第332話 トラウマ
彼の発した言葉の意味が分からなかった。
いや、意味は理解できるが脳内回路が呑み込んでくれないのだ。
三家の当主、それは言わずもがなのエルディム侯爵、ヴァイル公爵、ロンバルド侯爵の事をさす。
宰相のエリック、公爵のレイモンド、そして将軍ダグラス。
――攻略対象の、父親だ。王子にとっては親友の親だ。
家族を殺されるなんて、全くわけがわかない話ではないか。
だが彼の事を信じると決めた手前、信じられない、なんて言葉には出来ない。
だから顔に脂汗を浮かせ、王子を頼りない視線で見つめるだけだ。
カサンドラの戸惑いは王子に十分伝わったことだろう。
彼は自嘲気味に笑み、口の端を上げた。
そしてカサンドラから視線を外し――天窓を見上げて肩を落とすのだ。
「カサンドラ嬢は、この国で一番『偉い』人は誰だと思っているかな」
どんな田舎の子どもでも、問われればまず間違えることのない質問だ。
何故彼はそんな常識を訊いてきたのか、カサンドラは訝しむ。
「勿論、国王陛下です」
「――そう、皆は思っているね。
だけどこの国の王族は、彼らの傀儡、ただのお飾りなんだよ」
常識が根底から覆る音がする。
地鳴りの幻聴さえ聞こえ、カサンドラはずっと表情を強張らせたまま。
小さく笑う彼の言い草は、言い過ぎだろう、過小評価し過ぎだろうと否定したくなる。
彼の言葉を一つ足りとて否定したくないのに!
彼の口からは俄かには信じがたいことばかり出てきて、カサンドラの忍耐を試してくるのだ。
でも……
カサンドラには思い至ることが一つあった。
それはゲーム上の進行、シナリオの中の一場面だ。
物語上の悪役であるカサンドラは、攻略対象である彼らに断罪される。
王子の婚約者として相応しくないという理由で、今までの主人公への嫌がらせと相俟って追放の憂き目に遭うのだ。
だが、そんなことが可能なのか?
たかが一貴族に過ぎない彼らが、当の王子を差し置いて王族の婚姻を勝手に破棄し、婚約者を追放処分なんて許されるのか?
勢いで宣言したとして、本当に追放処分に出来るのか?
悪役だからそういう扱いなのだろう。
ヒーローの断罪を受けるのが流れとしては正しいから遊んでいる時は気にならなかったことだ。
だが一度この世界で過ごしていれば――不自然な事象ではないか。
いくら強い権力を持った貴族の子弟といえど、明らかな越権行為。
そしてそれが実行され、許される状況。
……彼らの見えざる力関係を表していたのではないか。
いや、逆か。
ゲームとして成り立っているその”
この世界はシナリオで描写されない部分での整合性を保ち、世界が安定して存在出来るような解釈を加えているとカサンドラは理解している。
ならば、これは世界の修正力が加わって、御三家と呼ばれる設定が出来たのではないだろうか。
――所謂『設定が生えた』という状況では。
勿論製作者側の意図していたものかも知れないが、検証する術はない。
だが元のゲームに御三家という呼称はされていなかったから、恐らく勝手に付け加えられた設定なのだろう。
どのみち、そういう力関係がこの世界に存在する、と言う事実に変わりはない。、
王子の言う王族の傀儡状況は突拍子のない話ではないのだ。
王族以上の実権を持つ勢力がある。
それがあの侯爵たち……!
「彼らの力は、とても強大だ。
本来王が持つべき軍隊を保持し、財政を牛耳り、
王の名で作られる書類の一割だって、陛下が考えたことでもなければ許可したことでもないんだよ」
「……そう、だったのですか……」
知らなかった。
全く、そんなことを感じさせるような場面を見たことが無かったし、想像さえ出来ない。
「彼らは王族を立てることは凄く上手い。
偉い立場だと祭り上げるが、決して実権は渡さない。
実力主義を標榜しているのは伊達ではないよ、彼らは代々優秀な人たちだ」
本来常識で言えば、立場が上の偉い王様相手なのだ。
従っているフリをするなど容易い事かも知れない。
――誰も疑わない、関係。
「父上は……陛下は……とても優秀な人だったから。
置かれている状況に納得できなかった。
自分の意志で、統治能力で、自分の国の民を導きたいと強く考える人だったんだ」
ここで国王陛下の話?
……確かに今の話では、個人の能力など一切関係なく、むしろ愚かで見目麗しい『人形』ほど王に相応しいとされる人材だ。
国王自ら先頭に立って統治したいと主張するのはさぞかし三家の当主にとっては面倒な事だっただろう。
――あっ……。
ぞくっと、身体が震えた。
「だが王宮の要職の全てを三家に占められ、今更その体制を覆すことは困難だ。
多少の我儘を言ったところで、王族の命令を意に介さない”彼ら”がいる。
とても改革など進められるはずもない」
優秀な人であればあるほど、飼い殺しのような状況は反発したくもなるだろう。
見方によっては、面倒なことを全て任せて自分は社交用の人形として笑って楽しく過ごせばいい状況でもあろうに。
王である、という矜持が強かったからか。
「父上は中央貴族の結束力を知っている。
だから中央からぞんざいな扱いを受けることの多い、多少なりとも三家に反発心を持つ地方の貴族達に目を向けた――味方に引き入れ、それによって王宮内の統治体制の均衡を崩そうと考えたわけだ」
第四勢力。
王が後ろ盾となって、王宮で実権を振るうための足掛かりを作り出そうとしたと。
辛うじて現実的な話だとは思うが……
「地方貴族の中に、王立学園に通うことに疑問を持ったり反発したり負担に感じている者が多くいることを知っていた。
とても多く舞い込む陳情だったからね。
――陛下は、諸侯の反対を振り切って王立学園の制度を見直そうと高らかに宣言した。
彼らに反対されたにも拘わらず、宣言してしまったんだ。
”地方”の信認を得るために独断で」
王子の声はこんな時なのにとても聴き心地が良い。
まるで物語のワンシーンを滔々と諳んじてるかのようで、カサンドラは言葉を全く挟めない。
「彼らにとっては許せない行動だったのだろうね。
……戒め、見せしめ、かな。
父上が愛していた母上と弟は……
遠方に出かけた途中、山中の崖から馬車ごと滝に落とされたよ。事故と偽装されて、殺されてしまった」
冬休み前の勉強会、ジェイクが王立学園の制度がなくなる話が云々、という話をしたのは覚えている。
そこで王子が「学園制度があって良かった」と肯定したことだって、勿論覚えている。
どんな 気持ちで?
王様がその提案をしたことで自分の母と弟を失って。
殺されて……?
どんな気持ちであの時王子は話をしていたの?
内心の悲しみなど一切悟らせることのない、完璧な反応を当たり前のように見せた王子。
聞きたくない話だっただろうに……
「『王位継承権の持ち主はまだ何人もいる、大丈夫ですよ』なんて耳元でささやかれてごらんよ。
……陛下がまた何か独断で行動すれば、次に殺されるのは私の番かもしれないと覚悟したね。
余計な事をすれば、今度は何が奪われるか分からない。――陛下は声を上げるのを辞めた。
誰も、力にはなってくれないんだ」
王妃や王子を死に至らしめたとしても、それを揉み消せる。
そんな事実は中々認められないものだ。
でも護衛についている騎士団や、調査に向かわせる人員、法の裁きを司る大法官……
彼らが協力すれば可能かも知れない。
そういう凶悪で重大な秘密を共有することで逆に裏切りを防ぐことにもなっているのだろう。
三すくみで睨み合うふりをしながらも根っこの部分では繋がり王国を実質的に支配している。
恐ろしい話だ、語り手が王子でなければ荒唐無稽な話としか思えない。
「そんな時に振って湧いてきたのが最有力の地方貴族、レンドール侯爵家令嬢との縁談話だ」
「わたくし……ですか」
「そう。
一人娘が王子との縁談を望んでいるが受け入れてくれるか、という打診があったのだとか。
……クラウス侯はとても有能な人だね、この話を実現させるのだから……地方に置くには惜しいやり手と言われるのも分かる」
瓢箪から駒だ!
目玉が零れ落ちる程吃驚した。
まさかあの父が……本当に、自分のために国王に直訴していたなんて。
カァァ、と紅潮するのを掌で押さえる。
ラルフに口から出まかせを言って誤魔化せたと思っていたが、まさか本当にカサンドラのためだったなんて。
普段仕事ばかりで自分の事には無頓着だと思っていたのに……
「だが父は王宮に迎え入れた君を足掛かりに、レンドール家を巻き込んで中央と抗争を始めるのではないか、と私は不安に思っている。
いや、実際にそれを理由に何度も父上とは喧嘩をしたのだけど」
「……。」
「母上達を失って彼らを恨んでいる、機会があれば行動に出てもおかしくないと私は思う。
陛下が私にこの縁談を強制してきたことに、強い意思を感じるよ」
ふと、避暑地のラズエナで初めて国王に謁見したことを思い出す。
国王は会った事もないのに、何故かやたらとカサンドラに好意的だった。その背後にある、味方につく可能性のレンドール家を見ていたのか。
カサンドラに優しくしてくれたのはそういう意図も含まれていたのだと気づいてしまう。
「要は君を利用する気満々なわけだ。
もうこの段階で既に、君との婚約話を受け入れたくはなかった。
申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
何も知らない君を利用して、いいように扱おうなんて……恥ずべき行為だ」
そんな状態の王宮に入れば、間違いなくカサンドラは大なり小なり巻き込まれることになるだろう。
王子が眉を顰める気持ちも分かる。
「その件の良し悪しはともかく、です。
――本当にご家族が被害に遭ったのであれば、国王陛下の苦しみも分かります。
ご家族が殺され、黙ってそれを受け入れろなどわたくしは言えません……
まずは御三家の当主を糺し、真実を世に訴えるべきではないでしょうか」
カサンドラを利用して彼らに意趣返しをしたいという王の行動の是非はともかく、だ。
非道にも人を殺めたというのであれば、正しく断罪されるべきだ。
いくら相手が強大な存在だとしても……
正義は王家にあるではないか。
しかし王子は力なく首を振った。
その寂しそうな、何もかもを飲み込んだ……達観した瞳がカサンドラの胸を穿つ。
「カサンドラ嬢。私はね……
今の体制を崩すことが良い事だとは思えないんだ」
「で、でも。お母さまや弟君は」
「確かに彼らは完全な善政を敷いているわけではない。悪人が蔓延ることだってあるし、独立を訴え内乱が起こっている地方の現状も憂慮すべきだ。
でも圧政じゃない。
王都や、沢山の街を見て来ただろう?
現状を善しとして幸せに暮らしている人の方が多い。
この広大な国を完璧ではないにせよ、今のレベルで纏めることはとても凄い事だ。
……彼らは彼らなりにこの国を良い形で維持しようとしているのだと思う。
私達が彼らを糾弾し、訴え、仮にそれが世に知らしめられたら――失脚したら。
三家の威光が地に落ち、今の体制が揺らぎ崩壊したら?
次の統治体制はどうなるのだろう。
陛下一人で、この国を治めることなんて出来ないんだ。
果たして今より王国内が『善くなっている』なんて誰が保証してくれるのだろう」
うっ、と息を詰める。
強権を持ったただ一人が全てを掌握する事など、この国土を考えれば困難だ。
しかも三家が失脚となれば国内は大混乱、果たして収集が着くのか。
動揺する諸侯を、本当に王家が改めて恭順させることが出来るのか。
そして恭順させたとして、平和な王立学園に象徴されるような『今』の治安を維持できるのか……
難しいと思った。
全ての人にとって善政ではないが、多くの人がそれなりに平和に暮らしているこの国で。
もしも独裁で圧政で、国全体が困窮し悪政にあえいでいるのなら……
何かの犠牲を承知で、立ち上がらなければいけないこともあるだろう。
今は、大陸が一つの国としてまとまっている。
戦争とは無縁、大規模な戦乱から遠ざかった小康状態。
王子の家族を死に至らしめた彼らは裁きを受けるべきだ。
でも王子自身が完全に委縮してしまっている。
大勢を巻き込んだ復讐を決意してもおかしくないのに、黙って哀しみを耐えている。
自分達さえ息を潜めていれば、と。
「それに、ラルフも、ジェイクも、シリウスも。
皆、大切な友人なんだ。
……ラルフやジェイクがもしも親のしたことを知ったら……」
ぐっと彼は唇をかみしめた。
悔しいのだろう、固めた拳は大きく震えている。
一番近くにいる親友達。
彼らは、王妃たちを殺したのが自分の親だなんて知らないのか。
そりゃあそうだ。自分の親がそんなことをしたのに、のうのうと王子の傍にいられるわけがない。
特にジェイクなどそんな事を知らされたら将軍を殺しに行きかねず、返り討ちにあって逆に殺される未来まで見える。
王子が公にしたくないと堪えている理由の多くは、彼らの事を憂いてのことか。
文字通り親の仇がいて、その子と親友で。
恨むことも出来ず、常に一緒にいる状況――
カサンドラなら心が病んでしまいそうだ。
本当に……この人はどんな想いで普段過ごしているのだろう?
……そんな抑圧された感情を全く出すこともしないで。
「――王子!
今のお話を聞いてより強く……王子のお傍にいたいと思いました!
王子の置かれている環境、わたくしも胸が締め付けられる想いです。わたくしは――」
親の仇。
復讐。
このキーワードは、きっと彼が悪魔に乗っ取られることの大きな要素となるに違いない。
彼が自分を心配してくれているのは分かったけれど。
王子を支えたい、助けになりたいという想いに変わりはないのだ。
だが彼はハッキリと、大きく頭を振った。
お願いだから、望まないでほしいと。
「……駄目だ」
「何故ですか……?」
「君の事が、好きだからだ」
真っ直ぐな蒼い目で、彼はカサンドラを見つめる。
その物悲しさに満ちた眼差しに、カサンドラは縋る言葉を見失う。
「――”彼ら”にそれが分かれば。
君のことが大切だと知られてしまえば。
彼らは状況次第で――君を……。
母上と同じような目に遭ったら……
そうなっても、私は、何も出来ない。
守れない。
……。
大切なものなんか、作りたくなかったんだ。
どうせ奪われる。
あの日父の心が殺されたように、私の心も、また、殺される。
もう、嫌だ。
――失うのは嫌だ。
……彼らの機嫌一つ思惑一つで大切なものを失う。
君にそんな環境を押し付けるのも、耐えられない」
それは覇気のない、ぼやきさながらの囁き。
別人のように弱弱しく震える声。
まるで自己暗示をかけているかのよう。
王子の双眸は、いつしか虚ろな、何も映さない悲しいものへと変わっていた。
王妃の命さえ、王子の命さえ、軽々しく摘み取ってしまえる。
『失ったことがある』王子の声だからこそ、カサンドラは押し黙る他なかった。
「縁談を聞かされ、どうすれば穏便に婚約解消できるのか、そればかり考えていた」
ぽつりと彼は呻くように言葉を零した。
その顔はとても辛そうで、直視するのが躊躇われるほどだ。
「私は君とどう接するべきか分からず、途方に暮れた。
――君が私に好意を持っているなら、それを利用して適当に相手をすればいい。
そうシリウスに言われて、とても困った。――無理難題が過ぎる」
早々に婚約解消と騒ぎ立てても、何の罪もないカサンドラに対して失礼な話だ。
気のない素振りを見せ、過剰に冷たい態度をとって恥を掻かせるのも躊躇われる。
彼自身、嫌われる方法を知らなかったのだろう。
自分に好意を持っていると知っている相手を冷たく突き放せるような性格ではない。
相手の顔を立てつつ、どうすれば波風を立てず婚約を解消するか悩んでいたことは間違いない。
「ふと気づいた。
私がカサンドラ嬢の事を扱いづらい『親に押し付けられた婚約者』として対応している間は、君に危険はないのでは? とね。
君がいなくなることで私が得をすると彼らが思っているのなら、逆説的に安全だ」
王子のために気に入らない婚約者を排除する義理も意味も三家の当主にはない。
カサンドラの事は疎ましく思っていただろうが、それだけで命を奪い、父クラウス侯と全面抗争など非現実的だ。
ならば静観――ということになるだろう。
問題が起これば、堂々とカサンドラの失態を糾弾すればいいのだ。
学園在籍中に焦ってカサンドラを実力で排除しようとは思うまい。身の危険はなさそうに思える。
「君との関係を解消する妙案を思いつけないまま、時間だけが過ぎて行った。
嫌われれば話は早かったと、今でも思うよ。
君を煽って、婚約解消の言質をとる。一番手っ取り早い手段だ。
でも一番最初に――何があっても私の味方だと、言ってくれたね。
あまりにも突然で、脈絡がなくて驚いた」
王子に何を言えばいいのかわからなかった、入学直後。
でも彼を救いたい、そんな決意に満ち満ちていた。
今もその想いは変わらない、いや、もっと強くなっている。
「何も知らないはずなのに。
……君の優しさが嬉しかった。
味方なんて、考えた事、なかったから。
君を危険から遠ざけるためとはいえ、
そうか。
王子には親友はいても、”味方”はいなかったんだ。
彼らは信頼し合う仲間だが、彼らはそれぞれの派閥の中心人物達。所属している場所が違う。
同じ場所に立っているように見えても、帰属が違うのだ。
友人でも陣営が違えば袂を分かつことはある、だから彼は本質的には学園内でたった”一人”だった。
考えてみれば、王宮内で彼と親しくしていたのは植物園の管理人の大柄の庶民出だろう男性のゼスと。
そして地方貴族の孫娘で、全く中央貴族とかかわりがない新参官吏のエレナ――
王子は、学園どころか王宮内でさえ信用の置ける味方がいなかったのではないか。
常に三家の息のかかった人間たちに監視され、自由などなかったのかも知れない。
どこを向いても、自分の家族を殺した人間をトップに戴く職員しかいないなんて……辛いだろうな。
王族は彼ら三家の当主にとって、自分達に都合よく動く駒でしかない。
綺麗な人形で国民の人気があればそれでいい。
歯向かった王様を黙らせるために、大切な人の命まで奪う……。
なんて酷いやり方なんだろう。
「いつのまにか、演技する必要などなくなっていた。
好きになっていたんだよ。
……君と一緒にいる時間が、楽しかった」
「王子」
「本当は、無関係な君を王宮内の争いに巻き込むべきじゃない。一方的にでも婚約を破棄するべきだった。
――それが出来ないなら、ちゃんと全て説明して、分かってもらって、合意の上で婚約解消を進めていくべきだった。
そうすべきだったんだ。
……わかっていたのに、出来なかった。
こんな無力で情けない張りぼての『王子』なんだと、君にだけは知られたくなかった。
関係がなくなって、一緒にいられなくなるのが、嫌だった。
最低限の婚約者としての接触はどのラインなんだろう。
どこまでが、演技だという言い訳で許されるんだろう。
この想いを皆に気づかれない境目はどこだろう…そんなことばかり考えていた。
……中途半端でも、いずれ白紙に戻る関係でも。
少しでも、君といられる時間を先延ばしにしていたかった。
ごめん、本当にごめん。
危険な目に遭わせたくないのに。
君が私を気遣って、歩調を合わせてくれるから、それに甘えて……」
カサンドラは瞑目した。
王子は……
家族を失ってしまったことがトラウマになっているんだ。
自分を”従わせる”ために、カサンドラの命が脅かされるのが怖いのだ。
今まで大切なものを敢えてもたなかった王子がもしも誰かを好きになったら。
優しく情愛深い王子に、とても大切に思う人ができたら?
その命をどんな風に使って、王子を操ろうとするだろうか。
国王が見せしめのように大切な人を簡単に奪われてしまった事を思えば……
きっかけさえあれば、カサンドラなど躊躇うことなく事故死か病死を偽装されるだろう。
いや、流石に殺されることはないかも知れない。
だが一度家族を”奪われた”王子は、ずっとずっと、その恐怖に取りつかれたまま。
いくら言葉を尽くしても、大丈夫だと根拠を並べても、彼が心から安心する日は来ないだろう。
そして彼が大切なものを守れない、と最初から諦めているのが悲しかった。
自分では動かしようのない、大きな『力』に圧し潰されて抵抗することさえ無意味だと思い込んでいる。
想像もしていなかった。
守るべき対象のはずの王子が、実はカサンドラを守ろうと思っていたなんて。
王子にとっての庇護対象である自分が何を言ったところで、彼の不安は取り除けない。
「……君が婚約の解消を申し出た時、辛かった。
けれど、ホッとした。
ようやく諦められる、君を失う悪夢を見なくてもいいんだと。
なのに……
君は、酷い人だ」
「で、では……
これからも、今まで通り、婚約者として……
あの、大丈夫です! わたくし、頑張って今まで通り王子に対して振る舞うよう努めます!
……王子は変わらぬ態度で、日常をお送りください!
そうすれば、わたくしは、安全……なのでしょう?」
問題を先送りにしていたのはカサンドラも同じだ。
王子も、事情は違えど同じだったのだ。
そのせいでずっと、つかず離れずの『一応婚約者』という立場で過ごすことが出来た。
これからも、今まで通りでいて。
せめて、傍にいさせて。
一方的に王子に懸想して、王子はちょっと困った態度。滅多に話すこともない。
誰かが王子の気持ちに気づいて、その想いを利用することはないんだよ。
私はどこにもいかない。
それで王子が安心するなら、喜んで道化でも演じてみせる。
シリウスに哀れまれたって全然構わない。
皆の目を欺けるよう、演技の稽古でもしよう。
祈るように手を組んで、王子に訴えかける。
彼が自分の事を心配してくれるのは嬉しい。
同じようにカサンドラのことを想っていてくれたのは嬉しい。
彼は、カサンドラの手をぎゅっと掴んだ。
「私には無理だ。
君に好きだと言われて、どれほど嬉しかったか……
今までだって、ずっと堪えていたのに。
教室で話をしたいと思っていた。
もっと沢山、一緒に行きたい場所があった。
君がジェイクやラルフ達と話をするのさえ、嫌だと思うこともあった。
何もかもを抱えて呑み込むことは……もう無理だ。
――君をこれ以上、付き合わせてはいけないんだって、分かってしまったから」
決壊した感情の堰。
一度本音を告白した後、関係性が変わる。
もう元には戻れない。
なんで、なんで?
こんなに想われていたことは、嬉しくて嬉しくてしょうがないはずなのに。
一緒にいられない、頭が真っ白になる。
どうしたらいいの?
どうしたら……
この人は救われるの?
彼の言葉通り、カサンドラがいなくなったとして――
この先ずっと、王子は大切な人を奪われる
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