第234話 ケルン王国
カサンドラは記憶にある限り、二つの世界の『現実』を身に刻んで体験している。
果たして前世なのか何なのか……
正確な事情を教えてくれる者はいないが、確かに今の世界の外側、日本という国のことを良く覚えている。
そして勿論、今の地に足を着けて生きているこの世界も現実だ。
外側の世界と
ややこしい話なのが、この世界は”外側の世界”が造ったゲームのシナリオ、設定を基に構築された”異世界”である。
カサンドラが存在する今の世界を創造したのは神様かも知れないが、世界の根本や概念、即ち
この際、世界の成り立ちなどここで生きている以上どちらが上位でどちらが下位かなど考えても仕方のない事だ。
元の自分に戻る方法がないのなら、自分はカサンドラとしてここで生き、ここで生涯を閉じるしかない。
カサンドラにとって唯一無二の世界は、今こうしてジェイクと向き合って話をしているココなのだから。
さて、カサンドラが”ややこしい”と表現した事には理由がある。
この世界は本来虚構に塗れた空想世界の設定を、可能な限り存続可能なものであるように独自解釈を加えて世界丸ごと創造している――というのが外側の知識を以て俯瞰したカサンドラの解釈である。
さて、言語の問題や習慣の問題は全て解決したと言えるだろうか。
――厳密には、まだ齟齬がある。
現代日本の価値観と、絶対王政の中世ファンタジーの世界観は決してぴったり重なることはない。
いくら自由や平等という概念があっても、この世界の中で庶民が実現するなど不可能に近いところもあるだろう。
現代的価値観でいかに素晴らしいと思えるような思想も、この世界では邪教か何か? と眉を顰められる考え方に変わることもあるわけだ。
細かいところで前世の自分とこの世界で生きてきたカサンドラの価値観に乖離が生じて違和感を覚えるところもあった。
そこは何とか自分のムズムズする感情を抑え、適応しているつもりである。
――違和感を生じる最たるテーマとして、攻略対象三人に未だに婚約者がいない、というものが当てはまる。
ゲームを通してこの世界で遊ぶのなら、「攻略相手にはそれぞれ固定のライバルがいないのねー」程度の認識で済む話だ。
製作者の決めた設定をそこまで深く考えずに受け入れた。
だって、今まで生きていた現代日本で学生の内から”婚約者”がいるなんて、そちらの方が馴染みが無さ過ぎる慣習だったから。
引っ掛かりは覚えてもご都合主義だからでスルーされる程度の設定である。
だが翻ってこの”現実”。
ジェイクが、シリウスが、ラルフが普通にそこに立ってクラスメイトとして接している状況で、それは違和感の塊だ。
ミランダは一抜けしたから良いとして、他の令嬢達がどれだけ現状で割を食い、要らぬ心労やプレッシャーを与えられているというのか。人災と化していないか?
こんな空白地帯、女子間で諍いを生まないはずがないだろう。
「息子に中々良い相手が見つからなくって」なんて適当な言葉で済まされるほど、御三家周りの婚約事情は甘くないと思う。
前世の価値観も合わさりそういうもの、ただの設定だと深く考えずにいたカサンドラだったが、彼らの正妻の座を巡る学園内に蔓延る緊張感あふれた空気は――その場にカサンドラという立場で放り込まれなければ中々実感できることではない。
明らかに、何かそれなりの理由でもないと起こり得ない現象なのだ。
この世界はその”齟齬”にまでしっかりと答えを持たせているという。
「カサンドラ、お前はあの島国――ケルン王国の事は当然知っているよな?」
彼は知らない方がどうかしているだろうと言う一般常識から尋ねてくる。
そのことに若干、ムッとした。
「ええ、勿論です。
わたくし達の住まう西方大陸より北西に位置する島国、ケルン。
彼の国はとても長い歴史を紡ぎ、世界最古とも呼ばれる王室をお持ちの大国ですね」
国土面積はこのクローレス王国の十分の一程度しか持たないだろうが、あの国は島国という閉ざされた環境でずっと長らく内乱を殆ど経験することもなく――
海を渡っての貿易で巨万の富を抱えると言われる大国だ。
アルファベット、つまり英字表記の文章は全てケルンから渡って来たものだ。
今でも論文が英語表記で書かれることが多いのは、彼らの国が古式ゆかしい大国且つ、文化最先端の憧れの地というイメージが強いからだ。
歴史を遡ればクローレスが西方大陸全土を王国領として治めると初代女王が宣言した時、真っ先に慶賀の使節を送り承認してくれたのがケルン王国。
大海を隔て物理的に離れてはいるが、まぁ、それなりに仲良くしてくれている隣国なのである。
日本とイギリスを足して二で割ったような国だと思った記憶がある。
海を隔てているからこそ侵略も互いに難しく、仲良くした方がメリットが大きい相手同士とも言える。
あの国は百戦錬磨の海軍を擁していると聞く。未熟なクローレスの航海戦闘技術で落とすことは不可能だし、ケルンとしても最大の貿易相手国なので西方統一なる出来事など大陸に出向く窓口が一つになって助かるわ、という認識でしかないはずだ。
「そう、そのケルンの事が絡んでくるんだ」
「はぁ……」
あの国とこの御三家の婚約事情に何の因果関係が? と、カサンドラは首をかしいだ。
事の起こりは、凡そ二年前。
学園就学前にそろそろ息子たちに正式な婚約者を決めておこうと、三家の当主が国王を交え話し合いをしている最中であった。
彼らの耳に、とんでもない知らせが舞い込んできたのである。
ケルン王国の王太子が幼馴染の公爵令嬢との婚約を一方的に破棄した、と。
「婚約、破棄……?
お、王太子がですか!?」
確かあの国の王太子は、自分達よりも二つ程年上だったか、名前と年齢程度の情報しかカサンドラは知らない。
海を隔てた王室の話など、地方貴族にはあまりにも縁遠い存在なもので。
カサンドラは吃驚しすぎて聞き間違いかと目を剥いた。
ちなみに王子が”王子”呼びなのは、まだ立太子の儀式を行っていないからで実質は王太子の立場だ。立太子の儀は卒業後に行われるため、学生の間は王子呼びなのである。
「ああ、公衆の面前で堂々と破棄を宣告したそうだ」
「理由は……」
「何でも真実の愛を見つけたとかなんとか。
ま、あちらさんが即座に戒厳令出して王太子の破棄宣言を揉み消そうと躍起になったの分かるだろ?」
はは、とジェイクも苦笑いだ。
その口ぶりでは、王太子が思う相手は庶民か下位貴族の令嬢か。
少なくとも、王太子妃を名乗れるような立場の女性ではないのだろう。
速攻で王国が揉み消そうと動き出すくらいの、スキャンダル。
「異国のお話とは言え、それは……
その、何と申し上げれば宜しいのか」
領土こそ広いが、言わば新興国に近いクローレスとは違い名実ともに最古の王室を擁する大国の妃だ。
許嫁であった公爵令嬢もカサンドラよりも大変窮屈だったり、色々しがらみがあった生活を送っていたに相違ない。
それがいきなり公衆の面前で謂れなき婚約破棄。
想像しただけで眩暈に襲われそうだ。
「あら?
ケルンが戒厳令まで敷いたといいますのに、どうして御三家当主の方が詳しい経緯をご存知なのでしょう」
そんな内々の婚約事情など、海を隔てたクローレスにそんなに早く届くものだろうか。正確性に欠いたり、時期がズレるのではないかと思うのだが。
「あー……
だからさ、当然公爵が激怒してな。
王室とすったもんだ揉めて、下らない女にうつつを抜かすような男の治める国に娘を置けないとか言い出す始末。
で。ケルンの公爵直々に、その婚約破棄された令嬢との縁談話を持ちかけて来たってわけだ。
ロンバルドでもヴァイルでもエルディムでもいいから、何としてでも娘との縁談を組んでくれって、陛下に親書が送られて来たってわけだ。
みーんな寝耳に水だよな」
国王様宛にそんな手紙が……
「はぁ……確かにケルンの名のある公爵家のお嬢様をお迎えするのは、ご当主様方にとっては願ってもない話でしょうね」
「勿論そうだが、その場合は他の二人の嫁候補をどうするって話になるな。
同じだけの家格を持った他国の貴族の娘を今更探すのは難しいだろ、この歳まで婚約者がいないっていうのは大体訳アリだし」
ははぁ……
それはそれは、隣国に関わる話だし慎重にもなるか。
婚約者”候補”は確かに存在するが、それはあちらの公爵令嬢一人しかいなくって。
どの陣営が縁談をモノにするのか未だ決め兼ねていると。
国王陛下としても婚約破棄などという不穏な単語を聴かなかったことにして穏便に婚約を成立させ、公爵の希望を叶えようと考えているわけだ。
「結局今に至るまで話が全然進まない、まとまらない。俺達もうんざりしてる。
カサンドラ、何故話が進まないか分かるか?」
「……ジェイク様がおっしゃったではありませんか。
その公爵令嬢に釣り合うだけの他の婚約者”候補”が見つからないのでしょう?」
例えばラルフがその令嬢と婚約をしたとすれば、一大ニュースだ。
ケルン王国の公爵家なんて、そんな強固な権力を背景に持つ嫁を得るということは現状何とか保っている均衡を一撃で崩しかねない。
ケルンの公爵家相当の後ろ盾を持つお嬢さんなど、他の国の姫様くらいしか思いつかないのだけど。
そこまで他国勢力を中央に近いところに一気に入れるのも確かに混乱の元か。
「あそこの王太子がさぁ。
今になって、婚約破棄などするつもりはなかった。
ただ相手の嫉妬を煽っただけで、それ以上の他意はなかった――なんて往生際悪いことを掌返しで言い出したからだ。
恐らく散々周囲から怒られ、廃嫡の話にまでいったんだろうよ。
それだけは嫌なのか、戦争になってでも令嬢はクローレスに嫁がすことはしないだとか好戦的な物言いで陛下に突っかかって来てさ。
しかも王太子の言うように本当に署名で破棄したわけじゃない、口頭の破棄事だったわけだ。
破棄は無効だノーカンだで泥沼状態」
な、何という……
ジェイクが呆れて片目を瞑り、肩を竦める気持ちがよくわかる。
「ま、要するにものすごーく面倒な話に親父たちは巻き込まれているわけだ。
あっちの事情が解消しないとこちらからは手の打ちようがない上に、公爵令嬢との縁談なんて降って沸いたチャンスをそうやすやす手放せないこっちの事情もあるし」
ジェイクの婚約者が決まった後に、やっぱり
だがいざこざがいつ頃解決するのか――ケルンからの連絡待ち状態なのだそうだ。
女子達の噂で流れていた、御三家とどこぞの姫君との縁談が極秘に進んでいるのではないかという話も満更でたらめだったわけではないのか。
そういうところは、何事も三家で足並みを揃えるという慣習が決定を遠ざけているのだなぁと苦笑が浮かんでしまうわけだが。しかも今年は奇しくも三家の後継ぎが同学年、都合よく転がらない縁談をまとめるのに困難が生じている。
国王陛下も頭が痛い事だろう。
ケルンの公爵自身は完全にお冠で、王室に反旗を翻さん勢いで気炎を上げているらしい。
だからこそ、穏健派は何とか王子と元鞘に戻ってくれないかと公爵令嬢に平身低頭でお願いを続けている……
何、その状況……?
「王太子ともあろうお方が、ご自身の発言の重みを考えず斯様な諍いを起こすなど……
俄かには信じがたいことです」
「一回会ったことあるけど、上に姉が四人の末っ子って立場で物凄く甘やかされてたからな。
俺は、あいつならやりかねんとは思ったぞ」
末っ子長男――ケルン王室待望の男子ということなら、何となくイメージしやすい。
苦労知らずの王子様だったんだろうなぁ。
しかしながらこの状況は面白い。
クローレスの御三家の嫡男が揃って、ケルンの大貴族からキープ扱いではないか。
事はそう単純では済まないのだろうが、『そのような曰く付きの令嬢など引き受けられない』と拒否出来ない以上、現状を甘んじて受け入れるしかないのか……
そりゃあ、ケルンとの太いパイプは垂涎もの、みすみす逃すほど無欲な人間は貴族の当主には向いてない。
現状維持が精一杯、か。
うだうだと決め兼ねる先方の方針に業を煮やし、周囲のせっつきに屈して息子の婚約者を公に決めてしまえば――その時点で娶る”権利”を失ってしまう。
周囲に婚約者事情を秘している理由も納得できる。
こんな大縁談が待っているから現在婚約者を募っていないのだ!
なんて大上段に構えて他の令嬢達にお引き取り願うように言ったとして、ケルンの公爵が現状に折れ娘と王太子の婚姻を許さざるを得ない状況に陥るかもしれない。
つまり令嬢との縁談の話は無かったことに……という可能性も十分考えられる。
そうなったら御三家としても良い面の皮だ、間違っても現時点で喧伝は出来まい。
まさかこんな事情を持ち出してくるとは、この世界を作った神様が本当に怖い。
ゲームの作成者たちはそこまで考えて設定を決めていなかったのではないだろうか、隣国の名前さえ出なかったのだから……
「ですが、お話をお伺いしてもわたくしと関係のあるお話に思えません。
興味深いお話ではありましたが」
今まで聞いたいざこざは、あくまでもジェイク達御三家に迎え入れる正妻候補の話である。
そこにカサンドラの存在など入ることなどなく、異国の公爵令嬢の同情の念を送るくらいしか出来ないのだけど。
「――この学園に入学する前の事だったかな。
エリックのオッサンか誰か知らないけど、たまたま通りかかったアーサーをからかってさ。
相手の令嬢が思った以上にややこしい事情を抱えてるから、王子が替わりに婚約してくれたら助かるってな」
ヒュッと息を呑んだ。
その光景は……
容易く想像が出来る事だった。
そして言い分自体が強ち的外れな提案でもなかったから、だ。
ケルンの大貴族の令嬢を娶って御三家の結束に歪みが生じる、均すのが難しいと言うのなら。
一番手っ取り早く解決する方法は、クローレスの王子が異国の公爵令嬢を妃に迎えることではないのか。
「あいつは書面の上とは雖も自分には婚約者がいるから、冗談でも言わないで欲しいってハッキリ言い切ったんだよな。
……ま、実際それで正解だったんだ。
ケルンの王太子が往生際悪く問題を引きずっているのに巻き込まれずに済んだわけだから。
でもあいつにチラっとでも欲があったら、本気で乗り替え考えてもおかしくない話だと思ったなぁ。
ほら、えーと。
あの頃のお前の城での評価って……うん、まぁ」
ジェイクは最後の辺りは目線を逸らして言葉尻を淀ませた。
高慢ちきで評判の良くない地方貴族の令嬢より、歴史ある大国の公爵令嬢と婚姻できれば箔もつくし、王家にとっては好いことづくめだ。
現実は話が停滞、混迷しているとはいえ――親書を開けた時点ではかなり美味しい話に見えただろう。
「あいつが分別ない奴だったら、多分お前婚約者下ろされてたぞ? ってふと思ってさ。
お前、良かったな。
アーサーが良識のある奴で」
フォローなのか何なのか、ジェイクは朗らかに笑ってカサンドラの肩をポンっと叩いた。
まだろくに会ったこともない、書面の上での婚約者。
それでも王子はちゃんと真面目に義理を立ててくれていたのだなぁ。
まさに彼らしい言動だ。
胸がすく想いと言ってはおかしいかも知れないが、世の中には立場に応じた振る舞いが出来ない人がいることもまた事実。
ジェイクの言う通り、王子は良識のある人で良かった。
いや、元々この世界はカサンドラと自分が婚約していることが前提の世界だから、そんな選択を運命が許さなかっただけなのかも知れない。
それでも――彼らしくて、心がじんわりと暖かくなる。
カサンドラが人知れずそんな感動に浸っている時、天幕の前方入り口をひょいっと覗き込むように誰かが姿を現した。
「休憩しているところ済まない、ジェイク。
今ライナスさんが探していたから、そろそろ行った方が良いと思う」
まるで今の話を聞いていたかのような絶妙なタイミングだが、彼がこっそりと外で立ち聞きしている姿は想像できない。
即席コロッセオ建設の作業をしている職人からは丸見えで、さぞかし目立つことだろう。
「お、了解。
随分話込んじまった。
……じゃあな、カサンドラ」
ジェイクは飲み終えたカップをカサンドラに放り投げ、背を向けたまま手を振って休憩用天幕から去っていく。
そこには一切の名残惜しさというものもなく、当然だがあっさりとしたものだ。
「カサンドラ嬢も、そろそろお昼の時間だからね。
昼食の支度を始めた方が良いと思うよ」
「はい、すぐに参ります」
いつまでも雑談をしているわけにはいかない。
アイリスと一緒に、自分達の食事の用意だけではなくここに集まった数十人単位の作業をしている人たちにも昼食を振る舞わなくてはいけない。
意識を切り替えてちゃんと仕事をしなければ――と立ち上がって気合を入れ直す。
その反面、平時と変わらず穏やかでにこにこ微笑んでいる王子の姿が、陽の光の逆光のせいか殊更眩しく輝いて見えてしょうがなかった。
「王子……
わたくし、自分の婚約者が王子だという事実に大変感謝しております……!」
まさしく感動に打ち震え手を組むカサンドラを前に、彼は微笑みの表情のまま動きを止めた。
「………うん?
突然、どうしたのかな?」
彼の背後に浮かぶ数多の疑問符。
それらはカサンドラが持ち場に向かって足早に去った後もしばらく、消えることはなかった。
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