第227話 <リタ>
馬車は大通りを進む。
毎週のリタのアルバイト先、シャルローグ劇団の方向へ向かって。
ヴァイル公爵邸は劇団のもう少し奥側に広がっているのだそうだ、実家に戻ったラルフが時間が合えば劇団に顔を出すのも彼にとっては身近な場所だからなのだろう。
劇団だけではなく、他にも展覧会やコンサートホールなど芸術興行に関わる施設が並んでいる通りである。
ラルフの生家が近いと聞けば、成程と納得できる場所関係だ。
馬車の中のジェイクが溜息をつきて気落ちしていたのは数分程度のことだった。
すぐに普段通りの様子に戻り、どちらからともなく他愛もない雑談話が始まる。
元々貴族のお坊ちゃんにしては言動がそれらしくなく、比較的話しかけやすい人物である。
敬語だの謙譲語だの、アバウトでも全く気にならないようなのでリタとしては大変助かる相手であった。
この間は餐館で会って吃驚したという話から、リタのアルバイトの話になり。
更に二学期から始まったリゼの家庭教師がどんな様子なのかだとか、自然と気負わず話が出来る。
……デリカシーに欠けるところを除けば、本当に良い人なんだろうなぁ、と思う。
会話の端々で自分が女性扱いされてないと感じるので、不意打ちでコンプレックスをグサグサフォークで刺し貫かれているような気持ちに襲われることもあるのが玉に瑕だけど。
この間リタが怪我をした時だって、『熊か虎退治でもして来たのか』なんて大層失礼な話しかけられ方をした。
まぁ、普通のクラスメイトとして接する分には逐一傷つくこともない。
もしも――ラルフではなく彼の事を好きになっていたとしたら、自分は彼の何気ない言葉にバシバシ傷ついて夜になる度に落ち込んでいたかもしれない。
……良かった、好きになったのがジェイクじゃなくて! と。
緊張に足を縫い取られているせいか、わけのわからない事を考えながら馬車に揺られ続けている。
※
「ここでちょっと待ってろ、すぐ戻る」
馬車がゆっくりと静止し、ジェイクが馬車の扉を開けて先に出る。
リタも好奇心に
まさに、お城も斯くやと言うとんでもない構えのお屋敷が広がっていて度肝を抜かれた。
以前お城に招待された時も広大さや煌びやかさに足が震えたものだが、お城ではないはずのヴァイル邸の外観が予想を遥かに超えたものだったので息を呑む。
白亜の宮殿――
アーチ状の門をくぐって停まった先には、庶民にはあまりにも場違い過ぎる緑と白を基調にした整然とした庭園が広がるばかりだ。
しかも広場に屯する馬車はジェイクの馬車だけではない。
貴人を多く乗せてきたのだろう立派な外装の馬車が奥に待機しているのが分かる、その数の多さを考えれば本日が誕生パーティだというのは間違いない情報なのだろう。
ジェイクは動揺するリタを一人残して、制服のままヴァイル邸へと突き進む。
躊躇いなく、スタスタと。
幼馴染ゆえの気安さを感じるが、こんな心許ない恰好でロンバルド家の紋章入りの馬車に取り残されては堪らない。
一気に心細さが増し、リタは長椅子に座り込んだまま緊張で手足を震わせている。
ちょっと友人の家にお邪魔する……
そんな感覚とは桁が違う、物々しいお城のような邸宅に連れられ、本日のパーティの主役を会場から引き出そうとするのだ。
ジェイクが怒られたり、関係性が悪くなったらどうしようという今更な不安に襲われて指の先が冷える。
どれくらい、一人でじっと縮こまって待っていただろうか。
二十分かもしれない、一時間かもしれない。
ただただ、自分は本当はのこのことここに来てはいけなかったのではないか? という後悔じみた想いに捕らわれていたのである。
「リタ、降りろ。連れて来たぞ」
コンコン、と外側から車窓を叩かれリタは座ったまま飛び上がりそうに驚いた。
ついでに心臓まで口から飛び出そう。
「は、はい……」
足元の黒い箱の取っ手をぎゅっと両手に持って喉を鳴らす。
ここまで来たら”気軽にジェイクに相談するのではなかった””ここに来るべきではなかった””断ればよかった”なんて思っていてもしょうがない。
勇気を出して馬車の扉をカチャッと開く。
もう既に十一月の夕刻、外気に触れた途端ぶるっと震える冷たい風でリタの頬を撫でていく。
きょろきょろと視線を周囲に這わせる必要はない。
リタの数歩先に、今日どれほど会いたかっただろう彼の姿がそこに在った。
夢でも幻でもない彼の立ち姿に自分の頬を抓りたくなる。
「じゃ、俺はこのまま城に向かうから。
お疲れさん」
ジェイクはひらひらと手を振って、そのまま馬車に乗り込んだ。
リタが礼を言う隙もないくらいあっという間の出来事で――引き留めることなど叶わない。
「……驚いたよ、まさか君がここに来るなんて」
覚悟はしていたものの、この夢物語、御伽噺に出てくるお城のような場所でラルフと二人きりだという状況に言語野に支障を来しそうになる。
ああああ、と。
ろくでもない声にならない声を上げそうで、生唾を飲み込む。
「お誕生日、おめでとうございます!
これ、プレゼントです……!」
渡そう、という決意が鈍らない内。
まずは己の用件を先に伝えるため、リタは腰の角度を直角に曲げてヴァイオリンの入った黒い箱を彼に向かって差し出した。
「わざわざ渡しに来てくれたんだね、ありがとう。
……気持ちだけで充分だったけれど、ここまでしてもらえると存外嬉しいものだね」
彼は少し戸惑ったような表情を浮かべたけれど、差し出したリタのプレゼントをそっと手で掴む。
「ジェイクも用があるからの一点張りで僕を呼ぶから何事かと思ったよ…。
君が馬車から出て来た時は、驚いて声も出なかった」
彼は嘆息交じりに、斜め上の宙を眺める。
そそくさと馬車を駆けさせたジェイクとのやりとりを脳内で思い出しているのか、まさに苦笑いと言った様子だ。
……ヴァイル家のお坊ちゃんの誕生パーティ、その主役を物凄くアバウトな理由で引きずり出してくるジェイクにはビビる。
そりゃあラルフも唖然とした顔をするだろう、いきなり招待もしていない友人がずかずかと興を削ぐような形で乱入してきたのだから。
しかも呼んでいる相手がリタだったと知って、何を思ったのか想像するだけでも空恐ろしい。
ひっきりなしに背中に汗が伝っている、心臓の音が大きすぎて彼の声さえ聞き逃してしまいそう。
「どうしても、直接ラルフ様にお渡ししたくて。
ジェイク様には無茶をお願いしました」
「あいつは嫌な事はハッキリ嫌って言う奴だ、頼み事を聞いてくれる内は吹っ掛ければいい、気にすることは無いよ」
幼馴染だからこその軽口か。
ぞんざいな扱いが、逆に彼らが本当に仲良しなんだろうなぁと自然に思えてしまう。
「まさかラルフ様のパーティ中にお邪魔することになるとは露知らず。
ご迷惑をおかけしました」
平身低頭でペコペコと頭を下げるしかない。
非常識なお宅訪問過ぎて、彼も呆れてしまったのではないだろうか。
「はは、むしろ呼び出してくれてありがたいよ。
……今日は親同士の会合みたいなもの、僕のことなんてその口実にしか過ぎないからね。
いい加減古狸達の相手にはうんざりしていたところだ」
が、恐々と見上げた彼の表情は、少なくとも機嫌が悪そうには見えない。
赤い双眸を少し細めて優しく微笑む彼の顔がそこにある。
パーティだったというのが良く分かる、豪華な盛装。
彼が身じろぐたびに腰のベルトに着けたタッセルが揺れる。ふさふさの毛の束がゆらゆらと。
首には
真っ白いマフラーは見るからに滑らかで触り心地が良さそうだ。
どこの王子さまかと空目する姿に目が眩しい。
公爵家の公子様ということは、王家との血縁関係もあるのだろう。
彼の人離れした綺麗な容色も気品あふれる佇まいも血統を思えばさもありなんと納得できる。
世継ぎの息子の誕生会だと言われれば、祝うという意味で声を掛けられた者も集まらざるを得ない。
おめでたいことだし、余程の事情が無ければ直接会って祝わない理由が無い。
――だが結局親の都合、ダシに使われているラルフは堪ったものではないのだろう。
友人が祝ってくれるわけでもなく、主役とは名ばかり。悪く言うなら客寄せのような状況で会場に根を張らざるを得ないのだ。
もしも自分だったら、そんな誕生パーティなら開いて欲しくないと思うだろう。
偉い人は偉い人で面倒なしがらみが多いのだなと知る一幕である。
「プレゼントもお渡し出来ましたし、今日は会って下さってありがとうございました!
ラルフ様も長時間留守をされるわけにはいかないですよね、そろそろお戻りにならないと」
「僕の事など、場にいる大人達は誰も気にしてはいないだろう。
会場から離れる”口実”として、もう少しリタ嬢がいてくれたら助かるのだけど」
「え……」
いくら何でもパーティの主役を長時間拘束するわけには、と焦る。
だが自ら乗り込んできた手前、殊更にそれを主張するのはきまりが悪い。
そこまで悪いと思っているなら何故突撃したのだ? と突っ込まれても困る。
「……ところで、このプレゼント。
僕の記憶が正しければ、あのヴァイオリンのケースだね。
何故僕に? つい受け取ってしまったけど、これは君がモーリッツから譲り受けたものだろう」
「私には勿体ない……って言いますか、仮に私が人並みにヴァイオリンを弾けたって、ラルフ様のあの演奏を聴いたら!
もっと弾いていてもらいたいって、思っちゃいますよ!」
彼は急に声を張り上げたリタを前に、目を瞠った。
直接渡せば、きっと彼も遠慮するかもしれない。
それは分かり切っていた事だが、これは彼に持っていて欲しい。
自分が持っていても使いこなせないものだ。
所詮、何かの偶然だかちょっとした縁だかでリタの手元に来たものなのだ。
元々欲しかったわけでも、望んでいたモノでもない。
「……いくら誕生日とは言え、理由なくこのような逸品を受け取るのは難しい。
これはが君の手に入ったというなら、きっとそれが運命だったと思う。
僕が持つべきものでは――」
そっとこちらにヴァイオリンを返そうとする彼の動きを、リタは決然とした態度で制止する。
腕をぐっと突き出して。
「これが私の手元に来たのが偶然じゃないなら、それは私を介してラルフ様の手元にいくっていう運命だったんですよ!
何度同じ場面を繰り返したって、私はこれを貴方に弾いていて欲しいと思います」
「……。
そこまで、ね」
彼は小さく笑う。
実際、彼はモーリッツにヴァイオリンを習った弟子だった。
そしてこのヴァイオリンの音色に憧れ、一度だけでも弾いてみたいとリタにお願いに来るほど――そう、まさに執心していたのだ。
彼がこれを欲しくないわけがない。
ありがとうとそのまま素直に受け取ってくれない事に、リタは少し不思議な想いを抱く。
高価なものだから?
世に二つとない、希少なものだから?
「……このヴァイオリンに纏わるお話、君はモーリッツから聞いたのかな?」
「いえ、亡くなった奥さんの思い出が詰まっているヴァイオリンとしかお聞きしていません」
「そうか」
彼は躊躇いがちに、その黒い箱を片手で撫でた。
「僕がこのヴァイオリンを手に取ることは、モーリッツは望んでいないだろうから。
……躊躇いが生じるのは事実だ」
昔々、このヴァイオリンを造った人間はある貴族の長子だったのだそうだ。
彼はとても偏屈な変わり者で、当主の座を早々に譲り渡した後、年老いて亡くなるまでずっと山奥に籠って細々とヴァイオリンを作り続けていた。
廃墟同然の襤褸屋、病床の淵において彼は孫娘に一つのヴァイオリンを遺す。
彼が魔法をかけたヴァイオリン、それが今ラルフの手元にある楽器である。
後にそのヴァイオリンの持ち主であるお嬢さんとモーリッツは縁があって結婚することになったのだとか。
「故人だけれど、アメリア女史は実に綺麗な人だったと聞いたことがある。
名のある貴族のお嬢さんだし、求婚の話もひっきりなしで――でも、彼女は当時うだつの上がらないながらもヴァイオリニストを志す一人の青年と恋に落ち、そのままの勢いで結婚してしまった」
腕前は確かながら、思うように世に出ることのできないヴァイオリン好きの青年。
それが若かりし頃のモーリッツ。
「女史は本当に綺麗な人で……いや、綺麗なのは特に
力強く、生命力に満ち、大きくて見ていると吸い込まれそうな
ラルフは歌うように、しかし静かに話を続ける。
ああ、でも恋愛話好きなリタとしては胸がときめくストーリーだと思ってしまった。
美しい貴族のお嬢様がヴァイオリン弾きの青年と恋に落ち結婚に至るまでとは、どんなやりとりがあったのか妄想の翼が広がるところである。
「……彼が一流のヴァイオリニストとして頭角を現したのは、彼女と出会ってから。
彼女の持っていた『魔法のヴァイオリン』を譲り受け弾き始めたのと同時に、彼の名は瞬く間に界隈を席巻するほどの話題になった。
当時勤めていたシャルローグ劇団から、異例の大抜擢で王宮楽士団の一員になるくらいにね」
それは何とモーリッツにとっては幸運なことだったのだろうか。
サクセスストーリーであるし、彼が今までの功績は魔法のヴァイオリンのおかげとずっと大事にしていた理由もわかるではないか。
亡き妻との思い出も沢山あるだろう。
「『魔法のヴァイオリン』を扱うモーリッツの名声は日に日に大きくなっていった。
そしてある時、とある大貴族のお坊ちゃんの誕生パーティで一曲披露していたモーリッツはね。
――そこのお坊ちゃんに、こう言われたんだ」
そのヴァイオリンが欲しい。
是非弾きたい。
私に寄越せ。
これから生まれてくる我が一族の子らに、その音を聴かせてやりたい。
会場内はざわっと揺れた。
その魔法のヴァイオリンを、誕生日プレゼントとして献上せよ、と。
有無を言わさずモーリッツから取り上げようとした。
彼はこの国で絶大な権勢を誇り、誰も逆らうことのできない一族の長だった。
彼の言うことに逆らえば失脚どころか、お家とり潰しも已む無しだ。
これからの人生と愛する妻から譲り受けたヴァイオリンとを天秤にかけさせられ、彼は絶望した。
返答できず俯くばかりのモーリッツを助けたのが、同席していた妻のアメリアだ。
彼女は明朗な、透き通る美しい声でヴァイオリンを強請る当主へ言った。
『流石は主様、お目がお高くてございますのね。
こちらのヴァイオリンは我が祖父が造りしもの、またとない逸品でございます。
ですが主様、お目こぼしくださいませ。
何も無しにとは申しません。
貴方は私の互いに色の違う瞳をいつも美しいと褒めて下さいました。
まるで宝石のようだと。
いいえ、宝石よりも美しいと。
此度の誕生日の贈り物……ヴァイオリンの代わりに、そちらを主様に捧げます』
どうかどうか、それを替わりにお納めください。
彼から これ を 奪わないでください
そう言って彼女は、その白い指で自分の両瞳を抉りだし、その場に転がした。
いきなり始まるホラー、怪談めいた話にリタも背筋が凍り付く。
陽気な雰囲気に満たされていたホールが、その瞬間に血飛沫飛び散るスプラッタ会場に……
想像しただけで怖気が走る、いくらなんでも自分の手で自分の目を……!?
「お坊ちゃんも、まさかそんな奇行に走られるとは思っておらず場は
結局――もうそんな気味の悪いものは要らない、関わりたくないと彼はモーリッツ夫妻をその場において自室に引きこもってしまったんだけどね。
物品を寄越せと衆目の前で強請ったせいで、一人の女性が両目を潰して替わりに差し出しただなんて……醜聞だろう?
この話は”無かった”ことになって、モーリッツはヴァイオリンを手放さずにすんだわけだけど」
両目を失った後も、彼女は全く後悔などしなかったようだ。
二度とモーリッツがヴァイオリンを手放さずに済む、自分が死ぬまでその音色を聴くことが出来ると喜んだくらいだった。
それくらい彼女は、魔法のヴァイオリンを奏でる彼の事を愛していたのだろう。
彼女の望みは叶い、この世を去る間際まで――去った後も彼はヴァイオリンと共に、ずっと一緒にいてくれた。
リタが想像していた何倍も重たい話に、ヴァイオリンケースを見る視線に怯えが混じる。
そんな曰く付きとは流石に思わなかった。
「その曰くを作った張本人、大貴族のお坊ちゃんというのが――」
彼は屋敷の会場方向をチラ、と目で指し示す。
「僕の爺様なんだ」
彼は眉尻を下げて困ったような表情を作る。
「え、お爺さんの頃の話なんですか!?」
確かにモーリッツはもう老人だ、そして若かりし頃と言われれば四十年以上は過去の話だろう。
まさか世代を跨いだ話になっていたとは。
「僕はこのヴァイオリンの音色に惹かれて習い始めた。
だから勿論魔法のヴァイオリンそのものにも興味はあったし、弾いてみたいという思いはずっとあったよ。
だけど爺様の所業を聞いてしまった後は、とてもではないけど言い出せなくて」
自分の祖父のせいで、彼の奥さんが両目を失ったとなったら罪悪感もあるだろうし。
祖父のやったことだからと割り切れるような人ではない、モーリッツに譲ってくれと言い出すことなどラルフには不可能だったのだ。
地位や金で相手を追い詰めて取り上げるということは絶対に出来ない。
というか憎い元凶の孫だというのに、ヴァイオリンの指南役を引き受けたモーリッツの心が広すぎる……。
「モーリッツがこのヴァイオリンを君に譲ったと知って驚いた。
ヴァイオリンは魔法が効き過ぎて呪いの領域に足を踏み入れていると感じていたからね。
彼はずっとヴァイオリンに縛られていた、アメリア女史がこの世を去った後も弾けないこれを抱えていたくらいにね」
あれは愛なのか執着なのか強迫観念なのか。そのどれもか。
彼は当時を思い出すかのように、一瞬だけ目を伏せた。
「そ、そんなものをラルフ様がお持ちになってもいいんでしょうか!?
逆に不安になってきました!」
ぎゃー、と叫びたくなる衝動を必死で堪え、リタは手をあたふたと動かし慌てる。
「僕は魔法支配に抵抗出来るから、忽ち大丈夫かな。
それに……ああ、なんでもない」
彼が大丈夫だと言うならそうなのだろうが、とんでもないものをプレゼントしてしまった……! という一抹の不安がリタの脳裏を過ぎっている。
「これを弾くことが出来るのは、本当に嬉しいよ。
もう二度と目にすることもないのかと思っていたからね。
――ありがとう」
だがそんな不安など一蹴してしまう、彼の満面の笑顔を前にしては前言を翻すことなど出来はしない。
ほわほわと小さな花が彼の背景に浮き上がって見えるくらい、珍しく彼が浮かれているように感じてしょうがなかった。
そこまで喜んでもらえるのなら、色々思うことはあれども渡せて良かったかな、と思ってしまう。
「――もうこんな時間か。
そろそろ戻らないと、また爺様に小言を言われてしまうかな」
ふと、ラルフがため息交じりに腕時計を一瞥し呟く。
かなり長い間彼を拘束してしまった事に気づき、リタは慌てて深々と一礼。
「会って下さってありがとうございます!
お誕生日に、ちゃんとお渡し出来て良かったです」
「こちらこそ。
退屈な時間に
「えーと、では私はこれで」
「まさかこのまま帰るとでも? 誰かに寮まで送らせようか」
「いえ! いいです! 結構です!!」
NO! と両手をクロスさせバッテンを作る。
「でも」
彼は渋面を作ってこちらを見据える。
「バイトしてる劇団にも近い所ですし!
ラルフ様の関係者の方に同行してもらっているところを寮の人に見つかったら、私、即刻質問攻めですよ!」
これは心の叫びだ。
ラルフ当人が送迎してくれるわけではないが、ヴァイルの馬車に乗らせてもらうのはありえない話だし。
誰かと一緒に帰って、それが誰かなんて余計な詮索をされたくはない。
日が暮れたとは言えいつものアルバイトが終わる時刻と大して変わらない、一人で帰れませんなんて自分に限ってはありえない話である。
リタが強固に遠慮するものだから、彼も押し問答を諦めた模様だ。
そうまで言うなら、気を付けて――と言いかけ、彼は自身の首に提げていた白いマフラーを手に取った。
己の首からとったマフラーを拡げ、そのままリタの肩にふわっと掛ける。
首元できゅっと結ばれたマフラーはリタが想像している以上に手触りが良く、暖かかった。
かぁぁぁ、と足の先から熱が駆け登ってくる。
「また明日」
「――……! は、はい!
ありがとうございました!」
色んな感情がごちゃ混ぜになって、でもそれはどう転んでも”幸せ”という感覚に一元化されて。
呂律の回らなくなりそうなくらい混乱した頭を抱え、リタはそのまま敷地の外へ向かって飛び出していく。
秋の夜は、底冷えする。
制服だけでは寒かったのは事実だ、でも――こんな高価そうなマフラーが必要ないくらい、リタの全身は熱かった。
頬に、白い毛足のマフラーが触れる。
……ああ、あったかい。
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