第326話 残酷な気遣い
カサンドラは僅かな逡巡の末、シリウスの後についていくことを決めた。
一体彼が何を知り、どんな核心を得ているのか知りたい。
ただの彼の独りよがりな所見なのかも知れないし、何かしらの根拠を示した話を聞かせてくれるかも知れない。
階段を上る彼の後ろを、何とも言えない微妙な表情のままカサンドラは着いていく。
彼の足取りに迷いはなく、さっさと急ぎ階段を上っていく彼に遅れないようカサンドラも急いだ。
館は三階建てだ。
生徒達は皆二階の客室を個室としてあてがわれ、荷物を置いている。
が、シリウスはその二階フロアを一瞥することもなく、更に階段を上がっていった。
三階には近づかないよう言われていた理由が分かる。
このフロアには館主の主寝室だけではなく、王子やシリウス達にあてがわれた部屋が並んでいるからだ。
階段を上ってすぐの部屋の前で立ち止まったシリウスは――鍵を開けてその中に入っていく。
まさか自分もここに入れと言う事かとカサンドラは冷や汗を流す。
いくら人に聴かせられない話とは言え、彼の客室で二人きりという状況は非常にまずいのでは?
だが彼が小声で「入れ」と躊躇うカサンドラを促してくるものだから、判断力が鈍る。
王子の真意が知りたいか知りたくないかと問われれば、勿論知りたい。
それを彼が教えてくれると言うなら、少々の危険を冒してでも話を聞く価値はあるのではないか?
カサンドラはそう考え、一度大きく喉を鳴らした後彼の言葉に従った。
シリウスの客室はカサンドラ達に用意された部屋より広い。
調度品の質も何ランクも違う、まさに貴賓のために用意された特別な客室だった。
彼は戸惑うカサンドラを後目に、部屋の奥――大きなクローゼットを両手で開く。
そしていつもの無味乾燥な表情と口調で、とんでもないことを言い出した。
「お前はここに入っていろ」
「え? こ、ここって……」
まさかそのクローゼット??
彼のトランクが横向きに置いてある。
奥行きのあるクローゼットは確かにカサンドラがかくれんぼをするなら真っ先に隠れ場所として選ぶところだと思うが。
まさかそんな……?
「間違っても変な声をあげるなよ」
彼の目は本気だ。
こんなところに誰かが潜んでいるなんて普通は思わないだろう、物音さえ立てなければ――いやいや、
動揺するが、シリウスは本気のようだ。
もしもこの指示に従えないのなら、話は聞かせられない、と。
カサンドラは勘違いしていた。
彼の口から、王子の真意、思っている事を聞かせてもらえるのだとここまでノコノコついてきたのだけど。
シリウスは『聞かせてやる』と言った。
まさか……王子を、ここへ……?
本来いるはずのないカサンドラへの評価を文字通り当人の口から聞かせるつもりだったのだ。
誰かの思考を介していない、王子当人の口から。
誤魔化しも何もない、素の評価を……
お茶を濁されることもない
適当な言葉ではぐらかされるわけでもない
それはとても怖い事だ。
足の先から身体が冷えていく。
このクローゼットに入り、身を潜ませて耳を凝らせば……
飾りも
聞きたくないと耳を塞ぎたい、足が竦む。
でもこれこそが自分の望んでいた事ではないのか?
彼が自分をどう評価し、信頼してくれているのかを知るこの上ない機会ではないか。
ぽっかりと暗い口を開けたクローゼットの前。
色んな勇気と覚悟を総動員し、乗りかかった船に乗るべく一歩を踏み出した。
思わせぶりなシリウスの態度、言動。
こんな協力の仕方。
良い結果が訪れるわけがない事が約束されたようなものだ。
耳を塞ぎ、逃げるべきだ。
でも頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回されたように混乱し、正常な判断が出来ない。
こわい。
※
クローゼットの中に閉じ込められ、何分が経過しただろう。
緊張の糸が切れてしまう程、ぼーっと一人で膝を抱えて身体を丸めていた。
客観的に自分の現状を視認したら、不審者以外の何者でもないと顔が青ざめる。
でもカサンドラはシリウスがどういう人間かをよくよく知っていた。
誰かを陥れるために、こんな風に騙すような真似をする人ではないと。
彼は彼の思う事、信念があってカサンドラに声を掛けたのだろう。
だってこの状況はシリウスにもリスキーだ。
親友である王子の婚約者を自分の部屋に連れ込んだなんて噂が立てば、彼が失うものも大きいだろう。
……それを覚悟の上でカサンドラに声を掛けてくれた。
王子の真意を知る機会を与えてくれたのだ。
――信じよう。
王子の声が聴こえる。
真っ暗で狭い、何も見えない空間。薄いクローゼットの扉の向こうで、王子とシリウスが話をしているのだと思うと息をすることさえ躊躇われる。
身じろぎも出来ない暗がりの中、カサンドラは息を潜めて彼らの会話に全神経を集中させた。
よりにもよって、普段自分に関わりを持とうとしなかったシリウスが――一体自分に何を聴かせるつもりなのか。
鼓動の音が王子に届くのではないかとドキドキする。
だが広い部屋の奥、本来人が潜んでいるはずのない空間にカサンドラが待機しているなんて想像さえしないことだろう。
音さえ立てなければ大丈夫だと、カサンドラは更に息を詰めた。
万が一、今見つかるのはヤバい。
見聞旅行の自由行動中、シリウスの客室に潜む女子生徒……そんな事実が明るみになってしまえば、自分の人生が一発で終了してしまう。
まさかこれはシリウスの高度な罠だったのではという猜疑心が生まれたが、既に事は成ってしまった。
王子に見つからないよう、隠れていることしか出来ない。
シリウスが言動を撤回して裏切ってしまわないことを祈るのみだが……
「どうだった、あいつは」
シリウスの普段通りの声が耳に触れる。
どうやら今の今、カサンドラを王子の前に突き出すなんて人でなしな行動をとるつもりはなさそうだ。
「……どう、と言われてもね……。
特にコメントする必要は感じない、普通の男性だったように思うけど」
「成程、お前の目から見て論ずるに値しない人間ということか。
……そろそろ子爵も代替わりを検討してるようだが、あの長男は少々不安があるような口ぶりだった。
まぁ、少なくともあいつは他人の目を誤魔化して何か大層なことをしでかせる人間ではないだろうな」
「貴族は皆陰謀論者だと言うのは偏見だと思うけれどね、つくづく」
「いや、何。少々きな臭い話を聞いたものでな。
シリウスはカサンドラの存在など一切忘れたかのように、それからしばらく爵位剥奪の憂き目を見たドゥーエ家の話を続ける。
まさに人様の前では出来ない話、出来ればカサンドラも忘れた方が良いのかもしれない。
「ところで、アーサー」
「何かな、いい加減一階に戻った方が良いと思うけれど」
相槌を打つだけで、あまり率先して話をしない王子。
会話に一息ついた段階で、シリウスは声のトーンを更に落として別の話を振った。
唐突というよりは小難しい話に若干倦んだ様子の王子への話題転換として提供したとも言え、王子も少しホッとした様子でシリウスの余話に乗った。
この話が終わったら、皆のところへ戻ろうと言う意志を明確に見せた。
長い間王子が不在では、一階の生徒達も不審がるかもしれない。
「お前の婚約者の件だが」
ぞわっ、と全身が震えた。
不意打ち過ぎて声が漏れそうになり、慌てて口を両手で閉じる。
ここにカサンドラがいることを知られるわけにはいかないのだ。
「彼女が、何か?」
「先ほど一階で捕まってな、お前はどこにいるのかとしつこく聞かれた」
それはそれは、うんざりとした声だ。
まさにシリウス当人としか思えない特有の――辟易した声。
恐らく本心からの言葉なのだろう。
そんなにしつこく聞いた覚えはない。飛び出して訂正したい、そんな不名誉な話に頭を掻きむしりたくなった。
「……そう、か」
「良心が痛むか?」
すると――……
この、大きな溜息は誰のものだろう。
シリウスのものにしては……
「君の助言を参考にしてきたつもりだ。
今以上、私に出来る事は無いと割り切っているよ」
……これは 誰だ。
王子の声と瓜二つの人間をここに連れてきて入れ替えた、シリウスのドッキリなのかと。
そんな荒唐無稽な妄想に縋りたくなるくらい、クローゼットの外はカサンドラにとって受け入れがたい世界が広がっていた。
「掌の上で踊らせておけばいいと言ったような気はするな」
「適当に対応して、良い気分にさせておけばいいと言ったのは君だろう?
今になって君が良心を問いただして来るなんてね、心外だ」
「お前にとっては親に強制された望まぬ縁談だからな。
まぁ……
あれでも親の決めた婚約者だ。無意味に嫌われるより好かれた方がいいのではないか、と進言したまでだ。
まさか、ここまでお前が徹底するとは思わなかった。演技は
「酷い言われようだ、私だって思う事は沢山ある。
父上の独断で、私一人が割を食った形になった事に変わりはない。
中央の後ろ盾を持った妃を得られなかったのは、私にとって大きな痛手だ。
婚家の後援を得られない以上、私は独りで王として立つだけの能力を求められているわけだから」
「アーサーの境遇には同情している。
相談を受けた時は、良い噂の一つも聞かない相手でもあるし――
適当に気のあるフリでもしておけば円満に事が進むと軽く考えていたことは認める」
「私は婚約者と上手く付き合えという陛下の要求に応えてきたという自負がある。
正直に言えば、面倒だし、しんどい。
彼女の機嫌を損ねないよう、意に添う行動をとらなければいけないわけだから」
「それが、な……
今になってお前に適当な助言したことを後悔している」
「今更?」
「反感を持たれて破談になっても困ると言う以上、お前に対する好意を利用するのが一番簡単な話だ。
何、浮かれた”恋愛ごっこ”が出来るのなら彼女も本望だろうよ。
……ああ、あの時はそう思っていた」
「……。」
「時が経つにつれて自分の言動に後悔の念が湧いてきてな。
……彼女は、私が思っていたような人間ではないのではないか、と。彼女に対する風評は何かの間違いだったのではないか?
百聞は一見に如かず。――実際は良識を持つ真面目な人間だと考えたら?
お前の言動の一つ一つに浮かれて踊らされる姿は、到底見るに堪えない。
……人の真剣な感情を、私は少々甘く見ていたようだ」
「ここまで来て”誠実に”――なんて対応はとれないことは分かっているだろう?
今までの言動すべてが思ってもない事だったなんて告白したところで、私に何の得が?
折角良好な関係を築けているのに。今までの私の苦労を何だと思っているのかな」
「人の気持ちを弄ぶような真似をさせたキッカケは、お前の言う通り私かもしれない。
が、彼女が可哀そうだとは思わないのか?」
「さぁ……
私も出来る事なら、この婚約話は無かったことにして欲しい。
だけど私から一方的に破棄するなんて、父上の決定がある以上不可能。
彼女から解消や破棄を通告してくれれば助かるけれど、相当非現実的な話だろうね。
それを踏まえた上で今現在、波風も立たず過ごせているのだから……
彼女にとっても現状維持が望ましいのではないかな」
「お前はカサンドラの事をどう思っている?」
「………。
他に選択肢がない以上、深く考えないようにしているよ。
対応が面倒で重いと言ったところで、何かが変わるわけでもない。
単に、私が関心を持てないというだけだから。
こればかりは、ね……」
声が遠ざかっていく。
聞き取れないくらい、遠く。
「誠実であることが、お前の取り柄だと思っていたがな」
「――――――。」
王子の声が、聴こえない。
いつの間にかカサンドラの両手は、口ではなく耳を塞いでいた。
※
「……ラ。
カサンドラ」
誰かが自分を呼んでいる。
呆然としていた自分に白く眩しい光が射しこんでくる。
暗い場所に慣れてしまったせいで、目を細める。
「………あの……ええ、と……」
焦点が定まらないカサンドラに対し、彼はあくまで無表情に接しようとする。
微かに憐憫の情を纏わせながらも、クローゼットの中に隠れていた自分の腕を引っ張った。
よろめきながら、震える足を絨毯の上に着ける。
あれからどれだけ時間が経ったのだろう。
部屋に王子の姿は見えない。
「私は先に一階へ降りる。
鍵は掛けなくても良い、早く自分の部屋に戻れ。
分かっているとは思うが、誰にも見つからないようにな」
部屋に戻れ、か。
そうだ。
こんな顔では、誰にも会えない。
自分でも感情が制御できないのだ、ポロポロ、ポロポロ、流れ落ちていく涙を止められない。
何も意味もなかった。
あの思い出は、あの笑顔は。
何も、無かった。
あるのは、無。虚無だ。
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