第286話 <リタ 2/2>


 ラルフと一緒に帰ることになった。

 それだけで、医務室に行くことになった自分の体調にありがとうとお礼を言いたい気持ちになるリタである。

 幸いなことに薬湯が効いているのか、それとも先ほどのピアノの音が程良いリラクゼーション効果を齎してくれたおかげか。


 リタは特に痛みを感じる事もなく、むしろ地に足が着かない程浮かれている自分を抑えなければいけない程だった。

 完全に舞い上がっている。


「ラルフ様はどうして生徒会室でピアノを弾いていたんですか?」


 こちらの体調の不具合に突っ込まれるのは困る。

 彼が自分の体調の変化に気づいてくれた事は嬉しいが、折角彼と一緒に下校するチャンスに気を遣われながらというのも不本意なものだ。

 だから先に自然と抱いた疑問を、横に歩く彼にそのまま問いかける事にした。


 誤魔化すという意味を籠めずとも、ラルフが翌日を試験に控えた放課後生徒会室でピアノを弾いているというのは違和感を抱く光景だ。

 寮に戻ればピアノくらい、いくらでも弾けそうなものなのに。


「頭の中に浮かんだ旋律を譜面に起こすために寄っただけ……かな。

 ――そろそろ曲も仕上げないといけないしね」


「作曲……ですか」


 生徒会室の奥には生徒会役員専用のサロンがあるらしい。

 広い部屋にはピアノまで誂えてあって、自由に使用して良いのだとか。 

 頭にパッと浮かんだ曲を実際に弾いて譜面に起こす、それは出来るだけ早い方が良いというのはリタにも分かる。

 思いついたことは形にしないと、すぐに消え得るものだから。


「……今シャルローグ劇団が公演しているニルヴェの大河という演目があるだろう?」


「はい、もう台詞まで全部覚えちゃいました!」


 毎週毎週同じ演目を披露するのだ。

 裏方で作業をしているリタでさえ、自然と台詞や動きを覚えてしまった。

 最初の頃のドキドキ感は薄れているが、彼らは演劇のプロだ。常に前より良い劇にしようと毎回課題を持って取り組んでいる姿は尊敬に値する。


「あの劇で演奏される曲の中には、僕が作曲したものもあるのだけど……」


「はい! 凄くいい曲だと思います!

 絶望や悲しみの情感に溢れているのに綺麗で儚くて」


 最も盛り上がるクライマックスのシーンで楽士団が演奏する曲なのだが、いつ聞いても素晴らしいと思う。

 あれをラルフが作ったのだと言われると、これが才能というものかと驚嘆せざるを得ない。


「存外、好評だったようだ。

 ――次回公演予定の演目の作曲依頼を受けることになるくらいには」


 彼は僅かに肩を竦め、苦笑いだ。

 今回の曲の評判はとても良かった、話題性もあったのだろう。

 実際初回公演でラルフを無理なく楽士団に加える良いきっかけになったわけだし、次もラルフに一曲――というのはあの劇団長の考えそうなことだ。


「それは楽しみですね、次はどんな曲なんですか?」


 今回は悲恋がテーマの物語だった。

 では次は勇猛な英雄譚か、はたまた古典的な御伽噺をリメイクした台本を用意するのか……

 演劇そのものに興味があるリタにとってはとても興味を惹かれる話題だった。


 彼が歩く度、金の髪の先が揺れる。

 長い金髪を首の後ろで一つに括るいつものスタイルだが、左右に揺れるその毛先は毛並みの良い動物の尻尾のようで可愛い。

 厚手の黒いコートも良く似合っている、金色の飾りボタンも凝っていてセンスが良い。

 王子の顔をまじまじと見た事はないが似ているなぁと思えるのは、彼らの髪の色が同じせいだろうか。

 二人とも”綺麗”という形容詞が生半な女性より似合う美青年である。


「次は有名な話だよ、藍色物語だったかな」


「ああ、それは私も知ってます!」


 キラキラと空気が明るく輝いた気がした。

 この王都だけではなく、多くの地で親しまれている昔ながらの物語。


 身分違いの恋愛というオーソドックスなテーマだ。

 庶民出の女の子が王子に見初められ、紆余曲折を経て結ばれるという明るく爽やか、ハッピーエンドな物語だ。

 主人公の女の子は最初庶民の癖にと社交界で馬鹿にされるのだが。

 持ち前の親しみやすく誰にでも優しい人柄に多くの人が惹かれていく過程は、多くの女の子達の心を掴んだことだろう。

 物語の中とは言えそうそう上手くいくわけないだろうにと思いつつも、つい頑張れ、と応援したくなる主人公が報われて大団円なのは素晴らしい。


 今公演している演目とは全く逆のテーマかも知れないが、こちらはこちらで観るのが楽しみでしょうがない。

 実際に台本を書き上げ演技を練り上げ指導し、諸々の準備、更に地方巡業のことも考えたら観れるとしても来年以降か。

 これは待ち遠しい話だと、リタもつい顔が綻んだ。


「身分差のある恋愛のお話ですかー」


 そう言いながら、ハタと気づき――言葉を失った。



 物語とは全く違うとはいえ、今自分がしているのもそのままズバリ身分違いの恋ですね!?

 しかもその相手は真横に並んで歩いていますね!?


 一旦意識すると、俄然気恥ずかしくなって言葉が空転してしまう。

 ただの物語の話をするだけで、何でこんなに動揺しなければいけないのか。



 若干憂鬱そうに彼は細い吐息を落とす。


「そう。……結構な難題でね、劇団の皆が満足してくれるような曲を書きたいとは思っているけど」


 難航中だ、と彼は苦い笑みを浮かべた。


 彼はあくまで仕事の一環として話をしているというのに。

 自分は何という不純なことを考えているのだ、と自責の念にかられる。


「ニルヴェの大河で仕上げた曲のように――自分の感情をそのまま乗せることが出来れば書きやすいけど。

 今回はそういうわけにはいかないからね」


「は、ははは……」


 つい口角が引き攣る。


 ニルヴェの大河で演奏されるラルフの曲は、いわば”絶望”を表現した名曲だ。とすれば彼は何かしらに絶望したことがあって、それを曲に書き起こしたということか。

 悲愴感に溢れ、情緒を揺さぶられるあの旋律を楽譜にそのまま表せるなんて凄いと改めて思った。


「体験したことじゃないと、書くのは難しそうですよね」


 彼は紅い目を細め、微かに首を横に振った。


「作曲に限らず、自分が体験したことがあるかないかなど関係ない事も多いものだ。

 自分が体験したことでしか作品を作れません、なんて表現者としての敗北だと僕は思う」


「なるほど……藍色物語だって、書いた人が実際にそんな身分違いの恋愛してたわけでもないでしょうし……

 想像で作られた物語ですけど、私達も読んでて楽しいし、ドキドキします。

 そんな風に未知の事を表現できるって凄い事ですね」


 自分がやったことがないから、立場が違うから分からない、というのはプロとしては失格かも知れない。

 それに、物語で人を殺した人は皆人殺しかと言えば当然違う。

 あくまでも何を表現したいかであって、作り手の背景が全てその作品に籠められているというわけでもないのだろう。


 演劇だってそうだ。

 その人ではない、そんな境遇に陥ったことが無いから気持ちが分かりません、なんて通じるわけがない。

 何事においても、想像し理解しようとする探求心や共感性が表現に繋がるものなのだろう。

 そう思い、リタは頷いた。


「勿論自分が経験したことがあるならば臨場感を伴った、より素晴らしい曲になるとは思うよ。

 今回はそれが難しいからね。

 過去に同じようなテーマを扱った曲を調べて勉強したり――ある程度心境を想像するしかないというだけの話で」


 あまりにもタイムリーな話にリタもドギマギしてしまう。

 彼が想像するしかない、なんて言い出すものだから。

 ……一体、誰を相手に想像するのだろうか。


 無駄に鼓動が高まり、リタは落ち着かない気持ちになった。 


 チラ、と彼の横顔を盗み見る。

 綺麗な顎の線の下、喉元が真っ先に視界に映った。

 美人さんだけど、首は平均的な男性と同じくらいの太さで、肩幅は広いし体格もしっかりしている。だから女性に見間違われることはないのだろう。


 見た目だけで彼に恋をしているわけではない。

 だがそんな想いが言い訳に聞こえる程、彼は余りにも見目麗しく、顔立ちが整っていた。

 自分が並んで歩くことさえ失礼に値するのではないかと思うくらいだ。


 凡庸な容姿の持ち主であることがこんなに悔やまれるとは……



「で、でも流石ラルフ様ですね!」


 自分で話題を振っておきながら気まずさが勝り、再び話題を変えようとリタは声を張り上げた。

 既に玄関ホールを外に出、物寂しい装飾の並木道を通って外門に向かっている最中だ。

 折角ラルフと一緒に下校できるという奇跡が舞い降りたのだから、気まずすぎて顔を真っ赤にするだけではもったいないというものだ。


「試験の前日だというのに、作曲のお仕事までされて。

 私は明日のことで頭がいっぱいで、他の事なんてとても手につきません」


「………。」


 彼の話を聞いていて正直に思った事だった。

 明日のことを思うと気が重い。何せ、それで胃を痛めたくらいだ。


 だというのに彼は余裕と言わんばかりに作曲活動に勤しんでいる。

 それを余裕と捉えずなんという。


 だがしかし、彼は――その場に立ち止まって、片手で顔を覆った。

 彼の指はピアノを弾くからか、すらっと細くとても長い。ため息交じりにそんな仕草をされると、リタも困惑して立ち止まるしかないのだが……


「そういうわけではないよ。

 ……たまたま思いついて書き留めに向かっただけだから……。


 ここだけの話――僕は、試験が本当に憂鬱で憂鬱で仕方がないからね」


「えっ」


 彼が参ったなぁ、という様子で、顔を覆っていた片方の掌をそのまま上に滑らせた。

 前髪を掻き上げて愁いを帯びた表情のラルフの表情は、この場では不謹慎だろうが妙に色気があるのが困る。


「一学期の試験、僕の順位は酷いものだっただろう?」


「そ、そうですか?」


 上位というわけではないが、平均以上はあった――と思う。

 リタも自分がそこそこの成績に終わって、ホッと一息だったのであまり他の人の成績まで覚えていない。

 流石シリウス、流石王子、流石リゼ……という燦然と輝くスリートップの名前に圧倒されたのは今でも記憶に残っているが。


 彼はやや恥ずかしそうに視線を逸らす。


「算術は完璧に解くことができる。

 だがどうも文章題が苦手でね、いつも時間が足りなくなってしまう」


 どこかで聞いた話だな、とリタの脳裏に誰かの影が過ぎる。


 彼が言うには、文章題を解く時は『本当にこの意図であっているのか』『こんなに簡単なはずがない、きっと引っかけ問題だ』だとか、『きっと裏に隠された意味があるに違いない』と無駄に考えを巡らせてしまう癖があるのだとか。


 意外……というか、彼は確かに完璧主義者っぽいというか、職人気質を感じる。

 完璧にこなそうとするあまり、文章の裏の裏を穿ち過ぎて逆に答えを間違ってしまうのだ。

 逆に計算だけの算術は、前回もほぼ満点の出来だったのだとか。

 ……それであの順位なら成程、試験が苦手という気持ちも分かる。


「悪癖なのは分かっているんだ。

 だが文章題は出題者の顔が見えない中、意図するところを文字のみで判断せざるを得ない。

 ……中々どうして、アーサーやシリウスのように割り切って”そういうものだ”と即断できなくてね」


 決して理解力がないわけでも、勉強をしていない、というわけではない。

 だが試験という算定方法に究極的に相性が悪い。


 相手を見て本質を見抜く力には長けている。

 己の感情や想いを形のない芸術分野に託すことだって得意だ。


 だが単純な言葉の羅列から真意を読み解くことは難解に感じてしまう、と彼は言った。


「日頃、契約書や依頼書、領内報告書に目を通す機会も多いものでね。

 裏の意図を勝手に勘ぐってしまう」


 彼の立場上、もらう手紙や文章はラルフの裏を掻こうと不穏な意図が潜んでいることも多いのだそうだ。試験の文章を見て自分を騙そうとしているのでは、という防衛意識が働くのは――どんな毎日を送っているのだろう、と少し心配になったリタである。




「ラルフ様のお話を聞いて、ついリナのことを思い出してしまいました」


「……リナ嬢?」


「はい、あの子も頭は良いはずなのに、試験が凄く苦手みたいで。

 時間配分が下手なのか、上から順にちゃんと解かないと気が済まない上……

 一問一問、ずーっと真剣に長時間考え込んで先に進めないと言ってました。丁寧過ぎると思いませんか」


 リタからしてみれば全く分からない状況である。

 分かる問題はササッと書いて、分からなければ後回し。

 出来るだけ時間を効率よく使うように、とはリゼからも何度も口うるさく言われていることである。

 その点、リタは問題を解くということにおいては要領が良い。

 捨てる問題を作ってそれはもう完全に諦める、恐らく”順番”だとか手順に拘るラルフやリナには抵抗がある解き方だ。


「……少し似ているかも知れないね。

 リナ嬢の心境、僕にも少し分かるよ」


 彼は苦笑を浮かべ、大きく肩を竦めた。

  

「リナ嬢……か」


 心臓が大きく跳ねた。

 彼の口から再度出た、三つ子の妹の名前。

 何気なく思いついたから出してしまった彼女の名前を呟く彼を見ると、身体全体をぎゅーっと絞られるような苦しさを覚える。


「……ラルフ様は入学当初から、……リナを気にかけていましたよね。

 その、今は……」


 ギャー、何を言っているのだ自分は!


 リタは心の中で自分の姿を思い浮かべ、それを右ストレートで殴りつけた。

 藪蛇になったらどうする!? 折角彼の知らない一面を知れて嬉しくニヤニヤしそうな最高潮の場面に――自分の手で水を差すどころかバケツで水をぶっかけて押し流してどうしようというのだ。


 思ったことがすぐに口に出てしまう、これはリタの悪癖だと後悔に潰される。


「最初に彼女を見た時は、姉によく似た雰囲気だと思った。

 ……それで気になっていた事は事実だ」


 ラルフには姉がいるというのは、彼と話をした時に聞いたことがある。

 既に結婚して家を出たお姉さんの事を、彼が今も家族の一人として大事に想っている事もリタは知っていた。

 お姉さんが今この学園にいるわけではないので、いまいちピンとこなかっただけで。


「だがリナ嬢は僕が心配することなど何もない、普通の女性だ。

 今になって振り返れば――思い込みで彼女に失礼な事をしてしまった気がする。

 結局、不審がられて避けられてしまったしね」


 まぁ、彼女はぽわぽわして頼りなく、儚げな少女に見えるかもしれない。

 だが芯は強く、しっかりとした自分を持っている妹だ。

 誰にでも優しい平和主義者だが、決してか弱い女性ではない。


「彼女が楽しく学園に通えているなら、それが何よりだ」


「そうですね、毎日楽しそうです。

 ……リナだけじゃなくて、私もリゼも毎日ここに通うの、楽しいですから!」


 決して楽しい事ばかりの一辺倒ではないけれど。

 同じクラスにラルフがいて必ず姿を見られるし。

 今日みたいに奇跡が起こって一緒に帰宅できることもある。



「あ。

 明日の試験は……楽しみとは言えない……ですけど」


 勢い余って振り上げた腕を、こそこそと下ろす。

 明日の試験の事を考えると、また胃が痛みそうになるので出来るだけ考えたくない。



「僕も全く同じだ。

 ここに通うのは楽しいけれど、試験の事を思うと気が重いよ。


 お互い、頑張ろう」





 彼が微笑を浮かべると、まるでそこだけ絵画の中の綺麗な一場面のように映る。

 リタの心に大きな動揺を与える、全く気取ったところのない和やかな笑顔に心臓が握りつぶされるのではないかと思った。





「はい、頑張ります!」





 ※





 寮の部屋に戻って、机に向かう。

 ラルフと話が出来たからだろうか、すっかり体調の悪さなど気にならなくなってしまった。




「……。よいしょ」



 机の端に、彼からもらった誕生日プレゼントオルゴールを置く。

 ピアノの形をした可愛らしいオルゴール。



 ゼンマイをしっかり巻いて、巻いて。

 指を離すと――透き通った可愛い音色が部屋中に響き渡る。


 今まで集中する時は無音が一番だと思っていたが、案外この優しい曲調を聞きながらの方がすんなり頭に入って来そうだ。

 心がホッと安らぐ音楽の効果を一身に浴びつつ、リタは机の上に突っ伏し額をしたたかに打ち付けた。






「あーーー……

 やっぱ、好きー………」






 彼の傍にいたら、緊張感もプレッシャーも。全部、前向きなエネルギーに変えられそうな気がする。 


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