第303話 <リタ>


 カサンドラにはああ言ったが、やはり――気分は晴れない。

 分かりやすく落ち込んでいる。


 ラルフのお嫁さん選びのための舞踏会が一体いつ開かれるのかは分からないが、近い内に開かれることは確定だ。

 ……そこで幸運にも彼に声を掛けられたお嬢さんが、ラルフの婚約者――つまりは代替わり後の公爵夫人という事になるわけで。

 次期公爵ロードという立場の彼の隣に立つには、当然それに相応しい立場の人間であるべきだ。


 理屈は分かる。

 でもモヤモヤが止まらない。


 もしも出会った当初、彼に正式な婚約者がいたとしたら、自分は果たして彼の事を好きになっただろうか。

 人の婚約者モノに横恋慕するほど野暮ではないつもりだ。


 もしかしたらそれでも好きになっていたかもしれない、か。

 きっとそうだった。

 自分の好みなんか一朝一夕には変わるまい、同じクラスに彼が居たら間違いなく同様に好きになっていただろう。

 そして好きだと言えず、鬱々とした気持ちを抱えて過ごしていたはずだ。



 ……でもここまで好きになることは無かった。きっとすぐに諦めがついただろう。

 最初に憧れを抱いただけの段階なら、しょうがない、と自分を納得させることは可能だったと思う。

 どうせ最初から手が届かない人なのだから。



 でも今は……



 第一印象だけでここまで気持ちは膨れ上がることはない。

 彼と一緒に過ごせた時間の積み重ねで、自然と気持ちは大きくなっていった。


 今まで自分が彼と二人きりで会えたり、誕生日に積極的に会いに行こうと思えたのは彼が誰のモノでもなかったからだ。


 その前提が崩れてしまえば、もう二度と彼の前に姿を現わしてはいけない気がする。

 どう転んでも迷惑にしかなりそうもない。


  

 ……幸運だったのか、不幸だったのか。


 こうして、今の今まで――夢を見ることが出来ただけ、幸せだったと思うべきなのか。

 いつか魔法は解ける。




  長い長い夢から醒める。





 ※





 時間が余ると余計なことばかり考える。

 何事もなかった日常なら当然のように快眠なのに、近頃は寝つきが悪かった。

 だから寝坊も増える。



「あ……危な……!

 遅刻するところだった……!」



 寝起きに時計を確認して悲鳴を上げ、慌ただしく支度を済ませ寮を飛び出す。

 今日は日曜日、アルバイトの日だ。



 身体を動かした方が気が紛れる。

 今日は冬休み中は休みをもらっていた劇団のアルバイト。


 力仕事が主だった仕事で、劇団に勤めていると言っても全くの裏方で働いている。


 落ち込む暇のないくらい忙しい時間を過ごせば、少しは心が軽くなるだろう。

 遅刻スレスレ全力疾走。

 何とか間に合い、ホッと胸を撫でおろす。




「――あ、しまった」


 慌てていたせいか、カサンドラから借り受けているレースをあしらったハンカチを持ち込んでしまったようだ。


 いやぁ、この歳になってまで泣くわ鼻水を垂らすわで何という醜態を晒してしまうとは思わなかった。

 思い返すと恥ずかしさのあまり消えてしまいたくなる。


 動きやすく汚れても良い、そんな適当な姿に着替えた後、ハンカチを鞄の中にしまおうとしゃがみこんだその時。

 小部屋にシェリーが入って来た。

 女性専用の準備部屋ということもあり、特に気にすることもなく「おつかれさまです」と笑顔を向けたリタである。

 だが彼女はリタの姿を見つけるや否や猛然と近寄り肩をガシッと掴んできた。


 何なのだ急に。

 掴まれた肩越しに彼女の緊張感みなぎる顔を見上げた。


「……?」


 え、何この迫力。リタは二の句を継げなかった。


「リタ。……貴女、今すぐ応接室に向かいなさい」


「え? でもこれから準備ですよね?」


 シャルローグ劇団はその名の通り、当然演劇を披露するための集団だ。

 これから行われる劇のために、裏方は事前準備に余念がない。特に数か月近く同じ演目を公演しているせいか、脚本や演出を変えて何回か観に来たお客さんを飽きさせないという工夫も凝らしている。

 完全に流れ作業だと思うと足を掬われるので、自分が休んでいた間変わったところを確認しなければいけない。

 打ち合わせをシェリーにお願いしようと思っていたのに、急に応接室に行けとは。


「そんなのどうとでもなるから。

 今はとりあえず向かいなさいな。

 ラルフ様を待たせるなんて私は嫌よ、とんでもないわ」


「……はい?」


 ラルフが何故、自分を呼びだすのか?

 そもそも彼は本当に劇場にいるのか?


 よくわからないまま、半信半疑のまま指定された部屋へ向かうことになってしまった。


 劇場内は清掃要員の一人としてあちこち派遣されているので、全容は分かる。

 分かるが……

 応接室なんて掃除に入ることはあれど、呼び出されて訪れる場所ではないはずだった。



 「失礼します」と扉をノックするものの、やっぱり疑わしい。

 もしかしてシェリーが自分をからかったのか? 遅刻スレスレの弛んだ自分の心に喝を入れようと驚かせたとか。


 ……彼女は自分がラルフに憧れを抱いていることは知っているだろう、だから慌てふためかせるように彼の名を使ったのかもしれない。


 悪戯好きの美人さんだ。

 共通の知人がラルフしかいないから呼び出されただけなのでは?


 自分の手が借り物のハンカチを握りしめていた事に今更気づき、ポケットに入れようとしたその時。

 あるはずのない返答が、応接室の内側から響いた。


 その声が聴き間違えることなどありえないラルフ当人のものだと、扉越しでも分かってしまう。

 サーーーッと、血の気が引いた。

 現実が一気に押し寄せてくる。





    まさか、馘首クビ宣告!?





 繁忙期の年末年始の仕事の要請を断ったから使えないと見切られてしまった!?


 リタは足をガクガクと震わせ、折角綺麗に洗濯し終えたハンカチで額から流れる汗を拭く羽目になる。




 ※




「仕事中、急に呼び出して申し訳ない」


 応接室の中には果たして、確信した通りラルフが居た。

 こんな朝早くに彼が劇場にいるとは珍しい。


 彼はこの劇場で演奏を担当する日もあるが、その場合は劇場入りは昼以降。

 しかも今のような普段着ではなく、黒のタキシード姿でご登壇だ。

 ……普段着とは言っても、シンプルな格好でも貴族オーラに満ちているので眩しく光り輝いて見える。

 宝石の台座が何であろうが宝石自身の輝きは変わらないとでも言わんばかりの素材の煌めきに圧倒されるばかりだ。


「いえ! どうせ私なんかものの数にも入りませんし!

 いなくっても、別に……」


 反射的に口を衝いて出た言葉に、リタは思わず口を押えて両肩を震わせる。

 そんなに無能な裏方ならいなくても良い、人件費の無駄だから馘首クビだと言われる下地を自ら作ってどうする。


 まな板の上で捌かれる魚か、自分は。しかも自ら鱗を脱いで何枚にでもおろしてくれと言わんばかりの潔さだ。


「君が参加してくれることで随分助かっているという話は僕も聞いているよ。

 冬の休暇中にリタ嬢に来て欲しかったと何度も聞いた、是非これからも彼らを助けてあげて欲しい」


「……ありがとうございます……!」


 他には誰もいない応接室、普段自分が座るなどおこがましい立派なソファにラルフと向かい合って座っている。

 この特異な状況にリタの心は全く追いつかないが、ラルフが気を遣ってくれているのか優しい言葉をかけてくれて思わず滂沱とする寸前だ。


 まだ完全に暖まり切っていない部屋の中、一体彼が何の用なのだろうかとそればかり気になってしょうがない。

 それからしばらく、仕事アルバイトの件で不自由や困っていることがないか話を振られたが、現状全く何の問題もないので返答しようがなかった。

 クビ宣告というわけではないだろうが、まさか職場環境の聞き取り調査のためにわざわざ彼が自分を呼びだしたわけでもないはずだし。


 僅かな空白、沈黙。

 それを経てようやく本題に入る雰囲気を察知し、リタは膝の上に重ねて置いている手の先に力を込める。

 しまうタイミングを逸したハンカチを握りつぶさないよう気をつけながら。ごくりと喉を鳴らした。

 



「今日こうして呼んでもらったのは、他でもない。

 リタ嬢。君に協力して欲しい事がある。

 ――どうか僕の話を聞いてもらえないだろうか」


 急に真剣な表情になって、彼は少し声の調子トーンを落とす。

 麗しいとしか言いようのない笑顔が、スッと真顔に変わるのを見届けながら、リタは思考の許容量を超えている。


「ラルフ様が……ですか? 勿論私に出来る事でしたら何でも協力出来ればと思います」


 だがこんな一市民が一体彼のどんな役に立てるというのだ。

 弾避けか? 

 いや、こんな小娘に頼らないといけないような身分の人間ではないだろうし。


 とりあえず彼の話を聞かなければ進まない。

 耳をそばだて、一言一句聞き漏らすまいと身を前に乗り出した。


「ありがとう。

 ……リタ嬢は、僕が現在婚約者がいない気楽な身の上だということを知っているだろうか」


 反射的に大きく頷いた。

 今まさにそんな話を突きつけられ、頭の中が「?」で埋め尽くされている。


「僕の立場上、非常に稀な状態だとも」


「そう、ですね。

 普通に考えれば、王子のようにご入学前から将来を約束したパートナーがいるのが自然――だと思います。

 でもジェイク様やシリウス様のこともありますし、あまり不自然には感じませんでした」


 言われてみれば不自然で、彼らのに婚約者がいないから学園内はいつだって騒がしい。

 誰もが彼らに選ばれる機会があるのではないかと諦めていない事は、同じクラスにいれば嫌でも分かってしまう。


 リタは田舎の村出身だ。

 子供の頃からの婚約者だ許嫁だという概念が無い環境で育っているので、いないならいない、という状況に不自然さは見出せなかった。

 むしろそれをラッキーと感謝し、遠慮なく好きになれたわけで。


「まぁ、結局候補者を一堂に会しての選定をしなければいけない事態になったわけなのだけど」


 ズキッと心が痛い。

 一番触れて欲しくない傷口に、ぐりぐりと棒の先端を押し付けられているような痛みを覚え、リタは唇の内側を噛み締めた。


「だがここまでパートナーが決まらなかったことには当然それなりの事情があってね。

 舞踏会を開くと決まったものの、安易に婚約者パートナーを選びたくないと考えている」


 えっ、と顔を跳ね上げて彼の表情を伺う。

 淡々とした語り口調ながらも、どこか辟易とした感情が使わって来て戸惑った。


 嫁選びのための舞踏会を開くが、正式な婚約者を選びたくない?


「正式に婚約者だと決まったところで、近い将来破棄する可能性も十分に考えられる事情は未だに変わらない。

 今回招待した令嬢達の誰かを選んだ後、そうなってしまった場合――僕としては困ってしまうわけだ」


 彼の指し示す『それなり』の事情は分からないが、リタには伏せられるべきやんごとなき事情が絡んでいるのだろうことは分かった。

 話し方や表情のニュアンスの微妙さのせいで、詳しく聞くことを躊躇ってしまう。


 だが婚約者を”選びたくない”という事情があることは確かなようだ。

 その一点、一縷の望み。僅かに射しこんだ一条の光に、その他の事を深く考える余裕がなくなる。


「それに僕も――

 婚約者不在問題を抱えたままで学園生活を過ごしたくないと思っていてね。

 架空の婚約者を選ぶことで、これらの問題を解決したいと考えている」


 お嫁さん選びの舞踏会で一人を選んで「婚約者だ」と宣言すれば、ラルフに婚約者が出来たと誰もが認識するだろう。

 こんなに強烈なアピール方法は他にない、と思えるほどだ。


 だが後々婚約を破棄する段になっても、最初から存在しない人間なら破棄も何もあったものではない。ヴァイル家にとっては都合の良い話になるのか。

 集められた令嬢達を騙すことになるが、ラルフに面と向かって事情があると言われれば「そうですか」と頷くしか出来ない。


 そして架空でも婚約者がいるということになったら、学園内でのラルフへのアプローチもぐんと減る事だろう。

 恐らく、ラルフの正妻の座を狙っていた女生徒達は、保留にしていた自らの婚約話を進めることになる。


 何故か目の前の池でチラチラと姿を見せる大物の錦鯉ラルフを釣ることが出来ないと分かれば、本来の身の丈にあった男性パートナーを選ばざるを得ない。


 そして正式な婚約者がいる以上、ラルフに目立った秋波を送ることも出来ず結果的に彼も助かる。


 ……何より重要な点は。

 本当は婚約者がいないから、自分が彼を好きでも今と状況が変わらない……いや、むしろ良くなる!?

 彼の周囲にいる女生徒が一気に減れば、それだけで話すチャンスも増えるかも!


 思わず両の手を組んで大きく頷いてしまうくらい、凄い話を聞いてしまった。



「そこで、リタ嬢に頼みごとがある」


「何でしょう!」


 裏事情を教えてくれるなんて、自分にしか出来ない役回りがあるということだ。

 どんなことであれ是が非でも役に立ってみせようと気炎を上げていたリタである。





「舞踏会で僕の架空の婚約者役を演じて欲しい」






「………な、なぜ……?

 ……私? あの……?」




 色んな思い出がまるで走馬灯のようにぐるぐると頭の周囲を駆け巡る。

 それは長い時間のようでもあったし、刹那のようでもあった。


 パニックに陥って左右の腕をわたわたと変な踊りを踊るように動かしている。



「わ、私はただの庶民ですよ。

 そんな大層な役回り……」


「――?

 言っただろう、偽りの婚約者のつもりだとしても、実在のお嬢さんを相手に舞踏会の最中に宣誓すれば偽りではなくなってしまう。偽りの婚約者を演じて欲しいと依頼したところで、親御さんがそれに納得してくれるだろうか。

 ――婚約破棄ともなれば、仮に瑕疵がなかったとしても社交界での評判に影が差すことは間違いない。先方が易々と申し入れを受け入れてくれるとは考え難く、必ず遺恨が残る。

 本来、家同士の婚姻話は個人間の意思で無かったことに出来る程軽いものではないのだし」


「……でも、貴族でもお金持ちのお嬢さんでもないのに、どうやって舞踏会に入れと!?」


「ああ、その辺りは心配しなくてもいい。

 手配も用意も全てこちらが請け負おう」


 彼はこの場に至って、文句のつけようもない笑みを讃えているではないか。

 ヴァイル家がラルフのために催す舞踏会だ。

 そこに自分一人紛れ込ませるのは難しくない――のだろうか。

 正式な招待状があれば、何百人もいる会場に入ることくらいは出来そうだが。


 わぁぁぁ、と頭を抱えるリタ。

 目がグルグルと回っている。


 今の状況が非現実的過ぎて、全く感情も理解も追いつかない。


 要するに自分が舞踏会でラルフに選ばれ、婚約者にすると宣言されることで――

 ラルフが助かるということなのだろうか?



「勝手な事をお願いして申し訳ないと思っている。

 だが、これは君にしか頼めない。

 君に断られてしまえば、リスクを覚悟で誰かを選ばなければいけなくなってしまう」


「………。

 常識的に考えて……私が、出来ると思いますか?」



 ただの、こんな一庶民の身の上で。

 仮にも国を代表するような貴族の御曹司、彼の婚約者役を務めるだと?

 仮初とはいえ……やりおおせるとは思えない。


 いつも前向きなリタも、流石にこの申し出には臆した。


 軽々しく受け入れられる程、リタは世間知らずではなくなってしまったのだ。

 この学園に入る以前なら、気楽に喜んで手を挙げたかもしれない。でも特異な立場、高貴であるということの意味を自分は知り過ぎてしまった。


 気後れし、躊躇う。

 ラルフはそんな自分を宥めるように語り掛けてくれた。


「貴族でもない普通の女の子が、貴族の令嬢らしく振る舞うという事はとても難しく、中々出来ることではない。

 でも僕は選択講義を受ける君の姿を入学時からずっと見てきた。その成長ぶりは目を瞠るものがある。

 キャロル嬢や講師の話を聞いた上で、僕自身が判断したことだ。


 君ならば――彼女達の中に混じっても全く遜色ない立ち振る舞いが出来る、と」




 その場にいる候補者を納得させるだけの気品がなければ務まらない。




 ぞわっ、と全身総毛立つ。

 自然、膝の上に置いた白いハンカチに目が行く。そこにカサンドラ本人がいるわけではないのに、まるでこれを通して全てやりとりを見られているかのような錯覚に陥ったのだ。


 彼女は最初からこうなると知っていたのだろうか。

 きっと彼の深い家の――公にはし辛い事情を知った上で、リタに今まで細かく選択講義を助言してくれたのか?


 今更ながら彼女の遠望の利いた視野に恐れ震えるリタである。

 ここまで先を見通した考えを持てる事が怖いと背筋が凍る想いだ。


 無駄ではないかとさえ思っていた今まで積み重ねてきた経験が知識の小高い丘。それがまさかここでドンっと眼前に現れるとは。

 一体他に誰が想像し得たであろうか。


「それに君は化粧や装いによって随分雰囲気が変わる。

 ――例え学園内で君とすれ違っても、僕が選んだ婚約者だと看破できないだろう。

 君の学園生活に今後も一切の支障は来さないはずだ」


 架空だから、実在されては困る。

 化粧を落とせば、”いなくなる”。


「言われてみれば……

 カサンドラ様にも気づかれませんでした」


 化粧師さんやシェリーのちょっとした悪戯ごほうびの事を脳裏に呼び起す。

 あの時、普段自分と多く接しているはずのカサンドラさえ「こんなところにいるわけがない」という思い込みのせいかも知れないが、リタだと気づかず通り過ぎた。

 彼女の目さえも誤魔化せるなら、普段自分に一切の関心を払わない学園のお嬢様に見抜かれることはないだろう。

 あれをリタだと一瞬で見破ったラルフがおかしい。

 自分でも完全に別人だと思ったのに。




「君にしか頼めない……というより。

 君がいるからこの案を思いついたとでも言うべきかな。


 どうか協力してもらえないだろうか」





 彼は婚約者を選びたくないという事情があるらしい。

 自分が架空の婚約者を引き受けないと言えば、呼び出されたお嬢さんの中から誰かを選んで婚約者にしないといけないのだ。

 

 そこまでは確かな情報と考えていいだろう。




 無理だと言えば、彼は架空ではなく実在するお嬢さんと婚約してしまう。

 彼の言う通り、一度交わしてしまった婚約話を破棄することは相手に対しても大変大きな傷をつける行為だ。

 舞踏会で婚約者を選ぶという行為が避けられないなら、自分が実在しない架空のお嬢さんとして彼に選ばれるしかない。




 ……それにいずれ破棄することになるとしても、公に彼の婚約者が決まるのは    嫌だ。





 例え偽りでも。

 あとくされなく使える都合の良い庶民こまだとしても。

 例え一日限りの儚い瞬間であっても。

 周囲の目を誤魔化すだけの演技が出来るなら。





 掌に掻いた汗が、ハンカチに滲んでいく気がした。

 これはもう新しいものを買って返さなければ、なんて場違いな事を考えて苦笑を浮かべる。


 彼女カサンドラが導いてくれたこの機会を、尻込みして臆して不意にしてどうするのか。


 己の内を奮い立たせ、ぐっと拳を握りしめた。





「ラルフ様のお役に立てるなら、是非、協力させてください!」



 言い切った以上は後には引けない。

 やっぱり叫びだし、その場に蹲りたい想いに駆られる。


 なんて大それたことを、と。


 でもこの役は自分しか出来ないと言ってくれた。

 仮に他に候補がいても他の誰かに任せるなんて絶対嫌だ。



「ありがとう、リタ嬢。

 君に不利益を齎すことは決してないと改めて約束する。

 実のところ八方塞で困っていたんだ、引き受けてくれて本当に助かった」



 ホッとしたように笑みを浮かべる彼の顔が、本当に嬉しそうだったから。

 自信の有無を脇に押しのけ、引き受けて良かったと心から思った。

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