第311話 美術館



 餐館ゲストハウスから数分程度道なりに歩いた先に、大きな二つの建物が向かい合わせで建っている。

 幾度か馬車の窓から見たことがある建物が美術館と博物館だと、カサンドラは初めて意識できた。


 王子達が言うように、互いに移動時間を要さない二館の位置関係を目の当たりにしてカサンドラの方が驚きを隠せない。


 そしてリゼ達と別行動ということで王子と共に美術館に踏み入ったのだが。

 厳重な警備と言う言葉がまさしくぴったりとしか言いようがない、高い壁の外側と内側には警備兵が居並び僅かな異変も漏らさないよう神経をとがらせている。

 王城や学園も警護体制は厳しい方だと思うが、直接『金庫』を守っているかのように美術館の外側の物々しさには圧倒された。


 警備だけでもかなりの手間がかかっていそうだが、それでもこの美術館に価値のある美術品を展示し続けているのは――

 芸術品とは評価を得たものかどうかが重要かという側面も持っているからだろう。

 誰もが素晴らしいと褒めそやす一流の品を所有しているのだという顕示欲も感じる。


 ヴァイル家は古くから芸術を愛する家系である。

 独り占めするのではなく、こういうものが素晴らしいものだ、と。

 知識層や同じく芸術を嗜む者達を啓蒙する意味合いも込められているのかもしれない。




 ※



 王子と一緒に美術館を巡ることが出来る。

 それはリクエストを聞いてもらった時から想像していたワンシーンなのだが、今は想像よりもずっとドキドキする状況である。

 何せ今、リゼのおかげで護衛役のジェイクの姿が館内に存在しない。


 これはカサンドラにとって、気が楽でホッと安堵できる環境に他ならない。

 別にジェイクの事が嫌いというわけではない、彼は彼の良さがあるし悪気があっての日頃の言動ではない事は承知している。

 今のままイベントを進めてもらい、リゼとハッピーエンドを迎えて欲しいという想いは本物だ。


 王子の友人の一人、御三家の後継ぎ。

 いくら気安い性格だと言っても、王妃候補のカサンドラとしては彼の存在は緊張を強いられる。言葉選びも慎重にならざるを得ない。

 彼はカサンドラのふとした言動に引っ掛かりを覚える程度には勘が鋭いようで、護衛役の彼を”そこにいない者”として扱うなど絶対出来ない人なのだ。


 それだけではなく王子とジェイクは互いに幼馴染でカサンドラの入り込めない過去の思い出を共有している間柄。

 彼もジェイクの方が大切だろうし、同じ場所にいれば当然話題の中に入り込むこともあるだろう。

 仕方のない事とは分かっていても寂しいし胸がじりじりと焼け付くように熱くなる。


 だが今は不在!

 王子と二人きり!


 館内の美術品を観覧する他のお客さんは、自分達には無関係だ。

 勿論王子を見て二度見三度見、驚愕の眼差しで見つめる一般人も多いがこの静寂を旨とする美術館内で下世話に押し掛けて話しかけてくるような不調法な者はいなかった。


「カサンドラ嬢、足元に気をつけて」


 眼前に広がる静謐な空気、そして壁に展示される絵画よりもカサンドラはすぐ隣を歩く王子に視線を遣ってしまう。

 絵画が整然と等間隔で並ぶホールに入る前、段差があったようだ。

 王子に注意喚起され、カサンドラは赤色の敷物の先が確かに段になっていると気づき、カッと頬に朱を射した。

 

 危うく躓いて転んでしまうところだった。

 王子に見惚みとれていて転びましたなんて、情けないにもほどがある。


 するとカサンドラの前方に、王子が掌をスッと差し出してくれた。

 こんな僅かな段差でも、わざわざエスコートしてくれるのか。

 流石紳士だとカサンドラは彼に聞こえるか聞こえないか、静かに喉を鳴らした。


 市場で手を引いてくれた時とはまた違う、彼が上に向けて差し出した掌。

 力を込めるわけにもいかないので、おずおずと右手をそれに乗せる。


「ありがとうございます、王子」


「この先は平坦なようだけど、二階にも展示物があるからね。

 このフロアを一通り見たら上に行こうか」


 段を上って、トンと爪先を着けると彼の支えが無くなってしまう。

 館内に入って互いに手袋をとった状態で直接掌に触れた。

 その指先の感触がしばらく残っていて、カサンドラはぎゅっと手を握りしめる。




 ゆっくりと王子の横を歩き、視線を横に向けて立ち止まった。


「まぁ、綺麗ですね……」


 目に真っ先に飛び込んできたのは、写実的な風景が描かれている絵画だ。

 感嘆の吐息が漏れるとはこのことか。

 以前王城でも綺麗な絵画を見て溜息を漏らしたけれど、あの部屋の筆致に勝るとも劣らない立派な風景画が飾られている。

 金枠に填めこまれた山頂の光景がカサンドラの両目に映った。 

 一歩先に進み、今度は隣の絵画を視界に収める。


「こちらは春の花ですね、本物のように見えます!」


 カサンドラはごく普通の美醜の概念の持ち主だ。

 大多数の人が綺麗だと思うものは普通に綺麗だと思う――はず。


 そして一枚の限られたスペースの額縁の中に描かれた、あたかも現実の光景をそっくりそのまま転写したかのような風景画に目を奪われる。

 静物画や抽象画よりも身近で親しみやすく、一見して綺麗だと素直に感動できるのが風景画。


 入口に最も近い場所に展示されるに相応しい大作を前にカサンドラは壁に一歩近づいた。

 立ち入り禁止区域には入らないよう気をつけながら。


「まだ外は寒いですがここに来ればいつでも春の花を見ることが出来るのですね。

 私が蜂や蝶なら、この絵にきっと騙されてしまうでしょう」


 そうだね、と王子の声が背後から聴こえる。

 ハッと気づいて振り返ると、彼はくつくつと忍び笑いを漏らしているではないか。


 そう言えば、王子はこの美術館の常連だ。

 絵画の鑑賞は慣れたもので、きっと目が肥えて品評だって優れたものに違いない。


 頭の軽そうな感想を何も考えずに口走ってしまった、とカサンドラは内心で頭を抱えてしまう。


「も、申し訳ありません」


「……? 何故?」


 身をちぢこめて恐縮すると、彼は不思議そうに首を傾げた。


「王子は幾度となくこの美術館に訪れていらっしゃるとの事。

 わたくしの程度の低い感想に呆れてしまわれたのではないかと」


「まさか、そんな事は思わないよ」


 即座にカサンドラの不安を一蹴し、彼は何かを思い出すように少し視線を横に動かす。

 ――そして微かに憂鬱そうな吐息を落とした。


「一つの絵画を見れば、技巧や色彩感覚、色の出し方、画家の手癖の話ばかり。

 そういう小難しい話題を拝聴するより、君の感想の方がよっぽど頷けるよ」


 こういう場所に王子と共に訪れるということは、本人もそれなりの知識や絵心があるということ。

 少なくとも芸術に全く関心が無ければ、ジェイクのように「行きたいとは思わない」と敬遠して近づきはしないはず。


 詳しいがゆえに、専門家の観点で話をしてしまう。

 王子とて最初は感心して聴き入っていても、いつもそればかりではんでしまうのは普通の感情だろう。


 そんな気持ちはおくびにも出さずに、王子は話に聴き入るフリが出来るはずだけど。 



「……。

 不思議なものだね」



 王子はカサンドラの隣に静かに歩み寄り肩を並べ、春の花を緻密、匂い立つような正確な筆致で描いた絵を眺めた。


「この絵は何度も目にしたことがあるのに、今日はいつもより鮮やかに見える気がする」


 ポソッと隣から落ちる呟きを耳が拾い上げる。

 彼の何気ない一言にカサンドラは動揺したが、ゆっくり、ゆっくりと。

 心の奥に落ちた一粒の輝く幸福感、それが波紋を広げて全身を満たしていく。





   ――『誰と』一緒だったかでも受ける印象は変わるものだし。





 はたと脳裏に甦るのは、ラルフの言葉だった。

 実際にその通りかどうかなんて確かめる術はない。


 だけどカサンドラの目にこの絵がとても綺麗で心が浮き立つような印象に見えるのは、もしかしたら一緒にいるのが王子だからなのかも知れない。


 もし一人でここに来て、この絵を見て。

 さっきと同じ感想が自分の口からいて出たのだろうか。

 もしも苦手な人と一緒だったらこの絵をじっくりと眺めて春の香りをイメージするような余裕を持てただろうか。



 気分や、気持ちや、傍にいる相手によっても感じ方が違う。

 成程、ラルフのいう事も一理あるかもしれないとカサンドラは大きく頷いた。




 ※



 絵画だけではなく、精緻に彫り込まれた彫刻や手書きとは思えない模様で描かれた壺など、展示されている美術品には目を奪われる。

 カサンドラの生家や今住んでいる別邸にも綺麗で高価な調度品、飾りは沢山揃っているはずなのだけど。


 これが芸術だとインパクトのある造形、真似できない一点物の細工を前面に押し出されてその勢いに呑み込まれる。


 王子と一緒にそれらを見て回るのは楽しかった。

 静かで雑音の殆ど無い、でも互いに小声で感想を言い合える。

 他のお客さんの迷惑にならないように近づいて内緒話のように話すのは新鮮だ。


 劇場で演劇を見た時は私語厳禁といった場所だったけれど。

 穏やかな空気、美しいものに囲まれて彼と共に歩くだけで心が浄化されていくような気持ちになるのだ。


 ジェイクが同行していなくて良かったとリゼへ心から感謝する。

 彼は普段の話し声からして大きいし、静かに見て回る時に彼の存在がチラチラと視界に入ったら――ここまで幸福な世界に入り込むことは出来なかっただろう。

 夢心地どころか、彼の声で一気に現実に引き戻されそうだ。


 それに王子も、彼がつまらなさそうにしていたら居心地が悪い想いをしていたかもしれない。

 ひいてはこの場所をリクエストしたカサンドラも居たたまれない想いになったに相違ない。


 彼女リゼの自爆覚悟の特攻が、ここまで大きな影響を及ぼすとは。

 今頃リゼもジェイクと二人で楽しめていれば、結果オーライと言えるだろうか。



 二階に上がりしばらくして、カサンドラは僅かな違和感を抱いた。

 彼が敢えてある一角だけは避けるように移動し、カサンドラの視線や導線を遮っている場所があると気づいたからだ。


「あちらには何があるのでしょう」


「……あ、カサンドラ嬢。

 そちらの展示物は……」


 隠されれば、気になるというものだ。

 二階の奥、西側の部屋をカサンドラはひょいっと覗き込み――そして、王子が避けていた理由を知った。


「まあ、凄い。

 素敵な肖像画ですね、王子」


「………。出来ればこれは展示拒否をしたかったな……」


 彼が片手の指で顔を覆い、何とも言えない脱力した声を上げて近くの壁に背を着けた。


 部屋の中に一枚の肖像画がデンと飾られていて、それはまごう事なき王子の姿を描いたものだ。

 恐らく学園入学前の時期に描かれたらしい、絵の中で凛々しい表情の王子が豪華絢爛な椅子に座っているではないか。


「あの白い虎は、本当に飼われていたのですか?」


 王子の背後から椅子に乗り上げるように、白い毛皮に黒い線の入った白虎の姿も在る。

 雄々しい虎の姿は、壮麗な一枚の肖像画に入り込んで一層の『力』を絵に籠めていた。


「……。

 あれはただのイメージだよ。

 物足りないから動物を足して描いて良いかと聞かれたけど、まさか虎が足されるとは思ってもなくて」


 現実の自分より二倍は大きいだろう肖像画から目を逸らす王子。

 もしかしたら恥ずかしいのだろうか。


「ラルフに笑われてしまったしね。

 出来れば、知っている人には見られたくなくて」


 まるで現実の虎そのものと見紛う、忠実に描かれた白き虎。

 だがそんな獰猛でインパクトのある動物さえ背景の一つ、小道具という添え物にしてしまう王子の端麗な容姿にカサンドラの目は釘付けだ。

 今まで見たどんな芸術品だろうが、彼を前にすれば前座に過ぎない。


「ジェイク様の同行を遠慮された理由でもあるのですね」


「リゼ君の提案は渡りに船としか言いようが無かったね。

 絶対に笑われたに違いない。――こんな仰々しい格好で、実物がこれだからね。

 滑稽に映るだろう?」


「いいえ!? そのようなことは決してございません!

 確かに肖像画の迫力は素晴らしく、芸術的価値の高い逸品であることは確かですが。

 本物の王子には敵いませんもの!」


 思いっきり語気を強めて断言してしまい、彼がこちらの勢いにぎょっと気圧されていることに気づく。

 引かれてしまっただろうか、とカサンドラは背中に汗を流して、しどろもどろだ。


「え、ええと……

 王子ご本人が素晴らしいからこそ、こちらの肖像画の完成度も高いのですね。

 一緒に描かれた虎も良くお似合いで。

 本物の王子には及ばずとも、美術館に飾られる肖像画を描けるなんて――とても優秀な画家だと感心致しました」


 彼は口元に手をあてがい、クスクスと笑う。

 抑えきれないとでも言うように。


「そうだ。

 カサンドラ嬢、君も描いてもらってはどうかな?」


「え!?」


「この肖像画を描いた絵師は王宮にも出入りしている。

 彼がカサンドラ嬢を一目見れば是非描いてみたいと言い出すだろう。

 君は何を添えてもらえるのか――私は天馬ペガサスを推してみるよ」


 それは少々、いや、かなり恥ずかしい。


「私一人の肖像画だけここに飾られるのは結構恥ずかしいものでね。

 良かったら君も一緒にどうかな」


「わ、わたくしは遠慮させていただきたく……!」


 こんな大きな肖像画、しかもオプションで幻想動物入りの迫力増しだなんて想像しただけで恥ずかしい。

 しかも王子と同じ部屋に飾られるとか、落差の激しさで見ている方も反応に困ってしまうだろう。



 どうやら自分はからかわれているらしい。

 楽しそうに、どこか悪戯っぽい口調の王子の反応は初めて見るような気がする。



 この肖像画が展示されているのが彼にとって相当恥ずかしく、隠そうとしていたのにカサンドラが発見してしまったことが悔しいのかも。





「ここに飾られるのが嫌なら、王宮に飾ることは十分可能だから。

 その気になったら教えてもらえないかな」


 




 肖像画は苦手だ。

 じっとしている時間が苦痛だし、親しくない相手にじっと穿たれるように見られるのは良い気持ちはしないから。




 それに自分の肖像画を王宮のどこかに飾られると想像したら、やっぱりそれも恥ずかしくて無理だとカサンドラは全力で首を横に振った。

 

 


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