第279話 『フランツ教官は長兄が苦手。』


 今日が二学期最後の学園出勤か、とフランツは教官用の準備室から出ようと立ち上がった。

 着替えも終わり、自分の得物を腰に帯び。

 気合を入れてリゼの許に向かうのだ。


 剣術の教官は自分を含めて四人いる。

 しかし午後の鐘が鳴る直前ということもあって、既に準備室には二人の姿しかない。


「じゃあな、兄貴」


 ライナスは僅かにこちらを一瞥し、「ああ」と軽く頷き視線を外した。

 重たい図体を乗せているせいで、彼の座っている椅子はぎしぎしと悲鳴を上げている。


 元々兄弟仲が凄く良好というわけではないが、まだ次兄のライナスとは普通に会話が成立する。

 彼はお堅い騎士という存在をそのまま体現したような寡黙なオジサンだ。

 自分の歳も考えれば仕方がないが、お互いに老けたなぁ、と苦い笑いが込み上げてくる。


 さて、一年を締めくくる、最後の学園での一日だ。

 意気揚々と扉を開けようとしたが、自分が手をドアノブにかけるより数秒早く先に扉が開いて目を見開いた。

 この学園は人物を関知したら勝手に扉を開けるようなギミックを施してあるのかと一瞬思ったが、当然そんな機能は聞いたこともない。

 当然、この扉を開けたのは向こう側の人物だ。



「……ライナス、久しぶりだな」



 フランツにとっては地獄の溶岩から這い出てくるおどろおどろしい恐怖の重低音。

 子供がいればにこりともしない彼の無表情な厳つい顔と雰囲気に恐れを抱いて泣き叫ぶこと必至だ。


「ご無沙汰しております、兄上。

 はて、今日は貴方がおいでになるという報せは受けておりませんでしたが」


 だが恐ろしき長兄の訪問に顔色一つ変えることなく、サッと立ち上がりライナスは腕を曲げ一礼する。


「わー! バル兄!?」


 フランツは絶叫した。

 出来る事なら脱兎のごとく逃げ出したい。

 だが残念ながら……

 唯一の出入口である扉の真ん前に、長兄バルガスが腕を組んで仁王立ちをしているわけで。

 その隣をすり抜けて逃げ出すことはフランツには出来なかった。

 まずつっかえて身動き取れなくなるだろう、自分達兄弟は人よりずっとしっかりしている体格である。


 自分がアンディ程華奢な青年だったら……と、筋肉という名の鎧を纏って脱げない己を呪った。


 しかし、一応フランツと目を合わせているのに一切話しかけてくることもない。

 ホッとすると同時に彼の自分への扱いの低さを思い知らされ、それはそれで苛立たしくもある。


 あまりに長兄の視界に入っていないようなので、自分の体が透明になったのかと信じ込みそうになった。



「メルヴィンの報告を受けに来たついでだ」 



 野太い声という表現ではとても言い表すことは出来ない。

 音に重みがあったら、彼の発する”声”の重さによって地面に垂直な穴がいくつも出来上がるだろう。


 学園長の名を出され、フランツは一歩後ろに跳びのいた。

 彼の間合いに留まるのは大変危険だ。


「左様ですか」


 恭しく頭を垂れる次兄ライナス。

 バルガスは一応、血を分けた実の兄――なのだけど。


 現ローレル子爵家当主、かつ大将軍ダグラスの優秀な右腕。

 唯一ダグラスの私的空間に立ち入りを許可されている彼は、幼いころからの親友同士と聞く。

 全く二人がにこやかに談笑している姿など想像できない、イメージしようとしても思考が霧のように散らばって不可能なのだ。

 

「講義を見回った後はすぐに王城へ帰還する」


 バルガスは苦手だ。

 短い言葉を発するだけで、何故室内の空気をどんより昏い色で染め上げることが出来るのか。

 さっきまで綺麗に活けてあった可愛らしい一輪挿しの花もバルガスの重苦しさを感じて花弁を垂らしているようにしか見えない。


 無言で睨まれただけでその場にひれ伏してしまいたくなる、いい加減に生きていた末弟フランツなど、彼にとっては塵芥ちりあくたのような存在だと思われる。



「……時に兄上。

 一つお伺いしたいことがございます」


「なんだ」


 やはりバルガスの視界にフランツなど入っていない。

 彼にとって既に弟であって弟ではない、騎士団に従属していない自分は家臣でさえないただの有象無象の雑兵に等しい。


 恐れ入ります、と。

 ライナスは直立不動のまま長兄に問うた。



「ジェイクの正式な婚約者はまだ決まらないのでしょうか」



 思わずフランツはライナスを二度見した。

 彼の質問自体は、この学園にいるロンバルド派の人間――いや、全ての貴族の関心事項と言えるだろう。

 明日かもしれない、来年かもしれない。

 全ての決定権はロンバルドの当主にあり、彼に直接問いただすことなどまず不可能。

 問うた次の瞬間には首を捩じ切られそうな恐ろしさがある。


 だがバルガスは将軍の右腕であり、懐刀。

 ダグラスの思惑を知る者がいるとすれば長兄くらいだろうとは思う。


「知らん。

 お前の関与するところではない」


「……過ぎた質問、どうかご容赦を」


 どちらも鉄面皮という単語がぴったりだ。

 にこりともせず、兄弟の情など欠片も見当たらない。


 長兄と次兄の関係は、結局のところ上司と部下。主と家臣。

 その距離の隔たりを省み、フランツは嫌な光景を見たなと眉を顰めるのみだ。


「――どうした、ジェイクに何かあったか」


「いえ、何もありません。

 何もない事、それ自体が逆に不穏当に思えました故」


 ギロッと彼に睨まれてフランツは耐え切れず視線を床に落とした。

 遠くで午後の鐘が鳴る。





 ※





「おいおい、何て事聞くんだよ兄貴。

 俺まで同列扱いで殴られるかと思ったじゃねーか」


 バルガスの巨躯が部屋から消え、一気に空気に清涼感が戻ってくる。

 スー、ハー、と大きく深呼吸して凍っていた己の身体に活力を送り込む。


 長兄には怒られたり冷ややかな視線をくれられた程度の思い出しかない。

 バルガスは末弟を可愛がるなんて精神は髪の毛の先ほども有していない人だった。

 無理矢理貴族の嫁をあてがわれそうになった嫌な思い出が蘇って心臓が縮む。


「……いや、何。

 早く決まれば――というのは前々から思っていた事だ」


 詰めた息を細長く吐き出しながら、ライナスは額に滴る汗を手の甲で拭った。


「なんだかんだと、私はあいつが可愛い。

 ……出来れば平穏無事に卒業を迎えてもらいたいと思っている」


「はぁ、そーっすか」


 ジェイクの剣の師としてあてがわれたのはライナスだった。

 彼の真面目さと実直さ、そして当然研ぎ澄まされた剣の腕が見込まれての話だが。

 ジェイクが物心ついた頃から彼の付き人をしていたようなものだから、そりゃあ可愛いだろう。それはフランツも分かる。


 ライナスにも妻や子がいるはずなのに、彼の口から家族の話題など一切聞いたことが無い。


 代わりに聞くのはジェイクの事だ、だからフランツはたまにライナスと彼らは親子だっけ? と混乱することがある。

 自分にとっても身近な存在だったからこそ。

 人に言えたもんじゃない経歴のフランツでも、ジェイクと気軽に話が出来る関係を築くことが許されたわけだ。

 生意気な弟分と言う意識が消えないのはライナスの存在のせいだろう。


「そりゃジェイクにとっては宙ぶらりん。でもそれはエルディムやヴァイルの坊ちゃんも一緒なんじゃ?」


 あのジェイクがミランダというお嬢さんを防波堤に使用しようと思ったくらい、この学園で彼はストレスフルな生活を強いられている。

 出来るだけ距離をとりたいのにそういうわけにもいかない状況も伝え聞いて知っているし、想像もつく。


 ひっきりないアプローチを受ける面倒な状況がなくなるには、彼に正式な相手が与えられることが一番手っ取り早い。

 相手がいない、有力な候補もこれと言って話に出てこないから多くの令嬢達が目の色を変えて迫ってくるわけだ。

 恐らく本人の意思ではなく、家の事情も多分に絡んでいるだろう。

 そして家の事情があるからこそ厄介で、彼女達も手を引くに引けないのだ。


 僅かでも選ばれる可能性が残っているなら、諦めるわけにはいかない。


「俺が一番恐れているのは――

 なぁ、フランツ」


「んー?」


 そろそろリゼのところに行かなくては。

 鐘が鳴って、随分時間が経った気がする。遅刻だとリゼに怒鳴られてしまうだろう。

 だが自分が姿を現わさなくても、真面目な彼女のことだ。

 きっと自主的に訓練を始めているに違いない。


「ジェイクの奴、まさかこの学園で惚れただ腫れただ、そんな関係の生徒はいないだろうな?」



 ぶほっ、と噎せて空気を吐いた。

 苦し気にゲホゲホと胸を叩くフランツを妙な視線で見据えるライナスの瞳は真剣だ。


「それこそ知らねぇよ。

 毎日のようにアイツに会ってる兄貴こそどうなんだよ」


「……。

 特に気づきはないが」


 なんだ、その意味深長な沈黙は。


「俺だってそうさ。

 ガキ連中の好きだ嫌いだに、興味なんざ欠片もねーわ」


 心臓がバクバクと音を立てている。

 そうだ、自分は全く気付かなかった。


 アンディに指摘されるまで、全く知ろうともしなかった。

 出来れば――知らないままでいたかった。


「……貴族相手ならまだ穏便に済ませようはある。

 だがな、あいつは根っからの貴族嫌いだろう」


 ライナスは眉をしかめた。


「特待生だの商家の娘だのに入れ込みそうでなぁ」


 フランツは既にこの時点で次兄と目を合わせられなかった。

 流石元目付け、彼の事をよく分かっていらっしゃる。


「なぁ、兄貴。これは余談っつーか。

 もし――例えば、万が一、ジェイクが庶民を好きだとか寝言を言い始めたらどうなるんだろうなぁ」


 ああ、なんでこの二学期最後の講義の日にこんなに緊張を強いられないといけないのだ。

 何故今日顔を出したのだ、バルガスよ。

 自分のいない日なんかいくらでもあるだろうによりにもよって!


 でもこれはフランツが最も恐れている事だった。


 もしもジェイクがリゼに懸想をしているかもなんて大っぴらになったら。

 本家連中が絶対黙ってはいないだろう。

 リゼを面倒ごとに巻き込みたくない、それは自分やアンディも同じ想いだ。

 だからこそ、気づかず見ないフリをしている。



「ふむ……本来なら問題はない話だな。

 あいつも年頃、適当に遊ぶ程度に目くじら立てる奴はいない。

 ――何、その娘が欲しいと言うなら……機嫌取りに買い与えてやるだろうよ」



  まるで人がペットか玩具のような物言いだ。



 一気に感情が冷えていく。


 まぁ、そうだろうな。

 家関係にしがらみがない一般庶民の娘一人、”どうとでもできる”、面倒がないように恋人ごっこでもやらせるくらい造作もない事だ。

 人一人の尊厳を奪い、金や権力や武力で言うことを聞かせる、それくらい顔色一つ変えずにやる。

 ざっと思い浮かんだ本家に関わる面々を思い浮かべてフランツは軽く舌打ちをした。


 ――これだからお偉いさんってのは嫌なんだよ。



 歯の浮くような綺麗ごとを言いながら、その指は穢れた金を数えている。

 無位の人間など同じ人間なんて思ってない。その傲慢さが嫌だ。



「まぁそれで済むなら別に俺も一々気にしない。

 だがな、あいつは知っての通り真面目な奴だ。

 最悪、嫁にしたいだ結婚したいだなどと言い出しかねん。

 その場合が頗る厄介だ」


「んー、どうなるんだ?

 俺はまーったく想像できなくってさ」


 冷や汗が背中に滴っていく。

 すぐ目の前の危機に眩暈を起こしそうだ。


 ジェイクなら間違いなくそう言うと思う。

 少なくとも誰かを正式な嫁に置いた上で愛人を囲うような性格ではない。それだけは絶対ないと言い切れる。

 愛人を持ちたくない以上、惚れた相手を嫁に置くしかないが――


 ……成程、厄介だ。


 もしもそこまで入れ込んでいる”庶民”がいるなんて知れたら、間違いなく大きな争奪戦が起こる。

 庶民のままでは絶対に結婚は無理、後ろ盾のない嫁は要らない。

 となれば、どこぞの有力貴族の養女になるのがもっとも手っ取り早い手段か。戸籍を変え、元の自分の家族とは完全に縁を切って”貴族の娘”として輿入れすることになるだろう。

 だがそう上手くいくとは思えない。

 名義上の親になる権利を求め、間違いなく争いが起こる。

 リゼ当人も事態の大きさにピンとこないだろうし、右も左も分からない小娘を篭絡するくらいわけもない話。

 誘拐騒ぎにまで発展しかねない。


 いや、そもそも、だ。

 面倒なお家騒動ばりの抗争が起こると分かっているとするなら。


 それを良く思わない層は……



「……フランツ。

 お前は一時、傭兵だったな」


「お、おう」


 彼の鋭い意気に飲まれ、フランツは喉を鳴らす。

 口が渇いてしょうがない。


「人を斬った事もあるだろう、一度に限らず、何度も」


 拳を固め、衝動的に分厚い白い壁を殴っていた。

 その痛みに眉をしかめることもなく、フランツは兄に向ってがなり立てた。



「馬鹿か!

 俺は民間人に手を出したことは一回もねぇよ!」









「だが知っているはずだ。

 人一人を壊すなど、どれだけ容易く造作もないことか」



「……。」


 それは否定できない。

 人間は案外脆いものだという事は、この稼業に携わった者なら誰でも痛感することだろう。



「じゃあ、ジェイクが誰かに惚れただとか言い出したら、いちいちお嬢さん達を殺して回るのか?

 あいつも馬鹿じゃない、事実を知ったら黙ってないだろ。

 次期当主様の逆鱗に触れるっていうのも、結構な博打だと思うけどなぁ」




「はぁ……

 物騒な事を言うな、殺すだなんだと……

 ――人を壊す方法などいくらでもある、それはただの手段の一つだ」




 淡々とそう言い切られ、フランツは絶句した。





 ……リゼは何もしていないんだぞ!?

 勝手な事情に巻き込まれるだけ巻き込まれる、何という酷い話だ。




 遊びで手を出すなど言語道断だが、本気で惚れると言うのもかなり不味い。

 そのケースならむしろ手に手を取って駆け落ちでもしてもらった方が何倍もマシではないか?

 ああ、その場合はジェイクと近しい関係のバーレイドやウェレスなどの現状主流派の”家”が沈む――かなり大きな混乱が予想される。



「だからフランツ。

 もしも何か気づいたことがあったとしても、絶対に兄上には言うな。

 いや、――頼む、聞かなかったことにしてくれないか」





 生まれて初めて、兄に頭を下げられた。


 だがそれに優越感を感じるなどとんでもない、全く逆だ。




「……勿論、肝に銘じとくわ。

 仮にそんなことがあったら、寝覚めが悪いじゃすまねーよ。

 はは、一般人に迷惑かけるなんてとんでもない話じゃねーか。

 このまま何事もなく、平穏に卒業できるといいよな」



 ジェイクがリゼをこちら側の厄介な家事情に巻き込もうとするなら、全力で止めてやる。

 実力行使ででも止める、彼の腕を切り落としてでも止める覚悟だ。

 それで咎めを受けてもフランツは全力で留めるだろう。


 予想を遥かに上回る彼らのやり口に苛立ちばかりが募る。



 そしてライナスが長兄を不機嫌にさせてまであんな質問をした理由が分かった気がした。

 

 相手が決まってしまえば――正式な婚約者がいるのに庶民出の娘を嫁にしようなどと誰が容認するのか。


 本気で一人の女に狂うような人間なら、遅かれ早かれ地位を剥奪されるだろうよ。

 ジェイクはそこまでアホではない。


 今現在、婚約者が空座だから、惑い迷い悩むのだ。



 さっさとお相手を決めてやるのがせめてもの介錯、お手軽で現実的な解決方法だ。

 言った通り、宙ぶらりんが一番よくない。


 でもバルガスの様子だとまだしばらく決まりそうもないのは事実、かなり八方塞の状態だ。




「はぁ……なんでこんなことに」




 人を好きになることは悪い事ではない。

 でも、お前だけは駄目だ。

 





 その想いは、誰に追及されても死んでも認めるな。




 彼女を不幸にしたくなければ、絶対に――好きだなんて 言うんじゃない。



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