第281話 縁の下の力持ち
二学期最後の選択講義の日。
カサンドラが政治学の講義を終え帰り支度をしていると――
非常に珍しい光景を見た。
後ろの席で並んで勉強をしていた女生徒二人、その片方は良く見知ったデイジーである。
同じクラスであり、カサンドラの同郷の生徒として何かと気遣ってくれる面倒見の良いお嬢さん。
だが彼女がにこやかに談笑をしている相手を見て思いがけず二度見することになる。
カサンドラの記憶が間違いなければヴァイル派に属する上級生のお嬢さんではないか。デイジーが何の躊躇いも牽制し合う様子もなく、楽しそうに会話をしている姿に面食らった。
そう言えばと周囲をぐるっと見渡して、遅まきながら自分が鈍感であったことに気づかされる。
他にも申し訳程度とは言え、それまで全く混ざる合う事の無かった水と油状態だった鉄壁な派閥間グループ以外の生徒と会話をしている姿が散見されているではないか。
勿論大っぴらに友好関係を強調するものではないが、隣の席にいるのだから少し話すくらいは良いでしょう。
そんな心の声が透けて聞こえるような状態だ。
あまりにも普段と違う様子に、不思議な気持ちになった。
出来れば派閥間の緊張など無くなってしまえば良いと思っていたカサンドラでも、いざこうして僅かながら風向きが変わっているのでは? と気づく状況は背中がムズムズしてしょうがない。
やはり人間慣れ親しんだ景色に僅かでも歪みが出ると違和感に戸惑ってしまうものなのだろう。
ただの気のせいかと自分を誤魔化すには、デイジーのインパクトが強い。
彼女が上級生の女生徒、それも明確にヴァイル派の中心を構成するお嬢さんと談笑など。
中々お目に掛かれる光景ではなく、何故かカサンドラの方が動揺して心臓がバクバク強かに胸を打ち付ける。
「カサンドラ様、ごきげんよう。
二学期の選択講義も今日で終わりですね」
うーん、と小さく唸って顎に手を添えるカサンドラ。
そんなカサンドラに声を掛けてきたのは
瞬間移動でもして来たのかと仰け反ってしまいたくなったが、笑みを顔に貼り付けたままカサンドラも振り向いた。
「ごきげんよう、デイジーさん」
チラチラと先ほど彼女が談笑していた上級生の姿を講義室内に求めたが、彼女は同じヴァイル派の女生徒と一緒に帰宅するようだ。
流石に二人仲良く一緒に帰宅というまで友好的なムードではないらしい。
じわりじわりと足元から潮流が変わりかけているがまだ大波には至っておらず、些細な変化でしかないのかもしれない。
「デイジーさん、一緒に帰りませんか?」
「はい、喜んでお供します!」
今日は特に予定もなく、このまま下校予定である。
彼女が話しかけてくれたということはそういうことなのだろうと誘うと、彼女は満面の微笑みを浮かべて頷いた。
可愛らしいお嬢さんで、随分男子生徒から人気があって声も掛けられているというが……
彼女は全ての誘いを軽やかに躱し続けて、未だに特定の異性とのお付き合いはないようだ。
「先程は驚きました。デイジーさんがお話されていた方は、確かコンティエル家の方ですよね?」
「ええ、私も驚きました。
端っこに座っていたというのに、急に話しかけてこられて……
でもとても親しみやすい方でしたわ」
デイジーは照れ臭そうに笑う。
普段懇意にしているクラスメイトならいざ知らず、全く没交渉のお嬢様から声を掛けられるという事は滅多にある事ではない。
談笑しつつも内心で大きく動揺していたのだろうと窺い知ることが出来た。
「――カサンドラ様と……御三家
彼女の囁くような声に、カサンドラも穏やかではいられない。
あれから徐々に、何かが変わったというのか。
劇的に効果があるわけではない、とデイジーは言い添えた。
だが特に会食について否定の言葉も三人から出ない。
特にシャルロッテは今までの貝のような無言がウソのように、積極的にミランダやキャロルと話をするようになった。
最初は半信半疑だった女生徒達も、他派閥には挨拶どころか目を合わせることも忌避していたのが徐々に和らいできたという。
……カサンドラのクラスは王子達が揃っているからか普段から平和そのものなので、他学年がクラス内でさえそこまでギスギスしていた事に驚きである。
他の派閥の生徒と話をしても誰かからお咎めを食らうこともない。
何となく、挨拶くらいは――という雰囲気から現実的に声を掛け合えるような状況になってきた。
そりゃあ率先してキャロルたちに話しかけようとするシャルロッテの姿を見ていれば、逆に文句を言うのも難しい。
慣れ合うような空気を出すのは業腹だ、宿敵に愛想よくなど馴染めないという生徒も中にはいるようだ。変化に戸惑う気持ちは良く分かる。
だが三人の態度の軟化にカサンドラが一枚噛んでいるらしいということで、表立って現状に不満の狼煙を上げる勇気あるお嬢様も未だ出ず。
なんだかんだとカサンドラは王子の婚約者として周囲の生徒から認められているようだ――そんな影響力が自分にあったことにも更に驚いた。
デイジーと話をしていると、つい笑みが引き攣りそうになる現実が見えてくる。
今まで中央貴族の令嬢から完全に無視されていたデイジーだが、今日は『貴女と話をしてみたいと思っていた』と先輩に声を掛けてもらえたらしい。
あり得ない事が起こったので、デイジー当人も頭が真っ白状態だったのだとか。
彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「今だから申し上げますが……」
デイジーと肩を並べて廊下を歩く。
そう言えば、入学式の日に最初にカサンドラに近寄って声を掛けてくれたのは彼女だった。
思えばあれから二学期という時間が経過しようとしているが、心境も状況も随分変化したものだと思う。
「私は軽く考えていたのです。
地方から入学する貴族の立ち位置が、
地方にいた時は当然その狭い世界のやりとりしか知らない。
年に一度の舞踏会に参加するために王都に向かうが、直接的に虐げられるような事はない。
一日だけの事だ、そうそう不愉快な思いをして帰る事もなかった。
カサンドラが王子の婚約者、つまり将来の王妃候補になった。
我が世の春――というまではいかなくても、地方だ何だと軽んじられるうようなことがあってはいけない。
カサンドラに付き従い、露払い役となって支えなければと言い聞かせられ、使命感を持って入学してきたデイジー。
最初は王妃候補だというのに極力目立たないように振る舞い、特待生ばかり目をかけ、それらしい振る舞いをしないカサンドラにヤキモキしていたのだ。
カサンドラのことだから己の立場を目いっぱい利用してアピールして、中央貴族のお嬢さん達を付き従えようと高慢に振る舞うだろう。
それは肩透かしの杞憂に終わったが、もしもカサンドラが”そう”振る舞っていたらと思うと身の毛も弥立つ、と。
「カサンドラ様のお考えは正しかったのだと今になって思います。
あの頃はどうやってカサンドラ様を周囲に将来の王妃候補なのだと認めさせればいいのかと悩んでおりましたが。
……認識が甘かったです。
もしもあの頃、カサンドラ様がご自身の立場を強調し学園内の緊張を壊すようなことがあれば……」
思っていた以上に御三家の影響力、権力は途方もないものだった。
その鉄壁の結束、”血”や”家”という矜持により一枚岩となった令嬢達の気に障るような事をしてしまえばどうだっただろう。
カサンドラへの見る目はもっと厳しくなっていたのではないか。
それが直接王子との婚約に影響があったかは分からないが、少なくとも中央貴族のお嬢さん達総出に無視されるようなことがあれば立場は安泰ではなかったはずだ。
カサンドラは積極的な加点を採ろうと動くことはなかったが、とにかく余計な言動を慎むよう心掛けていた。
それは単なる結果論、ジェイクやシリウス、ラルフ達の手前そうせざるを得なかっただけであるが。
慎重過ぎた故か、他人に揚げ足を取られ足を掬われる事態を作らなかった。
自分の立場を弁え、派閥を作って対抗だなどという手段に出る事もなく。
その一方、いつの間にかジェイク達に普通に声を掛けてもらえる程親しくなったわけで。徐々に足場を固めていったという表現も出来るだろう。
怪我の功名とは良く言ったものだ。
……ゲームの中の
自分と同じようにジェイクやラルフ達と仲良くなろうとした結果、空回ってしまって……
ポッと出の地方貴族のお嬢さんが王子の婚約者というのも彼らにしてみれば納得できることではない上に、しかも高圧的に事あるごとにアピールを続けられたら――鬱陶しい、邪魔者と思われても仕方のない事だ。
でも決して責められない。
自分の地位に相応しい振る舞いをしようとすることがトラップなんて中々気付けることではない。井の中の蛙状態、大海を知った時には既に遅かった。
普通はデイジーのように、いかに婚約者らしく振る舞うか、認めさせるかと思うだろう。
躍起になって小細工をろうしようとすればする程、周囲の心象は悪くなっていく。
鼻につく態度、御三家への過度な接触。
それら諸々が積み重なって断罪される事になったというのは一つの妄想だろうか。
少なくとも、一年前までのカサンドラなら無思慮に行動をしたと思う。
未来を知り、慎重になった今の自分だからこそ遠回りながらも辛うじて学園生活を綱渡り出来ている。
「まさかカサンドラ様が三家のお嬢様方と親しく、お集まりになるなど……
そこまでの影響力がお有りだというにも拘わらず、常に一歩下がったところにお立ちで、落ち着いて事態を静観されていることに私は感動しております」
それは良い方向に解釈しすぎだと苦笑した。
まぁ、出しゃばらない事は大事だと思う。
特にカサンドラの立場なら猶更。
……下手を打てばシリウス達の機嫌を損ねて婚約話自体なかったことにされるかも知れないし。
実際、ゲームでは婚約者に相応しくないと学園を追放される流れなのだから、彼らの評価に気をつけるのは当然のことだ。
デイジーに尊崇の眼差しで見られると大変面映ゆく、そんな出来た人間ではないと最初のところから否定したくなる。
――未来を知るがゆえの自己保身だ。
それがたまたま、学園内での派閥対立が続く状況に上手く填まっただけに過ぎない。
デイジーにそこまで憧憬の念を受けることではないのだが……
「デイジーさん。
貴女には先日の食事会のことで、他の皆様を説得して回られたと聞きました。
……わたくしのしたことが無駄な憶測を呼ばず、水面下で収まっていることは全てデイジーさんのお陰です」
カサンドラが一旗揚げようと言えば、今まで蔑ろにされ肩身が狭かった地方からの貴族令嬢、そして爵位を持たない家に生まれた者、特待生。
そういう人たちがカサンドラを首魁にと持ち上げムーブメントが生まれてしまい、一層の対立を煽るところであった。
事前に彼女に相談をしたおかげで、カサンドラは大きく目立つことなくホスト役を務めただけに留まり、誰からも敵愾心を向けられずに中庸を保てている。
これがベストかはカサンドラには分からない。
元々派閥だなんだとは縁遠く、ギスギス空間の立ち回りも慣れていない。
もしかしたら自分が将来の王妃なのだということを前面に打ち出して今辛い思いをしている生徒達をまとめあげ、声を上げる事が正しかったのかもしれない。
でもそれは新たな諍いの種を捲くだけとも思え、踏ん切りがつかなかった。
そんな気持ちをうまくデイジーが伝播してくれたおかげで、カサンドラは未だに平穏に過ごすことが出来ている。
「いえ、私はカサンドラ様のご意志に従っただけですので……!」
急にカサンドラが彼女にお礼を言ったからだろうか。
デイジーは顔を紅くして、頭をぶんぶんと横に振る。
お喋りをしながらの遅々とした歩みでも、景色は変わる。
校舎内から外に移り変わっていた。
四月に彼女と肩を並べて歩いた時は春だったこと思い出す。
並木道をゆっくりと歩き、特待生が三つ子だという情報を聞いて耳を疑った。
懐かしいな、と目を細めた。
「わたくしは――情けないことに、王子の婚約者という立場でありながら、こうしてわたくしに尽くして下さる貴女に特別な地位を授けることも出来ません。
貴女の得になるような何をも、公的に約束することが叶わないのです」
自分のために何かとフォローをしてくれる彼女に、では自分が何をしてあげられるのかと考えると難しい。
それこそ派閥というものが明確にあれば、側近として一つ高い立場で自尊心を満足してもらう事も出来ただろうが。
「カサンドラ様、私は何か欲しいわけではありません!
私がお手伝いをしたいと思ってしているだけです。
……最初は……あまり気が進まなかったことは事実ですが……!」
彼女の父親も、きっと良い機会だと思っただろう。
カサンドラが頼みにするとしたら、他の地方貴族――特に同郷のデイジーが真っ先に思いつく。
そこで恩を売れば、ガルド家の将来は安泰だ。そんな思惑は透けて見える。
娘が王妃の側近ともなれば内実はどうあれ、レンドール領内でも箔がつくことは間違いない。
「わたくしには側近はおりませんので、部下の労をねぎらう真似事は出来ません。
ですがデイジーさん、貴女はわたくしの大切な友人です。
困ったことがあれば何でも仰ってくださいね、友人の相談は断れませんもの」
それはカサンドラが真実思っていることだ。
直接彼女に対し目に見えた利益を齎す――という事はカサンドラには出来ない。
彼女にのみ便宜をはかったり、特別扱いするというのであれば逆にデイジーが狡いだの、依怙贔屓だの言われて辛い立場になるかもしれない。
上から目線で何かを”与える”事は困難でも、同郷の友人として接するくらいは許されるだろう。
「勿体ないお言葉、ありがとうございます。
あの………
カサンドラ様、本当に私のことをそう思って下さっていたのですね……」
彼女は動揺したのか、一瞬立ち止まる。
いつも明るく元気な少女だ。
濃いブラウンの長い髪、まん丸で大きな青い瞳。
可愛らしく愛嬌のある彼女を悪く言う人に今まで会ったことが無い、とても良い子だった。
表立っては何もせず人を遠ざけるあだけのカサンドラにヤキモキしながらも、常に彼女は味方でいてくれる。
彼女と一緒のクラスで良かったと、カサンドラは自分の幸運に感謝した。
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