第288話 習作


 さて、初心者がマフラーを編もうと考えた場合――果たしてどれだけの時間があれば一本完成させることができるのだろうか。


 試験が終わった後の解放感を味わったのは一瞬だけ、次は新たなもくてきに向けて集中しなければいけない。

 試験についてはもう終了の鐘が鳴った瞬間、『過去』の出来事だ。

 いくら今からジタバタしても結果も順位も変わらない。




「――それではナターシャ。お願いいたします」



 カサンドラは、ともすれば試験勉強に向かう時よりも真剣な面持ちでメイド長ナターシャを自室に招いていた。

 昼食をゆっくり食べる暇も惜しいということで、自室に軽食を運ばせてある。


 完全に巣ごもりモードでやる気満々のカサンドラを前に、指南役のナターシャも僅かに喉を鳴らしたように見えた。

 編み物も勉強と同じで、自分が出来る事と教えることは別次元の問題。


 もしかしたら彼女に大変な負担を強いているかもしれないが、カサンドラが縋れる相手は現状ナターシャくらいしかいなかった。

 器用ではない上に、時間もなく、早く上達しないといけない。

 困った時はいつでもヘルプを要請出来、素早く対処をお願いできる師匠役は今のカサンドラに絶対必要だ。


 彼女は本来のメイド長の仕事もこなしつつ、カサンドラの『我儘』に付き合わないといけない。

 王子へ手編みのマフラーをプレゼントしたいという情熱。それの赴くままにナターシャに泣きついたのだが、ここまで迷惑をかけているのだから中途半端など許されないのだ。


「はい。それでは以前お話したように、編むという動作に慣れていきましょう」


「……あの、一応前回教えて頂いた編み方で……

 自分なりに少しだけ続きを編んでみたのですが。

 いかがでしょう、ナターシャ」


 あまり大きな声では言えないけれど、試験期間中でも起きている間中勉強していたわけではない。

 わずかに少しずつ、指の動きを忘れない程度に文字通り隙間を縫うようにして編んだ布を彼女の前にスッと差し出した。

 作品とは言えない、まだ編みかけの状態の布。


 編み棒にだらんと垂れるような、赤色の毛糸で編んだその布は二十センチくらいの長さだ。


 一段一段、編み目を数えて――と几帳面に数え編み棒を動かして何とかここまで伸ばしたマフラー未満の布。


「まぁ、お嬢様。

 まさか勉強のお時間でこちらを?」


「……休憩時間を使ったものです、目こぼしくださいな」


 チラ、と咎めるような視線を受けて思わず肩を竦めた。

 これに集中してしまい、試験対策がおろそかになっていたのではないかという疑惑の眼差しを向けられたせいだ。

 ただ、誓って言うが予定の勉強時間を割いてまで編み物に執着していたわけではない。


 あくまでも切れた集中力を立て直すための休息、その手段。


 折角ナターシャに基本の編み方や目の数え方、段の増やし方など基本的な事を教わったので二週間の間に忘れてしまっては敵わない。


 本当に少しずつ少しずつ、進めたものだ。編む練習というにも烏滸がましい。


 編んでいる内に目を飛ばしてしまって穴が空いたり端が揃わず凸凹だったり、編む時の力加減が均一でないと変に布地がくびれてしまったり。

 その度に解き直していたら、完成とは程遠い”のれん”のような何かになってしまった。


「それはそれは、試験の結果が楽しみでございますね?」


「ほほほ……」


 もし今の自分が前世の記憶を思い出す以前のカサンドラだったら、こんなにこやかな笑顔でチクリと言葉をナターシャが刺すなどありえなかっただろう。

 まるで女王と付き人のようではないかと言われてもおかしくない、高慢で尊大な態度だったと今になって思う。


 尤も使用人との距離が余りにも近すぎるのは決して褒められたことではないかもしれないが。

 カサンドラの変容をこの屋敷が受け入れ、そして皆が穏やかでリラックスした様子で仕事が出来るようになったのは悪い事ではあるまい。

 こうして個人的な頼みもすんなりと好意的に受け入れてくれたのも、今までのやりとりの積み重ねだ。


 カサンドラの機嫌を損ねない様にビクビクとした様子で教えに来るのではなく、意気揚々と乗り気で前向きに教えてくれるなんて有難い事だと感謝である。


「お嬢様もお分かりかと思いますが、編み物で難しいことは”手加減”です。

 力加減が変われば、このように。

 こちらの段は緩めですがこの段はきつくなってしまいますね」


 カサンドラは大きく頷いた。

 丁寧にしているつもりなのだが、ふと気が付けば不格好になってしまう。


「これに関しましては、以前申し上げました通り、慣れです。

 毛糸と編み棒を持つ位置をきちんと固定し、持っている毛糸を離さないようにお気を付けください。

 一度毛糸を離してしまうと間隔が変わってしまうことがありますので」


 彼女はもう一度、お手本とばかりに自分の荷から編み棒と毛糸を取り出して見せた。

 再びするすると糸が段になっていく瞬間を興味深そうにカサンドラは眺めた。

 この最初の段を整えて編むのは難しそうだ、と彼女の指の動きを見て感じる。


「そうですね……

 基本の編み方、原理はお分かりいただけたのでしょう。

 では途中で色を変えて編んでみませんか?」


 ナターシャは紺色の毛糸をテーブルの上に置く。

 ころころと僅かに転がるその毛糸の玉をカサンドラは手に取った。


 今カサンドラが編んだ不格好な暖簾にしか見えないこのマフラー未満の布に、この色を継いで編んでいくということか。

 ――確かにカサンドラが王子に渡したいと思うデザインのマフラーは単色ではなく、グラデーションのように色を変えて編みたいという勝手な希望があった。

 毛糸を変えつつ編んでいくことにも慣れないといけない。


「お嬢様、こちらを一度完成させましょう!

 一枚編めたという事実は、大きな自信に繋がりますから。

 その後、お嬢様が王子にお贈りするマフラーの練習に入りましょう」


「こちらの続きを編むのですか?」


 確かに自分が編んだガタガタの縁のラインを見て、カサンドラは眉を顰めた。

 改めて新しく編み直した方が良いのではないだろうか。

 勉強の隙間を縫っていたので集中していたと言いづらい”布”を、ナターシャに手で持たれてしげしげと見つめられると――稚拙さゆえ、異様に恥ずかしくなってきた。


「糸の替え方はこのように――」


 彼女はカサンドラの編みかけのマフラーを手に取り、段数を数える。

 毛糸の玉にまだ繋がったままの赤色の毛糸をパチンと切って新しい毛糸をするすると伸ばし――赤色の糸端と紺色の毛糸を二本まとめて右手の指で押さえたかと思うと。


 今度は躊躇うことなく紺色の毛糸を編み棒に引っ掛けてさっさと編み進めていくではないか。

 裏に返し、二本の毛糸をしゅっと器用に結ぶ。


 一定の素早いリズムで編み上げていく彼女の表情は穏やかで、手芸が好きなのだなという気持ちが伝わってくる。


 そんなに簡単に色を変えられるのかと、魔法を見ているような気持ちだ。


 カサンドラの編んだよれよれの赤い布きれに継ぎ足された紺色の段は整然としていて触り心地もよさそうだ。


 失敗したと思った時のやり直し方をいくつか教えてもらい、数段編んだ後更に赤色の毛糸に戻す手順を幾度も練習し。

 漸く横縞のボーダーマフラーを編む方法をカサンドラは修得したのである。


 やっぱり、先が真っ暗で見えない程暗いけど。

 この休みは一生懸命、この一枚のマフラーを完成させて次のステップに移らなければ。


 ずっと同じ作業の繰り返しを一日中行うのはお勧めできないと言われ、疲れた時は王子に渡すマフラーの柄をどうするか、どんな編み方が理想なのか。


 事前にナターシャが編み方の見本をいくつも用意してくれていたので、それを見ながらイメージを膨らませる。

 すると漠然とした色形だったマフラーの構想が次第に固まっていく。


 

 自分の手元で編んでいる初めてのマフラーは、思い描くイメージと懸け離れ過ぎていて、落差に愕然とする。

 だが次第に指も慣れ、日がな一日それに携わっていれば嫌でも編み方のコツもつかめてくる。


 このくらい緩めに編んだ方がいい、という力加減を掴めて来れば後は同じことの繰り返し。

 いつの間にかスピードも上がり、編み目を間違えて巻き戻るなんて事もほぼなくなってきた。


 赤色と紺色の縞々模様のマフラーが、指を動かし編めば編んだだけ形となってカサンドラの膝の上に折り重なっていく。





 ※




「――この間、王子にお贈りするマフラーをあらためる役を仰せつかったわけですが」


 明日はいよいよ、二学期末試験の結果と順位が貼り出される運命の月曜日だ。

 もはや過去のことにしてしまっていたけれど、いざ目前に迫ると胃がキリキリと不穏な音を立ててカサンドラを追い詰める。


 そんな日曜日の夕食の場で、アレクが申し訳なさそうに声を掛けてきた。

 王子に手編みのマフラーを渡すことに対し、彼は諸手を上げて賛成という態度ではなかったことを思い出す。

 素人未満の自分が編んだマフラーをあげるなどとんでもない、という真っ当な言い分のアレク。


 彼を納得させるため、王子に渡すマフラーの出来栄えをちゃんと見て欲しいと言い出したのはカサンドラである。


「すっかり忘れていましたが、僕、明日――姉上の試験結果を聞いた後、レンドールに帰省することになっているんですよね」


 ようやく始まる冬休みだが、言われてみればアレクは年末年始をレンドール領で過ごすことになっていた。

 本来はカサンドラも同行して顔を見せるべきなのだろうが、父であるクラウスが帰ってこなくても良いと言うのだからしょうがない。


 カサンドラとしては願ったりの状況だ。王子の誕生日に帰省中なんて目も当てられないし。


「わたくしは同行しなくても良いのですよね?」


「ええ、姉上は良いですよ。

 ――侯爵は王子の誕生パーティがあると見越し姉上に指示を出さなかったようですが……まぁ、状況としては同じようなものですよね」


 レンドールのお嬢様なのだから一度帰郷し皆に顔を見せるべきだとも思う。

 だが父が王子の誕生日パーティが催されるものだと思っていたなら、帰省の呼び声がかからなかったのも得心がいく。

 だからと言ってパーティが無いなら帰省しろとのお達しがないのは、アレクが理由をつけてカサンドラを王都に留める口実をひねり出してくれたからだろう。


 レンドールは遠方の地方領だ。

 行き来だけでも日数がかかるし、降雪地方も通る。また、自分とアレクは所謂要人で、揃って行動して双方が危険な目に遭うのも宜しくない。

 真冬の寒い旅程だ、体調を崩さないとも限らないので王都で過ごすという選択肢も決して我儘な話ではない。


 他の生徒達は王都近辺に住んでいる者ばかりで、わざわざ遠方の領地を休暇の度に行き来することに頭を悩ませるのは地方出身者だけである。

 実際に我が事と考えると、かつて地方の人間が国王様に直訴した理由も分からないでもない話だ。

 カサンドラだって、何日も馬車に缶詰にされたいとは思わない。


「ですので姉上の『作品』プレゼントをジャッジすることが物理的に不可能なんですよねぇ。

 ……フェルナンドやナターシャに――姉上の恥にならないよう、ちゃんと確認してもらってからお渡しくださいね」


 アレクはやれやれ、と溜息をつく。

 冬休みが始まってすぐにアレクが帰省するというなら、完成品をアレクが目にすることなど出来ない。

 誕生日間近という事で、旅日程も今更変更不可能だ。


 最初から、彼が贈るに足るマフラーかどうか判別することは困難な事だった。

 敢えてあの時カサンドラの提案を呑んだアレクの事を思い出す。


 ……もしかして、額面通りに反対したものの、カサンドラが贈る事自体を本気で反対するつもりは無かったのかもしれない。

 カサンドラの本気具合を確かめていたのか、若しくは本当に帰省の事を忘れていたのか。



「しょうがないですね、全く。

 姉上はどうやら真剣に練習されているようですし、その努力を完成まで続けられるのであれば……

 その、お渡しするべきではないなんて、僕の口からは言えそうにないですし」


 どちらにせよアレクには王子に手編みのマフラーなるものを贈ることに対し、積極的に制止する気はないのだと。

 それだけはカサンドラにも分かった。


「マフラーの件は姉上の良識にお任せします!

 僕は手編みをお贈りすること自体、やはり賛成はできませんけど。

 完成しなかった時のために、別の贈り物も用意しておいてくださいね。――これは絶対ですよ!」



 常識で考えれば、カサンドラのやろうとしていることはただの自己満足だ。

 レンドール家の人間として、アレクは止めるべきなのだろう。

 王家にレンドール家の恥を晒すな、と言わんとする良識はカサンドラだって理解できる。でも、それでは自分の気が収まらない。

 カサンドラは将来国王になる”王子”の誕生日を祝いたいわけじゃない、唯一無二の大切な人の誕生日を祝いたいだけだ。


 ゆえにアレクもプレゼントしてはいけない、と強制することは出来ない。

 カサンドラの自己満足の気持ちも尊重したい、そんな義弟の葛藤が滲み出ているかのようだ。



 


「……。」


 カサンドラは小声で使用人を呼ぶ。

 そして畏まった様子で傍に寄るメイドの一人に、一つ用事を言いつけた。

 恭しくお辞儀をした彼女は、食堂から静かに姿を消す。


「アレク、来週は貴方の誕生日ですね」


「ええ、そうですが。

 ……あまり気にした事ないですけどね。

 自分の誕生日がいつだったか忘れてしまうこともありますし。

 間違えて伝えて、後で困った事もありますよ」


 それはまだ十歳という年齢でスレ過ぎてはいないだろうか。

 カサンドラもそこまで記念日に拘るタイプではないが、アレクは更にその上を行く無関心ぶりである。

 まぁ、どうでもいい人には本当にどうでもいい一日なのだろう。

 極端な話、誕生日がいつなのか分からない状態であっても人間の体は勝手に年を取る。

 誕生日を忘れたら年をとらずに済むと言うのなら、是非カサンドラも二十歳を越えたら誕生日を忘却したいものだ。


 しばらく他愛ない雑談で時間を潰す。

 デザートを食べ終わったアレクが部屋に戻ろうとするのを、カサンドラは慌てて引き留めた。


「……何なのですか? 姉上」


 一向に要領を得ず自分を食堂に留めようとするカサンドラに、温厚な義弟も怪訝そうな表情でこちらを眺めてくるが――

 ようやく、カサンドラの言いつけた”もの”を携え、メイドが食堂に戻って来た。


「カサンドラ様、こちらで宜しいでしょうか」


 メイドがスッとカサンドラに差し出したものは――マフラーだ。

 この土日をかけて、素人ながらにも最後まで予定通り編んだもの。

 最初に編んだ端っこの方はかなり縒れ、糸が引き攣れている箇所があるものの次第に編み目が均一になっているのが分かるだろう。

 赤と紺のボーダー柄のマフラーだ。



「……姉上、まさかもう王子にプレゼントするマフラーを作ったのですか?

 僕には、あまりいい出来には見えないのですが……」


「いいえ、違います。

 これはわたくしが生まれて初めて編んだというだけの、ただのマフラーです」


 カサンドラが見慣れないマフラーを手に持っていることに驚いたのか、アレクが近寄ってくる。

 彼の目からも、このマフラーはとてもチープに見えるのだろう。

 所詮は初心者のカサンドラが編んだもの。

 決して店に飾られるような立派なマフラーではない。


 色を変えるところを失敗し、結び目が解けて紐先が飛び出てしまった箇所もあった。

 どうにかこうにか形にした、一枚のマフラー。



「そうですか、初めてにしては……うーん?

 まだまだ、要修行って感じです――」



 それ以上何も言わせないように、カサンドラはアレクの首にそのマフラーを巻きつけた。

 急に首元、口元を毛羽立つマフラーに塞がれて、アレクは目を白黒させてカサンドラを見つめる。


 つんつん、と彼はマフラーをつついた。



「不格好で、とても人様に見せられるものではないと分かっています。


 ……アレク、貴方を侮っているわけではありません。

 来年はもっと見栄えのするものを仕上げてお贈りしますから。

 今は――こちらのマフラーを貰ってくれませんか?」



「え、ええ……?

 これ、くれるんですか?」



 見栄えの悪いものをプレゼントするなんて嫌がらせか、と思われるかもしれない。

 ただ、マフラーを編んでいる時にどうせだったら、一度でいいから誰かに身に着けて欲しいと欲が出たのは事実だ。

 自分ではない、誰かに。


 それを身に着けて外に出るなんてありえない事だとも思う。

 ただ、今まで自分のことを陰に日向に支えてくれて気を遣ってくれる義弟に、何かしら形として渡したいと思ったのは本心だ。

 編んでいる内に、アレクに受け取ってもらえたら……という欲が出た。


 さぞ迷惑なことだろう。

 彼が困惑した顔をするのは予想済みだが……



「ありがとうございます。


 ………ああ、うん……」



 彼は予想外にも、赤くなった両頬を隠すようにマフラーを指でつまんでずり上げる。




「手編みって……あったかいんですね。

 僕、知りませんでした」





   か……可愛い! 






 超のつく美少年、血の繋がらない義弟のアレク。

 彼の予想外の可愛らしい反応に、嫌味か皮肉で詰られることを覚悟していたカサンドラの方が――逆に、とても恥ずかしくて照れてしまった。





   来年は、もっと綺麗な模様のマフラーを編んであげよう。





 カサンドラは強く強く決意し、人知れず拳を握ったのである。 

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