第323話 <リゼ>
リタの様子が気になる事は確かだ。
彼女が自分の理解の範疇を越える反応をすることは多々あれど、今回ばかりはあまりにも常軌を逸した反応だと思う。
あんなにいつもラルフのことで逐一大騒ぎして鬱陶しい程だったのに、今に至っては全く無関心であるかのように装っているのだ。怪しい事この上ない。
……ある程度の確信は得ているものの、あまり首を突っ込んだり確認するために詰問しようという気にもなれない。
無関係の自分まで巻き込まれてしまっては堪ったものではないからだ。
詳しい事情を聴いてスッキリしたいという想いは強いが、藪をつついて蛇を出すような事態になっても面白くない。
……正体不明の貴族令嬢リリエーヌ。
一体どこの
※
今は、日曜日の昼下がり。
リゼはフランツに声を掛けられ、ロンバルド邸――の最北、建物などが並ぶ敷地の外の乗馬の訓練を続けている。樹々が鬱蒼と茂る森を抜けた奥だ。
まだ朝は息を白く凍らせるような寒さだが、陽が高く昇れば身体を動かしていることも手伝ってポカポカ状態だった。
「よーしよし。
大分カンを取り戻してきたな」
フランツが紐で牽く栗毛の馬に跨がって、リゼは湖の外周をゆっくりと回る。
固い表情で手綱をぐっと握りしめているのは、落馬が怖いから。目を血走らせ、前傾姿勢で衝撃に備えている。
馬とのファーストコンタクト時、リゼを見た馬が暴れて振り落とそうとしてきたことが忘れられない。油断したら吹き飛ばされるのではないかと殊更慎重になってしまう。
学園行事の旅行日程が近づいている。こんなことで怪我をして参加見送りなんて事になったら目も当てられない。
フランツから訓練の誘いがあった時は一も二もなく飛びついたが、いざこうやって馬上で地面を見下ろしていると冷や冷やものだ。
ほぼ裸に近い木の枝が茂る森の奥。湖畔の周囲は視界が
以前と同じ場所で同じように指導を受けているリゼは、彼の言う通り漸くカンを取り戻し始めたらしい。
ひょこひょこと馬を歩かせ、不格好ながらもフランツに褒めてもらえて胸を撫でおろす。
「はぁ~」
肩を大きく上下させ、リゼはようやく詰めていた息を落とした。
静かな湖畔には鳥の囀り、たまに湖の表面に跳ねる魚の音くらいしか聞こえない。
兵舎や訓練場では物々しい男性たちの猛り声や、激しい剣戟の音だそこかしこから聴こえその間を抜けてくるのも躊躇われたものだが。
何せ兵舎周辺で女子がウロウロするという事態も滅多にないらしい。
すっかりリゼはロンバルドの兵士たちに存在と顔を覚えられてしまい、気軽に声を掛けられるようになってしまった。
学園の生徒で、フランツの師事を受け、長期休暇でも剣を背負ってフランツの元にやってくる――目立ってもしょうがない。
中には嫌味や皮肉で小馬鹿にしてくる兵士もいるが、大多数は気さくなオジサンたちである。
彼らは学や品にはちょっと遠ざかった存在で、以前のリゼなら敬遠していた類の人間だと思う。
だが話していて気疲れすることもないし、雇われの身である以上最低限の規律に従っているので決して近寄りがたいわけではないと知る。
……まぁ、フランツ絡みで招待されているから皆が気を遣ってくれていることが大きい理由なのだろう。
チラと視線を下にズラすと、フランツの横顔が目に入った。
ただの体格の良いオジサンというわけではなく、ここでは一目置かれた凄腕の剣士のようだ。
学園からお呼びがかかる程だから当然かもしれないが。
「乗る時に振り落とされなくて良かったです」
毛羽立つ手綱を握りしめたまま、リゼはそう呟いた。
夏のラズエナであらゆる馬から乗馬拒否された悲しい思い出が蘇る上、久々の乗馬の訓練だ。
フランツに乗れと言われて
馬はまぁるいつぶらな瞳でこちらを眺めた後、少しうんざりしたように尻尾を左右に振るだけ。
リゼが鞍に跨っても、身体をくねらせて落っことそうとはしなかった。
「お前の雰囲気が前から丸くなったからじゃないか?」
「……そうですかね?」
彼曰く、刺々しさが抜けたから動物も受け入れやすくなったのではないかと。
実際のところは当人ならぬ当馬しか与り知らぬことだろうが、少なくとも振り落とされるようなことがないのは僥倖だ。
そんなに殺気立って尖ったオーラを出していたのだろうか、自分は。
少しは心が落ち着いたと、良い方に考える事にしよう。
生まれつき動物に嫌われる体質ではなかったのだ。このまま練習を続けていれば、人並みに一人で馬に乗れるようになれる……といいな、と心の中で苦笑した。
「じゃあ今度は湖外周、一人で行ってこい!」
「えっ!?」
「前もやったことあるだろ、頑張れ」
彼は馬の口元、
さっきまではリゼが落っこちる事がないよう、馬を牽きながらサポートしてくれていた彼の手から離れてしまった。
久しぶりの馬上の感覚にようやく慣れて来たところなのに、相変わらず容赦がない。
まぁいつまでも保護者付きでパカパカ馬を歩かせるのも恥ずかしくなってきたところだ。
気合を込めて手綱を握り――気を落ち着け、軽く馬の横腹を蹴った。
ゆっくりと歩き始める馬に跨り、先ほどと同じように小さな湖の周りをぐるっと回る。
中央公園の湖と比べればとても狭い湖だが、湖面は静かに凪ぎ澄んだ青色で眺めていると心が癒されていく。
空を見上げると、ザァッと風が駆け抜け頬を撫でて髪を大きく揺らした。
フランツの厚意、いやジェイクの厚意か。
普通なら個人的に乗馬を習う機会など持てるはずがない。
学園の選択講義で選ぼうとしても、また馬に嫌われて振り落とされてしまうのではないかと思うと怖くて二の足を踏んでいた。
周囲に
剣術のようにまた一対一で初心者講座なんて言われたら流石に身に余ることだ。
リタやリナのようにせめて普通に一人で乗って進める事が出来れば……
フランツが個人的に指導してくれるなんて、願ってもないお誘いだ。
ただ馬も
ここまでおんぶにだっこで世話を掛けてきた自分が情けなくもあるが、この礼は必ず返さなくては。
目標通り、騎士団で補佐官に着くことが出来た暁には誠心誠意身を
学園に入学してから今まで、自分の価値観が大きく変わってしまった。
当初の予定なら――同位で首席で入学だったはずなのに貴族であるというだけでその功績をシリウスにかっさらわれたことを恨んで、絶対に次は負けるものかと目の敵にしてガリガリ勉強していたのだろうな。
だが蓋をあけてみれば、今は馬の上。
剣を扱うどころか、剣術大会で上位に入賞してみたり。
かと言えば試験の順位をガクッと落としてしまったり。
流石にこれは予想外の事過ぎるが――毎日、凄く楽しい。
好きな人が一人出来るだけで、こんなに生活に彩りが出るものなのか。
人から灰色と呼ばれる学園生活もどんとこいと燃えていたのに、毎日景色がキラキラ輝いて見える。
予想外の事が沢山経験できる。
来週、数日後には地方へ研修と称した旅行が企画されていて、それも楽しみだ。
去年の自分なら、成績に関係ないなら欠席したい! なんて不満に思っていたに違いない。こんなにワクワクして待ち望んでいること自体、おかしなことだ。
今年の下級生は葡萄園でワイン醸造の社会見学をするとの事だが、場所はどこでもいい。
クラスごとに宿泊する建物は別という話は聞いているし、行動もクラス単位のはず。ジェイクと一緒に野外で行動する機会も増えることだろう。
ワインは飲んだことが無いし興味もない。が、ジェイクと一緒に行動できるチャンスがあるかもしれないなら話は別だ。
広い葡萄園で個々人が動くなら、話をすることも難しくないだろう。
……まぁ、普通にいつもの四人で行動するならそこに割って入ることは出来ないから諦めないといけないか。
流石に王子やシリウス、ラルフ達と同行しているところに「すみませ~ん」と入っていける蛮勇など、リゼに限らずクラスの誰も持ち合わせてはいないだろう。
十数分かけて、湖の周りをゆっくり歩く。
同じリズムの振動はこちらを振り落としてやろうという意図を感じることもなく、緊張を解いてのんびりと散歩を楽しむことが出来た。
畔には名も知らない水鳥が足を着けてこちらをじーっと見つめ、まだ冬だというのに白い蕾をつける花を発見したり。
のどかな時間だ。
明日はジェイクの家庭教師のアルバイトがあるし、週末の旅行に向けた準備を行わないといけないので帰ってからやるべきことは沢山ある。
一つ一つの予定を頭の中で整理し、時間を割り振っていると――
「なんだ、心配も要らなかったか。
ちゃんと乗れてるな」
フランツが腕を組んで待機しているゴールより少し手前の茂みから、ひょいっと大柄の男性が姿を見せた。
赤髪の青年だ。
前方数メートル前に急に現れた彼、ジェイクを前にリゼの組み立てていたタイムスケジュールが一気にポンっと弾け飛んだ。
予想外の事に慣れてきたと言っても、まだ彼の急襲には全然慣れていない。
心構えが出来ていないと、平静を取り繕うのも難しい。
「ジェイク、お前……ま~た騎士団抜けて来たのか」
「だから日曜は本来休みだっつってんだろ。
厨房で差し入れもらったから、持ってきたんだよ」
「はぁー、そうですかそうですか」
前方のやりとりが耳の横をすり抜けていく。
このままではジェイクの前を馬に乗ったまま横切ってしまうことになる。
まさか挨拶を馬上で行うわけにもいかない、普段身分制に関して反感を抱いているリゼだが、一般常識くらいは知っているつもりだ。
馬の上で「こんにちは」なんてド平民の自分がやって良い事でないことくらいは心得ている。
「と、止まって!」
気分よくパカパカと歩みを進めていた馬の手綱をぎゅーっと引っ張って一旦止める。
ホッと胸を撫でおろす。自分の言うことを聞いてくれた、失礼な態度をとらずにすんだという安堵感で脱力さえしてしまう。
馬は栗毛の鬣をぶるぶるっと震わせて鼻息荒く、前足の蹄で地面を穿った。急に制止を掛けられて不満そうだが、しょうがない。
わたわたと慌て、鞍から左右に吊り下げてある鐙に乗せていた足の裏に重心を掛けて下馬しようと試みる。
「おい、そのままだと素っ転ぶぞ」
ひょいっと身体が軽くなる。
馬の側部にしがみついていて、かなり見苦しい姿勢だったリゼの身体が馬から引きはがされ、そのまま後ろに平行移動して――ストン、と下ろされた。
時間で測れば数秒のことで、腰の周りにぐっと圧迫感があったと自覚したくらいだ。
背中に目はないので正確な状況は把握できないが、どうやらあたかも小さな子供にそうするように、ひょいっと下ろしてくれたらしい。
足の先が鐙からスッと引き抜かれたと思った次の瞬間には、地面に着いていた。
魔法か手品か、という状況に完全に身体の動きが凍ってしまう
「……あ、ありがとうございます……」
「おい、まだ一周終わってないだろうが。途中で降りて何やってるんだ」
フランツは軽く怒鳴り、完全に硬直したままのリゼの頭を軽く小突いた。
その衝撃でようやく我に返ったリゼは、大袈裟なアクションとともにその場に蹲る。
「そんなに強く叩いてないだろうが!」
チッと軽く舌打ちをするフランツには申し訳ないが、小突かれたことよりも現状を把握して恥ずかしさが込み上げてきたせいだ。
紅い顔を見られたくなく、落ち着け、落ち着けと膝を抱えた自分に言い聞かせる。
ここは建物が建っていないだけで、辺り一面ロンバルドの所領だという。
彼の活動圏内、急に姿を現わしてもおかしな話ではない。
場所を貸しているのだから、様子を見に来るのも特段おかしな行動ではない――
馬上から変な格好で着地しそうな人間がいたら手を貸すのも全くおかしくない!
よし!
「今日は馬と場所を貸して下さってありがとうございました!」
勢いをつけて立ち上がり、ジェイクに向かって一気に捲し立てる。
「気にするな、約束だしな」
軽く笑う彼は、さっきのことなどまるで無かったことのようだ。
案外自分の気のせいか、勘違いだったのかも知れない。
「ところで今日は何故ここに?」
ジェイクを見上げ、首を傾げる。
「良い時間だし、差し入れだ」
そう言ってジェイクは片方の肩に担いでいた白い麻袋の口を開ける。
以前も甘いものを差し入れてくれると言って、美味しいドーナツをもらったことを思い出す。
「わぁ、ありがとうございます!」
お昼は白い握り飯だけだったので、ここで甘いものを食べられるのなら心底有難い。
「学園の旅行前に怪我でもされたら困るし、様子見がてらな」
今日はドーナツと、ついでにきつね色のシュークリームまで……!
恭しく両手でそれらを受け取ると、ムスッとしたまま腕組みをするフランツに視線を向ける。
言われたことを完遂せず、途中で下馬したことをまだ根に持っていて不機嫌らしい。
彼の勘気を感じ、うっ、とリゼは後ずさる。
フランツとは違ってただのドのつく平民が馬の上から挨拶など出来るわけがないのに、理不尽すぎる。
確かにジェイクはそういう社会通念上の上下関係は気にしない性格だろうが、そこまで非常識な人間になりたいわけではない。
「食べても良いですか……?」
「……はー、分かった分かった。
じゃあ俺も小腹が空いたし、食うか」
日差しは暖かいが、じっとしていると肌寒い。
湖畔周りの芝の上に座って、リゼは片手にドーナツ片手にシュークリーム。
こんな時には不似合いなデザートに囲まれかぶりつく。
前の差し入れ時にも思ったが、良い材料を使っている食べ物だからか学園内で食べるものよりも美味しく感じる。
「なぁ、リゼ」
甘いものが苦手な自分達の分もしっかり調達してきたジェイクは、何の変哲もない普通の丸いパンを手に持っている。
胡坐をかいて正面に座っている彼に何気なく呼びかけられて、リゼは顔を上げた。
「なんですか?」
ああ、やはり緊張が解けた後の甘いお菓子は良い。
胃にも、頭の中にも染み渡っていくかのようだ。
「研修旅行、一緒に廻らないか?」
――ゲホッ。
ドーナツの欠片が、気管支に入って盛大に噎せて涙目になってしまった。
込み上げる痛烈な喉の痛みに耐えながらもコクコクと頷き、フランツから分けてもらった水を飲んで漸く落ち着いた――が。
……やはりこれは夢なんじゃないだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます