第272話 <リタ 2/2>
今まで、こんなドレスなど着たことがない。
生誕祭のドレスはアフタヌーンドレスだったので、どちらかというと形も飾りもシンプルなものだった。出来るだけ露出も少なく、大人しめのデザインだ。
だが今リタが化粧師のお姉さんに着せられた裾がふんわり広がるドレスは村の女の子がこぞって憧れるはずの、まさにお姫様御用達のドレスだ。
完全に地に足が着いていないリタだったが、毛皮のコートを掛けてもらい――そのまま近くの餐館までシェリーに連れられてしまった。
彼女の先導などなくとも劇団から目と鼻の先の大きな建物だ。
借り物のドレスを着たまま逃げも隠れもするつもりはないのだけど。
※
餐館に入り、そのまま長い廊下を案内される。
『楽しんできてねー』と手を振るシェリーを後ろに、リタは状況が上手く呑み込めないまま館の廊下をズンズンと進んで行った。
一度訪れたことがある場所だが、いざ一人でこんな格好のまま放り込まれると結構心細いものである。
喉元はスパンコールでキラキラ飾り付けられた布で覆われていたので、幸いごくりと呑んだ生唾は誰にも気づかれることはなかった。
無駄にキョロキョロと廊下の装飾品を眺めてしまう。
食堂の扉がもったいぶったようにゆっくりと開き、中から一層強い光輝が光の筋となってリタの目を晦ませる。
「やぁ、リタ嬢。
急に呼び出してしまって申し訳ない。
来てもらえて嬉しいよ」
やはり人間違いでも、夢でもない。
リタを出迎えてくれた男性はラルフだ。つい数時間前、同じ教室で授業を受けていたクラスメイト――のはず。
だが互いに着ているものが現実離れしたものであるからか、まるで自分の精神だけどこかの絵本に閉じ込められて幻覚を見せられているのではないかと我が目を疑う。
黒いスーツに赤い蝶ネクタイ、シンプルなシルエットなのに彼によく似合っている。
彼の綺麗な金髪や紅い双眸、白い肌を色鮮やかに映えるよう誂えたとしか思えない装いだ。
「彼女達も劇団員、審美眼は確かだね。
良く似合っているよ」
目の前に立つ青年が、何の躊躇いも見せずに爽やかに微笑みながらそう言ってくるものだから。
体中の血液がカーッと全身を逆流し、その場にのぼせ上って倒れるのではないかと怖くなった。
女性とも見紛うばかりの美貌で、こうもサラッと世辞を言われると心臓に悪い。
「その……今日はお招き下さってありがとうございます」
リタは深く頭を下げ、彼の真意を考えている。
自分にこんなドレスを着せ、しかも夕食に招待してくれたのだ。
だが、右往左往して戸惑うリタを見てからかいたいという意図があってはリタは立ち直れないし二度と彼の前に姿を現せない。
彼の厚意を疑っているわけではないが、あまりにも自分にとって都合の良い現実についつい猜疑心が湧き上がるのも致し方ないこと。
人間の持つ一種の防衛本能のようなものだ。
受け身をとらずに投げ飛ばされれば大怪我をするが、”かもしれない”と予想して受け身を取れば怪我も軽微で済む。
「――まずは、誕生日おめでとう。
あのヴァイオリンのお礼になるとは到底思えないけれど、君のために設けた席だから。どうか楽しんで欲しい」
「あ、ありがとう、ございます……!」
リタは思いっきり目を見開き、拳を固めて大きく頷いた。
もう夢でも幻でも何でもいい!
ラルフと一緒にいられるのなら、ここが地底の底だろうが断崖絶壁の上だろうが、喜んで同席させてもらいたい!
お誕生日おめでとう、と言われる一年に一日しかない自分にとって特別な日。
その日をラルフにこうして言葉にして祝ってもらえただけで、リタは嬉しくて嬉しくてその場に飛び跳ねてしまいたい。
尤も、動きづらいドレスと言う制約があるのでそういうわけにもいかないけれど。
「さぁ、こちらへ」
ラルフが奥の椅子の後ろにまわる。
そしてここが本来バイト上がりの格好でやってくるなどありえない、格式の高い晩餐会場であるとハッと気づかされた。
少々ぎこちない所作ではあったが、彼の待つ椅子の近くに歩み寄る。
ふかふかで幾何文様で描かれた絨毯を踏み分け、そっと椅子の傍に立つと――
彼がその背もたれの高い黒い椅子を引く。
「し、失礼します」と小声で呟き、椅子の前に立った。もうこの段階で、厚かましくないか、自分!?
と頭がパニック状態である。
だが膝裏に軽く椅子が当たると、それを合図にストンと腰を下ろす。
――タイミングよく押された椅子の上に、リタがちょこんと座ることになった。
食事の場では男性から椅子を引いてもらって着席するのだという話は知っているし、マナー講座でも常識のように語られる。
でもたったそれだけのことが、こんなに緊張するなんて……!
顔を赤くすればいいのか、蒼くすればいいのか。
戸惑うリタに、正面に座ったラルフがにこやかな笑みを向ける。
あまり意識したことはなかったが、ラルフと二人きりで食事というのは初めてのことなのでは!?
……以前の劇団の打ち上げはラルフも同席していたが、当然他の団員もいた。
そして以前餐館に連れてきてもらった時もカサンドラや王子がいるいつもも顔ぶれで、一緒に食事をすることはとても楽しかった。
彼と二人きりで食事。
今更になって、ドキドキが止まらない。
軽く乾杯した後も、この麗しい高貴な青年を前に、一体自分がどんな話題を振ればいいのかと頭を抱えたくなった。
「緊張しなくても、いつも通りで良いから。
そんなに固まっていては料理の味も分からないだろう」
「ひゃ……ひゃい……!」
思いっきり舌を噛む寸前。
それを回避したら、大変情けない声が出てしまった。
これは恥ずかしい……
俯きそうになったけれど、ラルフの表情は全く変わらず穏やかなままだ。
まぁ、リタの姿を常日頃教室で見ているラルフである。
どんな人間かなどとうにしれているし、ここで今までの練習の成果……と意気込んだところで空回りをするだけで終わりそうだ。
お嬢様の演技に入ることが出来れば、失敗せずにスマートにこの場を乗り切ることが出来るかもしれないけれど。
彼は自分のままでいればいいと言ってくれたのだ。
この場で取り繕い、偽った自分を演じて何になるというのか。
何を話そうか、なんてリタが心配する事など一つもなかった。
ラルフは自分に合わせてくれているのか、他愛ない雑談から入る。
それは普段の学園での出来事だったり、この間は皆でここに鉢合わせて驚いたという話だったり……
一つ、一つと料理が運ばれてくる。
それに伴うように、徐々に緊張が解けていったリタは口を滑らせる勢いで色んな事を話した。
彼はとても聞き上手だと改めて舌を巻く。
いつの間にか故郷の話になって、どんな暮らしをしていたのかを洗いざらい全部話してしまうことになる。
これはリゼやリナが聞いたら怒るだろうなぁ、という失敗談もついつい興が乗って続けてしまう。
「成程、君達のご母堂は働き者なんだね。
聴いている限りでは、寝る暇も無いくらいの多忙さだ」
「いえいえー、そんなことないんですよ。
尻に敷かれたお父さんと、私やリナで家の事を大体手伝ってましたし」
「おや……リゼ嬢は?
彼女は真面目だから、ご両親の手伝いには熱心そうに思えるけど」
「あの人はいつも母から逃げ回ってて、どこかに隠れてずーっと本読んでたみたいですよ。
畑仕事の日は朝から姿消えてますもん」
「昔から勉強が好きだった、と」
「がり勉の見本みたいな人で、体力無かったですからねー。
……あ、今のリゼなら手刀で刈り入れができるかも」
彼女の雄姿はしっかりと目に焼き付いている。
あれほど運動が嫌いで剣なんてものに欠片も興味のなかったあのリゼが。
人間成せばなるものだ、とリタも様々な認識を改めざるを得ない結果になった。
毎日のように身体を苛め抜き、ストイックにコツコツ積み上げてきた彼女の努力が、今、実っていると思えるからだ。
一頻り実家の話をした後、今度はラルフの家の話になった。
彼の実家ではかなりの数の犬を飼っているという話は聞いたことがあったが、犬たちのためにわざわざ別館を立ててお世話係を何人も雇っていると聞いて肉を喉に詰まらせるところだった。
多分、ラルフの飼っている犬は普通の一般市民より贅沢で裕福な暮らしをしているものと思われる。
色んな意味で羨ましい。
もしも来世があるなら、彼の飼い犬として生を受けたい……! と、半ば本気でそう思った。
「寮では動物を飼うことを禁止されていることが残念だったけれど。
寮監がチョコの世話をしてくれるから、少しは気がまぎれるよ」
「チョコ……ちゃんって言うんですね」
あの時の茶色い毛玉、もとい茶色い犬。
何故か女子寮に迷い込んでリタに猛然と突き進んできた子犬であるが……
あれから八か月も経過しているのだ。子犬もすっかり、その面影を残しつつ大きくなっていることだろう。
「あの子もすっかり君には懐いているようだとか」
「いえ、そ、そんな事は……」
「それとも僕と同じで、上から降って来たインパクトが強くて覚えているのかな」
彼がサラッとそう言ってきたので、不意打ちを食らい再び顔が真っ赤になる。
遅刻寸前だったあの日――学園の外壁を乗り越えて飛び降りてしまったリタ。
あの場にいたラルフも、そして抱えられていた犬も目を疑うような光景だったに違いない。
この学園に通う他のどんなお嬢様が、壁破りなんてしようと思うのだ?
ラルフが見逃してくれたからよかったようなものの、あの場にいたのがシリウスだったら間違いなく学園長の前に連行されていたと思う。
「あれから遅刻はしていないかな?」
「はい、大丈夫……です。たまに、ギリギリですけど」
彼と話をしていると時間を忘れる。
何せ、今まであった色んな事を二人だけで語り合える時間など今まで無かったからだ。
勇気を出してヴァイオリンを渡しに行った日だって、用が終わったらとんぼ返り。
だからこの時間が夢みたいだった。
食事が進むにつれ、まだ終わりたくないと心が汲々と訴えてくる。
料理はおいしく手が止まらない。
だが新鮮な野菜を焼いたサラダを食べ進めると、嫌でも学園のお昼を思い出す。
フルコースの順番は既に沁みついてしまっているのだ。
この後はデザートが出て、食事が終わってしまう。
嫌でも迫ってくる終わりの時間に、リタは焦る。
時計を見ると最初の乾杯から四十分くらい経っただろうか、信じられない。
体感時間ではまだ五分くらいのつもりだったのに。
一体どこでそんなに時間が溶けたのだ!?
綺麗な格好をして、ラルフとディナー。
普通に生きていればまず経験することのない現実。
「あの……どうして、私にここまで大盤振る舞いしてくれるんですか?」
つい口調が軽めのものになってしまって内心で滝のような汗を流す。
だが彼がこの席での無作法を一切咎めることなく、和やかに受け流してくれるものだから。
つい甘えてしまったリタは、あわわわ、と口元を戦慄く掌で覆っていた。
彼はまじまじとリタを見つめている。
その怪訝そうな様子に一層慌てた、変な事を聞いてしまっただろうか。
「ええと、ヴァイオリンのことがあったとしても、です。
高価なプレゼントをした人って、もっと沢山いますよね。
……あ、もしかして皆さんの誕生日をこうして祝っているんですか? 凄いですね」
自分でも何を言っているのだろうと発言を悔やむ。
彼がどういう考えの元、どう行動しようがそれは彼の自由だ。行動する理由までいちいちリタに説明しなければいけないはずもない。
余計な事を聞いてしまった。
しかも、”他の人にも”、と自分で言って自分でダメージを負うと言う体たらくぶりである。
グサッと、太く鋭い槍に背中から貫かれた気分だ。
「ヴァイオリンには値をつけることはできないよ。
……まぁ、その事情をさておいてもね。
僕は君に感謝しているから、お礼の意味もあるかな」
「はい?」
今度はこちらが意味が分からず呆然とする番だ。
感謝って、どういうことだろう。ヴァイオリンの事ではなく?
むしろこちらの方が何から何まで、いつも面倒を見てもらっている気がしてならないのだけど。
「君の姿を見ていると元気になれるからね。
……面倒なことも、煩わしい事も些細な事に思えるというか。
今まで、僕の周囲には……君のような『人』はいなかった」
しみじみとした様子で彼は言う。
その言葉を額面通りに受け取って良いものか。
『人』はいなかった。
人以外はいたのかな?
……彼は心を癒すために動物を飼っているらしき話をしていたし、リタはもしかしたら犬のような人間だなぁ、と思って接してくれているのかも。
彼にプラスの表現をしてもらえて凄く嬉しいのだけど。
ご主人様を見上げて、キラキラした目で尻尾を振って纏わりつく飼い犬と同じような印象だと想像すると「うーん」と目が泳ぐ。
間違ってはいないし大変正確な表現だからこそ一層勝手にモヤモヤしてしまう。
「おかげで学園に通うのも楽しみがあるからね。
君がいなかったら相当退屈だったと思う、だから感謝しているよ」
ラルフがそう言いながら掌を前に指し示す。
同時にリタの手元にデザートの皿が静かに置かれた。
そのデザートに違和感がある。
……クレープ……だ。
だがこういうお皿に載せて運ばれるクレープは、四つ折りにして重ねて上から美味しいソースをかけて。
周囲を色鮮やかな果物で飾る――そんな先入観があった。
というか本来クレープはそういうデザートなのだと、学園に入って初めて知ったリタである。
小洒落たデザートなど、村の中で食べるような機会も無かった。
手に取って食べる”クレープ”という食べ物自体、凄く新鮮に映っていたくらいだ。
「これ、クレープ……ですよね」
目の前にちょこんと置かれているクレープは、リタ達が街で買い歩きやすいよう包んである形状のクレープだった。
中には白いクリームとチョコレートが入っているように見える。
「手で持って食べるのも、案外美味しいものだと知ったからね。
ほら、いつだったか……
君が少年にあげたものを再現させたんだ」
「……!」
ラルフと過ごす時間は短い。
彼と話すときは断片的で、僅かな時間で。
そうでなければ、『皆と一緒』。それも楽しいから良いけど、自分は”三つ子”というオプションがないと仲間に入れないものと思っている。
たまに話せ、たまに会えるからその機会はとても貴重なものであった。
そんな思い出の一つ一つを、彼は拾って覚えていてくれている。
彼にとっては何でもない一日だったろうに、覚えていたのだ。
それだけじゃない。
ラルフには似合わない庶民めいた状態のこのデザートを食べてくれたという事実にぶわっと熱い感情が込み上げて止まらなかった。
心の柔らかい所を鷲掴みされるような圧迫感に声が漏れそうになる。
急に泣き出しでもしたら、彼を困らせてしまう。
折角彼が自分を喜ばせてくれようと、用意してくれた席だ。
「ありがとうございます!
私、クレープ大好きです」
どこがゴールかなんて考えてもしょうがない。
自分は彼の事が好きで、そして一緒にいたいとしか考えられない。
※
帰り際、ラルフはリタにプレゼントをくれた。
一瞬小箱かと思ったが、銀色のピアノを象ったオルゴールだ。
モーリッツのヴァイオリンに比べれば本当に玩具なのだけど、と彼は苦笑する。
まさかこの上プレゼントまでもらえるのか、とリタは今度こそ己の頬を思いっきり抓った。
そのジンジンと迸る痛みに、現実なのだと思い知る。
テーブルの上のオルゴールを手に取って螺子を巻くと、澄んだ音色が食堂に響き渡る。
小さな小さな、断続的に響き渡る金属音。
ゆっくりと動く突起のついたシリンダーを横から眺め、リタはその音色に聞き入った。
夢なら 醒めないで
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