第333話 さようなら
思いもよらない事態に、カサンドラは呆然とその場に立ち尽くす。
自分達以外誰もいない、高い天井の大講堂の中。
静まり返った冷たい空気、天窓から射しこむ陽光に照らされる王子は――こんなどうにもならない状況であるというのに。
その哀しみながらも、無理に微笑もうとする姿はまるで完成された宗教画のようだと思えた。
今までの記憶、彼との思い出がぐるぐると回っている。
その中で思うことは一つだけだ。
どんな想いで”彼ら”と接していたのか……
何気ない会話の一つ一つが、彼の瞳を曇らせるものであっただろう。そんな場面の数々で穏やかに微笑む王子の強さを、今になって知る。
己の胸の内を決して明かさない、強い精神力を持って過ごしていた王子。
そんな彼でも亡くなった家族の話だけはやんわりとカサンドラに辞めて欲しいと言ったことは印象的だ。
そのことからも、彼がどれほど深い傷を負っているのかがうかがえる。
いや、今でもその傷口は塞がる事無く血を流し続けているのだ。
何の咎もなく殺されてしまった家族の話だけは口に出来なかった。
「君を騙し続けていた。
重要な事実を伏せて長い間接していたなんて、さぞかし業腹な事だろう。
私は君に不誠実だった」
出会って間もない、何も事情を知らない『
何せ国王陛下が強制した縁談なのだ、周囲も不承不承ながら了承済み。
この状況下でカサンドラとの婚約を破棄させるというのは難易度が高い。もしも王子の立場でも婚約者と穏便な関係解消を実現する方法が思いつかなかった。
冷たくする、他の女性に気があるフリをするのが関の山か。
しかし理由があるからと言って、相手を傷つけていいわけがない。王子もさぞ困った事だろう。
そもそも、王家の機密事項――裏事情を知ることは、三家の人間にとっても見過ごせない事だ。
真実を話したことが彼らに知られたら……
その段階でカサンドラは生かしておけない危険人物。王子の傍から離れたとしても安寧ではいられなかったかもしれない。
いかに誠実であれ、と言ったところで詳らかに説明することは王子には無理だったろう。
信用が出来る相手かも分からないのだ。
互いに重要な事情を抱えながら、探り探り、ずっと相手の様子を伺いながら……
少しずつ近づいて行った。
彼の苦悩は痛い程理解できた。
自分がそこまで想われていたことは嬉しい。
でも……想われているからこそ、彼は自分を遠ざけようとするジレンマの渦中にあるという事実に途方に暮れた。
カサンドラが王子にとって真実どうでもいい存在なら、傍にいて失おうが傷つけられようが王子は見て見ぬふりもできるだろうに。
大切な人を喪った。
真実を訴えることが叶わず泣き寝入りしなければいけなかった過去。
そのトラウマは根強く、お願いだから婚約を解消して欲しいと訴えられてはカサンドラも唇を噛み締める他ない。
嫌だ、傍にいる。
泣きわめいて駄々をこねたい。
強行し傍にいたところで、彼を徒に傷つけ、苦しめることに繋がるだろう。
無理矢理受け入れてくれなんて言えない。
……王子の事が好きだ。
望みをかなえてあげたい。そのためには離れなくてはいけない。
でもそれでは……
彼は、心を深く病んだまま、世の中に対する憎悪を宿しこの国ごと滅ぼそうと決意するのではないか。
個人の些細な嫉妬どころではない、まさに恨みつらみの感情だ。
……悪魔に魅入られ、悪意の苗床にされてしまう格好の生贄ではないか。
王子と離れる事は身を引き裂かれるように辛い。
でもせめて……
彼には幸せになって欲しい。主人公に斃されるような存在にならないで欲しい!
願いはたった一つ。
ここで王子に悪魔の話をするか?
――駄目だ。
根本的な解決にはならない上に、復讐のためにそんな手段があるのかなんて間違った方向に暴走されては最悪だ。
今の精神状態の王子に、得物を持たせるような事は出来ない。
「いえ……
いえ、決してそのような。
王子がわたくしを信用してこのようにお話しいただけたことは、とても嬉しいのです。
……ただ……今後の事が、とても不安で」
まだ思考が混乱している。
色んな情報が一気に詰め込まれたせいだろう、筋道だった考えがとても難しかった。
王子を救う、という一心でここまで過ごしてきた。
だがこの今わの際になって――真実を知り、お互いに想い合っていたのだという事実を知り。
なおも彼を救えないという絶望に足元が真っ暗闇に浸される。
無理矢理傍にいたところで、想いを無視された彼は苦しんでしまうだろう。
かといって彼の傍から離れてしまえば……彼の暗い感情が何を齎すのか、カサンドラは知ってしまっている。
前にも往けず、後退も出来ない。
カサンドラは彼への反応に窮し、俯いてそう呟くしかなかった。
彼に寄り添いたい。
でも既にカサンドラとの関係を解消する決意をしている彼に、どんな言葉を言えばいいのか。
自分の貧相な共感力に絶望した。
「そうだね。
私も、婚約を解消してしまえば君の立場がどうなるのかと悩んだ。
王族との婚約が解消した理由を公に出来なければ、君の今後の縁談に差し障る可能性が高い」
彼は込み上げる感情を抑えるように、ぐっと声を詰まらせた。
「だが……
レンドール家には、後継ぎとして養子を迎えていると聞いた」
カサンドラは一人娘。
自分が王家に嫁いでしまえば跡取りがいない、だから遠縁から優秀な少年を養子に迎えて教育を施している。
現在はカサンドラが何かしでかさないかという監視役、お目付け役として王都に一緒に住んでいるアレクのことだ。
「彼は未だ正式な婚約者が決まっていないと言う。
恐らく私との縁談が解消になったとしても、君はその後継ぎと一緒になって家を盛り立てていくことが十分可能なのではないだろうか」
フッ、と。
目の前の灯が消えた気がした。
他の人と結婚など当然考えた事もない。
もういっその事追放処分されて田舎の修道院にでも駆け込みたいくらいだ。
彼以外の人と再び縁談相手を考えるなんて、カサンドラにとってあまりにも現実味がない話である。
王子が優しく諭すように、聞き分けの無い子をあやすように努めて穏やかに言い聞かせてくるものだから。
自分との未来を完全に諦めているその発言がショックだ。
呼吸が苦しくなった。
「……今後、興味本位から君の評判を傷つけようとする人間がいるかもしれない、その事については勿論フォローを考えなければと思うよ。
シリウス達も協力してくれるはずだ、ちゃんと……考えるから」
学園という閉ざされた空間では、この関係の解消など格好の話のネタだろう。
どれだけヒソヒソ囁かれるか分からない。
だがそんな外野の下世話な話などどうでもいい。
……もう、駄目なの?
こんなに好きなのに?
先ほどの王子は感情を抑えきれないと言った様子で言葉を続けていた。
だが一度言葉に出し隠す事もなくなった今。
寂しくも切ない表情を見せながらも、少しずつ冷静さを取り戻して行っているようだった。
納得も理解もできるのに、カサンドラは諦めたくない。
関係の解消を受け入れたくない。
カサンドラの今後の境遇を具体的に考えている王子。
我儘を言ったところで、彼の決意は変わらないのだと思い知らされる。
自分のしてきたことは決して間違いではなかったのだ。
後悔しようがない。
王子の事を好きになって、彼と一緒に過ごして、そして彼も同じように思ってくれた。
抱える悩み、想いを包み隠さず正直に話してくれた――
だから間違ってなかった。
でも彼の心の問題であるがゆえに、置かれた状況の特殊さゆえに……
まさかカサンドラだからこそ、どうにもならない事態に陥るなど想像もしていなかった。
彼の抱えるものが分かれば、自分が救ってみせる!
根拠のない自信に満ちていたことが遠い昔のようだ。
「わたくしは……
王子の事が好きです。
だから……。
だけど……」
なんで彼の心を劇的に転換させるような話術を持っていないんだ。
彼を納得させられるだけの何をも、自分は語ることが出来ないのだ。
王子の気持ちが、分かる。
こんなにも無力だ。
好きな人を前に、こんなにも何も出来ない自分に憤りさえ覚える。
「ありがとう、カサンドラ嬢。
好きだと言ってくれて、自分でも想像していなかったほど嬉しかった。
そして改めて強く思うよ。
……これから君が、幸せになれるように」
さようなら。
※
自分がもっと賢く、彼の傍にいられるだけの十分な材料を提示出来れば良かったのか。
誰にも負けない程頑丈で腕っぷしが強くて、自分の身を余裕で守れる戦士だったら良かったのか。
好きだと言って、悲しませ苦しめただけだった。
カサンドラは王子に何も言えなかったのだ。
自分が大切な人を理不尽な理由で喪った経験がないから。
相手と同じ経験をしなければ気持ちに寄り添えないとは思っていないけれど、今まで家族が健在で、恵まれていた自分に……
彼の絶望や恐怖心は想像に余りある。
大丈夫、心配ない。なんて薄っぺらい言葉!
半端な言葉の同情、励ましなど彼の心には届かない。
一層頑なに距離を置かれるだけだろう。
……この世界は、何なんだ。
何故王子にばかり、こんな重たい背景を背負わせたのだ。
あんまりじゃないか、どうしても救われないのだと神様に嘲笑われている被害妄想にも駆られてしまう。
事実、王子が救われるルートは存在しないのではないかという絶望に打ちひしがれた。
彼はずっと一人なのだろうか。
奪われることだけに怯えて、誰も愛することのないまま……
全てが嫌になって、世界を憎んで破壊しようとするのだろうか……
「姉上」
屋敷に戻った後、ズイッと目の前に顔を突きつけて来た義弟の呼びかけに我に返った。
「――アレク」
何とも言えない微妙な気持ちになって視線を逸らしたのは、きっと王子の言葉のせいだ。
王子との婚約が解消されたら、普通の貴族に嫁ぐのはかなりハードルが高くなってしまう。
王子はああ言ってくれたが、何か問題のある女性、と色眼鏡で見られてしまうに違いない。
だがアレクならそんな心配はない。
血の繋がりはない上、既に家族として暮らしているのだから一緒にレンドール家を継いでいく……という未来は順当な想像だと思う。
だがどうしてもありえないと思う。
年の離れた義弟ということもあるが、彼は弟としてしか見えない。
カサンドラにとって想像の埒外過ぎて気分が悪くなるくらいだ。
「いい加減、僕に事情を説明してくれてもいいのではないですか?
気になって気になってしょうがありませんよ」
地方見聞研修から帰ってきた日、用意されたパーティのような豪勢な夕食はカサンドラの胃に収まることはなかった。
いつか話すから、と先延ばしにしてきたがアレクとしてもモヤモヤするのは当然だ。
「………。助けて……」
「姉上?」
涙とともに零れ落ちた言葉。
その場にしゃがみこみ、肩を震わせて泣き崩れた。
「ねぇ、姉上。
――話してくれませんか?
王子と何があったのか」
アレクは身を屈め、寄り添う。
カサンドラの背中を優しく撫で、優しい声でそう言った。
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