第330話 渇望


 生徒会室の奥の扉を開け、役員が使用できるサロンに入る。


 ピアノを聴きたいというこちらの要望をラルフが受け入れてくれたのかと思ったが、彼はカサンドラをソファに座らせた。


「詳しい話を聞こうか。

 まさか喧嘩というわけではないだろうに」


 そう言って紅い瞳を鋭く光らせるラルフを前に、カサンドラもたちまち頭が真っ白になってしまう。

 あの話を他人に話すなんてとんでもない。

 アレクにさえまだ経緯を話す勇気がないのに、何故ラルフに逐一報告しなければいけないのか。


 しばらくの間カサンドラはだんまりで、ソファに座ったまま身を屈めて縮こまっていた。


 話す必要などない。


 そう思っているのに、彼は見逃す気など毛頭ないと言わんばかりの険しい表情でこちらを正面から睨み据えるのだ。


 シリウスにせよ、ラルフにせよ――


 何だか調子が狂う。

 黙秘権を行使すれば彼も諦めてくれるだろう。

 そう思って口を真一文字に引き結んで時が経つのを待った。


 カチ、カチ、と。


 壁掛け時計の秒針の音だけがやたらと耳に障る静かな空間。



 意外にも、ラルフはその沈黙に付き合ってくれた。

 いい加減解放してくれないだろうかと思ったその時。



「アーサーと何があったのか、聞かせて欲しい」



 彼は静かに話しかけてくる。

 そこにはシリウスが漂わせていた憐れみの情は感じなかった。

 落ち込むカサンドラを小馬鹿にしているわけでも、可哀想な子を見るような目で接しているわけでもない。

 ただ純粋に驚き戸惑って、彼が本心から知りたがっているのだと伝わってくる。


 ズキンと胸の奥が痛んだ。


 ……王子との事を話せる人間なんか、他にはいない。

 第一、ラルフとの関りも今後続くわけでもない。気が少し緩んだ。


 ――いつまでも一人で抱えて貯め込んでおくには抱えきれない感情が、その一瞬堰を切ったように溢れ押し寄せて来た。


 どうなったって、同じことだ。

 彼に話をしたところで何かが変わるものでもない、憐れみの視線が一つ増えるだけ。



「お笑いになって下さって構いません。

 ……勘違いが極まったわたくしの、一人芝居の結果ですから」



 自嘲し、口に出せることから順に彼に話をすることにした。

 ずっと無言で向き合っているのも気まずいものだ。



 意外にも彼は、口を挟むことなく黙ってカサンドラの話を聞いてくれた。

 真剣な表情で。

 あの日、シリウスに教えてもらった王子の本心を。


 言葉につっかえつっかえ、時系列も滅茶苦茶。

 さぞかし聞き取りづらい話しぶりだった事だろう。


 だが急かすこともなく、カサンドラが口を開くまで彼は待ってくれる。


 スラスラとまでは言えないものの、自分でも恥ずかしくて覆いたくなる話をしようと思ったのは……

 見栄を張る必要がない、カサンドラの現状を良く知るラルフが相手だからだろうか。





「……………おかしな話だな」




 婚約解消に至る流れを、たっぷり十数分かけて彼に伝え終えた時。

 既にカサンドラの心は燃え残りの残り滓のようにボロボロだった。

 口にすれば、あの話は事実だったのだ、と現実に引き戻される。


 その度に悲しくて、涙を堪えるのに時間を要した。


 ラルフは疲れ切って真っ白になったカサンドラを後目に、やはり難しい表情で腕を組む。

 何度も足を組み替えては首を傾げるその姿は、カサンドラの想像していたどんな反応とも違う。



「何故こんなに、シリウスと見えているものが違う?

 ……いや、わざと……?」


 彼が納得しかねる状況が何なのか、カサンドラは分からない。

 全てにおいて覆すことの不可能な”今更”状態なのだ。


 彼が不機嫌そうな仕草で表情を歪めている姿を、茫洋とした視線の中に収めるだけ。

 これで用件は終わったのだから、解放してもらえるだろうか。


 アレクに経緯説明をする良い予行演習になった。

 そう思おうと無理矢理前向きに考えていた。



「あの、ラルフ様。わたくしの申し上げたいことは以上ですが、宜しいですか……?」



「………。

 カサンドラ」


 名前を呼ばれ、ドキッとした。

 立ち上がろうと膝に籠めていた力が抜ける。



「この状況は、とてもおかしい。

 俄かには信じがたい話だと思う」


「……何がですか?」


 おかしいと言われたところで、起こった事象を並べただけだ。

 時系列がバラバラで、ラルフにとっては全容を把握するのは難解な話だったかも知れないが。



「アーサーが君の事をそんな風に思っているはずがない」


 彼はこちらの異議を封殺するように言葉を畳みかけて来た。


「彼は君の事が好きなんだろう。

 ……聞いた話が真実とは思えない」


 鳩が豆鉄砲を食らったように、カサンドラは息をひゅっと呑み込んだ。


 いや、いや……

 それは”ない”だろう、新手の揶揄か皮肉かと頬を引きつらせたが、彼はあくまでも真剣な面持ちであった。



「ですから、申し上げたではないですか。

 わたくしの扱いにお困りになった王子が、シリウス様の助言に従っただけだと」


 何度も言わせるな! と、カサンドラは哀しみが徐々に憤りの方にシフトしていきそうな苛立ちを仄かに感じた。

 怒ったところでしょうがないのだが。



「……はぁ……」


 彼は少し倦んだ表情で、前髪を掌で掻き上げる。


「他人の行動に言及するのは気が咎めるが、しょうがない。

 ……。

 あれが演技? 馬鹿馬鹿しい話だ。

 ――もしもそれが真実なら、王子なんかやめて劇団の役者になればいい。

 どんな一流の演者も顔負けだろう」


「……? でも――」


「僕とシリウスでは見えているものが違うんだろう。

 この一年間、何度アーサーの話に付き合って来たと思ってるんだ」


 肩を竦め、辟易とした様子でさえある。


「君の誕生日、何を贈れば良いかと相談を受けた時もあったな。

 ああ……誕生日といえば、自分の誕生日に君と会えるかどうか、延々気にしていた期間を是非見てもらいたかったものだ。

 ガーデンパーティに着ていく服の事もかなり悩んでいたな。

 美術館に寄るのに君に見られるのが恥ずかしいから肖像画を外してくれと交渉されたのは最近か。却下したけど。

 何かにつけそれとなく……何度閉口した事か」

 

 いきなりそんな突飛な事を言われても、反応に困る。

 カサンドラは完全に埴輪のような顔をしていた。


「で、でも、それも含めて……」


 カサンドラが望むような反応を考えて、それを実践していたに過ぎないのではないか。

 一婚約者としておかしくない対応を心掛けていただけなのでは?


「僕まで騙す意味が分からない」


 それはまさしくラルフの言う通りで、言葉に詰まる。




「第一、好きでも何でもない相手からもらった手編みのマフラーを――

 着用する必要のない室内で嬉しそうに巻く人間が存在するとでも?」




 え。



 え、えええええ???




 全く想像もできない姿に、カサンドラの想像力の許容量を超えてパンクしそうだ。

 確かに休日のダブルデートで彼がマフラーを着けてくれた姿は見た。

 が、それはもらった以上一度は着けないと、という義務感ゆえだと思っていた。


 素人仕事丸出しのマフラーを身に着けるのは恥ずかしいだろう。普段見かけないのは当たり前だと寂しくも納得していたというのに。



「な、何故王子はラルフ様にはそのような……その、相談事を」


「彼に気になる女性がいたとして、だ。

 身の回りにいる人間の中で相談が出来る相手が僕しかいなかったから……としか言いようがない」


「た、確かに!?」


 シリウスは他人のそんなやりとりに興味が皆無だろうし、何より適切なアドバイスが求められるような友人とは言い難いだろう。カサンドラの扱いがわからないと言われて「掌の上で躍らせろ」など真面目な顔で助言するような男に何を相談できるのかと。


 ジェイクなど言わずもがなだ。

 自分の気になる女の子に対して、蜘蛛の玩具を贈って満足しているような乙女心とは最も無縁の世界で生きている人間だ。


 カサンドラが王子だったとしても、消去法でラルフにしか話せない事もあると思う……! 特に異性関係の話は!



「まぁ、些細な事も含めて相談を受けた経緯がある。彼の面目などもあるからこんな話をする気は全くなかったけど。

 流石に今の話を聞いては……ね。

 おかしな話だとしか言いようがないだろう?」




 話し相手だったという張本人からの証言を前にして、それを嘘だと捻じ曲げて捉える事は難しかった。



「勿論、最初は女性相手に慣れないから純粋に困って僕に相談したかっただけなのかも知れない。

 でも演技をする必要のない場面で好意を伺わせる必要を感じない。

 狂人の真似をしたら狂人としか言いようがない、という言葉もある。

 そこまで好意のあるフリが出来るなら、もはや好意を持っているということと同じじゃないか?」

 


 狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり――ああ、この世界にも似たような語源があるのだな、と頷いている場合ではない。



 彼の畳みかけるような話しぶりを否定する事も出来ず、現状を把握しようと一生懸命頭を動かす。



 錆付いていた脳細胞を必死に動かしていくと、視界がやたらと鮮明になっていく。



 カァァァァ、と一気に顔が赤くなってしまった。

 いや、でも。



「ではなぜ、王子は……」


 心にもない事を言ったのか?

 もしも、ラルフの見解に分があるとしたら、彼はあの時本心を話さなかったということになる。


 面映ゆい話だが、自分の事を少しでも好意的にとらえているのなら、何故婚約解消をあっさりと受け入れたのだ?


 全てにおいて矛盾している。



 行動。

 見せる表情。

 話す言葉。



 視点が誰かによって、まるで違う王子が複数存在しているような……?



「さあ。僕には分からない。

 でも理由があるから、よく分からない状況に陥っているのだとは思う」



 おかしい話だとラルフが首を捻り、カサンドラに話をしてきた気持ちも分かる。

 彼の見ている王子像と、今回の彼の行動やシリウスの言動は全く合致しない。薄気味悪ささえ感じる事態ではないだろうか。



「カサンドラ、君はアーサーの事が好きなんだろう?」



 恥ずかしげもなく急に直球を投げつけてくる。

 でも真剣な顔であることに変わりは無かった。



「それは、勿論……! 変わりません」



「このまま指をくわえて婚約の解消を待ち、諦めるつもりか?」


 既に話は進んでいるはず。

 いつ婚約の解消が発表されてもカサンドラは文句を言えない状況だ。自分で申し出たのだから、当然だが。



「………正直に申し上げるのなら、どうすればよいか分からないのです。

 王子のあの時の言葉が全て本心ではないとしても、婚約を解消したいというお気持ちは本当だったのでしょう。

 今更……遅いのではないでしょうか。


 ですが……許されるのであれば、知りたい……です。

 あの方が何を思っているのかと言うことを」



 最初からずっと、知りたかった。

 彼が抱える『何か』を。

 きっと抱えているのだろう、人には言えない事情を……主人公達に立ち塞がるに足る、背景を抱えているのではないか。


 好きだから。彼を守りたいから。

 ずっと、それだけを考えてこの一年過ごしてきたのだ。



 諦めたくはない。

 でも、今更……? 


 あっさりと要らないと言われた自分に何が出来ると言うのだろう?




相手アーサーの本心を聞きたいのなら、君もちゃんと伝えるべきだ」




 ガンッと殴られたような衝撃に視界が歪んだ。


「君はまだ、伝えるべきことを伝えていないんじゃないか?

 自分の本心は伏せたまま、アーサーの本音を探ろうと言うのは虫が良い話だと思うけどね」




 そうだ。


 私、まだ、王子に直接伝えていない。



 好きだって、まだ、ちゃんと彼に伝えてない。

 態度で分かるだろう、分かっているはずだ。そう思っていたけれど、ハッキリと言葉で伝えてない。

 


「だって……好きだなんて言って、迷惑がられたら」



 そう自分で言い訳をしていて気づくのだ。

 自分の保身ため、自分が傷つくのが怖いから、何も言い出せなかったということを。



 ラルフは「やれやれ」と言わんばかりに両手を大袈裟に広げた。



「君が真正面から本音で話をすれば、結果はまた違ったかも知れない。

 アーサーも、君の本心を知らないのだろう?

 案外、彼もカサンドラが”今まで演技をしていた”なんて思っていたりしてね」


「そんなことは」


 あるはずがない、だってこんなに……好きなのに。

 演技だなんて。思われるなんて、嫌だ。


「でも婚約解消を申し入れたのだろう? 他ならぬ君が。

 ……君の行動だって、アーサーからすれば矛盾しているように見えてもおかしくない」



 そうなのだろうか?

 改めてラルフに言われた事を考えると、どうしようもない焦燥感に身を焼かれそうになる。




  王子は何か勘違いをしている?



  それとも、もっと複雑な事情が……?



 今聞いている話は、ラルフ自身の見聞きしたことから導き出された見解だ。

 正しいとも間違っているとも、王子自身でなければジャッジは出来ない。

  


 ただ、少なくともラルフの言う事はカサンドラにとっては『希望』の光であった。

 他ならぬ王子の親友の言葉だ。

 いつも身近にいてカサンドラよりも王子の事を良く分かっているラルフが自信を持ってそう言うのだから、少しくらいは……

 好かれていると思っていいのかも知れない。




 胸が締め付けられる。


 手編みのマフラーなんて、好きでもない人からもらったところで嬉しいものではないだろう。

 それを渡すのを躊躇っていれば催促してくれ、こっそり部屋の中で身に着ける。――確かに演技としては過剰すぎる。

 誰も見ない可能性の方が高いのに。



 ラベンダーを詰めた香袋サシェも、ずっと身に付けてくれていた。

 



 細かなところを並べてみれば、一つ一つの表情が、仕草が、彼の本心を表しているのではないかと思えてしまう。


 ラルフの傍証と王子の行動こそチグハグだ、考えると明らかに可笑しい。



 ……見えない場所で演技をするくらいなら、学校にマフラーをつけてくれればよかったのでは? それが出来ない理由があった? だとすれば何……?


 頭が痛い。雲をつかむような話で、わからない。




 彼の本心を知りたい。

 このまま引き下がってしまっては絶対に後悔する。

  



 でも今更と俯いてしまうのは、「やっぱり好きです」なんて言い出したところでどうなるのかと怖気おじけづいたから。


 彼がカサンドラに好意を持っているなんて、ただのラルフの勘違いでは?

 都合の良すぎる話では?




「カサンドラ・レンドール」




 彼は自分の心の内を見透かすように、強い口調で名を呼び意識を縛る。




「以前、君は僕に宣言した。

 アーサーの事が好きだから精進すると胸を張っていたな。

 あれは、嘘だったのか。

 根性だけはあると思っていたが、それもない、と」



 ジェイクにせよラルフにせよ、そう言えば彼らには色々と恥ずかしい事を言った記憶がある。

 彼らは自分の王子に対する想いをよく分かっている。



 だからきっと……これは彼なりの後押しエールなのだ。



「そのようにおっしゃられるなど、遺憾です。

 今でも気持ちは変わりません」





「僕にはあいつの真意はわからない。

 だが少なくとも、本音で向き合ってきた相手に適当な態度ではぐらかすような誠意のない人間ではない。それは確かだ。


 ……友人の立場から、彼を信じてやって欲しいと思っている」




 恐らく――その言葉を、彼はカサンドラに一番伝えたかったのだろう。






 信用されることばかり考えていた。

 王子の信を得るためにはどうすればいいか。


 



 ……シリウスに”適当にはぐらかされる”と言われて鵜呑みにしたが、彼は……そんな人じゃない、こちらが本音でぶつかれば、きっと応えてくれる。

 誠実な部分もひっくるめて好きだと思ったのではないか。






 コソコソ彼の会話を盗み聞いて、彼の心を試すような真似をして、勝手に彼の気持ちを想像して勝手に絶望して……



 相手を信用しているとは思えない行動ばかり。




 そんな人間相手に本音を言えるわけがない。

 事情があったとしても、信用して説明する気になんかなれない。









  信じて、伝える……か。



  何という事だ。






 一番大切な事を、一度も彼に伝えていなかった。



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