第263話 親睦会『キャロル』


 昨晩からちっとも眠れなないまま、朝を迎えてしまった。


 キャロルは寝台から降りてすぐ姿見を覗き込み、己の目の下にうっすらと隈が浮かんでいることに気づいてしまう。

 思わず悲鳴を上げて使用人に何とかこれを誤魔化すようにと頼み込むことになった。


 化粧をするのはあまり好きではないが、今日は一段と濃い目の化粧を施され――その寝不足の証を上書きするように黄色の明るいドレスを着込んだ。

 膝下までのふんわりとした縁取りのフレアスカートに朱色のハイヒール。

 自分でもかなり派手だなぁと思っているが、ただでさえ自分の存在感は希薄だ。

 この上暗色系の装いで一般人Aと間違われてしまってはかなわない。



 アイリスには『楽しんでいらっしゃい』と背中を押してもらえた。

 キャロル自身もそのつもりで、今日という日を迎えたのだ。

 もう二度とこんなチャンスは巡ってこないだろう。


 ……自分でも情けない事だと忸怩たる想いに駆られている。

 でもアイリスがいなくなってしまった後の学園生活を思うと、とても平静ではいられなかった。

 自分はきっとケンヴィッジの三姉妹をヴァイル派の人間という立場で押さえつけることはできないだろう。

 未だに彼女達の名を聞くだけでも気分が悪くなる。


 ただ従姉妹のアイリスを慕っていただけなのに、何故か目を着けられて。

 父親である侯爵に可愛がられて庇護されてやりたい放題の彼女達は、ターゲットをキャロルに定めて陰湿に苛め抜いた。

 だがキャロルの母は姉妹仲が良く、ケンヴィッジ家に自分を伴ってしばしば遊びに行く。

 母からの誘い全てを断るわけにもいかず、結局嫌な想いをして帰ってくる。


 厄介なのは、仮にキャロルが母についていかないという選択をしたところで、アイリスと一緒に三姉妹がキャロルの家に遊びに来ることであった。


 逃げ場もなく、アイリスも常にキャロルと一緒にいてくれるわけではないので隙を見ては難癖をつけられた。


 ……身体の傷跡に残るようなやり口ではない。

 むしろそちらの方がマシだった。


 だが彼女達はひたすら自分に否定の言葉を投げつけ、誰かが自分の事を悪く言っているという事を嗤いながら滔々と聞かせる。

 貴族社会で生きていく人間は、噂話に敏感でなければいけない。


 悪く言われてはいけないと昔から己を戒めて良い子で生きて来たキャロルにとって、絶対に嘘だと言い切れない侮蔑の言葉はもはや呪いにも近かった。

 相手が一人ならまだしも、三人が代わる代わる猫なで声で近づいて来ては人の心を抉るような事を言う。


 彼女達が”本当に怖い”と思ったのは、嫌々ながらも母親に連れられてケンヴィッジ邸にお邪魔したある日の事だった。

 あの日は何とか自分の気を盛り上げようと好きな色の他所行きの洋服を着、一番のお気に入りのネックレスを着けて気合を入れて乗り込んだ。

 生憎あの日はアイリスが不在という絶望的な日で……




『あなた、ほんっとうに不細工ね。

 いつも黄色い服ばっかり着てるけど、全然似合わないわ。

 ……ああ、そのネックレスも凄く変よ』


 一緒に遊んでおいでと言われて応接室に連れられたは良いが、三人に囲まれて壁際に追い詰められた時の恐怖は未だに忘れることが出来ない。


 そして一人がキャロルのネックレスに手を掛け、ぐいっと引っ張る。

 乱暴な扱いを前提として造られたものではない繊細なアクセサリーは、思いっきり引っ張られ簡単に虚しい音を立て引きちぎれた。

 絨毯の上にバラバラと落ちていく銀色の鎖、それを通していた宝石の珠が落ちていく。


 それらを呆然と眺めつつも、これなら彼女達を非難できると内心少しほっとしたのも事実だ。


 こんな風に虐められているのだと誰の目にも訴えられる、母親もきっと分かってくれる。



 だがそんな希望は一瞬で潰えた。

 突如相手が金切声を上げ、まさに絶叫したのだ。


 その屋敷全体を劈くような叫び声に、邸内にいたケンヴィッジ侯爵が慌てて部屋に飛び込んできた。

 一体どうした、と。

 寛いでいたのだろう、パイプを片手に上着を羽織ることもなく現れた侯爵に、彼女達はわっと泣きついた。



『パパ、ごめんなさい! ……私、キャロルさんのネックレスを壊してしまったのです!

 ……どうしましょう、こんなつもりでは』


 どう考えても最初から引きちぎる気満々だっただろう彼女は、小賢しくもわざとではないのだと先手を打って侯爵に泣きついた。

 そう言われればキャロルとしても口を引き結び、バラバラになってしまった元ネックレスだったものを無言で拾い上げるくらいしか出来ることは無かった。


 彼は、娘に甘い。

 それも妾の子にだけ、とても甘い。


 ……珍しいことじゃない。

 周囲からお仕着せに決められた婚約者をどうにも気に入らず、自分好みの女性を家に堂々と住まわせる貴族の当主など良く聞く話だ。

 そして生まれた子に差をつけ、片方に辛く当たるなんて聞き飽きた『よくある話』。


『そうか、それは大変申し訳ない事をしたね、キャロル君』


 ケンヴィッジ侯爵はそう言って困ったように眉を下げ、キャロルの肩をポンと叩いた。

 普段はにこにこと人好きのする、若い頃はモテたに違いないその整った顔のおじさん。

 彼は跪いてアクセサリーだったものを拾うキャロルを制し、着いておいでとキャロルをある部屋へ連れて入った。


 そこはキャロルの家の何倍も広い衣装部屋で、まるでお城の一室を借り切っているような現実離れした煌びやかな部屋だ。


『お詫びになるかは分からないが、ここから好きなものを持って行ってくれないか。

 ……私の娘が大変申し訳ないことをしてしまったね』


 聞きようによっては、礼儀正しく優しい良いお父さんだ。

 その連れて行ってもらった衣裳部屋が、アイリスの私物を納めている部屋だということを知らなければ――の話だが。


 どれこれもアイリスが身に着けていた目のくらむような装飾品を次々に持ってこられ、キャロルは言葉を失う。


 娘のものだが、自分の金で誂えたものをどう使おうが自由だと嘯くオジサンの笑顔に震えた。

 ……こういうことを平気でするような人と同じ屋敷で暮らしているアイリスの事を考えるとキリキリと胃が痛かったのをよく覚えている。


 視線を感じて振り返れば、扉の隙間からニタニタと厭らしい笑みを浮かべてこちらの様子を伺う三姉妹の姿。


 あれは蛇か? と総毛立った。

 気味が悪く、ぞっと足がすくむ出来事である。


 アイリスにもなかなか打ち明けることが出来なかったが、これ以上は自分の精神がもたない。

 意を決して相談した時、彼女が悪いわけではないのに何度も謝ってくれた。


 



 ……アイリスがいなくなり、あの三姉妹が学園に通い出すと考えると悪夢としか思えない。

 今の自分の地位などあっという間に彼女達に突き落とされてしまうだろう。

 何と惨めなことだろうか。

 妾腹の娘如きにビクビクする自分は嫌だったが、刷り込まれている恐怖心がそうそう消えるわけがない。

 彼女達は時に呆れる程稚拙な顰蹙ものの行動をとるけれど、実際はずっと狡猾だ。

 皆が眉をしかめて「あらあら」で呆れてくれる程度の”オイタ”の範囲を知っており、本当に陰惨な事は決して周囲に知られないよう動く。




 ※ 




 自身を鼓舞するための黄色いドレスを纏い、キャロルはカサンドラの屋敷で他の令嬢達と食事テーブルを囲んでいた。

 食前酒、お通しアミューズ、前菜――

 食事はミランダやカサンドラの話を聞きながら、とても和やかに進んで行った。


 最初はどんな空気、雰囲気になるかと内心で冷や冷やしていたキャロルである。

 特にミランダが警戒心を全く解いていない様子に心が縮こまったが……


 正面で上品に微笑みを浮かべるシャルロッテを畏敬の念を以てもう一度眺めていた。

 彼女が全く遠慮することもなく、あっけらかんとした物言いをしてくれたものだから。


 結局なし崩し的にミランダの猜疑心が薄れたのだろう、今までキャロルが知ることの無かった婚約者殿との事情をここで知ることが出来たのだ。


「まぁ、なんと素敵なお話でしょう。

 まさかミランダさんに求婚なさるためだけに、騎士団で将軍にお目を掛けて頂けるよう励まれるなんて」


 シャルロッテが食事の手を止め、食い入るようにミランダの話を聞いている。

 彼女が感動するのも分かる、キャロルもついつい前傾姿勢で聴き入ったていたくらいだ。


 数年前に密かにお付き合いをしていていた男性と無理矢理離れ離れにされた事には胸が痛む。

 だが身分の差に屈することなく自分の力で、求婚するに足るだけの功績を以て迎えに来るなんて、それは何かの物語ではないか。

 恋愛物語の劇テーマとして十分観るに堪える。


 しかもその電撃婚約のいざこざで、一時ミランダの立場が危うくなり取り巻き達が離れて行ったことを述懐した彼女は――シャルロッテに同情的な視線を向けた。


「最初は裏切られた、所詮はその程度か、などと思うことはありましたけれど。

 結局その程度の繋がりでしかないのです、シャルロッテさんも周囲の目など気になさらず特待生にでも誰にでも話しかければいいのではなくて?」


「ですがエルディムに関わりの無い方に話かけるようなこと、お兄様が快く許すとは思えないのです」


「……。

 案外どうとでもなるのではないでしょうか。

 私、気になることがあって一度特待生の方と一対一でお茶にお誘いしたことがありますの。

 ――そのことで意見する者などおりませんでした」


 へぇ、とキャロルも瞠目した。

 ミランダは機嫌よく饒舌に語るが、彼女の話は自分にはとても想像が出来ない、全く違う世界の話のようであった。

 特待生を自分の行きつけのカフェに誘うなんて、そんなこと考えたこともなかったくらいだ。


 ミランダは一度孤立の憂き目に遭い、その立場を復権させたということで色々と考える事があったのだろう。

 そして周囲の取り巻き達も一度ミランダに後ろ脚で砂を掛けるような真似をしたという自覚があり、表立ってミランダにあれこれと申し立てることもしないそうだ。


 ――彼女は、きっとこのまま何事も無ければ平穏無事に、ある程度の精神的自由と信頼できる婚約者を持ったまま。

 面倒なしがらみ、学園から卒業することが出来るのだろう。



 キャロルがこれから『言おう』としている事は、きっと彼女にとっては面倒な事に他ならない。

 想像すると、心がぎゅっと苦しくなった。



「そう言えばカサンドラ様。アンディから聞いたのですが、カサンドラ様はお誕生日に王子から王宮に招かれ、一日を過ごされたのだとか。

 学園内ではあまりお二人でいらっしゃる姿をお見かけしませんが、やはりお休みの日は王子とご一緒なのですか?」


 ミランダは良い加減自分ばかり喋り過ぎた、と思ったのか。

 僅かに咳ばらいをした後、カサンドラの方に話の矛先を向けた。


 そちらはそちらで凄く……気になる!


 王宮舞踏会で光り輝いていた王子とカサンドラの姿は、その後開かれた他所のお家でのパーティでもよく話題に上がったものだ。

 間近にしてどれほど羨ましかったか知れない。


 前世でどんな善行、徳を積んだらあのような素敵な王子様のパートナーに選ばれるのだろうか。


「王子はお忙しいお方でいらっしゃいますので、しばしばお会いできるというわけではないのですが……」


 カサンドラは少しばかり困ったように首を傾げる。

 ミランダが言った通り、彼女と王子はあまり学園内でセットで見かけることは殆ど無かった。

 王子は他の大勢の生徒に囲まれていたり、親友のラルフ達と一緒に行動することが多い。

 そしてカサンドラは特に決まった誰かと常に一緒にいるわけではなく、一人で行動している姿を良く見かけた。


 そこまで仲が良いわけではないのか、所詮紙切れ一枚の契約かと思っていたけれどそんな疑惑は今は殆ど囁かれることもない。

 あの王宮舞踏会の姿を見た者は、消極的にも積極的にも二人の正当な関係を認めざるを得なかった。


 カサンドラはあまり表情をころころ変えるような人ではなく、常に余裕があって物事を見渡し泰然とした女性だ。

 だが王子の話を振られると、必ず照れるような表情になるのがとても人間味を感じられた。

 勝手に親近感と言うか、彼女は綺麗なお人形さんではないのだなと大きく納得する一幕だ。



 これが今まで憧れていた普通の女の子の会話なんだ、と途中で気づいて瞠目した。


 誰かの悪口を聞かされるでもなく、親戚や当人の家柄自慢を小耳に挟むでもなく、殆ど話もしたこともないような生徒の訴えに耳を傾けるでもなく。

 素行の悪い男子生徒に付きまとわれているから何とかして欲しいと泣きつかれる事もなく……

 目上のおじさん達の機嫌を取らなくても良い、話す順番を一々気にしなくていい、多少語尾が崩れても誰も眉を顰めない。


 とても居心地が良かった。




 彼女達の微笑ましくも心が躍る話を聞き、いつの間にかメインディッシュを食べ終わり口直しのシャーベットが目の前に運ばれた。

 外は木枯らしが吹き荒び冬の寒さを存分に見せつける気候であるが、食堂の中は暖炉に火がくべられていてとても暖かい。

 身も心もポカポカで、キャロルは小さく吐息を吐いた。



 このまま相槌を打ちながら、楽しく歓談して時を過ごした――という事実を残すことが出来ればそれでいいのだ。

 カサンドラとも個人的な友好関係にあり、三人は反目し敵対し合っているのではないという既成事実を残せば。

 来年度以降、カサンドラに相談しやすくなる。


 アイリスもきっと安心して卒業し、近い将来に向けてのもっとしっかりした足場固めに注力できる事だろう。





 一瞬、フッと会話が途切れ四人の間に沈黙が落ちる。

 今しかないと意を決し、キャロルはおずおずと声を上げた。




「あの……」



 自分から話題を振ることは無くても、一生懸命話に聞き入り相槌をうち、続きを促していたキャロル。

 そんな自分が再び声を上げた事で、他の三人の視線が一斉に突き刺さる。


「私、先ほどミランダさんに申し上げました。

 カサンドラ様が率先してこの場を設けて下さったのではなく、私の方からこいねがったのだと」



「キャロルさんは私と同じ気持ちだったのでしょう?

 私、貴女が同じように現状に思うことがあったのだと分かってとても心強かったですわ」



 ”それは、違う”



 二人同時に立ち上がり、決してカサンドラの利益のため彼女に強いられてここにいるわけではないことだけで伝えたかった。

 結局シャルロッテの積極的な発言にキャロルの行動は無かったことのようになり、今更手を挙げなくても良いのよ、とシャルロッテがにこにこ笑顔で言外に告げる。




 でも、自分の場合はシャルロッテの想いとも違うのだ。

 この食事会は――『キャロル』のために、カサンドラが企図してくれたものである。



「キャロルさん……」


 敢えて事細かく理由を説明する必要はない、とカサンドラも躊躇いがちに横から呼びかけてくれた。

 折角この食事会の動機はシャルロッテのお陰で有耶無耶となり、皆で仲良く歓談をし穏やかなまま進んでいる。


 そこに自分の事情を公開してしまえば、一気に場の空気が重たくなるかもしれない。

 痛い肚を探られるどころか自ら痛む箇所を曝け出すことは、危険な事だ。


 キャロルの来年度以降の危うい立ち位置を彼女達に今の今、教える必要はない。


 だけど自分ばかり保身のためにこの会を設けてもらったという事実、それを隠したままなのは耐え難い。

 まるでシャルロッテやミランダの善意を利用しているかのような気持ちになり、正直に打ち明けないままではいられなかったのだ。






「……シャルロッテさん、ミランダさん。

 ご気分を害されたとしたら大変申し訳ありません。

 実は……――」

 


 たった一時間かそこら、同席しただけだ。

 でも自分の周囲や相手の周囲を囲う何のしがらみもない状態で為人ひととなりを知るにつけ、ちゃんと正直に話すべきだという気持ちが強くなっていった。



 少なくとも彼女達は、自分の気の弱さを詰ったり、アイリスの顔を潰すような噂を吹聴したり――

 こちらの弱みにつけ込んで何かをしようなんて考えない、信用できる人たちだと思えたから。



 特にミランダは、この食事会に最初は警戒心を以て参加した。

 三人がカサンドラにお呼ばれした、という事実の伝播のされ方次第では同派の令嬢達から要らぬ詮索、突き上げを食らうかもしれない事を用心していたはずである。

 キャロル一人の都合のために薄氷の均衡を保っていた学園内の空気が騒々しくなるなら、それは自分が発端で迷惑をかけるということだ。





 こんなに面倒な事になったのは、全てシャルロッテやカサンドラが積極的に話を持ちかけたせいだ。





 ……なんてミランダに後ほどまで勘違いさせたままでは申し訳ない。






 あの三姉妹はとても狡猾、小賢しい。

 嘘の中に何割かの真実を入れ、決定的な糾弾を免れる。

 そして姉妹であるがゆえに結束力も高い。


 ……事実を歪め誤魔化し、賢しく立ち回りキャロルの首を真綿で締め上げて来たのだ。







  ならば自分は正直であるべきだ。


  結果的にでも相手の善意を利用したような形になれば、彼女達と同類になるのではないかと思い、それが途轍もなく嫌だった。 



 カサンドラの心配そうな表情に、大丈夫です、と。

 キャロルは微笑んで、黄色いフレアドレスの裾をきゅっと握り締める。


 

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