第313話 <リタ>



 ――今、リタはヴァイル公爵家に招かれている。


 カサンドラとリゼが楽しく美術館や博物館を訪れていた時間と重なる土曜日のお昼、リタはガチガチに全身を固まらせてソファに腰を下ろしていた。

 冷や汗が止まらない。


 以前ラルフの誕生日にヴァイオリンをプレゼントするため、どうしてもとジェイクに頼んで連れてきてもらったラルフの実家。

 それはもうお城もかくやとばかりの広大な敷地にいくつもの屋敷が整然と並ぶ、一つの町のような『邸宅』だ。

 いつだったか、ジェイクの屋敷の敷地内に足を踏み入れたことのあるリゼがロンバルド家の邸宅を「大きな街?」と評していたが、いざ自分が踏み入れてみると気持ちが分かる。

 規模が桁違い過ぎて、脳の理解力を越えているのだ。


 カサンドラの別邸を広いお屋敷だと思っていたが、恐らく普通の貴族と彼らは全く違うものなのだろう。


 お城にやってきたみたいだ。

 きょろきょろと応接室内を見渡していたが、次第に怖くなって俯きがちになった。

 土日に時間を作って欲しいと言われ喜び勇んでラルフの指示通りにお屋敷に訪れた自分は、文字通りの小市民。


 キラキラと目に見えて華美な装飾はないけれど、装飾一つ一つが高級感を醸し出す真の金持ちの一室。

 呼吸をするのも躊躇われる心理状態に陥っていた。


 だが十分も待たない内に現れたのは、自分をここに来るよう指示をした張本人。

 ラルフもお出ましに、ほぅっと大きな安堵の吐息が落ちた。


「待たせてしまってすまない。

 今日は来てくれてありがとう」


「いえ! まさかご自宅に招かれるなんて……ええと、その。

 ……これで、良かったんでしょうか」


 リタはラルフの登場によって弾かれるようにソファから立ち上がる。

 そして自分の格好を自覚して、気恥ずかしくて何とも言い難い曖昧な笑みを浮かべてしまった。


「君の存在を皆に知られるわけにはいかないから、無理を言ってしまった」


「いえ、大丈夫です!」


 今リタは、ヴァイル家の使用人――メイド服を着てラルフを訪れているのだ。


 ここはラルフが寮に入る前から住んでいた屋敷だが、主に楽器の演奏や一人になりたいときに使用する『離れ』の建物らしい。

 正直に言えば、この応接室だけで自分の実家全体がすっぽりと収まりそうだ。

 この部屋を擁する建物が”離れ”なんて、スケールが違い過ぎる。


「私、慣れてますので!」


「? 慣れ……?」


 こんなこともあろうかと、というわけではないはずだけど。

 年末にカサンドラのお屋敷でメイドとして働かせてもらった経験がこの時ばかりは光り輝いている。


 着こなしについての自信はないけれど、メイド服姿で何度か買い物に出かけたこともあった。

 その経験が全くないのに、いきなりこれを着て屋敷に来てくれと言われたらリタは面食らってたどり着けなかったかも知れない。

 既に慣れてしまったメイド服、ホワイトブリムの感触など懐かしいとさえ感じていた。

 一応上着は着ているから、恥ずかしさは五割減で助かったけど。


「早速だけど、本題に入ろうか。

 例の舞踏会は来週に迫っている、君と詳しい打ち合わせや練習をしておく必要があるから」


「了解です!」


 メイドの格好のまま、ぐっと両手で空気を握りしめるリタ。

 ラルフの役に立てるのであれば、とやる気はフル回転中だった。


「とりえあず座ろうか」


 ラルフと向かい合わせに座り、『打ち合わせ』とやらが始まるのを息を呑んで待つ。

 これが固唾か、とリタは生唾を飲み込んだ。


「君はフレイザー家当主の娘――ということにしようと考えている。

 フレイザー子爵の、婚外子。

 その立場で舞踏会に参加してもらう」


「……ええ!? そ、そんな……思いっきり、僭称……?」


 リアルな貴族の名が出て、リタは怯んだ。


「ご当主様が聞いたら、激怒しませんか?」


 実際に存在する家名を名乗るなんて、よく考えなくても明るみになれば処罰対象ではなかろうか。

 覚悟はしていたとはいえ、やっぱり実際に突きつけられると心臓が竦み上がる。


「この話に纏わる問題については、事後も含めてこちら・・・で責任を持つ。リタ嬢は不安を抱く必要はない。

 ――とは言え、君が辞退したいと言うのなら僕にそれを止める権利もないのだけどね。

 信用して欲しいとしか言いようがない。この件は僕が全責任を負う」


 信用はしているが、本当に自分が貴族の娘を名乗っても良いものだろうか。

 いや、毒を食らわば皿まで。

 話を聞いた時から、難しい話だと分かっていたではないか。


 深呼吸で動揺を鎮める。

 引き受けると決めたのは自分だ、ラルフを信用している自分を、自分が信じるしかない。

 自分の判断を信じる、それは言い訳や退路を断つということだ。


 最初から後戻りするつもりで、綱を渡ろうとしたわけじゃない。


「わかりました。

 ですがせめて、その子爵様がどんな方か教えてもらえませんか?

 お父さんってことになるわけですし」


 架空だからこそ、設定は大事だと思う。

 曲がりなりにも自分の『父親』、顔も名前も知らないでは絶対にボロを出すに決まっている。

 そうだねと頷いたラルフの表情が、若干険しいものになった気がした。


「フレイザーの当主は、今は四十半ばの男性だ。

 学園に通っていた頃から浮き名を流し続けていた、根っからの『遊び人』。

 愛人をかこうに留まらず、彼の子どもは恐らく二十人以上いるのではないかと言われる程には……火遊びを生き甲斐にした男性だよ」


 それは控えめに言って塵芥くず――いや、女性の敵という存在では。


「そんなにたくさんのお子さんが……

 じゃあ、私には義理の兄弟姉妹が沢山いることに?

 舞踏会で顔を合わせてしまったら、嘘がバレてしまいませんか?」


 こんな妹など存在しないと指をさされたら言い訳のしようがない。

 遊び人で何人もあちらこちらに子供がいるとすれば、姉妹という関係のお嬢さんにも会う事だろう。

 誤魔化しがきかない気がする。


「いいや、フレイザー家の娘として舞踏会に出る権利があるのは君だけだよ」


 ラルフはうっすらと笑う。どこか皮肉げな意味を含んでいるような気がした、彼の微妙な表情。


「……?」


「リタ嬢。

 学園に妾腹と呼ばれる生徒も少なからず通っていることは知っているね?」


 それは蔑称に近い。だがそうとしか表現できないことも分かる。

 愛人の子。


 色んな関係性を持つ、家族の形の一つである。

 リタもおぼろげながら分かってきたことだ。


 正妻の子よりも父親の愛を受けている子も結構いるし、そういう子達は結構自分に自信を持っている。


 基本的に嫡子とそうでない兄弟姉妹の仲が悪いと感じるケースが多いように感じられる。


「そ、それは勿論。知ってます、けど」


 正妻の子ではない、第二夫人の子だったり愛人の子だったり、でも当主の子どもであるから学園に通うことが許される生徒達。

 子としての扱いはともかく、権利上つけられる差は雲泥と言ってもいい、確かに貴族の子だけど決して純粋な貴族ではないという目で見られてしまう。

 家督相続権は無いも同然だ。


「彼らは幸運なんだよ。

 ……父親に、自らの子であると正式に存在を認められた者達だから」


 女性と違い、男性は「あなたの子だ」と言われてもそれが絶対に真実かを確かめる術がない。

 血縁関係を証明するものなどどこにもなく、しかも生まれたての赤子や幼い子なら猶更だ。

 いくら女性側が主張しても、それを頑として「認めない」と言われてしまえば……


 否定された瞬間、目を逸らされた時点で子は父親を失う。


 貴族だけに起こり得る話ではないとは分かっていても、リタは今まで小さな村というコミュニティで暮らしていた。身近にないような見下げ果てた行いを想像するだけで身が震えてしまう。

 婚外子として生まれた子、か。


「……”彼”は自分の子だといくら訴えられても、決してそれを認めはしなかった。

 事実か虚偽かの問題ではなく、彼は面倒ごとに関しては逃げるような人だったからね。

 彼と正妻の間に娘はいない、だから姉妹と鉢合わせるなんて心配は無いよ」


 なおさらクズですね、という言葉をリタは呑み込んだ。

 流石に貴族の当主に対して平気な顔で悪口を言える程リタは図太い神経を持っているわけではない。

  

 実の子だと認められれば面倒をみてもらえるが、そうでなければ?


 学園に通っている生徒は皆、父親から子供だと正式に認められて相応の扱いを受けている。幸運なことと言われれば、その表現は間違っていないと思う。


「その子爵様の対応に比べたら、学園に通っている生徒のお父さんたちは責任感がある……とも言えますよね。

 ちゃんと貴族の一員として面倒見てるわけですから」


 これが甲斐性って奴か。


 男性は本当に自分と血が繋がっているのかなんて調べようがない。

 だから実の子かどうか認めようが認めまいが自由だというのは男性が優位過ぎて釈然としないところではあるが、人間が一人で分裂して生まれる生き物ではない以上どうにもならないことなのだ。


 愛人を作り、子をもうけてもちゃんと自分の子だと母子ともにきちんと面倒を見れるだけの責任と甲斐性を持ち合わせているだけでもマシなのか。


「……もし本当のお父さんから”自分の子じゃない”って言われたら……

 その子は、どうなっちゃうんですかね……」


 想像すると暗い気持ちになる。


「大体は母親と一緒に暮らすことになるんじゃないかな。

 貴族に取り入ろうと押し掛ける母親もいるから、受け入れられなかったその場合……

 育てることが出来ないと、子を手放す人もいるかもしれないね」


 ――捨て子?


 この王都にも立派な孤児院があるというが、もしかしたら目論見が外れた母親がもう要らないと置いてきた子も混じっているのかも?


 もしくは、母子ともに捨てられた形になって路頭に迷って子どもを育てられないと預けた子なのか。


 一層ズーンと暗い気持ちに陥る。

 煌びやかな社交界の裏で、実の父親に存在を認められずに悲しい想いをしている子供もいる。

 何と不公平な話なのか。



「ああ、嫌な話を聞かせてしまって申し訳ない。

 念のために言うけれど妻は一人と決めている人の方が多い、普通はそうだからね。

 王様だって身罷られたお后様一筋、今もお一人だ。


 愛人なんて単語はどう綺麗に取り繕っても、普通の人には受け入れがたい話だと思うし。

 ……”普通じゃない人”が、たまたま貴族だったせいで起こったケースだと思って欲しい。

 少なくとも、今の学園にそんな事を平気で出来るような生徒などいない――と、思うよ」


 貴族に対する印象を著しく心象を損ねたと言わんばかりの引き気味のリタ。

 引きつった表情に気づいたのか、彼は慌ててそう補足した。


 普通じゃないからこそ、噂になったり話題のやり玉としてあげられる。

 確かにラルフや王子達が愛人を何人もはべらせてそちらを寵愛するなど想像も出来ない話なのだから。

 社会通念や常識は、同じ国に生きる人間として同じものだと思って良いのだろうか、それならホッとできるのだけど。


「――僕が言いたいのは、子が「父親だ」と訴え当主がその事実を認めさえすれば”貴族の庶子”という扱いになるということ。

 リタ嬢はフレイザー子爵に唯一認められた正妻以外の娘という身分で舞踏会参加できる。

 正式な招待状をもって訪れるのだから、実は存在しない令嬢だなんて疑われはしないよ」


 なるほど、と頷いた。

 貴族の婚姻事情、その形態について思うことはあったけれど、そういう人の娘という立場で参加するのならいきなり正体がバレることはないだろう。

 よっぽどリタが不調法な真似をして貴族の娘ではないと後ろ指をさされるようなことになったら、捕まって尋問を受けてバレかねないけど……

 他ならぬラルフの頼みで架空のお嬢様を演じるのだ。

 放っておかれるということはあるまい。


「了解しました、私、ラルフ様の婚約者役? 頑張ります!」


 舞踏会で『自分』が選ばれてしまえば彼の悩みは解決されるはず。


 後ほど婚約解消の話には絶対ならない、存在しない人間との婚約話!

 婚約者をラルフが選んだ、という事実さえあれば良いという話だと思う。


 自分が婚約者として選ばれた後ブレイザー家への対応の全てをヴァイル家で行うことになるわけだが、何かしら取引でも行われているのだろう。ブレイザー家は事情を知っている協力者――ということか。


 とても信用に足る人物像には思えないのだが、何か弱みでも握っているのか?


 フレイザー子爵がどんな人かと訊いたのは自分だ。

 そんなろくでもない男性が父ということになるが、それはそれでイメージしやすい……かも知れない。


 役作りをしっかりして、イメージトレーニングをしておかなければ。

 求められるのは、この国の大勢のお嬢様を欺く演技、お芝居。


 百人以上の綺麗どころのお嬢さんから出来レースとは言え彼に選ばれるに相応の立ち居振る舞いが要求される。

 いくら正妻の子ではないとは言え、貴族の血を引く娘となればラルフが条件として掲げていたように気品は大事だと思う。

 自分が完璧に演じられるかは分からないが不可能ではないはず。





   ……ありがとうございますカサンドラ様!




 こんなの、日々の弛まぬ継続した努力なくして一朝一夕で覚えられるものではない。

 ここまで先を見通した選択講義の助言だとしたら、カサンドラの先見の明は予知能力レベルじゃないか。

 市場に現れるという占い師なんかよりよっぽど予知の才能があると思う。



「ところでリタ嬢。

 君が舞踏会で使用する名前に何か希望はあるだろうか。

 僕は名づけが得意ではなくて」



「え、えーと。

 じゃあ、舞踏会ではリリエーヌって呼んでください!」



 即答したことにラルフは目を丸くしたが、すぐに双眸を細めてクスクスと笑った。

 赤い瞳に見つめられ、カーッと紅潮する。


「リリエーヌ・ブレイザー。

 その名前で招待状を作らせることにしよう」


「すみません、いきなりファンシーな名前で」


 ファンシーと言うか、いきなりポンと浮かれた名前が出てきて彼も面食らったに違いない。


 いつも自分が社交ダンスの時間や礼法作法の時間に役になりきって過ごしていた。

 本来の自分とはまるで違う人間を演じられるように被った仮面に、リタはふんだんな設定を盛り込んだリリエーヌという名前をつけたのだ。



 それがまさか、架空の存在リリエーヌが”実体”を伴って隣国の王子ラルフの婚約者になるだなんて。

 とんだ立身出世もあったものだ。

 

 

 本当にこれは夢ではないのか、自分の空想の物語ではないのかと未だに現実感が無い。


 ラルフは静かに立ち上がり、にこやかに微笑みを讃えてリタに片手を差し出した。



「それではリリエーヌ嬢。実際に舞踏会に出るドレスに着替えて『練習』しようか。

 少しでも慣れておかなければ、ね」



「は、はい。宜しくお願いします!」




 絵本や絵画でしか知らない、絢爛豪華な舞踏会。

 今までパーティ用のドレスなど当然着たこともないので、その恰好のまま過ごすのに慣れておく必要がある。

 ぶっつけ本番でもしもリタが失敗をやらかして、ラルフに迷惑をかけるような事態が起こってはいけないのだ。


 一瞬躊躇ったけれど、彼が差し出してくれた手を取ってソファから腰を浮かす。


 凄い話だと改めてドキドキが止まらない。


 今自分は、ヴァイル家のメイド服を着てこの場にいて。

 更に舞踏会用のドレスに着替えて、ダンスの練習?



 召使からお姫様、ここまで華麗に転身する女の子もそうはいないだろう。



 このシチュエーションに相応しい名称をリタは知らないけれど、まるで御伽噺の世界の出来事のようだ。




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