第329話 空しき日々
自分が出来る事は終わってしまった。
無力感と寂寥感に襲われるカサンドラ。
だが一人になった夜に大泣きし、それが現実だと受け入れると――
結局、自分の生活は何も変わらないのだと思い知らされる。
まだ婚約解消の話はお王子に伝えただけで他に誰も知っている人がいない。
今カサンドラは、地方見聞研修という遠出の旅行先という独特な環境の中に身を投じている。
普段より密接に皆と共に行動している中、カサンドラの様子がおかしければ「あれ?」と思うこともあるはずなのだが。
カサンドラの体調を気遣う声はあっても王子との関係性を訝しまれることはなかった。王子と喧嘩でもしたのかと問われる事は、ただの一度もない。
王子とすれ違う時、食事の席で一緒になった時。
当たり障りのない挨拶を軽く済ませる事が出来れば、誰も自分達の関係の変化を疑わない。
日常的に皆の前で王子の傍にいたわけでもないし、話をしていたわけでもなかった。
だから表面上で知人のように振る舞えさえすれば、カサンドラの心が罅割れて修復不可能な程傷ついていても誰も分からない。
第三者から見える自分達の関係など、その程度の薄っぺらいものだ。
互いに好意的な態度を教室内で見せた事もないし、行事ごとも然り。
笑えるほど、世界は何も変わらなかった。
婚約解消を申し出た状態のカサンドラ、申し出られた側の王子。
その二人の関係性に齟齬が生じてしまったというのに、一切表面化しないというのだから今になっておかしさがこみあげる。
必要がないとフラれた相手でも、表情筋を駆使して微笑んで挨拶をすれば誰も違和感を抱かない。
誰にも気づかれないように慎重に動こうと王子は言ったけれど、カサンドラが最低限の応対を怠らなければ事が露見する可能性はないだろう。
それくらい、元々自分達に接触は無かった。
いつの間にかカサンドラの心の動きが鈍磨していく。
少し塞ぎこんでいたら皆、体調面の心配ばかり。
王子と何かあったなんて気づかれもしないのだ。
何かあるもなにも、元から”無かった”のだから当たり前のことだ。
その程度の関係しか築いてこれなかったのだなぁ。
書面上の契約、形式上婚約者として扱われる自分。
自分の現状を認識すればするほど惨めになるので、カサンドラは感情を殺す。
帰りの馬車での楽し気な雰囲気はカサンドラにとって苦痛そのものだ。
だが無表情で話半分にしていてはリナ達も気まずいし、楽しい思い出話に水を差してしまう。
だから一生懸命、カサンドラは”今までのカサンドラ”のように努めて振る舞った。
数日前までの自分の真似を頑張るなど滑稽この上ないが、想いとは裏腹の演技に過ぎない。
なんだ、意外と簡単だ。
心を殺し、感情を押し込め、周囲の雰囲気を悪くしないために相手に迎合して穏やかに振る舞う、いわゆる『気遣い』。
それはカサンドラにだって出来る事。
空気を読んで、この場に相応しい表情や言葉を探して当てはめる。
こんな未熟な自分にも出来る事なのだ。王子だって出来るに決まっているではないか。
行きの馬車の中では、こんな想いを抱えて馬車に乗ることになるなんて思わなかった。
どうすればこういう結末にならなかったのか、考える事も無駄だ。
何に気づき、後悔し、反省したところで既に幕は下りている。
自分で重たい
意気込みや希望だけは
この学園行事の旅行は、自分の生涯で最も忘れられない出来事になるに違いない。
――自分達の婚約が無かったことになったら、一体学園はどんな騒ぎになるのだろうか。
想像しただけで汗が噴き出るけれど、自分から申し出た以上好奇の視線や噂話に甘んじて受け入れなくてはいけない。
……地方の貴族が、学園に通わなくても良いという決まりになったら……
尻尾を巻いてレンドールに逃げ帰ることもできるのに。
何もかも、
車窓から見えた景色に息を詰め、物悲しさを覚えるカサンドラ。
王都の隔壁、灰色の分厚く高い街の外壁がぽっかりと口を開けて騎士達に付き添われる馬車を次々に呑み込んでいく。
自分達の乗った馬車も前に続き、大きな門の中に吸い込まれていった。
※
――疲れた。
来週からも学園生活は続いていくというのに、全く以てやる気になれない。
目標を持って精進する日々は充足感もあり楽しかった。
王子のパートナーとして、試験の順位が下位なんてありえない、それでは格好がつかないと。
彼に認められたいという想いも手伝って学業に打ち込んでいたが、もう意味がない。
誰に褒められたところで、一番価値を認めて欲しかった人は認めてくれることはないと気づいた。
私は一体、何をしてきたんだろう。
無駄なことばかり。
でも、カサンドラはこの一年近く、王子と一緒に過ごせた日の事をどうしても無駄だったなんて思いたくない。
頻度こそ多くなかったけれど、彼と一緒にいる時間は幸せだった。
ずっとドキドキしていたし、これからも一緒にいるために自分なりに彼に近づいて行ったつもりだった。
相手の気持ちを無視して土足で彼の日常を踏み荒らしてはいけない。
迷惑に思われないよう、少しずつ少しずつ。
例えはおかしいが、人に懐かない野生の動物を相手にするように相手の信頼を得ることが出来るよう、カサンドラなりに考えて来たつもりだ。
物足りない。
もっと話がしたい。一緒にいたい。
……皆の王子じゃなくて、自分だけの王子でいて欲しい。
カサンドラの我儘で気持ちの押し付けなのだと戒め、ずっとずっと、抑圧していた想いが今になって思考を侵す。
「姉上、お帰りなさい!
……どうでした、か………」
過去を一つ一つ振り返って涙ぐんでいた。
馬車から降りてもひっきりなしに頬を伝う涙を指先で拭っていると、意気揚々と期待に満ちた表情でアレクが出迎えてくれた。
だがカサンドラの様子を一目見て察し、アレクは文字通り絶句した。
大きく見開いた蒼い双眸が揺れ、生唾を飲み込む音が聴こえる。
「姉、上?」
「アレク。
貴方に伝えておかなければならないことがあります」
出来れば何も言わないまま、察して欲しい。
口に出したくないから、アレクの持ち前の空気を読む力でカサンドラの現状を理解し、この言葉の先を言わせないで欲しい。
そんな我儘が脳裏を過ぎったが、これはアレクにも大きく関わることだ。
自分の口からちゃんと伝えなければ。
「わたくしは王子ご本人に婚約を解消するよう申し出、王子もそれを受け入れて下さいました。
今後先方から連絡があるでしょうから、覚えておいてください」
「え? え?」
彼は意味が分からないと言った様子で挙動が不審になる。
冗談ですよね、と口元を引きつらせた。冗談だったらどれだけ幸せな事だろう。
あまりにも急転直下。
状況を即座に理解できなかったアレクも、カサンドラの憔悴しきった表情と目の縁に溢れる涙の粒が前にある。
決して冗談などではなく、本当に婚約解消を申し入れたのだと分かったのだ。
みるみる内に顔を蒼褪めさせ、何度も頭を横に振る。
「姉上、どうして……」
旅行に出立する日は、王子に告白するのだと意気揚々と宣言し、気炎を上げていたカサンドラ。
それが帰ってくればこの有様だ。
何があったのかと聞きたくなるのも当然の話だろう。
思いが通じなかった、チャンスが無かった、はぐらかされた――というだけならまだしも。
いきなり一足飛びに婚約解消なんて、いくら賢い少年でも想定外の出来事だったようだ。
「後で必ず説明しますから。
お願い……今は何も聞かないで」
自分の部屋に戻って、ようやくカサンドラは声をあげて泣くことができた。
隣の部屋の生徒に気づかれてはいけないと旅行先では必死で押し殺していた嗚咽。
ああ、自分はこんなに悲しかったのか。
皆の手前、感情を殺して普通に振る舞ってきた。でも心はずっと悲鳴を上げて、辛い痛いと訴え続けていたのだ。
年甲斐もなく、泣き喚いた。
どうせ明日は休みだ。
ぐちゃぐちゃの顔になっても、会う人なんかいない。
好きな人との予定など永遠に来ない。
一人寂しく、誰とも会わない休日を過ごすだけなのだから。
心に空いた大きな風穴を埋める方法など、今の自分に思いつけるはずもなかった。
アレクに説明しなければいけないと思うものの、どうしても口は重たくなる。
今まで王子へのアピールのため、何かとアレクには迷惑をかけてきた。
彼には協力者として、姉の恋路の行く末を知る権利がある――と、それは重々承知している。
だがまだ、あの日の王子とシリウスの会話、その後の王子への相談の流れを素面で説明することは難しかった。
どれだけ淡々と、と意識しても泣き出してしまう自信がある。
都合よく記憶喪失にでもなれればいいのだが、忘れるどころかより一層鮮明にくっきりと。
まるで脳内に焼き鏝で刻み込まれた刻印のようにあの日の出来事が思い起こされるのだから堪らない。
簡単に言えば失恋。
でも事はそれだけでは済まない、その事実もカサンドラの心を重たくする要因でもあった。
レンドールの家族に王家との縁談を壊してしまって迷惑をかけてしまった事。
父やアレクには詳細な経緯を話さなければいけないだろうが、間違いなく負担をかけてしまう。
また、王子の傍にいられないことで――今後一切、王子を”シナリオ”から守るよう働きかける事が出来ないという事。
カサンドラが婚約者を辞退したことで彼の悪魔化のフラグが折れて、憑き物が落ちたように事件が起こらず未来が変わったという可能性もあるけれど。
そうであればいいが、楽観視し過ぎな気もする。
どのみち彼が事件を起こすか否か、その時になるまでカサンドラは結末を知りようがない。
自分の選択が正しかったと願うしか出来ない、無力。
ああ、デイジーにショックを与えることになるだろう。
自分を王子の婚約者だから、未来の王妃だからと信頼して任せてくれたアイリスにも申し訳ない。
それに……主人公の三つ子達に今後どうやって接すればいいのか。
どんな顔をして「王子の婚約者ではなくなりました」と告げれば良いのか、まだシチュエーションを想像も出来ない。
王子に解消を申し出た事は一時の勢いだけではなく、考えた末の行動だ。
しかし事が極まった以上、自分の行動の余波が自分以外にも間違いなく及ぶとなると、しでかしたことの責任をきちんと取らないといけない。
王子は出来るだけ波風が立たないように婚約を解消すると言ってくれたが、簡単なことではないだろうな。
簡単な事ではない面倒な手続きや説明を請け負ってでも、婚約をなかったことにしたいのだという王子の確固たる意思が伝わってきて、また涙目になりそうだ。
……表面上は何の変哲もない旅行前と変わらない日常が続いている。
既に分かっていたこととはいえ、クラスメイトと変わりない、いやそれ以下の王子との接触率でも誰も不審に思わないのだ。
学園生活では本当に接点が無かった、デイジーも上手くいっているのかと心配して手を回したくなるだろう。
実際は学園外で仲良くしている――と納得してもらっているので、カサンドラか王子が互いに心にもない笑顔で挨拶を交わせる状況なら変化もない。
まだギリギリ書面上は婚約者かも知れない。
それが白紙になれば王子の態度は変わるのだろうか?
……いや、彼の事だ。きっと『今』と変わりはしない。
自分は彼にとって、一体何だったのだろう。
※ ※ ※
水曜日、気づけば生徒会室傍の中庭に足を運んでいた。
半ば無意識に、見えない何かに吸い寄せられるようにふらふらと。
奥に三段の噴水を有する人気のない静かな中庭。
こちらの棟には生徒会室や医務室くらいしかないので、一般生徒の姿が殆ど見えない場所だ。
昼ならともなく、放課後にここにくる生徒など生徒会関係者だけと言っても良い。
「……。」
誰もいない、無人の中庭。
水曜日の放課後は王子と一緒に話をする時間だった、習慣として覚えていたのか。
もしくは、もしかしたらここに王子がいて『考え直してほしい』と声を掛けてくれるのではないかと微かな期待があったのか。
――無意味だ。
誰も訪れる気配のない場所。
当たり前の話なのに、胸が締め上げられるように苦しい。
ぎゅっと手を握りしめる。
僅か数分のこともあったけれど、いつも会えるのが楽しかった。
王子と話が出来る時間が一週間で最も幸せな時だった。
話したことはずっと覚えている。彼の価値観に触れて感銘を受けた事も、時に身近に感じたことも。
舞踏会のドレスの要望を聞けた時の事。
休みの日にどこに行きたいか聞かれた事。
……幸運にも寝顔を見る事が出来、心臓が止まるかと思った事。
図鑑の蜘蛛を凝視していて、ちょっと引かれかけた事。
全部が全部、気が乗らない王子にとっては思い出したくもない出来事かもしれないが。
カサンドラにとっては、大切な思い出だ。
未練がましく中庭を凝視していてもしょうがない。
はぁ、と重い吐息を落とし現実に打ちのめされ、踵を返して帰宅の途につこうとしたカサンドラだったが……
「カサンドラ?」
ふと正面に向いた時、バッタリと男子生徒とかち合ってしまった。
しんみりと郷愁に浸っていたところを見られたのだろうか、恥ずかしい。
「ごきげんよう、ラルフ様」
王子と同じ金色の髪、どこか彼と外見が似通っていると思わせる攻略対象の中では「王子様ポジション」だった男子生徒のラルフだ。
「生徒会室にご用事ですか?」
そう尋ねながら、カサンドラは気づく。
今まで自分が生徒会の役員でいられたのは、王子の婚約者という立場があったからだ。
婚約が解消されれば解任の憂き目にあうだろう。
地方の侯爵令嬢より、役員に相応しい生徒は他にもいるわけで。
王子と一緒にいるのも気まずいのでそれは良いのだが……
次の役員への引き継ぎのこともある、資料を作らないといけないのではないか、と。
明日か、来週か、来月かは分からないが早々に解任されるとすれば準備を開始しなければいけない。
……もう、生徒会室に訪れることもなくなる。
当然王子の友人であるラルフ達に頻繁に顔を合わせる機会も失せ、この物語で役割を失った
王子との婚約が上手くいかなかった令嬢だと、陰でヒソヒソ笑われながら。
「少しね、生徒会室というよりはサロンに用がある。
――途中まで作っていた曲の続きを弾きたくなってね」
ああ、以前も同じようなことがあったな。
音楽関係に造詣が深く、素晴らしい演奏を披露してくれるラルフ。
サロンに運び込んで設置したピアノは、ほぼ彼専用のようなものだ。
「……ラルフ様」
「何だ?」
もう生徒会にも出入りは出来ない。
ラルフと普通に会話をする機会も失われてしまう。
「わたくし、あの曲の続きを是非お聴きしたいです。
……聴かせて下さい!」
彼の演奏を偶然耳にするという機会もなくなると気づいて、カサンドラは普段ならとても言えないような事を口にした。
寂しかったのだ。
自分が今までいた場所が、他の誰かものになってしまうということが!
王子の婚約者として自分以外の誰かが!
王子と一緒に時を過ごし、ラルフを始め生徒会の一員として親しくするのだろう誰かの事を想像すると辛かった。
王子の事も大好きだが他の生徒会のメンバーもカサンドラは好ましく思っていた。
緊張する相手ではあったけれど、王子との仲の良さに嫉妬しそうなこともあったけれど!
……彼らの内情を知る身として、いや、実際に彼らと一年間接して魅力的な人たちだと思い名残惜しい。
王子の婚約者として、カサンドラは不満だっただろうに疑義を差し挟むことなく、ここまで様子を見てくれた。
フェアな人達だと知っている。
「………まだ未完成で、聴くに堪えるものかどうか保証は出来ない。
どうせなら、自分が納得できたものを聴いてもらいたい」
「いえ! もう次の機会はないと思いますから。
不都合がないのでしたら、是非……!」
「……???」
わけがわからない、とラルフは怪訝そうに眉根を寄せた。
どうせすぐに事情は知れる。
それに彼だってこの結末を望んでいたはずではないか。
いや、何なら既に彼が知っていてもおかしくない。
敢えて何も知らないふりをしているだけかも。
完全に人間不信気味な思考に歪んでいる事に、自分でも気づけないままだった。
皆が自分を騙し、裏で笑っているのではないかという被害妄想に支配される。
「わたくし、王子の婚約者ではなくなりました。
じきに役員を解任されるはずです。
その前に、是非――」
彼はポカンと口を開け、たっぷり十数秒は沈黙した。
「――はぁ?」
真夏に雪が降っても、大地が赤に染まる雨が降っても。
ここまで不審がる様を表情に出したラルフを見る事は出来ないだろう。
彼の鋭い視線を正面から受け、その圧に身体がぺしゃんこに潰れてしまいそうだった。
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