第266話 <リゼ>
――あの武術大会以降、リゼの日常に変化があった。
まず、今まで廊下などですれ違った女子の反応。
まるで空気のような扱いで『貴族でなければ生徒にあらず』などと言わんばかりだった女子生徒がいなくなった。
彼女達は自分の血筋に並々ならぬプライドを持っているお嬢様ばかりで、それを一々リゼに対して見せつけるわけではなかったのだが――そもそも彼女達の視界に自分は存在していなかったのだろうと思われる。
クラスメイトや同学年の生徒は案外友好的な態度で顔や名前も一致するが、上級生はリゼの事など歯牙にもかけていなかった。
それ自体は全然構わなかったのだが、大会以降、廊下を歩いていると女子生徒がスススと横に避けていく。
最初は気のせいかと思ったが、昼休みなどは特に顕著だった。
自分の顔を見るなり、愛想笑いを浮かべて道を譲ってくれるのだから、その違和感は計り知れないものがあった。
露骨すぎない?
まぁ、パッと見れば自分は非力で何の力もなく頼りない少女にしか見えないかもしれない。
しかしその気になったら得物を持って斬りかかってくるかもしれない! と、女子陣に畏怖と恐怖を抱かせる存在になってしまったのだ。
逆に、人を見境なく暴れる蛮族扱いかと逆にイラっとすることもある。
秘境の山から下りて来た熊か何かのような態度は失礼ではないだろうか。
実害が無いので無視していれば良いとはいえ、あの剣術大会では目立ちすぎたのだろうなぁ、と今になってそう思う。
当日は必死でなりふり構ってはいられなかったけれど、この学園に通う貴族のお嬢さん達にとっては、何をそこまで必死になるのかとその執念が怖く見えたに違いない。
そんなつもりはないとは言え、まぁ、怖がられ遠巻きにされることは甘んじて受け入れなければいけないだろう。
お陰でごく普通にジェイクと話が出来るようになったのだから、よくやった自分、と自分の努力を褒めちぎりたいくらいだ。
ジェイクと話をしていても、以前感じていた刺すような殺気や視線を感じることもなくなったし。
対等というわけではなくとも、雑談や日常会話に関しては周囲をあまり気にしなくなったなぁ、としみじみ思う。
外的変化として、リゼの剣の腕を他の生徒達に知ってもらえ、それ相応の評価や対応を受ける事になったわけだ。
女子には怖がられ避けられても、剣が好きな男子生徒には物凄く気軽に声を掛けられるようになったというどうでもいい副次効果もあった。
彼らにしてみれば、自分はかなり珍しい存在なのだろう。
まさしく珍獣扱いとしか言いようがない。
また、内面的なものとしてリゼの意識の深化が著しい。
……有象無象の他の生徒に関しては、本当にどうでもいいのだ。
自分のやるべきことをやるだけというスタンスに一切変わりはない。もうすぐ訪れる学期末試験の準備に切り替えて余念がない態勢。――余念などない、はずだった。
でも最近勉強効率がガタ落ちているという自覚があり、それがリゼを逐一苦しめている。
あの日の事がずっと頭から離れない。
大会でジェシカに辛勝出来た事より、王子とジェイクの特別試合を特等席で目の当たりに出来たことより。
あの後の出来事がずーっと忘れられないのだ。
駄目だと自分でも分かっているが、こればかりはどうすることもできない。
今までも接触事故はいくつかあったはずだ。
社交ダンスの練習の時、手を繋いだ。
上手く馬に乗れなかった時、彼の後ろに乗せてもらった事もあった。
転びかけたところを支えられたこともある、実際に転んだ時に運んでもらったこともある。
あの日も事故の一種のはずなのだが、本当に頭がどうにかなってしまいそうだった。
ぎゅっと抱きしめられた感触を、今までにないくらい至近距離の接触を、背中に回された腕に籠められた力強さと心地よさを。
あれから何度夢に見てその度に思い出し、寝台の上でのたうちまわったか数えるのも面倒になる程だ。
……あの手がいけない。
リゼはジェイクの事が好きで、何処が好きというよりは存在丸ごと全部が大好きなわけだが。
その中でも取り分けあの大きな手が好きだ。
とても良家のお坊ちゃんのものとは思えない、武骨でごつごつした指と厚い掌。
自分の手より一回りも二回りも大きな手、あの暖かさも良く知っている。
手だけではなく、あのがっしりとした太い腕も男の人らしくていいなぁと思っているが、あの腕の中に僅かな時間でも自分がいたのかと思い返すと顔から火が出る程恥ずかしい。
これも一つの
そのせいで勉強の進行具合に支障が出ていることが情けない。
集中して問題を解く時間、ふとした瞬間に沸々と蘇ってくる記憶に抗うため、結構な時間を要してしまう。
今まで、こんな事は無かった。
ジェイクの事は好きだけれど、それはそれ勉強は勉強と割り切って寮で過ごすことが出来た事が今では信じられない。
恋愛とはここまで己の自由意思を浸食するものなのかと絶望さえ抱く始末だ。
手を伸ばせば届く距離で話が出来る状況なのも、あまり宜しくない。
ふとした瞬間に告白の言葉が口を衝いて出そうになる。
何と恐ろしいことだろう、とその度に身が竦んだ。
この自分にとって都合の良い環境が不用意な一言で全部崩れ落ちてしまうのではないか。
近づけば近づく程、現実という問題がリゼの前に立ち塞がる。
自分はただの小さな村出身の一般庶民で、相手は王国三大諸侯の一角の後継ぎなのだ。
そもそも出会えただけで奇跡のようなもので、こうして普通に話が出来るということも本来ならありえないことのはず。
ジェイクの父は、名の知れた武芸に秀でた女性を第二夫人に選んだとジェシカは言っていた。
そこまで望まなくとも、強い女性という存在に対し彼らが価値を見い出してくれるのであれば、今後も何らかの形で傍にいられるのではないか。
その女性のようになりたいなんて夢は抱いていない。
きっと彼女は、強さだけではなく美しさだとか女性としての魅力も備わっていたから選ばれたのだろう。
もしかしたら良家の出身だったのかも。
この学園のみならず、この国には目も眩むような美しい女性や才色兼備でその上剣の腕にも秀でたジェシカのような女性もいるのだろう。
ジェイクが敢えて自分を選ぶ意味はどこにもない。
今、事実上彼の友人として話をすることが許される状況なら。
もう少し頑張れば、学園を卒業した後も有益な存在として傍においてもらえるのではないだろうか。
傍にいられなくても、騎士団に配属されれば同じ建屋で仕事が出来るわけだし、その立場なりの功績を残せば彼に会う機会もあるのだろうし。
今後もジェイクと同じ進路でいられるように、剣だけではなく馬術、そして――厳正な試験を受けてパスしなければいけないという目標がある。
実技は当然として、優良な成績で学園を卒業し推薦をもらって、その上で試験を受けて……と考えると、学業を疎かにするわけにはいかない。
どちらも自分に欠けてはならない、前に進むための両輪だというのに!
こんな体たらくでは希望にはほど遠いと言って良いだろう。
しっかりしろ、と自分を鼓舞する。
喫緊の課題であった、『剣術大会の上位に入る』という一つの目的を達成してしまった。
その後足踏み状態で、この先どうしたらいいのかと惑い、雑念に囚われているのだと分かっている。
何か明確な目標があれば一心不乱に集中できるが、上位入賞という一つの区切りを果たした今、自分は虚脱状態に陥ってしまった。
剣術大会で上位になればいいというカサンドラの助言に従い、そして確かに――自分は彼に近づけたのだ。
入学当初は考えられなかったが、彼と同じグループで剣術の指導を受けることもでき、その中でジェイクと話をしていても誰にも何も文句を言われない。
ジェシカには恨まれているかと思ったが、逆にリゼに対する心象が良くなったのか以前より友好的に接してもらえるまでになった。
今の環境は自分が目指していたもので、やり遂げたのだという達成感に満たされていた。
でも本質的には”それ”が目的ではなかったはずだ。
ジェイクの事が好きだから。
彼の事を知りたいと思った、話したいと思った、一緒にいたいと思った。
……ここで自分が欲をかけば、上手くいっている環境全てを自分の手で壊してしまうことになるかも知れない。
折角目に留めてくれたことが、強すぎる想いのせいで――全部崩れ落ちてしまうかもしれない事が恐ろしい。
彼と一緒に過ごせる学園生活などこの先二度と訪れることはないのだ。
逸る余り玉砕し、傷心のまま残りの学園生活を送ることになるのは想像しただけで立ち直れそうもない。
だから、決めよう。
卒業する時にちゃんと自分の気持ちを言うんだ。
既に進路は定まっているだろうが、自分は今はただの官吏よりも騎士団の仕事に対して興味が向いていて、それをやり遂げる自信もある。
ジェイクとの関係がどうなろうと将来は変わらない。
そこで盛大に彼を困らせようが気まずい関係になろうが、学園という箱庭から出ていくのであればもはや関係のない話である。
ただ手を拱いて卒業の時を待つのは駄目だ。
近づくため今まで努力をし結果を出したのだ。
今度は――好きになってもらえる努力をする他ないではないか。
ようやくスタートラインに立てたのだから、後は自分次第。
己に女子力など微塵もないことは自覚しているので、根本的なところから意識を変えないといけない。
今のままではただの手のかかる妹分ならまだしも弟分な気がする、告白しても受け入れてもらえるとは思えない。
彼の近くにいるため、剣の講義も真剣に受ける。
進路を確固たるものにするため成績は意地でも保持する。
そして――好きになってもらえるよう、己を磨く。
いざこうしてやるべきことを並べてみると、先の思い出に浸って一人ゴロゴロと身悶えている時間が勿体ない。
時間は有限だ、どれ一つ疎かにしてはならない。
告白する日も決めた、将来の進路も決めた、なら後はそれに向かって進むだけだ。
悩むことなんてない、立ち止まる意味もない。
将軍の第二夫人の事にチラリと一瞬の夢を見たりだとか、突発的なアクシデントの事だとかで心が揺れて目標が定まらなかったけれど、やはりハッキリとした目的設定は大事だ。
ジェイクに正式な婚約者が決まったら……と考えると胸が締め付けられて呼吸が浅くなる。
でも遅かれ早かれ現実となることだ。
万が一、今告白して付き合えるだなんて超奇跡的な展開になったとしても、避けられない。
草葉の陰から見守ろうが学園内で見守ろうが、それこそ恋人になれたとしてもその日はいずれ必ず訪れる。
卒業の日なら、一番傷が浅く済む。
彼を殊更煩わせることもない。
好きになってもらえるように頑張って、それで最後に『好きでした、ありがとう』と言えるのが一番後悔が無い。
どういう言葉が返って来ても、それを受け入れられる。
いや、受け入れると決めたのだ。
好きになってもらえたのなら……
どういう形でも、傍にいられればいいと思う、
仮に愛人だろうがただの部下だろうが、戦場の盾扱いだろうが仕事仲間だろうが。
――相手に奥さんが何人いようが、だ。
それで満足しなければいけない人を好きになったのだから、それはもうしょうがない。
割り切らないと、夢も見れない。
※
勿論、言うは易く行うは難し。
月曜日の恒例となったジェイクの家庭教師のアルバイトの時間は、中々平静でいることは困難である。
だが内心では完全に開き直っていた。
――好きな人と同じ部屋に二人きりで平常心を保てるわけないだろうが、と。
その上で平静を装って応対するのは慣れたものだ。
先週あたりは心が迷走していたので、上手くジェイクに勉強を教えられたのかの記憶が無ければ自信もない。
顔を見るだけでドギマギして目を見て話が出来なかったので、真面目にしろと怒鳴られても文句は言えない状況だった。
ただ、一たび目的が定まれば地に足を着けられるのは自分の数少ない良いところだと思っている。
だから今日は気合を入れ、今までと変わらない『自分』でいられたはずだ。
「……そういえばさぁ」
集中力が途切れた時、ジェイクはそうやってとりとめのない話を始めた。
人間の集中力が一時間丸々続くことはないとリゼも分かっているので、大人しくその話に付き合うことにしている。
一応、全く手が止まっているわけでもないのをちゃんと横目で確認した上の話だけど。
ただ、彼の声が前触れもなく突然近くから聴こえる状況はいつになっても慣れないものだ。
「何ですか?」
「前、アーサーとカサンドラが街中散策に行くから、お前も一緒に来ないかって言ったろ?」
「はい、覚えてます」
覚えている――どころの話ではない。
一旦話はあったけれど、具体的な日程の話はなく既に十二月に入ってしまった。
寒い中の散策だろうが嵐だろうが大雪だろうが随伴するのに何の躊躇いもない。
早く一緒に出掛けたいと、話を振られるのを今か今かと待っていたのである。
こちらから『いつですか』なんて言いだし辛い話だし、王子とカサンドラがメインの話なので猶更ヤキモキしていたリゼだ。
「もう十二月に入ったからな、皆で出かけるのは難しいんじゃないかって」
「……ええ!?」
そんなまさか。
話自体が立ち消えた……と!?
思わずリゼは机の上に両手を添え、立ち上がってジェイクを見下ろした。
「か、カサンドラ様が無理だと仰ったんですか!?」
「いや、そうじゃないけど。時期的に試験期間だろ、それに試験が終わったら冬休みでアーサーも忙しくなるしさ」
ガーーーーン、と鈍器で後頭部を殴られたような衝撃を受けた。
そりゃあジェイクにしてみれば、王子達のデートに物凄くついていきたい! なんて執着はない。
機会を逸したのならしょうがないとあっさりと無かった事に出来るのだ。
だがリゼとしては、物凄く楽しみにしていたイベントだ。
お茶会や避暑地に連れて行ってもらえると分かった日を指折り待つよりも期待して楽しみにしていたというのに……!
誕生日だってこれほど心待ちにしたことはないわ、と言い切れるくらい内心はしゃいでいた自分の意気が一気に削がれた。
そのままどろどろとした液体に溶けて床に這いつくばる寸前、それくらいのショックを受けたリゼ。
「で、王都散策の予定を変えて、皆で試験勉強会でもしようかって話になってな」
「……勉強会?」
「この時期に街をふらふら出歩いて、万が一アーサー達の成績が下がったりしたら――シリウスに何言われるか分かったもんじゃないだろ?」
二週間前には試験範囲の公示があったはず。二学期は範囲も広いので二週間前でも間に合うかどうかは結構微妙なところだ。
今週末から生徒は試験対策に入るので、そんな時期に街を出歩いてました、なんて。
生真面目な優等生が服を着て歩いているかのようなシリウスには我慢ならないことに違いない。
半日くらい遊んだって試験結果に変わりが生じるとは思えない。
それで落ちる成績なら、多分遊びに行かなくたってその成績が実力なのだろう。
……しかしそんな理屈が通用するような御仁ではないし、それによってカサンドラが嫌味や皮肉を言われるような事態だけは絶対避けたい。
くっ、と唇を噛み締めて堪える。
「試験対策のために集まるって言うなら、後で突かれることもないんじゃないかってな」
ジェイクの言葉に、リゼは即座に意識を切り替える。
一緒に街中に出歩くという楽しみは潰えてしまったが、勉強会という事なら――休みにジェイクと一緒にいられる機会がなくなったわけではないということだ。
夏休みの終わり、カサンドラの屋敷で三人でジェイクの宿題を手伝ったけれど、それの拡大版。
「わ……分かりました!
勿論、お供します!」
「そうしてもらえたら助かる。
――試験期間中にも時間取らせて悪いな」
「私も勉強会の開催は大いに賛成です。
一人で勉強していては気付けないこともありますし、こうやってジェイク様に教えることで私も理解が深まるわけですし」
元々、ジェイクに打診されるまで自分の中で存在しなかった予定、それが急遽勉強会に変わったというだけだ。
今週末に、学園で一番近くに立てられている餐館に集まって試験勉強をするだろうという話で、今度こそそれが実現しますように……! と願ってやまない。
ただ、リゼはそこまで思い至って重大な懸念事項があることに気づいてしまった。
ジェイクの言葉に大きく真剣な面持ちで頷き返しながらも、心の中で滝のような汗を流す。
ヤバい。
着ていく服が無いぞ……、と。
もはや何度目か忘れたが、外出着のことなんかすっかり忘れて剣術にばかり没頭していたリゼである。
フランツにさえ『服買った方が良いぞ』なんて申し訳なさそうな顔で勧められる状況は変わっていない。
カサンドラと一緒に選んで買ったスカートを穿いたり上着をリタ達に貸してもらったりで事なきを得ていたわけで。
もう季節は真冬に近く、以前着ていた服は軒並み季節外れ。
しかもついさっき、自分磨きを頑張ってジェイクに好きになってもらえるよう努力しようと目標を立てたばかりだ。
ここで適当な服で茶を濁し、果たして己の向上につながるのであろうか。
クローゼットにあるどの冬服も適当に揃え着回し前提で『どうせコート着るんだし、中身なんでもいいや』と擦り切れた上着も沢山……!
こんなので女性として見てもらえるのか? という根源的な疑問の嵐に頭を抱えたくなった。
勉強会だから制服で参加とか……
いや、それは無いな、と思う。
以前王宮でのお茶会の時、制服を着て行ったらジェイクを始め皆唖然とした顔をしていた事も記憶に新しい。
私服として利用するのはあまり宜しくないのかもしれない。
だがしかし新しい服を買い替えると言っても……
今は無駄遣いできる時ではない。
フランツにもらった剣の代金分はコツコツと貯めて、ちゃんと返したいと思っている。
ああああ、と頭を抱えて蹲りたくなる。
自分は計画性は結構ある方だと思っていたのに、服飾関係のことは全く気が回らない。
勉強だけでも、剣術だけでもなく。
恋をしていると、学ばなければいけないことがいっぱいあるのだとリゼはその道のりの険しさに、再度打ち震える事となった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます