第260話 ゴードン家
キャロル、シャルロッテ、ミランダの三令嬢を招待しての食事会を翌日に控えた土曜日、カサンドラは私用のため王都西部へ向かっていた。
王都中心部の王城や学園などがあるエリアから少々離れた区域。
種々の隊商が行き交う大きな旅場のすぐ隣に商会本部がずらりと建ち並んでいる。
この王都で知名度の高いサーシェ商会などもの大商会に纏わる建物も多い。
シンシアの親が営むゴードン商会は、その区域の一角に構える邸宅が本部であるそうだ。
商談や取引などが自宅で常に行われている商人の娘、それがシンシア。
商家の実態は詳しく知らないので馬車の窓から見える景色がいつもと違っていて大変興味深い。
一つ言えることは、学園から随分距離が離れているので徒歩はともかく、馬車通学も難しいだろうなという事だった。
※
馬車から降り、冷たい風の吹き荒ぶ中カサンドラは大きなアーチ状の門をくぐる。
すると庭の掃除をしていた使用人の一人がカサンドラの姿に気づき、ドアベルを鳴らす暇も無く屋敷の中に迎え入れられた。
「カサンドラ様、今日はお越し下さってありがとうございます」
そこでカサンドラに頭を下げたのは、約束していたシンシアだけではない。
「いやあ、まさかまさか。
レンドールのお嬢様がいらして下さるとは……他に入用の品がございましたら何なりとお申し付けください。
最優先で手配いたしましょう。
――ああ、これは失礼。
申し遅れました、私はゴードン商会の責任者を務めるイルドと申します。
以後お見知りおきを」
シンシアにはあまり似ていないが、貫禄のある髭をたくわえたオジサンが人の良さそうな笑顔で鷹揚に笑っている。
「そしてこちらが長男のラッセル、ほら、お前も未来の王妃に挨拶を……」
一家総出で挨拶が一巡するかも知れないなぁ、とカサンドラは脱いだコートを腕に抱えながら思った。
幸か不幸か、こういう挨拶の場はすっかり慣れっこだ。
あまり評判がいいとは言えないキツめの顔のカサンドラだが、友好的な笑顔を浮かべていれば特に間違ったサインを与えることもないだろう。
この人がシンシアのお兄さんかとラッセルと呼ばれた優男風の青年を視界に入れる。
確かにシンシアと血が繋がっていると納得できるほど顔の作りが似ていた。
「――お父様! いい加減にして!
カサンドラ様は商談にいらしたわけではないのよ!」
「こら、シンシア何と言う事を」
「もう良いです、カサンドラ様。
……あちらの部屋にお品を用意しましたので、こちらへどうぞ」
普段からは考えられないような剣幕のシンシアだったが、彼女の張り上げた声は震えが籠っていた。後で怒られたらどうしようと、その表情が物語っている。
目がグルグル回って焦点が定まっていないように見えるし、かなり無理をしたのだろう。
動揺するカサンドラの腕を引っ張って、シンシアは玄関から伸びる広い廊下を振り返ることなく進んで行った。
「本当にすみません、カサンドラ様のお顔を拝見したいだけだというものだから。
私もそれを信じてしまって」
「お気を遣わなくとも良いのですよ。
それにお父様方もお仕事の一環なのですし」
普通に両親揃った良家のお家に遊びに行けば、最初に家族を引き合わせられるのは当然のことだ。
だが確かにシンシアの親は商人なので、ただの挨拶では終わらなかっただろうなと思わせる勢いを感じた。それは事実だ。
偉い立場の貴族と話をする機会はあっても、年季の入った商人と個人的な会話をしたことはない。
「あのままだと、いつまでも話し続けますから……。
お兄様にまで話が行ったら、間違いなく先に応接室まで連行されていましたよ。
そんな失礼な事、絶対やめて欲しいと言っていたのに」
カサンドラの腕から手を離し、ああああ、と声にならない叫びを上げ――シンシアは顔を覆って盛大に恥じ入ってしまう。
身内の暴走ほど厄介なものはない、それはカサンドラも何となく分かる気がした。
「今日はカサンドラ様、リナさん達のお誕生日プレゼントを選びにいらしたのですよね?
ただそれだけの事なのに、あの二人の口撃が続けば侯爵様にお会いしたいだのどんな方かなど質問攻めですよ、きっと」
それは確かに困る。
カサンドラはレンドール家の総領娘であるが、商取引の権限など一切持っていない。
また、前世の記憶を取り戻した後の自分ならいざ知らず――レンドールにいた頃の自分は、真面目に父親のしている仕事の事や小難しい話なんて自分には関係ないと思って過ごしていたのだ。
己の領地内の市政について、全くの無知さ加減がバレても困る。
王妃候補なのだと周知されている以上、今後を見据え踏み込んだ話題をぶつけられてこちらの見識を試されそうだ。
……大商会とは言えないまでもそれなりに繁栄した商会を束ねる商人相手に値踏みされ幻滅されてはこの先の信用問題に繋がる。
他愛ない雑談のように見せかけながら、相手から必要な情報を引っ張り出すのが彼らの常套手段。
完全に友人宅に遊びに行く心持ちだったカサンドラはノーガードで彼らと対話をすることになったかもしれないのだ。
シンシアが制してくれてよかった!
普通に生活しているだけなのに日常のあちこちにトラップが仕掛けられている気がする。
正式に決まった王子の婚約者という身分は、御伽噺に出てくるキラキラプリンセスのイメージと随分懸け離れているのでは?
王子自身は御伽噺の世界から出てきたような皆が思い抱く理想そのものだというのに、不思議なものである。
「ありがとうございます、シンシアさん」
震える声ながらも無理矢理引きはがしてくれたシンシアの気遣いに、カサンドラは感謝した。
漸く気が落ち着いたのか、シンシアははにかんで微笑みを見せる。
煌びやかで華やかなお嬢様達が通う学園内ではどうしても日陰と言うか、地味な存在である。
外見も、身分も。
でも芯は強いし、優しい娘であることは一緒にいればよく分かる。
……ベルナールは『普通』の子が良いと言って、一目見て”理想!”と先走ってしまったらしいけれど。
普通なんて言葉では大変失礼なくらい、良い子だと思う。
むしろ衆人環視の前で告白兼プロポーズだなどと、あんな目に遭わせてよくも付き合ってもらえたな。
ベルナールが豪運過ぎる。不思議でしょうがない。
「こちらにご用意いたしました。
お入りになって下さい」
シンシアは部屋に繋がる扉を先に開き、カサンドラの入室を促す。
言われた通り室内に入ろうと一歩足を踏み出した時、丁度扉を支えている彼女の手が視界に入った。
視界の端にチラっと見えただけなのだが、シンシアによく似合っている可愛らしい腕時計……
ピタと立ち止まってしまった。
「そちらの腕時計、とても可愛らしいデザインですね。
もしかしてどなたかからの贈り物ですか?」
するとシンシアは、黒髪を大きく左右に揺らす勢いで動揺を示す。
手で押さえていたはずの扉に背中全体で寄りかかってしまったのだ。
両手を後ろに隠すように「ええと、これは」としどろもどろ。
反応から察するに間違いない。
それはベルナールが誕生日に贈ったものなのだろう、デイジーとの会話を思い出してカサンドラも得心がいった。
誰でもいいから相談に乗ってくれと言わんばかりの彼の様子も大概だったなぁ、と思い出しつつ。
ベルナールも自分で贈り物など選ぶことに慣れているわけではない。
顔見知りということで捕まったデイジー、彼女の呆れながらの助言を参考にするどころか、そのまま採用してしまったようだ。
「は、はい。
……あの、誕生日に……いただいたものです」
「とてもよくお似合いですね」
皮で出来たブラウンのベルトに、明るい金の縁取りの小さな腕時計。
決して華美ではなく、濃い茶色の細いベルトが彼女のほっそりとした手首によく似合っていた。
ベルナールも相当悩んで決めたのだろうなと、その様子を想像しようとしたけれど。
普段の彼しか知らないカサンドラには難しすぎて全くイメージできなかった。
「ありがとうございます、カサンドラ様に褒めていただけて嬉しいです」
彼女は背中で扉を制止させたまま、おずおずと両手を前に戻す。
俯いたシンシアの視線の先には可愛らしい時計の文字盤、その表面を右手でそっと撫でた。
その愛おしそうな表情にドキッとするカサンドラ。
……ああ、これが『腕時計』を贈るという意味なのだと分かる。
離れていても一緒に時を刻めること。
毎日身に着けて日中を共に過ごせる、自分がいなくてもそこに存在を感じさせることが出来る……か。
デイジーが男性から女性へ贈るものの定番として答えたもの。
カサンドラは教えてもらうまで全く考えたこともなかったけれど、いざ顔を赤くして照れるシンシアを見ているとその効果が分かるというか。
でも腕時計なんて、贈り物としてはパッと思いつく。定番と言われれば定番の品だと思う。
深い意味が込められているかなど、本人に聞かなければ分からない。
ベルナールはその意味を事前に正しく教えてもらった上で、シンシアに贈った。
いつも一緒にいたいという意味を籠めたものであることは明白だ。
だが……
カサンドラも無意識の内に指先が己の腕時計に向かいそうになって、慌ててそれを我慢する。
シンシアのものと、カサンドラのものと。籠めた想いの種類が同じとはとても思えない。
少なくとも贈り物をするという習慣がない人は、贈るものによって隠れた意味がこめられている――なんて意識しづらいものではないだろうか。
「カサンドラ様がお着けになっている腕時計には及びませんが……
そちらの時計、とてもカサンドラ様に似合っておいでですよね。
……一目見ただけで値の張る逸品だとわかりますし」
不意にシンシアから返球され、それを受け止め損ねて顔面に食らってしまった。
バシンと叩かれたような衝撃を受け、カサンドラは狼狽が顔に出ないようお腹に力をぐっと込めて何とか微笑み返す。
幸福な恋人代表としてどこに出ても恥ずかしくないシンシアに、こんなに無邪気に他意なく指摘されると身の置き場がないではないか。
三つ子の誕生日プレゼントを選るためにシンシアに協力してもらい、休日にわざわざ時間を割いてもらったというのに。
まさか自分が心理的ダメージを負うなんて全く想像していなかった。
これが藪をつついて蛇を出すということか……と、カサンドラは一人納得して虚ろな感情に支配されようとしていた。
「間違っていたらご容赦ください。
……あの、カサンドラ様も、誕生日にそちらをプレゼントされたのですか?
確か、夏休みまでは違う時計だったような記憶が」
シンシアはこちらの曖昧な微笑みをどう受け止めたのか、いきなり核心を突いた質問をしてきた。
彼女はカサンドラに似合うドレスを考えた事があったと言っていた。その際にしっかりと身に着けている小物類などをチェックされていたようだ。そんなにシンシアに見られていたなんて、一学期の頃は全く気付きもしなかった。
「これは……」
訊ねられなければ、言及する必要などなかったのに。
ここで贈り主を濁すのも王子に失礼なことだと、カサンドラは首肯した。
「仰る通り、わたくしには勿体ないことですが王子が贈って下さったものです」
「わぁ、素敵ですね。
カサンドラ様、お誕生日は王子と一緒にお過ごしだったのですか?」
何故かシンシアはキラキラと憧憬の籠った、どこか恍惚とした表情でカサンドラを見つめて来た。
自分は女神像でもないのにしっかりと両手を組み、まるで祈りを捧げられているみたいで奇妙な気持ちに陥る。
「ええ、当日は王宮に招かれました」
嘘ではない。
事実を言っているだけなのだが、シンシアはカサンドラの関知出来ない空想の部分で翼を広げているらしい。
年頃の乙女らしく、目が爛々と輝いている。
自分が貴族のお嬢様でもない一般人だったとして、あの王子と一緒に過ごしただなんて聞いたら興味津々になるのは容易く想像できる。
少なくともカサンドラは、王子の事を良く思っていない女子生徒を見たことも聴いたこともない。
皆のアイドル、憧れの王子様だ。
……まぁ、結局は自分もその賑やかし要員の一人にすぎない立場なのかも知れないが。
シンシアは黙っていても、ああ、幸せな恋をしているのだろうなぁと見た感じから伝わってくる。
そんな彼女が誕生日プレゼントの話をしていたら微笑ましい以外に何も言えやしない。
翻ってカサンドラの立場は対等とはとても言いづらい。身分的な事ではなくて、心情的に、だ。
だがシンシアは羨望の眼差しでカサンドラに誕生日に何があったのかという話を聞きたがった。
当たり障りない王子との誕生日の話をするのは決して初めてではない、もはや慣れてしまったというか。
地方の貴族令嬢達とのお茶会で促され、話すことの一つ一つを楽しく聴き入ってくれたので口が過ぎたのではないかと今でも実は冷や冷やしている。
王子のことをあまりペラペラと喋っていいのか、未だに分かりかねるカサンドラ。
一頻り差し支えない、とりとめのない話をする。
まだ部屋に一歩も入っていない段階だというのに――女性とは、多少性格が違えどおしゃべり好きという特性を共通に持っているのかも知れない。
「王子はカサンドラ様の事を大切に思っているのですね。
ドレスのデザインの件でも、王子が的確に要望をお伝えくださったとお伺いしましたし。
……とても細やかで誠実な方だと思います」
そう言われれば、嬉しい。
他人の目からでも、一般的な婚約者という関係性に値する状態に見えているのならまずそれが一番安堵できることだから。
彼の本心は未だに分からない。
急いては事を仕損じるとも言うし、彼の友人ジェイクの一件があって彼の恋愛観も少し窺い知ることが出来た。
そこでショックな事もあったけれど、望みが断たれたわけではない。
出会った当初より、一学期より、夏休みより、誕生日前より――王子と親しくなれていると自分でも思う。
だからきっと、冬が終わればもっと近づけているはず。
慎重で、思慮深い優しい人。
そしてほぼ他人同士の状態から書面上の婚約関係になった自分達。
……
それは分かっているのに。
今の瞬間、心が激しく揺れた。喜びに弾む。
※
その後すぐ、シンシアが用意してくれたという三つ子へのプレゼントの品を案内してもらった。
要望通り可愛らしく、あたたかそうな手袋が沢山の机の上に所狭しと並んでいる。
他にもオルゴールや宝石箱、マフラーなど女の子、特にリナが喜びそうな品も沢山で自然とカサンドラの気も明るくなる。
シンシアと一緒に選ぶ時間はとても楽しい一時であった。
――明日の食事会はこうはいかないだろうな、という一抹の不安はどうしても胸に去来し止まなかったのだけど。
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