第285話 <リタ 1/2>


 明日から二学期末の試験が始まる。


 リタにとって試験はそこまで高順位でなければいけないものではない……のだが。

 やはり周囲のピリピリしている空気に触れると、嫌でも追い詰められていく。


 一学期の頃よりクラスメイト達が殺気だっているようにさえ思えてしょうがない。


 貴族たちは、なんだかんだ言ってもプライドが高いのだ。


 にこやかに微笑んだり「勉強なんかしてないよ」と嘯きながら、目の下に隈を作っている人ばかり。

 一学期の試験の成績が貼り出された時、ああ、これが『順位』なのかと愕然としたのは確かだ。


 数字があり、優劣を着けられ順番に並ぶ名前。

 否が応でも己が誰より優れ、誰より劣っているかが学習面の範囲内において視覚化される。

 そのインパクトたるや絶大だった。


 誰だって下位に己の名前を並ばせたくない。

 せめてあの人よりは上でありたい。

 ――貴族とは見栄やプライドで生きるもの、なんて揶揄されることもあるくらいだ。身分の下の者より劣る部分があるなど、屈辱に思えるのだろう。リタにはよく分からない価値観だが。


 だから皆一学期の時より試験勉強に打ち込んでいるような気がする。

 ゆえにリタは……肩身が狭い。


 特待生であるというのに、入学試験の成績は決して合格水準を満たしていなかった。

 何故選ばれたのか未だに疑問だ。 

 恐らくリゼのおかげか三つ子という希少性のせいか、何かの手違いか。


 他の特待生は皆優秀な貴族のお嬢さん達と上位を競い合い、燦然とその名を順位発表で輝かせる。


 ……一学期はリナがいるから、と心のどこかで安心していたのかも知れない。


 でもここのところリナは勉強に集中していて、たまに部屋に遊びに行けば随分難しい応用問題などにも手を着けているようだ。

 恐らくシリウスのお陰なのだろう。


 彼女が色んな機会があるにつけ、シリウスに勉強を教えてもらっていることは知っていた。

 好きな相手に好きになってもらうようになるため、という根源的な乙女パワーは凄いものだ。


 きっと彼女は今学期、自分などよりずっと成績が良いだろう。


 このままでは平均点どころか、下位から数えた方が早い順位を自分だけがとってしまいそうだ。

 自分なりに勉強しているつもりでも、学習習慣のないリタにはあまり馴染まず苦労している。


 別に下位になったからと退学になるわけじゃない。

 でもキラキラと輝く姉や妹、そしてカサンドラや王子や彼の友人たち……

 特にラルフに見損なわれた不真面目と言う烙印を押されてしまうのではないかと怖かった。


 教室、それにとどまらず学園全体の空気が焦りという炎を発し、足元から火あぶりにされていく感覚がリタはとても苦手だ。


 だが試験を受けずに過ごすことは許されない、そうなったら追試を受けなければならず場合によっては補習だ。

 一応名目上は特待生の! 自分が!


 ……補習……


 「何であの子が学園ここにいるの? あんなにおバカなのに?」とひそひそと噂の対象になる未来しか見えない。

 それだけは避けなければ……


 リタは暗記のニガテな頭をフル回転させて、明日の試験に臨もうとしていた。





「リタ、帰るわよ」


 午前中の講義が終わり、ポンと背中を軽く叩かれる。

 ズキッとお腹の辺りが痛む。

 ゆっくりと振り返るとリゼが立って、余裕に満ちた表情で帰宅を促していた。

 隣にはリナがいる。


「具合が悪そうだけど大丈夫?」


 流石にリナは目敏い。

 こちらは普段通りに振る舞って笑っているつもりなのだが、誤魔化しきれなかったようだ。


「あー、昨日お腹出して寝てたから冷えちゃったのかも。

 ちょっとお腹痛くて」


「まだ寝相が悪いの? ベッドから落ちて怪我とかしないでよ?」


 リゼが呆れた口調で片手を腰にあてがう。

 確かに実家でリタの寝相の悪さの第一被害者であった彼女にならそう言われても仕方ない。


「まだそんなに落ちてないから!」


「そんなにってどういうことよ、ホントに落ちてたの?」


 リゼの眉間に皺が寄る。

 もはや開いた口が塞がらないといった様子で。


「念のため、医務室に寄って帰りましょう? 一緒に行くわ」


「一人で行くから大丈夫!

 今日は早く帰った方が良いでしょ」


 明日試験だし、最後にやるべきことは沢山あるだろう。

 それにお腹が痛いと言っても、先ほど口にしたように単なる寝冷えと言う可能性が濃厚である。


 流石にこんな情けない事態に彼女達を拘束つるつもりはなかったし。

 ……帰り道は明日の試験の話しかしないだろう、それもまたリタには気が重たい状況であった。


「薬もらって、早く治しなさいよ」


 リゼの言葉に後押しされるように、リタは医務室に向かうことにした。

 ブンブンと片手を振って廊下を歩くと、またお腹のあたりがズキンと痛んだ。


 ……食べ過ぎてお腹が痛くなったことがあっても、基本は健康優良児で十六歳まで生きてきた。

 医務室などとは無縁に生きてきたので、本当に自分が向かう先に医務室があるのかどうかさえ不安に思うリタだった。




 ※





「失礼しまーす。

 すみません、ちょっと朝からお腹が痛くて」


 医務室に行くと、背は低いが横幅の広いころころとした体型の壮年医師が中にいた。

 彼は机に向かって本を読んでいたようで、パタンと閉じた後に手招きする。

 もう少し肩幅が広ければ恰幅が良いとも言えなくもない、そんなおじさんである。


 彼は腹痛を訴えて駆け込んできたリタを椅子に座らせ、少しばかり質問をした後――軽くリタの腹を撫ぜ、ぐっと押した。


 しばらく瞑目して考え込んでいた彼は、整えた口ひげの先を軽く指で擦って診断する。


「やっぱりお腹冷えちゃったんですかねー」


 自分でも自分の寝相には辟易している。

 だが就寝中は無意識のこと、自分の意思や気合で寝相が良くなるなら最初からそうしているわけで。


「ふーむ。

 ……恐らく寝冷えは関係はないだろうね」


「と、言いますと?」


「胃だね。

 胃痛って奴だ。

 ……ストレスって奴だ」


 彼は自分の脂肪を纏ったお腹を指でさし、トントンと叩く。

 その指先は白衣にうずもれ、ぶにぶにとお腹をたゆませるだけだったが。



 ピシャーーーーン! とリタの体に落雷が落ちた。

 ここにリゼがいたら「リタがストレスで胃痛? 藪医者もいいところね」と鼻で笑っていたかもしれない。

 実際自分でも信じられない。


 す、ストレス……? 私が……?


 普段自分でも何も考えず能天気に生きていると自覚している自分に限って、そんな馬鹿な。

 こういうのは真面目で繊細、センシティブで責任感の強い人がかかるべき症状では?


 まだ寝冷えだの腐ったものを食べて当たっただの言われた方が納得できるというものだ。


「な、何かの間違いでは……?」


「試験前は追い詰められて病む子もいるし、ストレス耐性がなくて胃をやられる子も多いんだよ。

 痛みを和らげる薬を飲んで今日は帰りなさい。

 勉強もほどほどにね」


 痛みのせいではなく、顔面蒼白になったリタに医師は淡々と告げる。


 ストレス耐性が無いと言われれば反論できない自分がいた。

 ……カサンドラに宣言したように頑張ろう、と選択講義の礼法作法や社交ダンスなども自分比で凄く頑張っていたつもりだ。



 ……真面目にやればやるほど、周囲の目は厳しくなる。

 ペアを組んで一緒に、という指示があっても相手がいなくて練習出来ないなんて事も良くあった。


 ごくごく庶民、何の名誉も家柄も持たない人間が彼女達に混ざって教育を受けるのは、認められた権利とは言え決して歓迎されるものではなかった。

 ちょっとしたドジをしたり、場違いな発言で場を和ませる不器用な子、という立ち位置でそれまでも自分なりに参加していたつもりだが。

 講義の間中お姫様の演技で通せば、それは結構な反感を買うものだった。


 己のパーソナリティのせいなので仕方ないとはいえ、あれもストレス兆候の先駆けだったのか。


 ふと、先週最後の選択講義の事を思い出す。



 訪問する客側、もてなす側。

 それを互いに練習するという作法の講義だったが、リタは組む相手がいなかった。

 お願いしようと思っても、”もてなし”なんて貴女には必要ないでしょうとあしらわれるだけだ。

 生徒数は偶数だから絶対に相手がいるはずなのにと、ふと視線をくれれば一か所三人組になって楽しそうに話をしている姿も見える。


 真面目にやればやるだけ浮くなぁ、というのは感じていた。

 しかし講師もリタに気を遣って貴族の令嬢達に注意を促すよりは見て見ぬふりだ。まぁ彼女も生活が懸かっている立場上、しょうがないことだろう。


 しかし――自分が参加すると講師も結構迷惑そうな顔をするので結構心に堪える。


 ままならないものだなぁと部屋の隅で様子を伺う事にしていると、声を掛けてくれる人がいたことはとても驚いた。

 三人組を作っていた内の一人だが、それはそれは可愛らしいお嬢さんだった。



『まぁ貴女、お一人なの?

 では私の相手役になって下さらないかしら』


 そう言って遠慮がちに微笑んで手を差し伸べてくれた上級生を、彼女と一緒に組んでいた二人の生徒は泡を食ったように止めようとしたのだけど。

 元々二人一組でという話だったせいで、表立った抗議も出来ずすぐに引っ込んでくれた。


 二学期最後の選択講義は、彼女のお陰で助かったなぁとしみじみ思いだした。

 彼女の気遣いがなければ胃の痛みはもっと早まった可能性が……


 リタより小柄で、可愛らしいお嬢さんだった。

 キャロルと言う名前の少女だったが、爪弾きにされた者に手を差し伸べてくれるのだから相当度胸があって身分などあまり気にしない――

 いわゆるカサンドラのような人なのだろうかと思ったが、リタが掴んだ彼女の手は微かに震えていた。

 ぎこちなくはにかんだ微笑みは同じ女性であるリタも胸がきゅんとするような可愛い小動物系のお嬢様だったのである。





「………はぁ。」


 とりあえず痛みを和らげる薬を煎じてもらい、それをぐいっと飲み干した。

 苦味しか感じないどろっとした液体を嚥下するのに随分勇気が必要だったが、心なしか痛みが治まったような気がする。


 しかし、何という事だ。

 これが抑圧ストレスからくる胃痛だとするなら、明日の試験がちゃんと受けられるのか……?

 今日だって一夜漬けの勉強というわけにもいかないだろう。


 医師の言う通り、今日半日はベッドの上で休む必要を感じる。

 明日もこんなに痛ければ集中できないだろうし、それは大変困ってしまう。


 万が一追試だ補習だのに引っ掛かってしまえば、年末に帰省すら出来なくなってしまう。

 それを受けたリゼは、じゃあ帰省を中止しようと言い出すかもしれないが、きっとリナはしょんぼりする。

 結局リタが一人寮に滞在して補習を受けて……残りの二人で楽しく帰省……


 誰もいないがらんとした女子寮内で一人年を越すとか寂しすぎる……!


 喫緊の課題として、リタは補習を免れるという大きな大きなミッションを課せられている。


 胃だけではなく頭までズキズキ痛みそうだ、とリタはよろめく足取りで医務室を出た。




  ――決意をしたはいいものの、中々上手くいかないなあ。


 


 所詮リタは平民オブ平民の子だ。

 そんな自分が興味本位ではなく真剣にお嬢様になりきったところで周囲から顰蹙を招くだけ。

 これがリナなら話もまた変わるかも知れないが、自分はリタだ。

 リタ・フォスター。

 他の人間を演じる事は出来ても、他の人間になることなど出来ない。



 気を落としつつ廊下をトボトボ歩いていると、どこからともなくピアノの音が聴こえた――気がする。

 誰もいない、静寂の構内。

 医務室を出た後すぐ広がる中庭にも、そして長い廊下にも人っ子一人姿は見えず、雑音の一切排された空間だ。

 自分の心臓が一番大きな音を立てていると妙に意識してしまう、寒い冬空の日。


 一体どこからピアノの音が?


 音楽室から漏れて来るには、場所があまりにも遠い。

 それこそ西と東で方向も違う、扉を開け放ってもここまでピアノの音を響かせるのは困難だろう。


 リタは視力も良いが、聴力も良いのだと自分でも思う。

 無言で周囲の様子を見渡し、音の発信地をすぐに突き止めることが出来た。



「……生徒会室から音がする……?」


 生徒会室にピアノが置いてあるわけがないから気のせいだとスルーしかけたが、間違いない。

 扉の前に立つと、僅かに扉の上下の隙間から音が漏れている。


 戸締りはしっかりしているが、空気の出入りする場所まで完全に塞ぐわけにもいかないだろうし。

 生徒会室の構造は分からないが、扉一枚隔てた先よりもう一つ奥の方から音が響いているのではないか。


 ピアノを設置する場所がある程広いのだろうか、生徒会室は未知の世界だ。


 中に入る事など到底かなわないので、リタは扉の前に立って耳をそばだてる。

 本当はこんな盗み聞きをしているような状況もアウトだと思う。


 でも流れ出てくるピアノの音はとても心が落ち着き、安らぐものだ。

 この弾き方は間違いなくラルフの奏でる曲なのだろうと分かってしまう自分に苦笑する。




   ああ、心地いいな。



 まだ少し痛む胃が、すっかり大人しくなった気がする。

 しばらく二本の足で立って聞いていたのだが、自然と背中を壁にもたせていた。

 そしていつの間にかその場にしゃがみこみ、目を閉じてその音に聴き入っている。


 彼の音楽を聴いていると、焦りがゆっくり溶けていくような気がした。

 もっと近くで聴くことが出来れば良いのに。


 厚い扉を隔て、そしてずーっと奥の方で鳴っているピアノの音は時折途切れ途切れになる。

 ゆっくりと静かに弾く箇所だから密やかに奏でる音楽は、悲しいかな外の廊下に佇むリタの耳にまで届いてこないのだ。



 そこまで贅沢を言っている場合ではなく、しばらくの間その音に心と身体を癒されていた。

 音楽がふつっと途切れ、しばらく間が空いた。

 今度は別の曲を弾いてくれるのかな、今の音楽は聴いたことのない曲だったし、などと心の中でワクワクしていると――


 生徒会室内部の扉がガチャっと閉まる音が耳に障ってぎょっと目を見開く。

 彼が出てきてしまう……


 生徒会室の奥にまだ部屋があるのか、なんて納得している場合ではない。


 盗み聞いていたという事実が消えるわけではないが、往生際悪くもう一度彼のピアノが聴けるのではないかと逡巡してしまったせいだ。



「………こんなところで何をしているのかな、リタ嬢?」



 ややあって生徒会室の扉も開き、何処にも隠れることも出来ずに立ち尽くす姿を完全に見咎められてしまった。


「え、ええと……」


「そういえば体調が良くなさそうだったね、医務室に行く途中なのかな?

 ――医務室は中庭の向こう側にあるから」


「い、いえ! もうお医者さんにお薬は頂きました!

 もう帰るところで……」


 完全に慌て、わたわたと手を無意味に上下左右に動かす。

 胃の痛みだ頭の痛みだ、そんなものはとうの昔に吹っ飛んでいた。



 彼の紅い瞳にしげしげと見つめられ、一気に心臓が跳ね上がる。





「それなら丁度いい、寮まで送ろう。

 僕もこれから帰るところだから」





 特に不審がる様子もなく、申し出てくれた彼は――まぎれもない紳士であった。

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