愛している。

   ――私と結婚して欲しい」










 右手をそっと手で持ち上げられ、掛けられた言葉を理解すると――

 頭の中で閃光が弾けた。

 真っ白になる。










     はい、と。万感の想いを籠め、カサンドラは頷いた。 

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