第225話 <リタ>


 選択講義が終わった放課後、リタは寮の自室に走って急ぎ帰宅する。


 ジェイクの言葉を素直に捉えるなら――この後外門にラルフを連れて来てくれるに違いない。

 その場で直接ヴァイオリンを渡せばリタの悩みは即座に解決だ。


 腰ほどの高さのタンスの上に置かれた黒い箱をそっと手に取る。

 持ち手を握りしめ、両手で持ち上げた。


 心臓がバクバク音を立ててリタの胸の裡を騒がせる。


 しかし即座に思い直し、頭をフルフルと左右に振った。

 こんなに早く外門に向かったところで他の下校中の生徒達に目撃されるだけだ、こんな大物を持って外門に立ち尽くせば目立ってしょうがない。


 時間的にも焦る必要はないと思い直し、もう一度タンスの上にヴァイオリンケースを置き直した。


 タンスの前の床の上には薄い円形のラグが敷いてある。

 その上に正座して座り込み、壁に掛かった時計の時刻を確認した。


 焦るな、まだ三時半にもなっていない。


 着替えようかどうしようか、でもラルフはきっと制服のまま下校するのだろうし自分だけ気合を入れてお洒落をしていくのもアンバランスに思える。

 『重たい』なんて印象を抱かれてしまってはこれを受け取ってもらえない可能性があった。

 いや、物理的な重さではなく想いの方が、だが。



 ――放課後四時、外門に。



 ジェイクの言葉を何度も反芻し、今更怖気づきそうになる弱腰な自分を叱咤する。

 勢いに任せてジェイクに無茶な相談をした上、多忙なラルフを連れて来てもらうなんて……他のラルフを慕う女生徒が聞きつけたら刃物を持って切りかかられそうだ。

 前にリゼが噴水に顔を突っ込まれた事件があったが、あれの上を行く刃傷沙汰が発生してしまう。


 いやいや、と首を横に振る。

 今はとにかく前向きに、どう言って渡せばラルフが快くプレゼントをもらってくれるのかを考えるべきではないか。


 リタはこのヴァイオリンが値がつけられない希少な価値のある逸品だと知っている。

 そして自身の手に余るものだとも。


 魔法をかけられたこの楽器が、相応しい人間の手元に渡って欲しいという想いは本心だ。


 ポッと出没した何の謂れもない小娘に使われるより、由緒正しい血統で一流のヴァイオリニストの手にあるべきものだ。

 欲がないというよりは、ただただ、怖い。

 今でさえ王立学園に通うという分不相応さを実感しているのにこれ以上の身の丈に合わないモノは、自分を陥れようとする罠ではないかなんて考える。




 要は、骨の髄から小市民なのである。





 ※




 ジェイクに指定された時間より十分程度早く、リタは外門に辿り着いた。

 そわそわドキドキ、どうにも穏やかならぬ気持ちで胸がいっぱいだ。


 既にほとんどの生徒が下校した後なのだろう、人の気配を感じることは無かった。

 登下校時の華やかさとは打って変わって静まり返っていて若干落ち着かない。

 近くにあるものと言ったら――


「うわ、凄い馬車……」


 門の傍、道の中央にデンと存在を主張する大きな白い馬車が一際目立つくらいか。

 一体どこの誰が使うのか、無駄にキラキラしている馬車を暇に飽かせて「ほぇ~」と呆けたように眺めるリタ。

 前にカサンドラが所有しているレンドール家の馬車に乗せてもらったことがあるが、その時の事を想起させる大きな馬車の佇まいである。


 感心したようにそれを見遣っていると、時間が経つのはあっという間だった。

 途中、誰かの視線を感じた気がして何度も周囲に視線を馳せる。

 あまりにも自分が気にしすぎているせいだろうか、生徒の姿は他に無いのについ過敏な反応を示す自意識過剰ぶりに自嘲してしまった。


 午後四時過ぎ、校舎から二人の人影が出てくるのを遠目で確認したリタは、飛び上がりそうなくらい動揺した。とうとう、来る……!


 慌て過ぎて楽器の入ったケースを落とさないように再度持ち直し、今か今かと『彼ら』がやってくるのを待っていたのだが……


「え? ――あれ?」


 リタはごしごしと目を擦った。

 視力の良さには自信がある、こちらに向かってくる人影が誰と誰であるかなどとうに判明しているというのに。

 予想外の二人組だったので、己の視力の低下を疑うことになってしまったのだ。


「ジェイク様と、あれは……リゼ?」


 目を凝らして下校途中の二人を眺める。



  いやいやジェイク様、ちょっと話が違いませんか!?



 リタは滝のような汗を流し、手にずっしりと重たい箱を提げたまま顔を引きつらせた。

 もしかして朝の約束を完全に忘れてしまったのか?


 ジェイクとリゼが二人仲良く下校している姿を見るのは初めてではないのだが、こういう状況で目の当たりにすると『どうしてくれよう』というモヤモヤ感に支配される。


「あら、リタじゃない。こんなところで何してるの?」


 先にこちらに声を掛けたのは、三つ子の姉リゼであった。

 自分と全く同じ容姿を持つにもかかわらず、表情も雰囲気も滲み出る性格も全く異なって間違えられることは少ないのだけれど。


「ど、どうしたのって……

 なんでリゼがジェイク様と一緒なの!?」


 真正面から問いただされ、全く平生通りの態度だったリゼが大きく動揺を示す。

 尤も、二人で一緒に下校するシーンを見たことをからかう程の心の余裕は今のリタには存在しないのだが。


「なんでって、そりゃあ。さっきまで、家庭教師アルバイトしてたからだけど」


 彼女は腰に片手を添え、吐息を吐いた。

 ふいっとこちらから目線を逸らす彼女の頬の縁に僅かに朱が射す。


 そうか、今日が家庭教師の日だったのか――なんて呑気に構えてはいられない。


「ジェイク様、あの、ラルフ様は!?

 約束は!?」


 つい涙目になって彼に抗議の視線を送る。

 てっきりこの場にラルフを連れて来てくれるとばかり思っていたリタは、完全に当てが外れてがっくりと肩を落とす。

 もしも手に楽器ケースを携えていなければ彼をポカポカと叩いていたかもしれない。

 その後の事など何も考えない暴挙に及ぶことが無かったのは幸いだった。


「落ち着け、ちゃんと覚えてるって」


 どうどうどう。

 まるで暴れ馬を宥めるかのように、ジェイクは掌を地面に向けて何度か上下させる。


「じゃ、俺はこれからリタと用事があるからな。

 お疲れ」


 事情を知らないリゼは、今まで楽しく一緒に下校していた穏やかな表情からぽかんとした顔でこちらの動向を伺い始める。

 勿論リタも彼が何を言い出しているのかよくわからなかったが、覚えているって言われても……


 一体彼はどういうつもりなのだろうと疑心に苛まれる。


「ほら、早く乗れよ」


 先ほどまで豪華な馬車だなー、と呑気に眺めていた馬車を指差すものだから目玉がぽんっと飛び出るかと思った。

 ジェイクは何を言っているのだ?


 え?

 これ、ロンバルドの馬車だったの!?


 言われてみれば幌に刻まれた紋章には見覚えがあるが、まさかジェイクの実家のものだなんて思いもしなかった。

 彼が馬車に乗って移動するというイメージがないせいだ。

 馬に乗って随行するならともかく、この人も普通に馬車を利用することがあるの!? リタは吃驚した。


「え、ええ!?」


「ほら、ここでモタモタしてたら誰かに見られて面倒なことになるだろうが。

 早く乗れって」


 放心状態、彼に言われるがまま。

 リタはヴァイオリンケースを抱えたまま馬車の中に乗り込んだ。

 無駄にキラキラした内装、ふかふかの椅子。

 目を丸くして身体を硬直させたまま、内股で挙動不審。


「あの、乗りましたけど……

 ――ひっ!?」


 落とさないように足元にケースを置き、開いたままの扉の前に立つジェイクに話しかける。

 するとジェイクの背後に立ち尽くすリゼが、物凄い顔でこっちを睨みつけていることに気づいてしまった。



  私、殺される!?



 人を射殺せそうな視線をグサグサと前身に浴び、リタは混乱状態でガタガタと手足を震わせた。

 リタが乗った後、当然のような顔で馬車に乗り込んでくるジェイク。


 リゼの視線が本当に厳しいので勘弁してください……。


 本能的に目を逸らして目幅の涙を流したくなるくらい、姉の険しい表情が怖かった。

 これは絶対に誤解を解いておかないとヤバい案件だ。


 ここまで気分よく好きな人ジェイクと下校が出来て上機嫌だっただろうリゼ。

 ところが当のジェイクはこれからリタと用事があると馬車に一緒に乗り込んでいるのだから……

 そりゃあ内心穏やかではないだろうが、実の妹に向ける殺気じゃない。


 もっとも、そこは感情を制御することに自分よりは長けているリゼである。

 般若か何か? という怖い表情をしていたが、すぐに冷静さを取り戻したようだ。

 握りしめた拳の震えを隠すように後ろ手に回し、何とか口角を上げて笑みという形を作っている。……無理矢理過ぎて怖い。


「じゃあな、リゼ。また明日」

 

 全く悪気なくジェイクが手を振るものだから、完全に毒気を抜かれたのかもしれない。

 第一リゼとジェイクは付き合っているわけではない、彼が放課後誰とどこに行こうが自由なわけで。リゼが愛想笑いを浮かべてこちらを見送るしかない状況なのは良く分かる。


 ……でも苛立ちのオーラがリゼの後ろに立ち上って見える、背筋が薄ら寒い。


「はい、今日はお疲れさまでした」


 色々言いたい言葉を飲み込んで、リゼは精気の抜けた瞳のまま片手を振る。


 程なくして出発する馬車を、曲がり角で曲がりきるまでじーーーーっと見送られていた。


 何度も思う。……怖い。



 

 完全にリゼの視線から馬車が外れた解放感から、そのままずるずると椅子から落ちそうになるのを何とか堪えた。


「ジェイク様……。

 これ、一体どういうことなんですか?」


 少なくとも自分はジェイクとどこかに行きたいだなんて一言も言ってない。

 相談事は最初に伝えたはずだ。

 ラルフに会ってヴァイオリンを手渡したいのだ、と。何故こうして馬車の中で彼と向かい合って座っているのか……?


「これからラルフの家に連れてってやるよ。

 あいつ、今日は誕生パーティがあるからって放課後すぐに家に向かっただろ?」


 そんな話聞いてない。

 第一、ラルフの誕生パーティが開催されると言うなら学園内の女子達がもっと騒々しかったのではないか。

 彼への誕生日のプレゼントを持ち込む部屋が学園内に用意されているのは知っている、それに加えてラルフにお祝いを直接伝えようと並ぶ女生徒の長蛇の列という光景を除けばごくごく普通の一日だったではないか。


「ああ、お前知らないんだったか?」


 うんうん、とリタは頷く。

 額に浮かべた汗で、前髪がひっついて気持ち悪い。


「親主催の誕生会って奴。

 面倒だろ?

 本人ラルフの友人や知人じゃなくて、あいつの親の――まぁ、ヴァイルに関わる当主陣を呼び集める口実に使われてるんだからさ。

 今日は俺もアーサーも呼ばれてないし、生徒こどもは誰も呼ばれてないはずだ」 


「はぁ……」


 成程、親のしがらみだけの催しなら学園内で騒がれなかったのも納得だ。

 皆自分の親が御機嫌伺にヴァイル邸に赴くことは知っていても、自身がドレスを着て参加するわけじゃないからそりゃあ話にも上がらないだろう。

 ラルフに何をあげたか、どんなメッセージを送ったか、の自分達主体の自慢話の方がホットな話題に違いない。 


「ええと、ラルフ様の誕生日をお祝いするのに、偉い人たちが集まってるわけですよね?

 いいんですか!? 私、こんな制服のままですけど!」


「呼び出してやるから大丈夫だって。

 そろそろ挨拶周りにうんざりし始めてる頃じゃないか?」


「――。

 ありがとうございます」


 そこまでの大事になるなんて思っていなかった。

 彼がヴァイル邸に行くまでの馬車を用意してくれるだとか、しかも誕生パーティに突撃して本人を呼び出してくれるつもりだとか。


 ただ学園内にいるラルフを呼び出してくれるだけなんだとばかり。何故かすっかりそう思い込んでいた。


 彼が誕生日に暇を持て余して学園内に滞在しているわけがないことくらい、リタにだって想像できそうなものなのに。

 自分にとって都合が良い事ばかり考え、信じられないくらいジェイクの手間をとらせてしまうとは……


「ここまでして頂いて、何てお礼を言ったらいいのか」


「大袈裟にしなくても良かったんだろうけどな。

 今日はリゼとの約束があったし、そっち優先で考えたら――放課後バタバタするより、直接お前を連れてった方が確実だって思ってさ」


 彼は広い馬車内、足を寛げてどっかりと腰を下ろしている。

 広いはずなのに若干窮屈に感じるのは彼が大柄なせいもあろうが、きっと足の長さのせいなんじゃないか。 


「リゼと……」


 そう言えばジェイクに相談をした直後、彼は何事か思案している素振りではあった。

 あの時間指定、勉強の時間が終わるまでとりあえず待ってろって事だったのか。

 

「なーんだ。

 私、すっかりジェイク様が約束を忘れてしまったのかと絶望しましたよ」


 ほっと一息だ。

 もう完全に今日はラルフに会うことはできないのかと、リゼと一緒に歩いていた彼を見た時に目の前が真っ暗になったことを思い出す。


「俺はそんなに薄情じゃないぞ」


「でも、それならそうと言ってくれれば」


 既に馬車を手配していて、待っていたリタをプレゼントもろともそこに詰め込んで連れて行くというのなら――

 何が何だかわからずパニックになってもしょうがないことだ。自分のキャパが狭かったからあんなに慌てふためいたわけじゃない。


 クラスメイトとして接してくれているとは言え、御三家のお坊ちゃんをここまで動かすことになるなんて……普通は想像さえしないことだ。


「言ったら、流石のお前も遠慮するんじゃないか?」


「うっ」


 ハハハ、と彼は楽しそうに笑う。


「それは……そのう、確かに」



 『今日の放課後、ラルフ様に直接お会いしてプレゼントを渡せるんです!』と興奮気味にカサンドラに熱弁したリタ。

 ジェイクが彼を連れて来てくれるなら、その場で渡して終わる話だったのだ。

 そうでなければ、意気揚々と喜びの報告など出来なかっただろう。



 まさかロンバルドの馬車に同乗してお宅訪問するなんて聞いてない。


 予め聞かされていたら、小市民メンタルが顔をのぞかせ慄いたに違いない。

 ――あんなに単純に、放課後の訪れを待ちわびるなんて芸当は出来ないはずだ。

 そこまでするならやっぱりいいです、と遠慮した可能性も大いにあった。



「ま、相談受けた以上は何とかしてやりたかったしな。

 結果的に驚かせることになったのは悪かったよ」


「いえ、私こそ本当にすみません」


 もとはと言えば、駄目で元々玉砕覚悟で彼に突拍子もない相談をした自分が悪かったのだ。

 何とか応えてくれようとした彼に文句など何一つ言えるはずもない。


「私が自分一人で出来る事なんてタカが知れてるって言いますか。

 いっつもリゼやらリナやらに頼って来た癖がついちゃったんですね!

 今回だって――ジェイク様ならどうにかしてくれるんじゃないかなんて、無茶ぶり反省してます!」


 平身低頭、心の中では五体投地だ。

 こんな唐突な頼み事、「失礼だ」と一刀両断されてしかるべき話である。


 


 だが、何故だろう。

 朗らかに笑っていたはずのジェイクだが、リタの台詞を聞いた途端急に車窓の向こうに広がる遠い空を眺め始めた。

 小さくぽつりと、呟いて。



「はぁ……………

 なんでこうも違うんだ……?」




 彼の哀愁漂う言葉の真意は分からなかったけれども、カラカラ、カラカラ、車輪は回りリタを遠くへ運んで行った。







 あれ? 私…… 何か気分を害するような事を言ったかな?


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