第327話 仮定妄想
頭が割れるように痛い。
カサンドラは皆が歓談を楽しんでいる一階フロアに降りる気にもなれなかったので、自室に向かって歩いていた。
ふらふらと、まるで夢遊病者のような足取りだ。
この心神耗弱ぶりでは、仮に三階にいた姿を発見されても「間違えた」と言えば納得してもらえたに違いない。
それくらいの憔悴感を纏っている。
鏡を見ずとも、自分の顔が真っ青でさぞやボロボロ状態なのだろうと分かってしまう。
幸い誰ともすれ違うことなく、カサンドラは自分にあてがわれた部屋へと辿り着く。
一番最奥の部屋だから間違いようもない。
――ガチャガチャと何十回もドラノブを回し続けている。
そう言えば鍵が掛かっているのだと思い出し、ポケットを探る動きもまるで幽鬼のような緩慢な動作であった。
突きあたりの壁には填め殺しの窓が設置されており、すっかり暮れてしまった夜の静けさを否が応でもカサンドラに見せつける。
「…………ぅ……」
夕食に食べたものを吐きそうになり、カサンドラは痛みを訴える胃の腑辺りを押さえて寝台の上に飛び込んだ。走ったわけでもないのに、ぜぇぜぇと息が荒くなる。
軋むスプリングの音、肌触りの良いおろしたてのシーツの感触。
明かりもともさず、寝台の上に横たわっている自分。
実は夢だった、なんてことはないだろうか。
あのシリウスが自分にあんな大胆な方法で真実を聞かせるなんて、普通に考えたらありえない。
しかし、耳の奥にこびり付いて離れない王子の静かな声が現実だと逐一思い知らせて来るのだ。
夢オチは嫌いだ。
でも今なら許せる。
他に話し相手がいるわけでもないのにそんな益体もないことを呆然と考えている。
窓の下から、生徒達の楽しそうな笑い声が聞こえる。
カサンドラの部屋の真下は遊戯室だった、きっとダーツやらビリヤードやら皆楽しんでいることだろう。
自分のしてきたことが全て無駄だった事への衝撃は筆舌に尽くしがたい。
全て己の都合の良いように考えて夢を見ていただけだ。
彼の掌の上でクルクル回っていただけだと思うと情けなくてしょうがない。
前に進んだと思っていたのは自分だけ。
あの優しい微笑みも、言葉も、態度も、全部彼の作り上げた幻だったのだ。
……そうだ、彼はそういう人だとゲームで遊んでいた時に散々思ったではないか。
裏ではあんな恐ろしい事件を幾度も起こしているというのに、全く様子が変わる事がなかった。
この笑顔の裏で攻略対象――友人たちを罠に填めたり陥れようとするなど、普通は出来ない。
そうだ、人の心が無い人なのだ……
フフ、と力なく笑った。
実際に会った王子は普通の優しい人間で、善人どころか聖人のように思えていた。
記憶を思い出す前から一目惚れしていた外見は好きになるきっかけに過ぎず、彼の中身を好きになっていたつもりだった。
まさかそれが、シリウスのアドバイスによる演技だったとは。
――欺くための努力の結晶だったなんてお笑い
皮肉なものだ。
乙女ゲームで遊んでいる時、「このキャラは好みじゃないけど隠しキャラのためには攻略しないと」なんて義務感で主人公に行動選択をさせて――
プレイしている自分は好きでもなんでもないけれど、
そんな数え切れない腹黒プレイだの、それこそ誠実さの欠片もない逆ハーレムエンドのあるゲームを楽しんでみたことだってあった。
思ってもいないことだって、割り切ればそのように振る舞える。
目的のため、そういうゲームなんだから。楽しんだもの勝ちだからと。
ゲームの中の人物だって、きっと真実を知れば今のカサンドラのように絶望するだろうに。
良心の呵責なく、ゲームだからと”割り切って”遊んできた前世が――ゲームの世界に転生し受ける正当な罰だとでも言うのか?
主人公である三つ子達が真剣で脇目も振らず、本当に恋をしている姿を間近にしていたから思いもよらなかった。
恋愛を根底に構築された世界に、偽りの”想い”が混在しているなんて俄かには信じがたい。
思いもよらなかった……?
……ああ、それは嘘になるか。
薄々は気づいていたけれど、見ないふりをしていただけだ。
ずっと、見えない壁があるような距離を感じていた。
自分に余り話しかけない理由だって、ただの言い訳に過ぎない。
喋りたいなら喋れば良い、好きなら好きだと言えば良い、彼が自分の事を好きだと思っていてくれたら、彼を縛るものなど何もなかったはずだ。
悲しい。
虚しい。
これから先どうしたらいいのか分からない。
本当に……悔しい。
こんな風に彼の本心を知ってなお、それでも彼の事を好きな自分が。
もしかしたら、万が一、という希望に縋りたくなる往生際の悪さ。
興味はないかもしれないけれど、嫌われているわけじゃないんだよね?
……そんな可能性に縋りたくなる自分は、惨めだと思った。
あのシリウスが見るに堪えないと動いてしまうくらいには、事情を知る者からはさぞ滑稽に映っていたことだろう。
滑稽を通り越して哀れまれてしまった。
コンコン、と自室のドアを叩かれて寝台から跳ね起きる。
身が竦んで、両肩が震えた。
誰だろう? 固唾を呑んで、扉の先の人物が言葉を発するのを待つ。
「――カサンドラ様、ご在室でいらっしゃいますか?」
心配そうなデイジーの声に、ふっと緊張が解ける。
油断したら彼女に泣きついてしまいそうだ。
シーツを握りしめ、無理をして声を張った。
「申し訳ありません、少々疲れてしまいました。
どうか今日はこのまま休ませてください」
「そうですか……
お大事になさってください。
明日からが本番ですもの」
出来る事ならこのままこっそり屋敷から抜け出て、家に帰りたい。
王都の別邸ではなく、惨めな自分の事を知らないレンドールへ帰りたい。
※
深く眠る度に、王子の言葉が夢の中に出てきてカサンドラを追い詰める。
身体も心も疲れ切っているのに熟睡することも出来ず、薄く浅い眠りを短い間隔で繰り返し――気づいたら朝だった。
どんなに寝不足で疲労困憊でも、流石に全く皆の前に姿を見せないわけにはいかない。
目の下に出来た隈を使用人の化粧の腕で誤魔化してもらいつつ、カサンドラは一階フロアに向かう。
多くの生徒が昨日と同じ席に着いており、当然王子達も椅子に座って普段通りに話をしている。
「おはようございます」
ジェイクやラルフに挨拶を返されると少しだけ”昨日の事は夢だったのでは”なんて夢オチの期待が湧いたのだが。
……シリウスがこちらを一瞥した時、彼の何とも言えない無表情に徹しようとする態度が期待を打ち砕く。
「おはよう、カサンドラ嬢」
同じテーブルの席だが、二人分離れた席に座る王子も普段通りに声をかけてくるものだから心臓が止まるかと思った。
王子は昨日シリウスの部屋にカサンドラがいたことを知らないのだろうから、態度が変わるわけもない。
入学してからずっと見ていた彼の笑顔にこの期に及んでドギマギしてしまう。
「……おはようございます、王子」
「昨日は体調が優れなかったと聞いたけれど、今は大丈夫かな?」
心配そうに尋ねてくる彼に、いつも通りいつも通り、と心の中で念じながらカサンドラは着席する。
「お気遣いありがとうございます。
馬車に乗っての長距離移動が久しぶりでしたので、どうやら酔ってしまったようです」
「おいおい、そんなに酔いやすいならワインとか飲むの止めておけよ?
酔うと辛いって聞くしな」
正面に座るジェイクはこちらの顔色を見て驚き、間髪入れずにそう忠告してきた。
「山道の馬車酔いとお酒の酔い方は全く別物だろう。
……まぁ、ジェイクはどちらも経験がないから分からないかもしれないけれど」
ラルフは眉を顰めてジェイクに軽口を向ける。
「どっちも同じで、気持ち悪くなるんだろ?
大変だよなー、酔いやすい奴は」
完全にザルだのワクだのという酒飲み体質の彼には、車酔いも酒酔いも一切無関係なことらしい。
だがよっぽどカサンドラの様子が不穏だったのだろう、からかうわけでもなく本心から心配してくれてるようだ。
「そうだね、折角の機会だけれど今日はワインを口にしない方が良いと思うよ。
明日、体調が良ければワインセラーにある一番良い銘のワインを開けてもらうようにしよう」
王子の声のトーンも昨日までと何一つ変わらない。
本当はカサンドラの事など心底興味がないしどうでもいいのに、婚約者が体調不良で声を掛けないのはおかしいから気遣っている素振りを見せている。
そう自分を戒めないと、彼が自分を心配してくれたと今に至っても喜んで浮かれてしまいそうだ。
「お、快気祝いって感じか? いいな、それ」
ジェイクは手を打ってその意見に賛成する。ボールズの所有する最高のワインなんてどれだけ美味しいのだろうか、想像もつかない。
酒に酔うことはないのに、酒好きなのか。
純粋にアルコールが好きなだけだと思うが、世の中には色んな人がいるものだ。
朝食に出されたパンをちぎりながら、カサンドラは今後の事を考えていた。
このような結果になってしまったけれど――
じゃあ王子がこのままゲームのシナリオ通り悪魔に乗っ取られ、ラスボスとして多くの人を傷つけ”成敗”されてもいいなんて思えない。
絶対に嫌だ。
例え彼が自分を好きになってくれなかったとしても……
カサンドラはどうしようもなく彼の事が好きだ。
今まで接した王子の言動の中にはカサンドラを宥めるための”演技”が入っていたのだろう。
でも本当に嫌なら、彼はカサンドラと関係を悪化させてでも無関心を装えばよかったはずだ。
昨日は人の心が無いないんて恨みがましい想いを向けてしまったが、それは違う。
カサンドラを傷つけないよう、最低限の婚約者としての振る舞いを彼の善意で行ってくれていた。
本当に人の心が分からず踏みにじれる酷い人なら、気に入らない婚約者を追い詰める方法などいくらでもあったのではないだろうか。
それこそ彼の周囲にはいつも味方になってくれるシリウス、ジェイク、ラルフ達がいる。
昨日の王子は殊更偽悪的な言動をとっていたが、少なくともカサンドラを積極的に傷つけてやろうという意図はなかったと思う。
きっと彼も感情の板挟みにあって辛かったのだ。
心にもない事でも、それを言わなければカサンドラを傷つける、と彼なりに必死だったのかもしれない。
けんもほろろな対応をとったり他に好きな女性がいるだのという態度でカサンドラに嫌われようとする方法をとるでもなく、あくまでも紳士的に今後を見据えた関係構築を優先した。
とても冷静で、演技があったとしてもカサンドラは――確かに真実を知るまでは、幸せな時間を過ごすことが出来た。
……彼を恨むなんてとんでもない、筋違いだ。
好きになったのだから好きになれなんて、そんな馬鹿な話はない。
彼はやはり優しい人なのだ。そう思う。
今まで彼と接してきた思い出を振り返って、その全てが紛い物の感情だったとはどうしても信じられないのだ。
カサンドラという彼にとって『邪魔』な存在でも、婚約者らしく接してくれた――
そこまで考えた瞬間、カサンドラは落雷に打たれたような衝撃を受けた。
もしかして。
もしかして……
『カサンドラ』が、王子がラスボスになる原因だった?
そんな発想は、あり得るか?
物凄く突拍子もない想像であった。
だが王子の心情や置かれた状況を加味して改めて考えると……
王子はシリウスの助言に従ってカサンドラのいわゆる『ご機嫌』をとってきた状態である。
親の強権によって地方貴族の令嬢を婚約者にあてがわれ、その上で優秀な人間であれと命じられ。
ただでさえ自己研鑽などに忙しいのに、好きでも何でもな婚約者に時間を割かれさぞやストレスを感じていた事だろう。
……そんな時……
親友が、本当に素敵な恋愛をしている姿を目の当たりにしたら?
王子がいかに友人想いでも、嫉妬や何故自分ばかりが、という不満を覚えないとは言い切れない。
常に高潔であろうとすればするほど、抑圧されていた想いが……
ふとした契機に、悪魔を呼び寄せてしまったと考える事は荒唐無稽な話だろうか?
皆どうせ政略結婚するのだと自分に言い聞かせていても、主人公と攻略対象が物凄く順調で幸せそうで甘酸っぱい恋愛模様を繰り広げていたら?
そして他の友人は親にちゃんとした後ろ盾のあるお嬢さんをあてがってもらい、将来に何の憂いもない状態で。
どうして自分ばかり
そう思わないと誰が断言できるのか。
きっかけは些細なことでも、王子が蟠りをもって学園生活を過ごしていることが……
最悪の『形』になったものが、シナリオ最後の彼の姿だとしたら。
スープをすくうスプーンが震え、黄色いポタージュに小刻みな波紋を生み出す。
こんな想像は王子に対して失礼だ。ただの降って湧いた妄想に過ぎない。
勝手に彼の今後や想いを予想し、彼を貶めているだけだ。
そう思って振り払おうとするのに、目の前にちらついて離れてくれないのだ。
一度そうかもしれないという思い込みに捕らわれると、止まらない。
何せ正解など誰も知らないのだ、嫌な仮定を完全に否定するだけの根拠などどこにもない。
今まで何度も、想定される最悪の事態を希望的観測で塗り替えてここまで来たように。
希望が絶望に変わった瞬間の悪循環は簡単に歯止めが利かなかった。
不自由や不公平を強いられる”現状”が回避出来たら、彼は……
もしかしたら悪意の種をその身に宿すこともないのではないか?
最後の最後まで王子が何も語らず斃されてしまったのは、個人的な醜い感情を誰にも知られたくなかったから?
ポッと湧いて出た仮定の話で、辻褄が合っているとは言えないけれど。
でも可能性として排除していいのだろうか。
実は自分こそが、彼の不幸の原因だったなんて笑えないんですけど。
嫌だ。
そんなの、考えたくない。
でもこのままでは八方塞だ。
いかなる状況であれ、カサンドラは王子にシナリオ通りの結末を辿って欲しくない。
彼のために出来ることがあるなら――
王子本人に気持ちを問いただしたところで何か変わるのか?
シリウスが言うように、カサンドラを傷つけないよう配慮された言葉が返ってくるのだろう。
そこに本心があるとは思えない。
では 自分がとるべき行動とは 。
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