第247話 <リゼ>
予選が始まる直前、昨日朝起きた時は――リゼの人生で最悪の精神的コンディションだった。
前日まで持っていた自信が、一気に萎んでしまって無くなってしまったからだ。逆さにして振っても自信なんて空っぽで、虚勢さえ張れなかったのだから重症だ。
あれだけ練習したのだし、フランツも大丈夫だと言ってくれているのに。
大丈夫だと自分を励ましても、緊張の方が上回った。
元々運動なんて嫌いだったし興味もなかったし、体力だって雀の涙。
少しくらい頑張ったからって、漸く人並みに並んだくらいじゃないのか。
フランツもジェイクも『こいつは駄目だ』と内心思っていても、普通の神経を持つ人なら否定的なことは言わないだろう。
その場では大丈夫だと励ますしか方法が無いのでは。
他人の言葉を鵜呑みにして信じるのは、リゼにとって難しい事だった。
誰かの言葉に縋ったり、振り回されたり。
人の出したお墨付きなんか、自分にとって意味のないものだという意識が根底にある。
自分を恃みに、ここまで来た。
辛いことも苦しい事も、こんなことでめげてなるものかと半ば意地を張ってここまでたどり着いたのだ。
勿論、剣自体は触ってみれば楽しいと思えたし、そのことについては後悔しているわけではないのだけど。
……予選を突破できるのか、『他』をほとんど知らないリゼには予想しづらい。
目に見える尺度がないのは道案内なく迷いの森を徘徊するようなものだ。
そんな緊張や不安を誰かに見られるのは嫌だったし、少しでも心を落ち着けたかった。
こうなったら自己暗示をかける方法でも調べれば良かったと変な後悔をしながら、リゼは自分専用と化した野外の修練場に一人佇んでいた。
こんな自信がない不安そうな様子を対戦相手に見られたら格好のカモだとしか思われない。少しでも練習の事を思い出して、心を落ち着かせたかった。
予選が始まるまで、一人で居よう。
そう思っていたのに。
大勢の参加生徒の中でリゼの姿が会場内に無い、と。
わざわざジェイクが迎えに来てくれたのだ。
リゼがいるとしたらここなのだろうと当たりをつけられるのは彼かフランツ、カサンドラかジェシカくらいだろうけど。
まさか彼が会いに来てくれるとは思っていなかったので、リゼは緊張をスポンと投げ散らかして呆然と立ち竦んだ。
ここに来るという事は、人違いじゃなくて
気にかけてくれて、とても嬉しかった。
「なんだ、もしかして緊張でもしてるのか?」
彼はからかい交じりに声を掛けて来た。
まさしく彼の指摘通りだったが、それを
グッと奥歯を噛み締め、でも「少しだけ」と小さく笑って言ってしまったのは――いつもの平静を装えるだけの余裕がリゼに無かったから。
「お前が予選を抜けられないわけないだろ?
――大丈夫だ」
敢えてリゼを探しに来てまで、『ウソ』を言う必要はない。社交辞令など、言いに来るような人じゃない。
だからジェイクの言っていることは本心なのだと、ストンと胃の腑に落ちた。
あれ? そもそも、自分は何故自信を失っていたのだ?
ガツンと後頭部を石で殴りつけられたような衝撃を受けた。
前に組手をしてもらった時、彼は大丈夫だって言ってくれたじゃないか。
自分を信じることが出来なくても、それが彼の本音であるというのなら――全力でそれに乗っかろうと素直に思えた。
そうだ。
自分が予選を潜り抜けることは”当たり前のこと”なんだ。
地中深くにめり込んでいた自信が、彼の言葉だけで一気に天高く伸びていくのを確かに感じた。
素直に受け入れられたのは、励ましてくれたのがジェイクだからだ。
自分の姿が見えない事に気づいて探しに来てくれた、励ましてくれた。
すごくすごく嬉しかった。
彼の一言でそれまでの感情が全部ひっくり返る、知ってはいたが自分はこんなに彼の事が好きなのだと思い知らされる。
――嬉しすぎて、危うく自我が暴走しかけた。
本当に危ういところだったのだと今になって思い出し、ヒヤッとする。
まだ何も成していないのに、好きだなんて言えない。
※
「……まぁ、驚きました。
まさか貴女とこんな舞台で剣を交えることになろうとは」
心底呆れた、という様子で肩を竦める上級生の女生徒。
一学年上の先輩で、バーレイド子爵家という名の知れた貴族のお嬢様だ。
この学園で剣術を嗜む絶滅危惧種のご令嬢だが、その剣の腕は並み居る男子生徒などものの数にもしない強さを誇る。
彼女には因縁という程の縁があるわけではないが、最初の頃の当たりはとても強かったなぁと思い出す。
リゼをジェイク狙いの分不相応な特待生だと、まるで虫を見るような目で蔑まれたものだが。
実際にその分析は間違いではないし、入学当初の自分の運動能力を考えるとジェシカがうんざり呆れても仕方のないことだったのだろう。
反論は出来なかった。
「――宜しくお願いします」
真っ直ぐ正面から彼女を視界に捉え、リゼは剣を構えた。
周囲の喧騒は、一度剣を構えると不思議と耳に入ってこない。
ただ前の対戦相手だけに視覚も聴覚も集中し、それ以外のことが一切遮断される。
リタやリナは応援してくれるだなんて言っていたけれど、仮に大声で名前を呼ばれても一切気づくことは無いだろう。
すらりと手足が長く、女性にしては高い上背の凛々しい女剣士と相対する。
長い銀髪をポニーテールにまとめ風に靡かせる姿は研ぎ澄まされた鋭い刃そのもの。
幾度も彼女とは手合わせをした。
リゼにとって同世代の剣士の基準はジェシカが全てだと言っていい。
自分と同じような戦闘スタイルで、素早く器用、状況判断力に優れている。
腕力に任せた攻撃をしてくることはないが、隙を誘う小技も多い。
細身のどこにそんなに体力が、と驚く程彼女は持久力もリゼを上回っている。
やはり幼いころからしっかりとした師の下で剣術を磨いてきた本物は違う。
彼女に自分が勝てるわけがない。
そんなことは誰よりもリゼが一番分かっている。
人数の減った控室の中、それでもジェイクと視線を合わせることはしなかった。
きっと『大丈夫だ』なんて口が裂けても言ってはくれないだろうから。
ここで負けても、彼は良く頑張ったと褒めてくれるかもしれない。
今の段階で既に参加者の中でも上位の戦績だと、それくらいトーナメント表を見ればわかる事だ。
予選も突破した、本選で二回も勝てた。
全く素人だった自分がここまで来れたのだ、格上のジェシカに負けたってちっとも恥ずかしい事じゃない。
ここで彼女に挑戦できるだけでも、リゼにとっては望外の喜びと思わなければいけない。
……でも、勝ちたい。
今まで一回も勝ったことはない、彼女が本気を出したら自分はいつも地に膝を付かされる。
這い蹲って、逆光を浴びる彼女を見上げ歯噛みするのだ。
まだ勝てない。
あと少しだったのに。
ジェシカは自分を上手くなったと褒めてくれることもあるが、それは彼女の余裕の表れだ。
まだ自分に及ばないと分かっているからライバル扱いもされやしない。
ジェイクの励ましでここまで剣を振るって来れたなら。
今度はここまで来れた自分を信じて、勝てないなんて思いこみを――この手で壊すのみだ。
リゼはその高い壁に真正面から挑みかかる。
「――っ!」
彼女と幾度も剣を重ね、既に潰れた刃を穿ちあう。
一回戦のベルナールは結構強かった、それに比べれば二回戦の相手は拍子抜けもいいところだったけれど。
ジェシカの洗練された舞うような動き、踊るような足さばきにいつも翻弄される。
素早く繰り出される一撃一撃を何とか凌ぎ、本当は一旦下がって距離を取りたいのに延々と切り結び続けていた。
絶え間なく両者の刃が打ち合い、重たくも高い音を会場全体に反響させる。
必死に食らいつく。
次の事など考えている余裕はない、全神経を集中させて彼女の動きに合わせる。
……普通にいつも通り彼女と斬り合っていても、勝ち筋など見つけられない。
こちらの体力は彼女にはまだ及ばない。彼女が本気で捻じ伏せに来れば、リゼの身体は後方に弾き飛ばされるだろう。
それを避けるため、リゼは一撃一撃、出来る限りの体重や力を乗せて立ち向かう。
ジェシカに勝つ方法があるとするならば……
『次』の試合をどう考えるか、というトーナメント方式ならではの戦い方を利用するしかない。
ここまでリゼがそうしてきたように、次の試合に備えようと思えば勝ち方も大事だ。
無駄な体力を使わず温存し、格下相手に全力を出すことを可能な限り控える。
チャンスを見い出せば有無を言わせず全力で一撃で仕留めにくるだろうが、その攻撃機会を生み出すための
こうして幾度も剣を交え彼女の動きについていけるのは、ジェシカが次の試合を見据え体力配分を考えた動きになっているからだ。
彼女はここで自分が負けるなんて欠片も思ってない。
全力を抑え、最低限の労力でリゼを軽くいなして次の準決勝に臨む。そんな意識で対峙しているのだ。
それは正しい、格下相手に後先考えない全力を賭すなんて愚かな事だ。
だから、剣の応酬も続く。
リゼでも彼女の剣の速さについていける。
彼女がムッと顔を顰めてその速度を徐々に増しても、慣れ切った身体は次の試合のことなんて微塵も考えず食らいつく!
全霊で以て相対し、焦った彼女の鋭い一閃を軽やかに躱す。
いつもの講義内で行われる手合わせは、彼女に本気を出されて負ける。
でもジェシカがおいそれと全力を出せない状態なら、勝機はあるのでは?
リゼはこの試合が最後だという気持ちで、握力の一滴まで絞り切るような力を振り絞って彼女に切りかかる。易々と彼女に後れを取ったりなどしない。
試合状態は膠着状態そのものだ。
だが次第に熱を帯び、片時も目が離せない――それは大会で今だ嘗てなかったであろう、伯仲した戦いであった。
いつしか場内に、それまでにない大きな声の渦が巻き起こっていたが二人とも耳を傾ける余裕はない。
ここで刺し違えようが、負けてなどやるものか。そんな気迫は余力を以て次を迎えようという彼女の体力配分を大きく狂わせる。
彼女が肩で息をしている姿は初めて見た。
普段涼しい顔で得物を振るうのが常の彼女は、己の過ちに気付いただろうか。
文字通り死に物狂いで立ちはだかる
存在していた絶対的な技量の差がいつしか縮まっていたのだと、ジェシカもこの段階に至って理解しただろうか。
「この……いい加減、諦めなさい!」
彼女は苛立ちを交え、剣を横に凪ぐ。
それを後ろに飛びずさって何とか距離をとるが、もうリゼの体力も限界だ。
最初のように全力で飛び掛かっていったとして、それを躱された後はもう次を受け止める握力も残っていない。
手から剣を弾き飛ばされて勝敗がついてしまう。
もしくは身体ごと彼女の一撃に薙ぎ払われるか。
どちらにせよ、常に全力疾走を続けるような状況に限界が訪れたという事だ。
もう、彼女の連撃を捌くだけの余力はない。
指先が力を失っていき、擦り切れた肉刺が悲鳴を上げている。
ジェシカにここまで体力を使わせただけ、よくやった方なのだろうか。
十分以上、彼女の攻勢に耐えきり凌ぎ対等に打ち合えた、それに満足して諦めないといけないのか?
……嫌だ。
慢心を以てリゼを侮り、呑んでかかった彼女に負けたくなかった。
勝ちたい。
一矢報いたい。
これが最後だと、リゼは足元を蹴る。
全力でジェシカの体の中心めがけて剣を突き出そうとする。
躱されれば、おしまいだ。
態勢を整える時間もなく、彼女に切りつけられるだろう。
『フェイントかける時は目線だけじゃなくて少し肩も入れた方が良いぞ。
横着するな』
脳裏にフッと過ぎった彼の声に
リゼはいつもは目線だけで済ませるフェイントを、それだけではなく本当に狙っているのだと言わんばかりにクイッと肩を入れてみた。
本当は胴を狙っているのに、視線と体の方向は彼女の肩を狙っているのだと思わせるような自然な動きになったかも知れない。
「え? ……ちょっ……」
リゼ最後の一撃を剣の腹で受け止め、その後反転して攻勢にうつろうと思っていたジェシカ。
彼女の目論見を外すことが出来たのだと悟り、リゼは腹に一層の力を籠める。
身体の方向事変えたのだ、その剣の軌跡を元の狙いに戻すにはかなりの握力を要した。
リゼはその方向転換による抵抗に眉をしかめるが、この程度の痛みがどうしたというのだ。
そのまま押しきれ!
腕の健が切れるのではないかという負荷をかけ、リゼは彼女の
ガン、と鈍い音が場内に木霊する。
防具に着込んでいるブレストプレートに剣が当たった。
それはかなり頑丈で、刃を潰した模造剣では傷をつけるのが関の山。
だが、貴族相手にここまで躊躇いなく斬りつけるなんて――
そうそう観ることのできない試合決着だろう。
万が一があったら大怪我では済まないが、リゼは躊躇などしなかった。
自分だって真剣だ、相手も真剣だ。
その結果の怪我は自分も受け入れる、だからジェシカも受け入れろと。
怒涛の声援が一瞬で静まり返る。
リゼの剣がジェシカの腹部を思いっきり斬り圧した瞬間を目の当たりにし、場内には一拍遅れ、全体を揺るがす歓声が轟いた。
その全力を以て振り切った剣をまともに腹に受け、ジェシカは堪えきれずに後ろへ跳ね飛ばされる。
背中から石畳の上に落ち――
勝敗は決した。
息も絶え絶えで、呼吸が難しい。
ぜー、ぜー、と文字通り肩で息をするリゼは自分の最後の一撃が彼女の胴を捉えたのだと、薄ぼんやりとした思考の中で僅かに認識するのみだ。
ああ、もう走らなくてもいいんだ。
剣を振り上げなくても。
息を潜めなくても。
頭に血が上って興奮していた状態から現実に帰ってくると、リゼの身体は全身が苦痛に悲鳴を上げている。
斬りつけられたジェシカの方が、「痛いわねぇ」とまだ余裕の様子で立ち上がっている始末だ。
勝者として名を挙げられたはいいものの、リゼはもう一歩も自力で歩くことが難しい。
「……はぁ、全く……。
手古摺るどころか、一撃もらうとは思わなかったわ。
本当に厄介な人ね、貴女」
ジェシカは裾についた土埃を払い、嘆息を一つ。
――リゼの肩を支えて闘技場の段を一緒に降りてくれた。
「す、すみません……」
「そんな状態でどうやって次の試合に?
ボロボロじゃないですか」
「はは……」
ジェシカに一太刀浴びせられるのなら、と。
その一心のみで、後先なんか全く考えていない。
そりゃあジェシカにしてみれば厄介極まりない対戦相手だっただろう。
背中に大きな拍手と声援を受けながら、よろよろと退場する。
控室に辿り着き、一歩入った。
霞む視界の中にジェイクの姿が見え、その瞬間に完全に気が緩んでしまったのだろう。
フッと、それまで自分を支えるようにぐるぐる巻きにしていた『意地』という名の原動力が消え、更には肩を支えてくれていたジェシカが少し力を緩めたせいか。
ぷつんと糸が切れた音がした。
辛うじて手に掴んで引き摺っていた剣が、指からするりと滑り落ちる。
膝から地面に崩れ落ち、リゼは力尽きて気を失った。
『………リゼ!?』
遠くで声が聴こえる。
その声は何重にも折り重なった厚い布の向こうから呼ばれているようで、深海に沈んでいくリゼはそれに応える事が出来なかった。
※
ゆらゆらと揺れる、浮遊感。その心地よさが少しだけ懐かしい。
※
リゼが次に目を覚ましたのは、闘技場内に設けられた救護室の中だ。
固い寝台の上でスヤスヤと眠っていたらしいリゼは、身体を遠慮なく左右に揺すられ無理矢理覚醒させられた。
イラっとして片目を
部屋内の中には時計が一つ置いてあり、昼を回っていることに気が付いた。
「――リゼ、起きて!」
「何よ、もうしばらく寝かせて、もう終わったんでしょ?」
朧な意識の中でも、自分は倒れてしまったので準決勝は不戦敗扱いになってしまっただろうこと。
そして時間が時間だ、もう既に決勝まで終わっているのだろうことは理解できる。
「うん、大会はもう終わったよ。
優勝は当然ジェイク様ね」
この声はリタだ。
寝起きには聞きたくない大きな声に、額を押さえたまま上半身を起こす。
別に怪我をしていたわけではない、極度の疲労状態だっただけだというのに身体が重たくて鈍重だ。
鉄の重石を全身に巻き付けているようだと、リゼは重たい吐息を吐いた。
ジェイクが優勝するところは見たかったが、この状態では仕方ない。
倒れた方が悪いのだ。
もう大会が終わって撤収しなければいけないから、リタは自分を起こしに来たのだろうか。
ぎりぎりまで休ませてくれてもいいんじゃないだろうか。
起こしに来たのがカサンドラだったら慌てて跳び起きたかも知れないが、リタが相手だと思うと中々重い腰を上げることが出来なかった。
「リゼを寝かせてあげたいのは山々なんだけど!
これは起こした方がいいんじゃないかって、リナにも言われたから」
「……はぁ? 閉会式に這ってでも出ろってこと?」
優勝者が決まって、それ以外にすることなんて思いつかない。
まだ頭の働きが鈍いのだ。現状を整理しきれていない。
あまり思考に神経を割かせないで欲しい。
ジェシカに勝ちはしたものの、そこに全力を投じすぎて倒れてしまったことだけは覚えている。
でももう、今は何も考えたくない……
「違うんだって!
これからね、王子とジェイク様の
リゼが観れる状態なら、一緒に観ようと思って起こしに来たのよ」
まだ自分は寝ぼけているのだろうか。
「……は?」
誰と誰の、エキシビション・マッチだって?
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