第292話 <リタ>
彼女達の話は、まさに寝耳に水だった。
昨日、リタがカサンドラの別邸から疲弊しきって寮に戻った時のことである。
何分初めてのお屋敷勤め、普段使うことの少ない箇所の筋肉が悲鳴を上げていた。もはや素の顔が笑顔の形に変形しそうなくらい、口元が引き攣っている。
「こんな時間に誰??」
リタは湯で濡らした頭をタオルで拭きながら、急に誰かが部屋を訪れた事にノックの音で気づく。
もしもこれが女子寮内でなければ怖くて扉を開けるなんてできなかった。
強盗が律儀にノックしてくるとも思えないし、刃物を持った人間が敵意を持って扉の前に立っているわけもないだろう。
貴族の子女を預かる、王国学園の寮なのだ。
防犯には絶大な信頼を置いている。
「こんばんは、リタ。急にごめんなさい」
突然、リタの部屋にリゼとリナの二人が一緒に訪ねて来たので、大変驚いた。
既に湯も浴びた後、完全にパジャマ姿で二人がリタの部屋にやってくるなど今までなかったことである。
慌てて確認ため時計を見たが、短針は九時だ。
リタは自分が早めにダウンして夢の世界の住人になったのかと錯覚したが、どうやらこれは現実らしい。
彼女達がやってくるのは一向に構わないが、珍しい事もあるものだとリタは怪訝顔でリゼとリナを部屋に迎え入れる。
既に閉めたカーテンの向こうから梟の鳴き声が微かに聴こえた。
「あのね、リタ。とても言いづらいことなのだけど、貴女に相談があるの」
とりあえず二人を部屋に通す。
座る椅子も一つしかないのでベッドの上に二人に並んで座ってもらった。
可愛らしいピンクの厚手の生地で出来たパジャマを着るリナと、どこの田舎のオッサンだと空目するくらい適当な灰色の上着を羽織って隣に座るリゼ。
二人とも自分と全く同じ顔だが、まさしく三者三様趣味も性格もバラバラの自分達。
……いや、もしかしてリゼが着ている上着って父親が着ていたものなのでは……? 洗濯したら縮み過ぎて着れないとぼやいていた記憶がある。
着るものに無頓着なのは知っていたが限度があると思う。
「何? 二人とも改まって、相談って」
すると気まずそうに顔を見合わせ、リタに対して心底申し訳ないと言わんばかりの空気を醸し出す。
それが逆にリタの警戒心を煽る。
彼女達が自分に内緒で先に話し合っていた、余程の事が起こったのかと身構えてしまう。
だが無駄に煽られた緊張感からは程遠い単語がリナの口から放たれた。
「年末に帰省するって話だったでしょう?」
「あー、うん。勿論覚えてる」
今更何を言い出すのか。
長期休暇は実家に顔を出そうというのは既に姉妹間の暗黙の了解だったではないか。
「ごめんだけど、今年の帰省――ナシでもいい?」
唐突にリゼに打診を受け、リタはきょとんと呆けた顔をする。
「え?」
別に物凄く実家に帰りたいなんて思ってない。
ただ普通は帰省するものだろうという常識は持っていたし、家が嫌いなリゼはともかくリナは両親の姿を見たいはずだと思い込んでいた。
ぎょっとしたのは、リナが姉の発言に完全に賛同しているらしいことだ。
ただ、帰省が無しでもいいかと聞かれればリタの答えは決まっている。
「別に良いよ?
むしろそっちの方が私としては好都合。……でも急にどうしたの?」
カサンドラの屋敷で臨時雇いのアルバイトとして今日から働き始めた。
仕事は決して楽なことではないが、とても実りのある有意義な時間だったと思う。
カサンドラは年末年始の帰省もなく別邸で過ごすとのことなので、それなら自分もメイドとして働かせて欲しいなぁと強く思っていた。
渡りに船と言えば現状当てはまる。
だが決まっていたはずの予定が覆ったのだから、当然理由を聞きたくなるというものだ。
特にリナ。
座ったままもじもじと身体を揺すった後、リナは頭を下げて告白する。
「ごめんなさい、私年末にシリウス様と会う約束をしてしまって」
「私も帰省のことすっかり忘れてジェイク様と約束したのよね」
「――ちょっと待って。」
何それ? どういうこと?
思わずリタは迫真の表情で彼女達に凄み、詰め寄る。
声が震えてしまう。
「デート? デートなの? ほんとに!?」
リゼは若干言葉に詰まったが、いやいや、と首を横に振る。
「だったら嬉しいんだけど、残念ながら私は剣の相手をお願いするってだけ。
今日話の流れで、つい。……勢いって怖いわ」
いやいやいや、おかしいって!
今日会ったってどういうことだ!?
冬休み初日に街で偶然バッタリなんて奇跡が起こらないだろうし、一体どうしたらそんな約束が出来るような状況になるのだ。
いつの間に――という言い方はおかしいかもしれないが、着々と距離を縮めすぎではないかと頭がオーバーヒートを起こしそう。
リタは混乱する頭を抱えて「そんなのデートじゃん!」と天井に向かって大声で叫ぶ。
姉妹が自分を置いて遠くへ去ってしまう……!
「だから違うって。
私じゃなくてリナの方がデートだから。
博物館、楽しみね~?」
ベッドに腰を下ろすリゼは、肘でリナの脇をつつく。
……博物館!?
「はい、それはデート!
完全完璧にデート! リナ、一体どういうことなの……?」
「ち、違うの。昨日――終業式が終わった後、たまたまお話をする機会があって……」
試験結果の話になり、彼はリナの健闘を讃えてくれた。
この度リナがシリウスに勉強を教えてもらっていたという話は幾度となく聞き及んでいる、成果が出たならシリウスの態度も軟化して当然だろう。
だが、リナがどうしても中央の歴史に関しては馴染みが薄くて覚えられなかった、という話をしたら――教養を深めるためという名目で博物館に誘われたそうだ。
羨ましいという次元を飛び越えて別世界の話に、リタはその場にしゃがみこんだ。
何それ!? シリウス様ってそんなこと言う人なの!?
「嬉しくてつい二つ返事でお受けしてしまったのだけど。
日程を考えたら帰省期間にかかってしまうし、どうしようって悩んでいたの」
リナはしょんぼりとした様子で肩を
本来先約があるのなら彼の誘いを断るのが筋というものだ。居心地が悪そうで、不安そうな表情も彼女の性格上しょうがない。
「うう……そんなの、そんなの……」
罪の意識に苛まれ、黙っているわけにはいかないとリゼに相談したところ『実は私も』と二人で話し合うことになったそうだ。
リタがアルバイトをしている最中にそんなやりとりが……!
その場に伏して拳を握りしめ、ダンダン、と部屋の床を叩く。
「家に帰ってる場合じゃないでしょ、デート行って来てよ!」
うっ、うっ、と肩を打ち震わせてリタは声を絞り出した。
「だからデートじゃないって言ってるでしょうが。
私だって博物館に行きたいわよ。
その後お茶でもして街でも散策して回りたい……
はぁ。こっちはただの訓練だからね」
リゼの言い訳がましい声もリタの耳には届かない。
どうして二人を責めることなど出来ようか、もしも自分がラルフに誘われていたら同じように二つ返事で頷くに決まっている。
その間リゼ達の顔など全く浮かなばいだろう、恋い焦がれる人からの唐突な誘いに「ちょっと待ってください、その日は帰省予定が」なんて――現実に引き戻るような返答など出来やしない。
そもそも帰省自体、絶対行かなければいけないわけじゃない。
リナは帰りたいだろうなという意識だっただけで、彼女がそれよりシリウスと会いたいというならば優先事項は明らかだ。
敢えて冬の寒い時期に遠い山道を通って故郷で年越しを切望するものではなかった。
「お母さん達には手紙を出しておくわ。……申し訳なくて」
ようやく動揺が収まって来たリタは、ふらふらと立ち上がりながらリナを見遣る。
羨ましさのあまり目が血走っていたのか、目が合った妹は両肩を跳ね上げて足を震わせた。
「そんなに気に病まなくても大丈夫だって。
父さんが貴族のクラスメイトに誘われてるのを振り切って帰省したなんて言ったらどうなると思う?
吃驚しすぎて心臓が止まるんじゃない?」
リタは日和見主義で長いものには巻かれろタイプの父の姿を脳裏に呼び起す。
勿論帰省すれば自分達を歓迎してくれるだろうが、敢えて御三家のお坊ちゃんの誘いを断って帰ってきたよ! なんて知ったら?
椅子ごとひっくり返って『お前たちはなんと無礼な事を』と温厚な彼の説教を食らうまで見える。
「――ということで、リタには悪いけど帰省は見送りたいって話をしに来たの。
冬休みって思った以上に短いのね」
リゼが場を纏め、もう一度こちらに念を押してくる。
いくら普段通りを装おうとしても、ふと見せる柔らかい表情は完全に幸せ感を満喫している表情だ。
家に帰れないことは一向に構わない。
だがしかし、二人がこんなにも相手との仲を進展させているという事実に愕然としてしまうリタである。
特にリナなど、軽々しく予定を上書きするような性格ではないはずだ。
それでも憧れの男性から声を掛けられれば、日付感覚も吹っ飛んでしまうのだから恋愛って怖い。
姉妹よりも、好きな男性。
本音では薄情者と詰りたい心境ではあったものの、相手の立場に立ってみると何一つ文句は言えない。自分だってそうするという確信があり過ぎて困る。
駄々をこねたところでしょうがない、自分は自分の出来る事をするまでだ。
彼女達はカサンドラの最初のアドバイス通り、苦手だった分野に挑戦しそれに結果を出すことで確実に相手に近づいて行ったと思う。
その恩恵に
カサンドラのお屋敷で、自分に足りないものをしっかり学んで身に着ける期間が延びたことを今は素直に喜ぼう。
※
――カサンドラ邸でメイドのアルバイトをする。
当然リナのように元々素養があるわけではなく、リタは大雑把でガサツな性状の人間だ。
細かいことなど気にしない、明日は明日の風が吹くを地で行くタイプだ。
前向きというか、あまり物事を深く捉えないような性格だと自分でも思う。
そんなリタが急にしおらしくお嬢様のような言葉遣いや立ち居振る舞いを求められても、素のままの『自分』では馴染まず齟齬が出る。
照れるし、恥ずかしい。
だからリタは徹底して役に入り込み演技をする事で、本来の自分と求められる自分との乖離を埋めるようになっていた。
自分はお姫様、名前はリリエーヌ。
そう言い聞かせて選択講義の社交ダンスなどに臨み続けていた。
効果はあったが、とても人様に聞かせられる状況ではない。
今回もリリエーヌを演じようと思ったが、少々困ったことがあった。
カサンドラ邸でのメイドのアルバイトは、流石にお姫様という設定では無理が生じてしまう。
王族のお姫様が行儀見習いのために貴族の屋敷に仕えるなんて普通はあり得ない話だ、そこは納得できる状況に拘りたい。
自分はとある国の王女リリエーヌ、隣国の王子に一目惚れをしてしまったお姫様だ。
だが自分の国を敵国に攻め滅ぼされてしまい、リリエーヌは隣国の親戚を頼って祖国を逃げ出した。
身を偽り名も偽り隣国に落ち延び、遠縁の貴族に匿われたお姫様。
リジィと名乗り、メイド見習いを務めつつ祖国解放を願い雌伏の時を過ごす王女だ。
よし、その設定で働こう。
演じる人物像のため、想像の中に出来上がっていた王国を一つ滅ぼしてしまった。
設定上の王様とお后様はどうなったのだろうと無駄な心配をしつつ、リタはカサンドラ邸に再び足を踏み入れる。
昨日は初日という事でカサンドラに挨拶に行ったが、今日からは先輩メイドの指示を仰いで雑用や掃除などをこなさなければいけない。
体力には自信があるが、人の目から見られることを常に意識して行儀よく礼儀正しく振る舞う事は神経が磨り減る。
いくら脳内で王女様設定でも、所詮は演技。紛い物だ。
昨日のカサンドラの凛とした立ち姿を思い出し、リタは今更感嘆の吐息を漏らす。
学園では自分達に声を掛けてくれるカサンドラだが、やはり彼女は大貴族の令嬢だ。
頭の先からつま先まで存在全てが高貴なオーラに満ちていた。
生まれながらに人の上に立つ事が当然として育ってきた人間と、何も持たずにへらへらと適当に生きてきた人間では土台から違い過ぎる。
滲み出る品の良さや育ちの良さに圧倒されてしまった。
あれが気品か、と昨日のカサンドラの姿を思い出して一度喉を鳴らす。
リタは新入りという扱いなのでカサンドラの私室の近くで働くことは出来ない。
同じ屋敷にいながら、全く互いに顔も合わせることなく一日を過ごすことになった。
多少寂しい気もするが、カサンドラを見ていると演技をしていることを忘れそうになってしまうので、集中するためには会えない方が良いのかもしれない。
今は始まったばかりだから良いとしても、これから辛い時や心が疲れた時にカサンドラに泣きつくようになっては困る。
今日もコンラッド夫人が昼食後に特別に指導してくれる事になっている。
本来カサンドラのような高位の貴族の伝手でもなければ教えを乞うなど出来ない礼法作法のお師匠的存在だ。
身に余る幸運を得ているのだ、今は余計な事を考えずに集中して頑張ろう。
リタは蒼い目にやる気を漲らせ、カサンドラ邸の門をくぐった。
今日も一日、頑張ろう!
――いつの日か、リゼやリナのように個人的に彼に声を掛けてもらう日が来るように。
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