第320話 幻のお嬢様
カサンドラは週が明けた月曜日、かなり緊張した面持ちで学園へと向かっていた。
馬車に乗っている最中も、落ち着かずそわそわと体勢を変え続けている。
まるで試験の結果を目の当たりにする直前に抱く不安と緊張に支配されているかのようだ。
既に結果が出揃った後の最終確認、だが見るのが怖くて目を逸らしたくなる。
リタのイベントが失敗に終わったか成功したのか。
合否どちらかの結果しかなく、既に過ぎ去ってしまった事でカサンドラにもどうすることもできない領域の話だ。
昨日の日曜日、ラルフの婚約者選びの舞踏会が開催されることになっていた。
この話を知らない王国の貴族はいないだろう、既に婚約者が決まっている人間のみならずヴァイル公爵家に関わる人間の全てがその結果を固唾を呑んで待ち続けていたに違いない。
生憎カサンドラにはヴァイル公爵への直接的な伝手を有していなかった。
舞踏会の結果は未だ知るところではないが、招待された女生徒達は一早く誰が選ばれたのか知っている。現場にいたのだから当然だ。
……果たしてその幸運な令嬢は誰なのか――
カサンドラの前世の記憶が正しければ、このラルフの婚約者は
平穏無事な学園生活を送れるようラルフが偽りの婚約者を決めるためのイベント。
ゲームの中で婚約者役を務めて欲しいと言われた時はテンションが上がったものだが、実際にこんな非現実的な大多数を巻き込んだ盛大な茶番が繰り広げられたかと思うと背筋が寒々しい。
朝からラルフ関連の話で騒がしくなるだろうことは間違いない。
今日ばかりは王子よりも彼の方が注目度が高くなるはず。
教室に一番に辿り着いた後王子への手紙を机の中に入れた後、カサンドラは事情を知るであろう女生徒が噂を振りまきながら登校してくるのを今か今かと待ちわびていた。
普段なら社交界に関わる噂に積極的に関わることもない自分だが、そこに
不自然なまでに情報通の友人が頼まなくても噂話を精査して聞かせてくれるという話はあらゆる媒体での頻出事項だが、そんな友人がどれほど貴重なのか身をもって知る。
そんな友人がいたらさぞかし便利だろう。
椅子に座った後落ち着かないまま、読みかけの本を鞄から取り出す。
心を落ち着けるのに、読書が最適だとカサンドラは経験則で知っている。
ふぅ、と胸元に手を当ててから続きのページに目を通す。
王妃教育という直接的なプログラムはないようだが、王室の歴史について知ることは大事だ。
その中でも取り分け爵位に関することは重要だと思うので、それを重点的に調べようとしている。
社会制度、とりわけ貴族制度などは時代や場所、国によってかなり差異があるものだ。
今のクローレス王国の爵位の継承はカサンドラの前世であったような爵位制度を簡便化して設定されたもののようだ。従来の封建制度における爵位とはかなり趣を異にしている。
混沌時代の当時は男爵伯爵公爵しか爵位がなかった、とか。
爵位はその土地を治める権利を表したもので、上位の貴族はいくつも爵位を保有していた、とか。
男子優位の分割継承が習わしだったので保有爵位も分割相続、故に頻繁に領主版図に変化がある時代だったのだなぁ、とか。
読んでいれば、この世界にもちゃんとした時代背景や歴史がある。大変興味深い。
現代のクローレスで爵位が一人一つしか持てないのは――相続の際に、親が保有する領地を子供に分割相続させないためだ、とか。
もしも伯爵と男爵の称号をダブルで保有している家があったとして、じゃあ子供たちに相続しますとなった時にその爵位を分け与える事になったら?
親の治める領地が兄弟間で分割されてしまう。
それでは揉め事にしかならないし、血で血を洗う骨肉の争いが起こってしまう。
更に家の財力や権限、兵力自体が代替わりごとに弱体化していく一方だ。何せ、既に存在する国土は増えることはない。分家が増えれば増える程、削れた分の富を回収しようと各地で紛争が勃発しやすい土壌が生まれる。
ゆえに所領を治める権利をもたらす爵位は一つの『家』につき一つのみと定め、指名した後継者のみが継ぐものと法で決められている。
今の王国版図が安定し長い間のクローレス王国の繁栄の礎になっているのは爵位が一つの家に一つと定めた制度なのではないかとカサンドラは考える。
――前世で言う都道府県みたいなものなのだろうか。
お上が決めた領地の境を、諸侯が異議なく受け入れて認めて初めて実行力を持つ政策だ。
ここはあの爵位を持った家が治める、ここからここはこの爵位が持った家が治める、とバシッと線引きをしていてその境界線を国が強力な権限と権威を以て認めさせているから可能なのだ。
この土地は自分の継承するもののはずだから返せ! と領地争いが勃発しないのは皆が王の定めた枠組みに従っているから。
言う程容易い事ではない。
絶対的な王権がないと諸侯を法令と言う紙切れ一枚で完全に制御できるわけがないのだ。
大いなる実効力をもった中央集権制度でなければこうは上手くいかない。あちらこちらから不満が出る、はず。
今でも多少の小競り合いはあるのだろうが、戦争と呼べるほどの大規模な紛争は起こっていない。
それだけ王家の威光が、権力が強いということだ。
中央政権が上手く機能している証。
逆に言えば、王家の威信が少しでも低下すれば……
各所領の線引きを担保する制度に亀裂が走り、今は平和なこの国が過去のように紛争、つまり内乱の多い国になってしまう。
どんな家だって、少しでも治める領地が広く豊かな場所が良いと思うだろう。そのために勝手に争いを起こし、勝った方が国の決めた境界線を勝手に変更してここは慣習的自領、自分のものだとか主張しかねない。
……そういう問題が現実に頻発していたのが、
地方に行けばベルナールのように爵位を持たずに慣習的領主として地方公爵に直接従っている家もあるのだが。
版図の端っこの端ゆえ、中央の把握漏れがあった。今に至るまで爵位の正式な授与もなく例外的に浮いた家である。
この広い大陸を覆いつくす、王家の威光。
改めて考えると、そんな凄い王室の一員になるのにこのまま何も勉強しないままでいいのかと不安になってしまう。
そのような事を考えている内に、俄かに廊下が騒がしくなってくる。
興奮気味に早口でまくし立てる女子生徒の声、そしてその話を聞きつけて驚く男子生徒の声も。
様々入り乱れていき、情報がかなり錯綜して一時は大混乱の様相だ。
無理もあるまい。
実際に混在しない偽りの婚約者をラルフが選んだなんて、裏の事情を知っている人間など当事者とカサンドラ以外にはいないのだから。
これほどの収拾がつかないレベルの大騒ぎになるなら――カサンドラの心配は杞憂に終わったのだろう。
耳を
「おはようございます、カサンドラ様。
もうお聞きになりまして!?」
耳聡いクラスメイトが、我関せずという体面を貫くカサンドラへ興奮気味に話しかけてくる。
内心では耳を大きくして情報を仕入れたいところだが、普段噂話に興味が無い自分が好奇心剥き出しで情報収集に走るのも違和感がある。
表情をいつもと変わらないようキープするのはかなり難しかったが、相手も大概落ち着きがない様子なのでカサンドラの表情の微細な変化には気づかなかったようだ。
「
彼女はヴァイル派に属する女生徒だ。
恐らく昨日招待状をもらって直接舞踏会場に出向いたに違いない。
誰よりも正確な情報を知り、それを一番にカサンドラに伝えに来るという事態をどうとらえれば良いのかと一瞬悩んだ。
だが彼女の良く話す友人は当然同じヴァイル派の生徒、もう既にあちらの派閥内では完全に情報が出回っているのだろう。
敢えて詳細を知らないだろうカサンドラに伝え、吃驚させたい。
そういう意図がひしひしと伝わって来た。
「まぁ、どなたにお決まりに?」
しらを切るように、カサンドラは首を傾げた。
「それが、私も初めてお会いしたのですが。
ブレイザー家のご息女だそうで」
リリエーヌさんという女性の方なんです。
どう思われますか!?
彼女は色んな情感を込めてカサンドラに詰め寄ってくる。
「ブレイザー家……」
記憶を掘り起こし、ヴァイル派の名鑑からその名を探り当てる。
カサンドラもどういう経緯や段取りを経てリタが偽の婚約者役をつとめることになったのか詳細は知らない。
だが、その子爵家の娘という体で舞踏会に紛れ込み、そこでラルフに指名されたことだけは分かる。
「まさかこんなことになるなんて。
……子爵家、しかも庶子ですよ!?」
「そんな風に言うものじゃないわ。
私も驚いたけど、凄いなって素直に思ったもの」
彼女の友人の一人が話に割り込んできた。
どうどう、と宥めるナイスフォローだ。
実際に庶子のクラスメイトも在籍しているのに、その悪態は宜しくない。
だが廊下も教室も大騒ぎなので、彼女の一声を聞き咎める生徒は他にいなかったようだ。
「だって、だって」
「ラルフ様も仰っていたけれど、確かに他の子には真似できないユニークな子だったと思うわ」
………ん?
一体舞踏会場で何が起こったというのだろうか。
※
昼食の時間の間中、居心地の悪さを味わっていた。
女神への祈りを捧げた後はおしゃべりも鳴りを潜め、大声を出さないように静かな食事風景が広がるのが常だ。
しかしここまで大きなニュースが発生した直後、流石にあらゆる場所で彼の話題が席巻していく。
まぁ、当の本人は一切我関せずと言った様子で平時と全く変わらずマイペース。
まるでこのカサンドラの着席している長テーブルだけ、空気ごと他から斬り離れれた時空に浮いているのかと錯覚する程。
この周辺は静かで凪いでいた。
逆に怖い。なんで皆、そんなに何事も無かったかのような態度をとれるのか。
一々騒ぎ立てることでもないとシリウスも王子もジェイクもノーコメントなので、カサンドラだって所感を述べるわけにもいかない。
他の席では『
もしも事情を知らなければカサンドラだって気になってしょうがなかっただろうが、正体を知っている以上話題の俎上に出すのも白々しい。
何とも微妙な食事を終えた後、カサンドラは張本人に特攻をかけることにした。
ここまで達成すれば後は彼女の一層の頑張り次第、イベント中にカサンドラが直接アドバイスできるわけもない。
リゼにせよリタにせよ、手が離れたと言っていい状況。
しかし今のままでは終われない――ここまで彼女に関わってきたのだ。
ちゃんと正確な情報を知る権利があると、カサンドラは確信している。
「リタさん」
カサンドラが背後から話しかけると、食堂入口付近で姉妹に『慰められている』リタが大きく肩を跳ね上げた。
「か、カサンドラ様」
彼女は引きつった笑顔で、ははは、と乾いた笑いを浮かべるのみだ。
リゼやリナがかなり気を遣ってリタに接している様に何とも言えない身の置き場の無さを感じつつ。
大混乱とも呼べる情勢下で一切気にせず騒ぎ立てる事もない
だが自分は知っている。
彼女が慰めに値する状況でないということを。
「貴女にお聞きしたいことがあります。
お時間を少々いただいてもよろしいでしょうか」
するとリゼはあからさまにホッと安堵の吐息を落とした。
現実的に考えれば完膚なきまでに失恋したリタを、彼女なりに気遣っていたのだろう。
三つ子の恋愛事情に関わっているのは当人達以外ではカサンドラだけ。
自分の替わりにリタを励ましてくれるに違いないという期待を籠めた視線を感じる。
この期に及んでも姉妹にさえ事情を説明していないリタの口の堅さは素晴らしいと言って良いだろう。
尤も、ラルフとの約束はヴァイル家との約束。機密を暴露してしまえば捕縛されてもおかしくない。
親姉妹にも真実を話すことなど出来るはずがない、か。
「え、ええと……」
リタはしどろもどろになって後ずさる。
だが個人的な思惑があったとはいえ、彼女を応援してきたことは事実。
彼女の傍で、カサンドラはぼそっと呟いた。
「リリエーヌさんというお方の話……わたくし、とても興味があります。
さぁ、午後の講義まで時間はたっぷり残っていますよ。
お話に付き合って下さいますね? リタさん?」
今まで誰も知らない、急に新星の如く現れた可愛らしいお嬢さん。
この学園にも在籍しておらず、庶子と認められたのがつい最近で誰も顔や存在さえ知らなかった、しかもそんな彼女がラルフに選ばれるだと?
――なんと都合の良い話だ、あり得るはずがない。
こんな強引なシナリオも現実にしてしまう、それが彼女達の持つ主人公パワーなのだ。
借りて来た猫状態のリタの手をとって、カサンドラは生徒会室近くの中庭まで連れていく。
リタの方から正体不明の婚約者は私です! なんて口が裂けても言えるはずがない。
だがカサンドラの一々正鵠を射る質問に白旗を揚げ、彼女から先日の舞踏会の様子を聞き出すことに成功した。
起こるイベントの情報を別の世界で既に仕入れ言い当てる事が可能なカサンドラ。
そんな自分を誤魔化せるだけの話術をリタが有していないのは幸いだった。
カサンドラはリタの信用を得ているから真実を話してもらえたのかもしれない、と無理矢理良い方に解釈してみる。
誰にも言ってはいけないというプレッシャーや誰かに知って欲しいという想いで思い煩っていたそうだ。
彼女の性格を考えればそれもむべなるかな。
話すことで現状を把握し、そして”夢ではなかったのだ”と感動に打ち震える彼女を眺めて苦笑する。
――お姫様抱っこの件を聞かされた時は、カサンドラも理解が追い付かず表情が固まってしまったけれど。
お姫様抱っこ”される”方じゃなかったかな?
シナリオが完全に再現されているとは言い難いのは今までの経験上分かっているが、本来なら変装したリタがラルフに助けられ抱えられるという話だったはずなのだが。
お姫様抱っこという単語しか一致していないのだが……
ああ、後ラルフが変装した主人公を選ぶ、という結果は同じか。
この世界を創った神様は、要点さえ押さえておけばいいという案外アバウトな存在なのかも知れない。
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