第304話 <リゼ>
三学期に入って初めて、ようやく剣術教官フランツの姿を見ることができた。
彼の姿を見ないまま一月くらい時間が経った気がする。
先週はジェイクやジェシカといった上級者たちが揃うグループに混じって講座を受けていたので、フランツの姿が大変懐かしい。
剣術大会で上位に入賞したのだから彼に指導を受けることもなくなるはずだったのに、幸いにも週に一度は個人的に指導を受ける事が出来るのだ。
自分でも特別待遇だなぁと苦笑いを浮かべたくなる。
ずぶの素人女子がたった数か月で並み居る男子生徒に打ち勝ってその位置に着けたということは学園創設以来の快挙らしい。それに対する褒章ようなものと捉えている。
そりゃあそうだろう、リゼだってジェイクの事が無ければ剣を習おうなんて欠片も考えなかった。
元々身体能力が高いなら話は別だが、自分は自他ともに認める運動音痴。
初期の頃の全く右も左も分からずすべてにおいて覚束ない自分を一から根気よく指導してくれたフランツ。彼は案外世話焼きなのかも知れない。
さほど気の長いタイプには見えないが、こちらが真剣に臨めば彼はそれを笑うことなく真面目に基礎的な事から教えてくれた。
年が明けて最初の挨拶――と言った場面だが、フランツはリゼを見て驚き目を丸くしたではないか。
小さな目を目いっぱい開けて、怪訝な顔。
「久しぶりに会ったって言うのになんつー顔してんだよ、お前」
「フランツさん、ご無沙汰です。
……いえ、何か今物凄く気持ち悪くて」
リゼは眉間に皺を寄せ、大仰な仕草で肩を竦める。
「なんだ、変なモン拾い食いでもしたのか」
寒さのせいか、厚い外套を纏って姿を現わしたフランツは、手を腰に当てて呆れ顔だ。
確かに自分でも、曲がりなりにも『師匠』を迎える態度で無かったことは自覚しているけれど。
本当にモヤモヤして気持ちが悪いのだからしょうがない。
「しませんよ!
まぁ、正確には気持ち悪いっていうか気味が悪いってとこですが」
「なんだそれ」
挨拶もそこそこに、リゼは準備運動を始める。
今に至っても体は固く、事前の柔軟にはかなり時間を掛けてしまうリゼ。どうやら一度固くなった体の筋は、そう易々と柔軟性を取り戻すことは出来ないようだ。
「……んー……」
未だ納得できないというか、釈然としない態度で足首手首をぐるぐると執拗に回す。
原因は三つ子の妹――リタだ。
先週までは”この世の終焉が来たれり”、と言わんばかりの悲劇を背負っていた様相だったのに、週が明けた途端急にいつも以上に溌溂とした様子を見せたのだから。
いつも元気が特徴の明るいリタが悄然としているのはリゼも気がかりだし心配していたことは事実だ。
無理にとは言わずとも、少しずつ立ち直って欲しいと同情心でいっぱいだった。
妹の悲しみややるせなさは決して対岸の火事などではない。
いや、なんだかんだ言っても妹だ。
やはりリタが落ち込んでいればこちらも気落ちする。
直接部屋を訪ねて慰めに行くのも自分が彼女の立場なら嫌だと思うし、そっと見守るしか出来ない状況だった。
だがいきなり今朝になって、底抜けの元気の良さを見せつけてきたのだから顎が外れそうになったのはリゼだけではなくリナもそうだと思われる。
一体何があったのだと聞いても彼女は下手な誤魔化し方で「なんでもないけど?」なんて半笑いだ。
あれ程ラルフの事をいつも一番に考えていたリタが、掌をくるくると返すように無関心になるなんてありえない。
でもいくら心境の変化を聞いても返答はなしのつぶてだ。
だから早々にリゼも詰問するのを辞め、何事もなかったようにリタに接しているのだが……
とにかく気持ち悪い。
ニヤニヤと笑い出したかと思えば真顔になったり、そうかと思えば急に机に突っ伏して肩を震わせたり。
一体彼女の中ではどんな感情の連鎖反応が起こっているというのか。
その薄気味悪さに当てられたせいだろう、胸の辺りがモヤモヤして気分が悪い。
何が嫌かと聞かれれば、自分と同じ姿かたちの持ち主にそんなしまりのないだらしない顔を晒されたくない。
時折見せるニヘラ~とした笑い方は見ているだけで恥ずかしい。
出来れば彼女の顔に袋をかぶせ、落ち着くまで誰の目にも触れないところに仕舞っておきたい程だ。
リゼのそんな気持ちなど、届くことは無いのだろう。
ラルフ関係で何かあったのかと推測は出来ても、そこまでだ。
元々想像力が豊かではないし、そもそもリタとラルフの関係性など事細かく知っているわけでもない。
何とも言えない煮え切らない気持ちで今日一日過ごしていたのだ。
「ラルフ様の舞踏会の件を小耳に挟みまして」
「ああ、ヴァイルの坊ちゃんな! すごい大掛かりなことになったらしいな」
かなり他人事だ。
フランツにとっては明日の天気よりもどうでもいい事に違いない。
「そのラルフ様ファンの特待生が、先週までその件で落ち込んでいたかと思えば急に今日になってニヤニヤ機嫌良さそうにしてるのを見てしまって。
先週のあの落ち込み具合は何だったのかと脱力ですよ」
慰めるなんて、リゼにとっては高度で難しい対人技術だ。
そもそも慰める――というのは結局同情であり、相手と同じ立場でない以上は一段上から立った目線での慰撫に過ぎない。
リゼは自分がプライドが高いことは自覚している、そのせいで余計に同情なんかされたら逆に腹が立つと想像してしまうので。
妹が今まで失敗して落ち込んだ時にも、明確な”言葉”で慰めたことなど滅多に無い。
他人ごとではなかったから。
その辛い気持ちが手に取るように分かったから一緒の立場で「元気を出して、大丈夫だから」と声を掛けることが出来た。
……にも拘わらず、今日になって何もかも無かったことのように振る舞われれば、行き場のない想いを持て余してしまうというものだ。
「まぁ年頃の娘だからなー、坊ちゃんの事に完全に諦めがついたんだろ。
で、今は別の誰かと宜しくやってるんじゃないか?」
「それはない――と思いますけど」
好きだった相手に今度正式な婚約者が決まります! この恋はもうおしまいですね、次の出会いを探しましょう。
なんて器用な性格には思えない。
吹けば飛ぶような軽い気持ちで、彼女が必死になって苦手な事を頑張れるとも思えない。
「なーに言ってるんだ、今まで全然そういう話に縁が無いって散々言ってたじゃないか。
お前にオトモダチの何が分かるんだ?
失ったものを新しいもので満たすってのは何もおかしいことじゃないだろ」
フランツのド直球の突っ込みを受け、リゼは沈黙した。
もしも恋だ好きな人だという実体験が無ければここまでモヤモヤはしなかったかも知れない。
気分の軽さに呆れるだけで、そういうものかと無理矢理自分を納得させた。
そもそも「身分の遠い相手に何言ってたんだか。夢から醒めて良かったじゃない」なんてしたり顔で傷口を抉っていた可能性さえ考えられる。
無知って怖い。
恋愛は楽しい事ばかりでも悲しい事ばかりでもない。
日々の生活や価値観に色んな彩りを添えてくれるものなのだと、この歳にして初めて知った。
「そんなに他人の惚れた腫れたに興味があるなら、お前、今度紹介してやろうか?」
「要りません」
何を言い出すのだ、このオッサンは。鋭い声で即答し、彼はその勢いに軽い溜息を落とした。
「いやぁ、ここで話すのもなんだけどな」
全く興味もない話だ。
何故自分が他の男性と同席して話をする機会を剣術の教官から提供されなければいけないのか。
あまりにも不適切な話に眉間に寄った皺が戻る気配が無い。
しかし彼の話をよく聞いていると、ドキッと心臓が大きく鳴った。
フランツと懇意にしている城の文官、その男性の部下にリゼと同じように異性に全く興味の無いタイプの女官吏がいるのだという。
部下の行く末を心配し、せめて出会いの機会でもとお節介を大爆発させていた彼と――全く男っ気が無く可愛げの欠片もない腕っぷしだけ強くなっていくリゼにその姿を重ねて渋面を作っていたフランツ。
その話はいつか聞いたことがあるような気がするが、自分には関係の無い話だと聞かなかったことにした。
明確に拒否した、はず。
何故今頃と思っていたら、どうやらそのリゼに興味を持ってくれた男性と、その女官吏に好意を寄せている男性がとある貴族の兄弟。次男坊と三男坊という奇妙な取り合わせだと判明したせいだ。
これも何かの縁だ、良かったら四人で一度会ってくれないか……とリゼがうんざりするような嬉々とした申し出があったそうだが。
問題はフランツがさりげなく口にした貴族の三男坊。
どこかで聞いたことがあると思うまでもなく、同じクラスのあいつか! とすぐに脳裏に思い浮かんでしまった。
武術大会の日に滅多矢鱈に話しかけてこられ、対応に苦慮することになったクラスメイト。
カサンドラが助け舟を出してくれたから事なきを得たが……
まさかここで名前が出てくるとは思わず、リゼは絶句した。
フランツが言うように女らしいところもなく、可愛げもない。ゆえに目の肥えた男性からは完璧に視野外に存在するはずだった。だがそんな自分に興味を持つ奇特な男子生徒がいたことに驚愕したものだ。
接点もなく、リゼもあれから避けるような態度をとっているので会話も無い状態のクラスメイト。
こんなイレギュラーなところから声を掛けて来るとか予想も出来ないからめ手ではないか。
「結構いい話だろ? 知らない相手じゃないんだし、話も――」
「フランツさん」
心臓の鼓動だけが速くなる。
だが手足の先は外気温のせいではなく、別の要因で冷え切っていた。
「それ、私にその人の
「はぁ? ……お前な、なんでそう極論から極論に走るんだよ。
そんなわけないだろ。互いに気に入ったら学生同士健全なお付き合いでもすりゃあいいじゃないか」
思わず失笑するところだった。
そうか、この人も元々は貴族の末子だったっけ。
こちらの気持ちは絶対に分からない、間に隔たる溝は海峡のようなものだ。
「私が住んでいた隣町の古書屋に、美人で評判の看板娘のお姉さんがいたんです」
ああ、嫌だなぁ。
リゼは貴族が嫌いだ。偉そうで、傍若無人で、信用ならない。
その拒否反応は妹二人とは比べ物にならない。
今はその色眼鏡も随分薄くなったものだが……
少なくとも学園に入学するまでの自分は貴族という存在が大嫌いだった。
蓋をしていた嫌な記憶が漏れ出て、顔を顰める。
「結構仲良かったんですけどね。ある日、買い出しに行ったらいなくなってたんです。
……わかります? 誰もが口を閉ざして、行方を誤魔化して。
お姉さんがどうなったか」
こんな話はさして珍しくもないらしい。
どこかの貴族に見初められたという話だが、あんなの人攫いのようなものだ。
大人数で押し寄せ、豪華な馬車に無理矢理連れ込んで。
抗議の声を誰も上げることもできず、結局あの町からお姉さんの姿は消えた。
結局お姉さんは己の境遇を悲観し、町はずれの湖に身を投げ出したそうで。
たかが地方の田舎。そこで幅を利かせているような貴族さえ、その程度の『我儘』が平然と罷り通るような環境だった。
結局他の要因でその貴族は立場を追われたそうだが、印象は人殺しとしか思えなかった。
ほんの些細な気まぐれで自分達の暮らしなどいかようにでも変わるのだ。出来るだけ目をつけられないように生きていくのが賢い生き方だと悟らざるを得なかった。
一市民が彼らに逆らうっていうことは、自分だけでなく家族にまで累が及ぶことさえ考えなければいけない。
だから従うしかないのだとい片田舎の町を覆う諦観の空気は、未だに忘れられないものである。
「次男だ三男だって言っても、貴族ですよね? しかも中央の。
私、断ったらどうなるんですか?
庶民風情が、なんて怒った腹癒せで湖に沈めれたりしませんか?」
それくらいの絶対的な発言力の差があるのだ。
意志を通しやすいのはどちらか、同じ天秤に掛けられて重たいのはどちらで、優先されるのは――どっち?
リゼは良く分かっている。
貴族でも何でもない庶民が拒絶したら、どういう事態になり得るかという事を。
「はぁ……。
まぁ、地方の事は知らんがな。
こんな中央でそんな悪行をやらかせるわけない、格好の悪評の的だろう。
……って言っても、まぁ、しょうがないな。
俺も軽率だった。
学園の生徒だからって皆良い奴じゃないし、悪い奴ってわけでもないが……
そりゃあ、うん。
断りづらいよな」
何とも言いづらい気まずい空気が流れた。
「よし、分かった。
俺もお前の教官だ、もし今後、どんな身分が高い相手だろうが――絶対にお前の意志を守ってやる。
どんなに断りづらい相手に言い寄られても、断って良いんだからな! 貴族だ身分だ気にするな。これだけは絶対覚えておけ! 良いな?」
急にフランツも真顔になり、リゼの肩をポンと叩く。
「……いえ、そこまでしてもらうわけには。
今回の紹介話を聞かなかったことにしてくれれば、それで」
「はぁ。
……お前がそこまで貴族嫌いだとは思わんかった」
「今はそんなことないですよ、フランツさんも言っていたように案外良い人多いですよね」
普通に学園で生活を共にする分には、思ったより嫌な奴や高慢な生徒はいなかったのは僥倖だった。
恐らく学園全体の雰囲気は、王子や彼の友人、カサンドラなど上にいる人たちにもよるのだろう。少なくとも彼らはリゼの頭にこびり付いていた王侯貴族と言う固定概念には当てはまらない人たちである。
以前勉強会で王子が言っていたが、実際に接触する機会があるから相手の為人を知る機会を得られる。
それまでたった一つの「嫌な例」によって暗黒に塗りつぶされ蛇蝎の如く嫌っていた高い身分の人たちが、案外良い人だなぁと実感することが出来た。
こういう機会でもなかったら、彼らは絶対に相容れない存在と思い込んだまま反権力思想に染まっていたのかも知れない。
学園に通えてよかったと、将来の仕事のこと以外でも素直に思える。
庶民でも悪い奴は悪い事をするし。それは立場が何であれ同じことか。
視野狭窄だった事は認める。
でも相手がどういう価値観の持ち主なのか分からないのに、異性としての立場で会って欲しいというのは異常なほど警戒してしまう。
蓼食う虫も好き好きと言うし、変に気に入られてしまっては断れずに苦労することは目に見えている。
それにしてもフランツもおかしなことを言う。
『どんなに身分が高い相手だろうが』なんて言うものだから、つい想像してしまったではないか。
恋愛って、やっぱり凄い。
貴族だとか身分だとか、こんなにこだわって「会ってみないか」と話を持ちかけられるだけで、過去の嫌な記憶を呼び覚ましてああだこうだと考えてしまうのに。
率直に言えば、虫唾が走った。自分に興味があると言われて嫌悪しか感じなかった。
でも、絶対にそんな反応にならない唯一の例外を自分は知っている。
好きな人に好きだと言われたら、そんな拘りさえ些末なことになるのだろう。
自分にとって、ジェイクの属性は貴族というよりは全く別次元の好きな人という唯一無二の存在過ぎて――
想像するだけで、のたうちまわって地面に蹲りたいくらい正気を保てなくなってしまう。
それと同時に、やはり最初の疑問に立ち返って不思議でしょうがなく思うのだ。
――果たしてリタはこの想いが潰され、どうやって乗り越え 今日 あんなに笑っていたのだろうか、と。
謎は深まるばかりだ。
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