第280話 <リゼ>
今日は二学期最後の月曜日の選択講義の日だった。
来週は試験前で完全に午前授業、フランツの剣術指導を学園で受けることが出来るのは今日が最後だ。
若干の名残惜しさを感じつついつもより早めに訓練場に着いたリゼ。
別棟の訓練場ではなく、野ざらしの地面にお粗末な石畳が敷いてあるだけの訓練場で一人フランツを待っていた。
一度ジェイク達と一緒に訓練を受けた後この場所に来ると、余りにも激しい落差に唖然としてしまう。
何の設備も無いどころか雨が降ったらまともに指導を受けることも出来ないような場所なのだから。
――でもリゼにとっては大切な場所だ。
全くの初心者のリゼでも習うことが出来るようにという学園側の配慮でわざわざ特別にフランツを招聘してもらったり。
しかもこうしてフランツと一緒に訓練をする機会を完全に奪わず、残してくれた。
至れり尽くせりとはこのことだが、生憎学園側の目論見とは違い新たに剣術講義を受けるような女子生徒は他にいなかったという。
何とも残念な事だと素直に思う。
才能もなく向いていない自分でもここまでやってこれたのだから、埋もれた才能の持ち主だって学園内に何にもいるかも知れないのに。
まぁ、こんな自分に剣術を勧めてくれたカサンドラが凄かっただけと言うべきなのか。
「――はぁ!? これから
大幅に遅刻して来たフランツ。
終業の鐘が鳴った後に今学期もありがとうございましたというお礼を述べていた会話の流れで、何故かフランツを怒らせたらしい。
彼の激昂ぶりに肩を揺らして
「来年もよろしくな、試験頑張れよ!」なんて。
笑顔で肩を叩いてくれたフランツが、一気に不満大爆発という厳めしい表情になったのでリゼは驚いてしまった。
「リゼ、お前な。
あいつの我儘にいちいち無理して付き合わなくても良いんだぞ!?」
「いえ、別にそういうわけでは」
真顔で指摘されるとは思わなかったのでリゼも少々及び腰だ。
昨日カサンドラ達との勉強会では思ったよりスムーズに進めることが出来た。だが半日だけではどうしても振り返り切れなかったところがあるし、昨日分からなかったところを本当に理解しているのかと不安だったリゼ。
本来試験期間中はアルバイトはしないという約束だったのだけど、リゼ自身が気になってしょうがないし。
何よりジェイクが凄く真剣に次の試験に向かって頑張っているというのは見ていれば分かる。
今日一日おまけで付き合うことくらいどうということはない。
そんな軽い気持ちで今日の約束をしていたのだが、どうやらフランツはリゼの応対が気にくわなかったようだ。
「試験前の大事な時期なんだろ? あいつの我儘に付き合って成績が下がったらどうするんだ?
お前、剣も勉強もどっちも頑張るって頑張ってたろ」
もしもジェイクと会わなければ。いや、彼の家庭教師をするという話にならなければ……
今頃リゼは打倒シリウス! とハチマキでも締め、バリバリと机に齧りついていたに違いない。
何もかもに恵まれた貴族様の鼻を明かしてやりたいという一心で、最初に突きつけた宣言通り打ち負かしてやりたいと。
そちらの方にばかり意識が向いていたことだろう、アルバイトなんてとんでもない。
だが既に状況は一変してしまった。
試験対策は確かに大事だが、それ以上にリゼはジェイクと一緒にいたかった。
何せ火曜以降は短縮授業で午前授業だけ。
ジェイクと教室で挨拶をする以外に会話が出来る機会もなく、しかも試験が終われば冬休み。
何事もないまま、ボーッと休みを過ごすのだろう未来しか見えない。
妹達と一緒に帰省して、両親を安心させた後すぐに帰宅という忙しない予定で埋められているわけで。
もう少し張り合いが欲しい。一緒にいられる機会があれば是非にと飛びつきたくなるのはリゼの中では当たり前の判断だった。
だがフランツのような外野から見れば話は違うのだろう。
リゼが無理矢理ジェイクに付き合わされ、拘束され、良いように使われているのだと看做されてしまうのか。
まぁジェイクからお願いされれば、仮にジェイクの事が好きでなくとも「喜んで」と返事をしなければいけない事は否定できない。
実際にはありえないが、王子やラルフ達がリゼに試験対策をして欲しいと命じられたら敬礼して付き従わねばなるまい。拒否するなど許されないのだ。
そのような事態はありえないと自信を持って言えるが――彼らは”やろうと思えば”学園内の人的資源をいくらでも私的に流用できるだけの
圧倒的に隔たる階層差を前に、リゼが嫌々言うことを聞かされているのでは……
とフランツは危惧しているのだ。
「嫌々やってるわけじゃないですから!」
「本当か?」
物凄く不審そうな目でじろじろ見据えられ、リゼは口を引き結んだ。
ジェイクは強硬に命じたわけではない。断っても構わないという前提で話を持ちかけて来た。
それに乗っかったのは自分だ。
何故ジェイクが悪者扱いされなければいけないのか、リゼは納得できない。
「ええ、そうです。
だって家庭教師のアルバイト、すごく実入りがいいですし……!」
守銭奴と思われることを覚悟で、リゼはそう断定して大きく頷いた。
「……まぁ、そりゃあそうかもしれないけど」
「年末に向けて入用も多くて、お小遣いだけじゃ足りないんです。
今日一回分、あるとないとでは私の年越しも変わってきますから!」
実際、まるきりの嘘というわけではなかった。
流石貴族様というか、一時間の家庭教師でこんなに貰っていいのかと受け取る方が恐ろしいくらいのお給金をもらっている。
確認したところ、リタもリナもそれぞれ結構な収入を得ているようなので――恐らく田舎育ちの自分達が貧乏性なだけ。
これが都会の相場なのだろうなと達観するに至った。
彼からの給金はコツコツと貯め、いつかフランツに鍛冶代として支払えればいいと思っている。
だが流石にこの年末は長距離馬車も利用するので無一文で臨むわけにもいかない。
突発的な収入増はリゼにはとても懐暖まるという切実な事情も絡んでいた。
「はぁー……そっかぁ。
何をするにも金が必要なのは分かるがな……。
自分の将来を切り売りするような真似は止めとけよ、本当に困ったら相談しろよ」
労働に対する正当な対価、契約。
お互いの利益が一致したというなら、フランツもそれ以上糾弾は出来ないと思ったのか天を仰いで大きな吐息を落としたのだ。
「忠告ありがとうございます」
以前の過ちを思い出し、もう言葉に出すことはない。
だが本当に父親世代の彼の言葉は説教じみていると心の中で苦笑した。
もしも自分の父がここにいたら、同じように「ちゃんと断りなさい」とリゼを叱ったのだろうか。
いや、それはないな。
「失礼のないように丁重に機嫌よく過ごしていただくんだぞ!」と顔面蒼白にして発破をかけて来るに決まっている。
長いものには巻かれろタイプで、迎合主義な父親だから。
※
フランツの忠告は胸に刺さる箇所があったが、やはりリゼはジェイクと一緒にいる時間が好きだ。
普通に話が出来るようになった、友人扱いしてくれると実感できる現実は奇跡としか言いようがない。
例えそれが家庭教師だから勉強を教えるという仕事の一環であっても嬉しい。
特別感を抱けるし、純粋に二人だけという空間は何にも替え難い時間なのである。
余りにも楽しい時間だからこそ、あっという間に溶けていく。
時計をチラリチラリと気にしては、心の中でもう少しゆっくり進んで欲しいと願うのだけれど。
昨日彼が栞を挟んでリゼに訊いてきた単元の再確認は、思った以上に淡々とスムーズに終わっていく。
勉強会で目いっぱい集中したからそれで終わりというわけではなく、この分だと自室に帰った後もちゃんと復習していたのだろう。
こちらの説明で理解してもらえていた事に胸を撫でおろしつつ、時計の長針が定刻を指した。
「急に付き合わせて悪かったな」
あー疲れた、と。
凝った肩をぐるぐると回しながら、ジェイクは椅子から立つ。
生徒会室の個人用の椅子はとても幅が大きなサイズだが、ジェイクが座っていると普通サイズに見えてしまう。
茶色いツルツルした皮張りの椅子が軋む音を立て、リゼの耳に障る。
筆記用具やノートを鞄にしまいながら、リゼも「お疲れさまでした」と頭を下げる。
「昨日の成果はちゃんと出ていると思います。
この調子で頑張って下さい」
「はぁ……あと一週間もあるのか。時間があったらあったでうんざりするな」
彼の言う通りだ。
試験と言うのはどこまでやれば満点が取れるかなんて明確な数量は明示されていない。
試験当日になったら嫌でもその時までに培った知識で挑戦することになり、泣いても笑っても問題を解くしかない。強制的にゴールさせられる。
試験を受けている間は、試験のための勉強をしなくてもいい。
逆に試験まで時間があれば、何かやらなければいけないと焦る。
そしてまだこれだけしか進んでいない、とか。
時間があるのだから勉強しなければ、とか。
常に追い立てられている気分になるものだ。
いっそ準備期間が三日やそこらであったなら、潔く諦めの極致で一夜漬け、なんて人も多くなるのだろうが。
勉強しろと強いられた期間はあと一週間と少し、気ばかり焦る気持ちは分かる。
「お前から見てさ、今回、俺の順位はどれくらいだと思う?」
鞄を持ち、二人で生徒会室の扉をくぐる。
既に人の気配のない静まり返った放課後の校舎はひんやりと冷たく、自然と肩を竦めた。
カサンドラからもらった手袋の暖かさに毎日のようにお世話になっているリゼである。
「そうですねー、まぁ二十……くらいはいけるのでは?
私も他の人たちの対策深度までは分かりませんが、少なくとも一学期よりは上がると思いますよ!」
ぐ、とリゼは拳を握って彼の問いに答えた。
同時に、剣術大会でリゼが何位くらいに行けるかと問われた時、ジェイクもこんな気持ちだったのかな、と想像して苦笑いが浮かびそうになる。
試験も試合も時の運が絡む事、そして数多の相手があってのこと。
そんなに正確に順位を言い当てるなんてことは出来ないものだな、と。
「そうか、じゃあまだまだ頑張らないとな~」
彼はガックリと肩を落として廊下を進む。
足が長く、歩幅の広い彼に置いて行かれないようリゼは少しだけ小走りで横を歩いていた。
中庭の樹は
……ああ、冬だなぁ、と誰が見ても分かる冬景色だ。
「根を詰め過ぎても逆効果では? ちゃんと適度に休憩して下さいね」
この期間は王城での仕事は免除されていると聞いたものの、騎士団の一員ともなれば完全に距離を置くということも出来ないようだ。
試験までに何度か顔を出さないといけないのだとか。
つくづく嫌だと、顔を顰めている彼に同情心が湧き上がる。
だが寝不足で試験当日など最悪だ。
無尽蔵の体力を誇ると思われる彼には余計な世話かも知れないが、体調には気をつけて欲しい。
そう言おうとした瞬間。
突如。
ぞくっ、と鳥肌が立った。
それは自分で制御することが出来ない、防衛本能がそうさせたように。
全身が金縛りに遭ったように動かない癖に、爪先だけはやたらと無様に震えている。
猛禽類に捕食される寸前の兎の気持ちはこうなのではないか、と勝手に想像してしまう。
「――ジェイク」
不意に廊下に現れた人影に、リゼは生唾を飲み込んだ。
騎士団の鎧を纏っているからジェイクの関係者なのだろうことは分かる、壮年の男性。
屈強な巨躯の男性は、背の高いジェイクよりも更に高く。
厳めしい顔立ちでこちらを睨み据える彼の気配に心臓が縮み上がる。
「何だよバルガス。もう帰るんじゃなかったか?」
こんな話しかけづらそうな人を前にしても、ジェイクは飄々とした様子だ。
彼がもしも暗がりで一人立っている姿を子供が見たら、きっと号泣して逃げ出すだろう迫力がある。
「話がある」
それは有無を言わせない、強い牽引力を持った重々しい言葉だった。
「あー、了解。
じゃあな、リゼ。また明日」
「は、はい!
今日はお疲れさまでした。
……ええと、失礼……します」
ジェイクの特に変わらない口調に安心したのも束の間。
折り目正しくお辞儀をしようと壁のように聳え立つバルガスに向かったリゼの頭の中が真っ白になる。
彼はじーーっとリゼを見ていた。
値踏みするという視線をもう二段階ほど上げ、頭の先から爪先までも視線で穿たれ息を呑んだ。
見も知らない他人に、ここまで不躾に睨まれた事など無い。
「……。」
彼は灰色の瞳を僅かに細め、そしてやおら視線をジェイクに戻した。
心臓が激しく胸を打ち付け、ジェイクに対するドキドキよりも恐怖心で上書きされる緊張感に身の毛がよだつ。
「ああ、こいつバルガスって奴でな。
ライナスとフランツの兄貴だから、そんな怯えた顔するなよ。
あー、見た目はこうでも――悪い奴じゃないからな!」
蛇に睨まれた状態からようやく解放されたリゼに更に衝撃の事実が開示される。
この間違いなく何人も人を葬り去って来ました、と言わんばかりのオーラを放つ巨躯の男性が!
フランツの兄と言うには雰囲気が全く対極過ぎる。
ライナスの兄と言われれば、成程面影が似ていると頷ける。
フランツは元は貴族の家の出と言っていた。
兄が家督を全て継いだとのことなので、この人は騎士団に所属すると同時にどこぞの家の当主様。
ひぇぇ、と悲鳴が喉から漏れかけた。
どうにも社交界に着飾って出席するイメージが湧かないが、流石ロンバルド派の貴族だと思わせるいかついオジサンだ。
厚手のマントも彼に良く似合い、風格ある姿だとリゼの目に映る。
こうして見るとやっぱりあのアンディが異端なのだろうな。
「行くぞ」
彼はもはやリゼには目もくれず、ジェイクと連れ立って来た道を引き返す。
まぁ興味を持たれるような人間ではないので当然かもしれないが、今は自分が凡人であることにホッとした。
彼のような御仁に絡まれたら命がいくらあっても足りない気がする。
はぁ……
折角ジェイクと一緒に下校出来るかと思っていたのに、がっかりだ。
リゼは恨みがまし気にバルガスの広い背中を肩越しに見返したが、それで彼らが立ち止まるわけがない。
どうにもならないモヤモヤを抱えて下校するしかなかった。
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