第334話 <アーサー>



  ――……。

  これで良かったんだ。





 クローレス王国の第一王子、アーサー。

 彼は王宮で自分が唯一ホッと寛げる執務室の中、机に肘をついたまま自分に言い聞かせていた。


 彼女を自分達の都合に巻き込むべきではない。

 危険と判断される場所に、彼女を連れ立たせるなど論外だ。


 それは最初から最後まで同じだったはず、決めていた事ではないか。



 もしもこの縁談がなくなれば、父である国王も”彼ら”への意趣返しや反抗など考えなくなるだろう。

 三家の中からそれなりの地位の女性が王家に嫁いでくるのなら、父も迂闊な言動を控えざるを得ない。



『まずは御三家の当主を糺し、真実を世に訴えるべきではないでしょうか』



 カサンドラの正鵠を射た言葉が胸に未だに突き刺さったままだ。


 こんなに悔しいなら、悲しいなら。

 母を喪って狂ったように泣き叫んだ父の慟哭を見、自分もそうしたいと思うのなら……


 正義の旗の下に戦うべきではないのか。


 でも自分が行動を起こしたせいで今の均衡が崩れることは耐え難いことだ。

 中央の結束が乱れたらと想像するだけで尻込みする。

 ただでさえ地方の反乱がしばしば報告される現在、その頻度も増える一方になるだろう。

 独立を求めての反乱を抑えるために無血とはいかない。

 

 自分の行動が間接的にでも、誰かを不幸にするかもしれない。



 ――それもまた建前だ。

 彼らに睨まれ、真実など簡単に捻り潰されたら……?


 その後の自分の立場を思うと、声を上げる事が出来なかった。



 我ながら呆れてしまう。何という意気地なしだろう。

 父の言う通り自分は王の器ではない。



 理想の王族、こうあるべきだという主張だけは立派だ。だけど実際は自分に何か変えるだけの力を持つことができない。

 皆が自分に期待して、誼を結ぼうと押し掛けてくる状況が滑稽だとさえ思うくらいだ。


 でも理想の王族なんかにならなくても、国が恙なく回っているなら『最大多数の幸福』は満たされるのではないか。



 彼女はとても理解力がある人だと思う。

 ともすれば荒唐無稽で鼻で笑い飛ばされるような話を否定ではなく、まず受け入れてくれた。

 何かの勘違いだと言われれば根拠を示さなければいけないが、あまり思い出したい話ではない。


 「可能性としてはあり得る」と思ってくれたのか、自分の言葉を真面目に頷いてくれた。アーサーにとってはホッと安堵する話である。


 彼女は多くの言葉を語らなくても、察してくれる。

 分かってくれる。……分かろうとしてくれる。

 それが嬉しかった。


 カサンドラと一緒にいられたら、どれだけ幸せなんだろう。

 

 彼女は他の人とはどこか違う雰囲気を持っていた。

 噂と懸け離れた人だ。外見で損をして、誤解されやすい人なのかもしれない。


 決してこちらの事を無暗に暴き立てようとしないところが本当に有難かった。

 気持ちを聞いて来るでもなく、不満を言うでもなく、とにかく現状を隠したい自分にとって都合の良い婚約者であったのだ。


 控えめながらも、仄かに感じる好意は心地よかった。

 判断が鈍っていた、自分がしてきたことは問題をずっと先送りにしていただけに過ぎない。


 

 甘えていたとしか言いようがないと思う。



 例え彼女が自分の事を想ってくれ、そして協力してくれたとしても。

 国王に利用されるようなことがあると思うと耐え難く、そして万が一――

 見せしめのために彼女が殺されてしまったら、今度こそ自分は心を保つことが出来ないだろう。後悔なんて言葉では済まない。

 父の二の舞だ。


 彼らに逆らうつもりはないと事あるごとにアピールしてきたつもりだ。

 が、それでも彼らの思い込みや勘違いで自分の大切なものが奪われるかも知れないと思うと恐怖で身が竦んだ。


 自分と関わらなければ、彼女は平和だ。


 ――見栄、プライドの問題も……あったのだろう。   

 彼女には本当は話したくなかった。

 目に映っていた『王子像』を壊すことなく、幻想を抱いたままでいてくれればいいのに。ずっと、そう思っていた。

 


 あまりにも虫が良い話だと自嘲する。


 結局みっともないところを全部晒すことになってしまった。


 彼女は優しい人だ。

 ここまで強く望めば、自ら離れてくれるだろう。


 最後まで彼女の思いやりに縋るようなことになってしまったが、ぽっかりと胸の奥に大きな孔が空いてしまった。

 塞ぐことは二度とできないだろうという、暗がりの空洞に座り込む。





「王子、失礼します」


 扉の外から聴こえて来た女性の声に、アーサーは姿勢を直す。

 今にも崩れ落ちそうな自分の姿を他人に晒すわけにはいかない。

 こんな気が塞いでいる時だからこそ、普段通りに徹しなければ。


 辛い時こそ、しっかり立たないと。

 いつだってそうやって自分を戒めて来たではないか。


 入室の許可をもらった女性は、一礼して執務室の絨毯の上を歩く。そんな高いヒールでよくも転ばずに歩けるものだなと感心しながら見つめていた。


「何だろう、エレナ」


 彼女は今年官吏になったばかり、難関試験を潜り抜けて縁故を使わずにその職を得た女性。

 父親はそれなりに名の通った高官なので縁故採用を疑われる事も多く、その都度静かに憤っている姿を何度も見てきた。


 彼女はこの王宮で極めて珍しく、三家のどの陣営にも属さない中立派である。

 つい最近、エルディム派の官吏が彼女に見合いの話を持って行くのだと息巻いていた事を思い出す。


 結局そのお相手として紹介される寸前だったドゥーエ家は現在爵位を取り上げられて一家離散。

 完全に彼女の見合い話は雲散霧消したが、アーサーはホッとしていた。


 彼女が宰相派の人間に組み込まれたら、いよいよこの王宮で肩の力を抜いて話せる相手がいなくなるところだ。


「王子、至急の用件です。

 時間の指定はございません、いつなりともご都合の宜しいタイミングで――

 レンドール侯爵家別邸をお訪ねください」


「……レンドールの……?」


 唐突な話に、我知らず顔を顰める。


 脳裏を過ぎったのはカサンドラの姿だ。

 勿論、彼女の住んでいる屋敷の場所は把握している。だがこの期に及んで、自宅に来て欲しいというのも引っ掛かる話ではないか。


 ようやく自分の中で諦め、折り合いがつきかけたというタイミングを狙いすましたかのようだ。

 カサンドラは自分を動揺させるのが上手い。


 今更……

 全てを話し終えた後で、一体彼女と何を語れと言うのか。


 行けば、心が揺らぐかもしれない。


「私からもお願いいたします。

 急に呼びつけられ、このような伝言を依頼されたのです。並々ならぬご事情があるのでしょう」


 アーサーは黙した。


 ここでエレナを伝言役に選んでくれたのは有り難い

 これなら自分が彼女の自宅へ向かった、という情報は彼女が触れ回らなければ誰にも知られることはないだろう。

 彼女は信用できる口の堅い女性だ、頼めば胸の内に留めておいてくれるはず。



 でも、何故今更?

 彼女が自分を呼ぶのか?




 この申し出を受ける義務はない、無視してしまえばいいはずだ。

 まだこの一件は国王に伝えあぐね、機会を伺っている状態とは言え――このまま解消すべき関係である。

 一々真に受けて会いに行く必要はない……




 彼女の顔が脳裏に浮かぶ。




 時間を問わず、待っている。

 彼女がずっと、寝ずに自分の事を待ってしまうのではないかと思うと胸がざわめいた。






 申し出を受けるべきなのか、聞かなかったことにするべきか。

 日中、気も漫ろ状態で頭を抱えて項垂れていた。







 ※










「王子……!

 畏れ多くも一方的にお呼び立て申し上げたこと、誠に申し訳ございません」




 結局、来てしまった。

 しかも腕時計を見れば、夜の十時も近い。


 こんな時間帯に他所の屋敷を訪れるなど本来顰蹙ものの暴挙だが、カサンドラは笑顔で出迎えてくれた。


 ドキッと心臓が一回跳ねる。


 最初彼女の肖像画を見た時の印象は、『意地が悪そうな女性だなぁ』というものだ。

 物語に出てくる悪役の女性の概念をそのまま書き写したような肖像画に驚いたのを今でもよく覚えている。


 尤も、縁談を決めた国王にとって彼女の容色など二の次だ。

 彼女がレンドール侯爵の一人娘であるという属性が必要なだけ。

 性格も容姿も能力も全く国王にとってはどうでもいいこと。


 そしてそんな状況で有無を言わさず巻き込まれようとしている彼女は、無条件で可哀想だと思った。

 どんな人であれ、この婚約を進めるわけにはいかない。



 それがいつのまに、変わってしまったのだろう。



 レンドール家が召し抱える絵師は即刻解雇されるべきだと今でも思う。

 彼女の持つ本来の優しい性格や雰囲気を全く絵の中に取り入れることができないなど、肖像画家失格だ。

 王家の抱える肖像画家に彼女の姿を描いてもらえたら――そう言った事は、冗談でも戯れでも無かった。



「こんな時間になってすまない。

 ……抜け出すのに少々苦労してしまった。

 あまり時間はとれそうになくてね、用件は手短に願いたいのだけど」



 出来るだけ感情を乗せないよう、淡々と言葉を紡いだつもりだ。

 応接室に通され、アーサーは勧められてもソファに腰を下ろすことなく立ったまま。

 ここで彼女と話し込んでしまえば、何もかもが水の泡になってしまう気がした。


 これ以上彼女の傍にいるのは耐え難い。

 ……彼女の身に危険が生じるかも知れないことを承知で、傍にいて欲しいと縋ってしまうかも知れない。

 往生際の悪い自分が、とても嫌いだ。



「王子にお会いしていただきたい者がおります。

 どうか目通りをお許し願います」



「……私に?」


 はて、と首を傾げ――そして硬直する。

 反射的にビクッと肩を震わせた。


 レンドール家の別邸にわざわざ招待され、そして会って欲しい人……


 考えられる可能性は侯爵本人、もしくは……彼女の義弟か。

 自分が昨日、『破談になっても義弟がいるだろう』なんて言った事を思い出して、勝手なことに自分でダメージを食らっていた。


 言葉の上での存在とカサンドラの縁談がまとまるならしょうがないと受け入れられる。

 政略結婚とはそういうものだ。

 彼女は地元に帰れるのだし、何もかもが上手くまとまると納得できるもの。



 会ってくれだと?

 ……実際に会ってどうしようと言うのか。



 諦めたとはいえ、まだ心は彼女に残っている。

 残っているどころか、完全に置いてきたままだ。


 この想いが消えるのかどうかさえ分からない。

 それなのにカサンドラの正式な婚約者候補を会わせられたところで、社交辞令でも笑うことなどできるはずがないではないか。



 来るのではなかった、と瞬時に後悔して踵を返そうとする。

 もう少し時間が経てば笑えるのかもしれないが、今は無理だ。

 とても受け入れるだけの心の余裕がない。さかさまに振っても出て来やしない。



 だがその道は既に塞がれていた。

 たった一つしかない扉が押し開き、一人の少年が部屋の中に入って来たからだ。


 流石に窓を割ってまで逃げ出すような真似も出来ず、ただただ、重たい脚を引きずるように身を捩ろうとした――が。




「初めまして、王子」




 自分に向けて発せられた声を無視するわけにはいかない。

 愛想良く微笑むくらい簡単なことだと言い聞かせ、静かに廊下から入室してきた少年を視界に入れた。


 銀髪の美しい少年だ。

 自分達より五、六歳は年下だろうとても整った顔立ちの彼を眺め、目を細める。


 同じ蒼い瞳を持つ少年は、じっとこちらを凝視して微動だにしなかった。


 ……言葉で言い表すことの出来ない、アーサーは不思議な感覚に陥る。

 もしも……

 もしも弟が生きていたら、この歳になっていたのかも知れないと思った。


 だがそれだけではない。


 少年の面差しに似た人間を、自分は良く覚えているのではないだろうか。





   そんな馬鹿な。





 蜃気楼か幻か。

 自分は今、『誰』を見ているのだろう。







「アレク・レンドールと申します。

 お会いできて嬉しいです。


 ――なんだか、不思議ですね。



 ご無沙汰です、兄様」






「……クリス!?」




 ありえない。

 彼は死んだはずだ。

 ――亡霊?


 それにしては良く似ている、二本の足もしっかり見える。

 もしかして天国からのお迎えかと、アーサーの心は大きく混乱し大きな感情のうねりに掻き乱されている。



 額を押さえ、何度も首を横に振る。



 そんな馬鹿な……





「死んだ、はずでは」




 奪われたはずの命が、目の前に立っている。


 五歳から十歳までの外見面での成長は著しく、そして王宮内にいた幼少時と比べて雰囲気も全く違う。

 すぐにクリスだと気づけなかったのも当然だが、一度そうだと分かると何もかもが懐かしくて仕方なかった。




「ええ、死んだことになってしまいました。

 ……母様の事は……残念ですが……」




 彼が生きているのなら、もしかしたら母もどこかで生きているのではないか。

 そんな甘い考えを見透かすように、クリスは悲しみに満ちた表情で首を横に振った。



「カサンドラ嬢、これは一体」




 自分は彼女に騙されていたのだろうか?

 そうとは思えないのに、そうとしか考えられない。

 とてもクリスのことを知っていた態度には思えない事が混乱に拍車をかける。


「わたくしも先日初めて聞かされました。

 未だに詳細を把握しておりません。

 ……まさか王子の弟君だったなど……心臓が止まるかと思いました」


 戸惑いの表情の彼女もまた、この状況をまだ完全に把握していないのだと分かる。

 決して今まで自分をたばかっていたわけではないようだが、では何故?


「ええっと、話したいことは沢山あるんです。

 何故僕がレンドール家にいるのか、混乱されていると思いますし。


 ――でもその前に、……兄様……!」





 少年が、立ち竦むままの自分にぎゅっとしがみついてきた。





「会いたかった……!」 





 声を詰まらせ、腕を掴むクリス。





 なんだ?

 これは……夢……? 




  

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