第262話 親睦会『シャルロッテ』
『カサンドラ様の前で滅多な事を口走るんじゃないぞ、シャル!』
食事会に向かう今日、わざわざ屋敷に戻って来たビクターが何度も同じことをシャルロッテに忠告してきた。
がみがみと口うるさい。
もはや耳に
普段学園ですれ違う時も互いに話しかけることもなく、無言でスッとすれ違う兄妹。
だが彼は常にシャルロッテの言動を警戒していて、普段は学園の男子寮で過ごしているが週末必ず屋敷に帰ってくる。
兄は悪い人ではないのだが、根が真面目過ぎて融通がきかないところがあるのが玉に瑕だ。
見た目も決して悪くないのに、あまり自分に自信が無さそう。
いつも父や他の男子生徒達の顔色を窺っている。
とにかく無難が大好きな性格だ。
作業としてルーチンワークをこなすなら誰よりも優秀かもしれないが、少しでも予定外の事があるとすぐにパニックになるし。
……実の妹だからこそ、身内に辛口になっているかもしれない。
彼がシャルロッテに注意するのも自分が憎くて嫌いだからではないと――それが分かっているから、一層もどかしい。
もしも家族や知人から迷惑がられ爪弾きにされているなら、こんな家! と見境なく飛び出したかも知れない。
だが屋敷の使用人も家族も、皆シャルロッテを大事にしてくれているのは分かる。
その上で、自分を殺して生きていけと強いるのだ。
ルブセイン伯爵家の娘として、シリウスに選ばれ第一夫人の座を得ることが最良の幸せなのだと誰もが自分を諭してくる。
そりゃあ彼の事は嫌いではないが、エリックと言うあんな義父がおまけでついてくると考えただけでおぞましさを感じるし。
何より彼に選ばれる未来が見えない。
シリウスが他の女性を選べば自動的に自分も相手が決まるのだろう程度の興味しかなかった。
もしもシャルロッテが選ばれたら身内はお祭り騒ぎに違いないが、そうなってしまえば永遠に籠の中から飛び出すことはできないだろうな……という閉塞感に一生捕らわれる未来が見える。
シリウスは冷たく見えるが本当は優しい人だ。
きっと奥さんを大切にするだろう、でも自分は彼の中でただの知人、良くて友人に過ぎないと接していれば分かる。
過度な望みは、とうに捨てた。
※
余計な事は言うなとあれほど釘を刺されていたのに。
「ミランダさん、それは違います。
私が、この席を設けて欲しいとカサンドラ様にお願いしたのです」
シャルロッテは、毅然とした態度で――言ってしまった。
だが今、確かに大きな解放感に包まれている。
それは違う、とミランダの言葉を否定できたことに、シャルロッテはとても感動した。
正面に座っていたキャロルも立ち上がって、驚きに目を見開いて震える小動物のような様子でこちらを見つめているのに嫌でも気づく。
互いに打ち合わせしたわけでもないのにミランダの牽制を必死になって否定しようと立ち上がったのは自分だけではなかった。
キャロルの予期せぬ行動にも当然吃驚したが、それ以上にシャルロッテは歓喜に打ち震えている。
内から湧き出る興奮は、カサンドラに捲し立ててしまったあの日の感動に似ている。
いや、それ以上だったかもしれない。
自分の胸の裡を吐き出すことが出来ることの解放感を、あの時シャルロッテは知ったのだ。
今まで何かを否定するも肯定するも、自分の意見など無いも同然だった。
いや、自分の意見をしっかり持っているからこそ周囲はシャルロッテを常に抑圧し、喋らせないように執拗に周囲を固めていた。
学園の場だけではなく、王宮舞踏会でも、公のパーティでも、誰かに招待されたお茶会でも。
常にシャルロッテの傍には兄の手の者がいて、彼女達はシャルロッテが不穏な事を言い出さないよう喋る隙を与えない。
いつしか諦め閉口してしまい、それが当然のことになってしまっていた。
でも、やっぱり気持ちいい。
自分が思っていることを直接相手に伝えることが出来るというのは、何と解放的な事か。
カサンドラのおかげだ。
彼女の存在は基本アンタッチャブルというか、誰ともつるまず孤高を貫く次期王妃。特に派閥を作って誰かに対抗するでもない、どこか浮いた存在だ。
だが王子は彼女を正式な婚約者として接しているので、機会があればお近づきになりたいと狙う生徒は多い。
尤も、用もないのに易々と話しかけられるような人でもないので――結局彼女は今も静かに学園生活を送っているようだけど。
……彼女が関わると、シャルロッテの側近は全く口を挟めない。
兄のビクターがカサンドラに対して物凄く遠慮していて、次期王妃に失礼な事の無いように。機嫌を損ねるようなことをするなと言い含めているお陰だ。
ゆえにカサンドラの名があれば、こうして監視の目が無く食事会に一人で参加できる。
――あの収穫祭の日を思い出す。
宰相エリックに遠慮して遠巻きに眺めていた側近たち、彼女らはカサンドラの登場によって更に近寄ることが出来ず、二人固唾を呑んでシャルロッテを眺めていただけだ。
普段は自分の脇を固めて面倒な事から全て守るという意気込みを語る彼女達も、もっと立場が上の宰相やカサンドラには結局何も出来ないのだ。
宰相に苦手な海老を無理矢理勧められて食べざるを得なかった、凄く苦しかったあの時、助けてくれたのはカサンドラであり、シリウスであり、殆ど無関係に等しいリナという娘ではないか。
救いの手があった事がどれほど嬉しかったか。
遠巻きに傍観する
ただ偉いというだけで無理を強いてくる宰相にどれだけむかっ腹が立ったか。
ビクターの慌てっぷりは本当に痛快だったと今思い出しても笑えてしまう。
側近達から事態を聞かされ慌てふためき――まさかのスライディング土下座を披露するのだから。
あの人のパニック状態の行動は、身内ながら面白すぎると思う。
普段誰にも言えないような本音を、腹の底に渦巻いていたどろどろとしたマグマを噴火させても、カサンドラは全く動じなかった。
驚きはされたが、眉をしかめることも非難することもなかったし、「シャルロッテの暴言」を誰かに吹聴した様子もない。
兄ビクターや側近達は、シャルロッテのこんな人間性を誰かに見られたら幻滅されるし侮られるし、不快にさせるから黙って座っていなさいと言う。
でも彼女はそんなに心は狭くなかったし、普通に話が出来たし、楽しかった。
自分の言葉で話が出来ることの解放感を知って、だからシャルロッテは我慢できなくなった。
こんな派閥だなんだと面倒な枠組みなど要らない。
皆等しく自由で、話しかけてはいけない相手なんて考えながら学園に通う事に違和感を抱いている。
……今の男子生徒が余りギスギスしていないのは、今年入学してきた王子達の影響が多大だ。
彼らがとても仲の良い幼馴染同士という奇跡的関係だから、男子の間の険悪な空気が緩和されたと言っても過言ではないだろう。
それなら自分達も”そう”であれば。
風向きが変わる、少なくとも自分が在学中は和やかな雰囲気のままで居られるかもしれない。
考えれば考える程ワクワクした。
だからカサンドラにお願いしたのだ、まさか本当に実現してくれるだなんて……
招待状を受け取った時、快哉を叫びたかったあの気持ちを忘れる事は出来ないだろう。
『……。』
立ち上がり、声を出した後しばらく静寂が訪れた。
特に二人から「違う」と反駁され目を瞬かせているミランダは不可解な視線をこちらに、そしてキャロルにと向けている。
シャルロッテはまさかキャロルまで声を出して立ち上がるなんて思ってもいなかったのでそのことにも驚きを禁じ得ない。
キャロルは自分のように常に側近に守られ、表に出てくることは無かったはずだ。
しかし彼女の表情はいつもどこか虚ろで、何かに怯えているというか。
……そこに意志を感じない女性だと思っていたので、勝気な性状のミランダの言葉に敢えて反対の立場をとるような発言をするとは意外に思える。
「――シャルロッテさん、キャロルさん」
気まずい静寂を打ち破ったのは、
彼女は凍り付いてしまった空気を全く気にしていないかのように、ニコッと微笑みを讃えた。
「ミランダさんがお困りですよ。
どうかお二人ともお掛けになって下さい。
皆様をお招きした理由につきまして、改めてわたくしからご説明申し上げましょう」
確かに相手の言葉に被せるように勢いよく立ち上がって否定するなど、淑女のすることではない。
食って掛かるような物言いはあまりにもはしたない。
キャロルの表情をチラっと伺うと、彼女は「申し訳ありません」と恥じ入って勢いを萎びさせその場に座る。
勇気を出して声を上げたはいいものの、この状況にどう話を続ければ良いのか分からなくなったのだろう。
だが、シャルロッテは首を横に振る。
カサンドラの気づかいには申し訳ないけれど、折角誰にも邪魔されずに自分の想いを伝える事が出来るのだ。
ここでさえ
「いいえ、カサンドラ様。
どうか私からミランダさんにお話させていただきたいのです。
宜しいかしら?」
カサンドラの笑みは曖昧なものに変じたが、特に駄目だとも言われなかった。
それをいいことに、シャルロッテは怪訝そうな表情を浮かべるミランダに向き直る。
可愛らしいというよりは、勝ち気さが表れているようなお嬢さんだ。
赤銅色の長い髪を飾る大き目のリボンが良く似合っているミランダは、身構えるように肩を強張らせる。
「突然のことにさぞ驚かれたことと思います。
……実は私、前々から――ミランダさんとお話が出来ればと、ずっと思っていたんです」
「……? 私と?」
当然、彼女は一気に眉を
エルディムの人間が何の用かと言わんばかりのしかめっ面寸前の顔。
「ええ。
ずっと私の傍にはリリム達がいて、ろくに話をさせてくれない日々ですもの」
「……それはそうでしょうね。
お気持ちはお察しします」
おっと危ない、本気で愚痴を言い始めるところだった。
本気の愚痴を聞かされても彼女ももっと困るだろう。
「折角学園で色んな方に会えるのですから。
私個人の意見ですが、派閥だなんだと関係なく、もっといろんな方とお話をしたいと常々思っていたのです!」
ミランダはポカーンとした顔になる。
こんな情景を兄が見たらスライディング土下座どころか、シャルロッテの後頭部を無理矢理上から押さえてテーブルにガンッとめり込ませていたかも知れない。
それくらいの狼狽ぶりを見せつける事だろう”余計な話”。
だが一度本音を言ってしまえば、凄くスッキリした。
自分の言いたいことを直接伝えられる解放感に胸が梳く。
やってしまった、という疚しい気持ちはあれども。
……仲良くしたいということさえタブーな関係など間違ってると思う。
勿論それが最もトラブルが少なく、三年間をやり過ごすに都合がいい事は承知の上だ。
でも折角他派閥のお嬢さん、地方から来たお嬢さん、特待生などと同じ場所にいるのだから敵対し合い無視し合うのも不自然だと思う。
「ミランダさんの電撃婚約の件では、本当に吃驚しましたわ。
詳しく聞きたくても、ええ、ロンバルドの事ですし私の耳には噂程度にしか入って来ませんもの」
「私も……あの時ばかりはどうしようかと焦ったものです……」
ぽそ、とキャロルが呟いた。
慌てて俯いたが、気持ちは同じだ。凄く、分かる。
それまでロンバルド派で最も有力だと思われていた、自分達と同じ立場のミランダ。
彼女がいきなり名前も聞いたこともないような斜陽貴族の長男と結婚が決まったという知らせが、一時学園全体を賑わせた。
この婚約話は誰にとっても寝耳に水で、ミランダがジェイクだか将軍だかを怒らせてしまった、懲罰的な意味合いの婚約だと誰もが頭に過ぎったはず。
ウェレスのお嬢様がロンバルド本家から見限られたのなら、また他の神輿として近い身分のお嬢様を派閥の飾りに据えることになるだろう。
在学中、何とか『不干渉』という形で均衡を保っていたけれど、それが崩れてしまうのではないかとずっと落ち着かなかった。
相手側のゴタゴタに乗じて何か行動を起こすべきではないかという逸った意見が全く無かったわけではない。
自分達の優位性を誇示し、相手を脇へと押しやるような――まぁ、女子同士の縄張り争い、陣地を切り取っていくように。
新しいお嬢様が不干渉タイプかどうかなんて分かったものではないし。
明確な争いや嫌味の応酬、嫌がらせなどの陰湿なやり口に対立の構造が変わっていったら困る。
ミランダが失脚したのかと焦ったのはシャルロッテも同じ想いだった。
彼女は一時期側近からも見放され、教室内で一人で座っている光景さえ目にするようになったから。
これはどうしたものかと頭が痛いことだったが、結局のところミランダのお相手は騎士団でもかなりの出世頭で明確なジェイクの側近候補だと判明。
有力な騎士だと分かった途端、再びミランダの下にロンバルド派の女子生徒は纏まることになったわけで。
騒動としては一件落着したが、当然彼女の周辺では色々ゴタゴタしたのだろうなと推測は出来る。
外側からしか事情を知りようのないシャルロッテは、どうしてそんな事になったのか凄く興味があったし。
何やらミランダとその婚約者は大変仲睦まじいカップルだとも聞くし――
気を揉んだだけに気になる! というのが本音のところだった。
「中々面白い事を仰るのね、シャルロッテさん。
私がどなたと結婚しようが、直接貴女に関係があることとは思えないのですけど」
そう言いながらも、明らかにミランダは動揺していた。
「そうでしょうか。
だってこの間お姿をお見かけしましたが、ミランダさんのお相手って本当に素敵な人ですよね?
ジェイク様とは全然タイプが違いますけれど。
……私など現状どうにもなりませんもの、もう本当にミランダさんが羨ましくって」
「私も……! 武術大会の日にお見かけしましたが、紳士的で優しくて、あの方のような美しい騎士様は初めて見ました」
キャロルも「うんうん」と大きく頷く。
実際彼女の婚約話については学園内でもかなり大きな話題なのだが、シャルロッテの耳に入るのは口さがない悪口のようなものばかりだ。
ジェイクの事を早々に諦めてあんな相手と結婚しなくちゃいけないなんて可哀想、なんて面白おかしく語られるのだ。
でもシャルロッテはそんな事を思った事はない。
誰であろうと相手が決まって羨ましいなぁ、と思えた。
その上凄く仲が良く、見るからに昔からの恋人同士という間柄に羨ましいとしか感じない。
そしてシャルロッテもちょっと変わった性格であると自覚しているが、それでも年頃の女の子だ。
恋愛話に興味はあるし、詳細だって聞けるなら聞きたい。
いきなり自分の婚約者のことに話を振られたミランダは、戸惑ったままだ。
「お二人もご存知の通り、アンディさんはとても見目麗しい騎士様です。
それだけではなく、わたくしがミランダさんとお話をする機会を持てず困っていた時――
わたくしの想いを正しくミランダさんに伝え、こうして同席していただけるよう勧めて下さったのです。
真面目で誠実な方ですよ、ジェイク様が信頼をおかれるのも良くわかります」
そこで駄目押しとばかりにカサンドラが言葉を重ねた。
ここに三人が揃ったのは婚約者殿のお陰なのかと初めて知った、それならシャルロッテにとっても感謝に値する。
ミランダはここに来るまでの言動から察するに、特に自分達と仲良くしたい……という気持ちで参加しているわけではないようだ。
いや、急な会合に警戒するのは当たり前のことなのだけど。
出来れば彼女と話がしたい、仲良くなれたらと思っている自分にとっては彼女の当たり前に持つ警戒心はもどかしい想いがあった。
「アンディのことをお聞きになってどうしようと……
私にとって最高の結婚相手であることには間違いありませんけれど?」
ミランダは肩に乗る赤銅色の髪を手の甲で払いのけ、少し照れた表情でそわそわした様子だ。
「これから食事をお持ちしますので、ミランダさんのお話をお伺いしましょう」
少しミランダから緊張が和らいだ――というタイミングで、カサンドラは再び彼女に話を促そうとする。
だがそれは聞き捨てならない。
漸くシャルロッテは自分が起立したままだったと思い出し、スッと椅子に腰を下ろしカサンドラを横目に見て悪戯っぽく笑った。
「まぁ、カサンドラ様。
私は王子のお話もお伺いしたいと、常々思っておりました。
是非とも後ほどゆっくりお聞かせくださいね!」
「……――!?」
カサンドラは自分にお鉢が回ってくるとは思っていなかったようで、完全に絶句。
――彼女を著しく動揺させることに成功したのである。
……兄に見られたらドロップキックが飛んでくるな、と。シャルロッテは心の中で舌を出した。
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