第222話 <リゼ>


 一週間の内で最も待ち遠しい曜日、それは人によってまちまちだろう。

 リタは土曜日が大好きだと公言してはばからないし、リナは日曜日が大好きだと言う。

 二人とも週が明けると一週間の始まりで、学園での授業があるのだからテンションが若干落ちるのは同じだと言うが。


 リゼは逆だった。

 二学期に入ってからというもの、月曜日が待ち遠しくて待ち遠しくてしょうがない日々が続いている。

 日曜日の夜、何なら土曜日あたりからずっとそわそわしているくらいだ。


 月曜はジェイクの家庭教師役ということで、誰の目も気にする事無く放課後二人きりの時間を過ごすことが出来る。

 この一時間のために毎日頑張っていると言ってもいいくらい、表情には出さずとも月曜日が待ち遠しい。


 まぁ、剣術の講座を月曜日も追加で選択するようになったことも大きいかも知れない。

 週に四回、フランツの指導を受けることになる。

 来週から始まる剣術大会までの措置ではあるものの、習い始めた当初と比べれば上達したと実感できる分楽しい時間にもなっていた。


 身体を動かすことなど大嫌いの運動音痴で、体力がミジンコ並みだった頃と比べれば雲泥の差だ。

 この半年間ずっと真剣に取り組んできたおかげか、自分でも吃驚するほど体に馴染んでしまった。


 もう何もないところで素っ転ぶようなこともないだろうし、暴漢に襲われても逃げおおせることが出来るだろう。

 得物が手元にあれば成敗出来るくらいには自信がついたと思う。


 変われば変わるものだと、自分の変化に戸惑いを覚える。

 自分にとって無駄なものでしかなかったはずなのに――



 あの日カサンドラに勧められなかったら、絶対にこんな酔狂なことを本気で取り組むことはなかったであろう。何とも不思議な話だった。




 ※




 月曜日に剣術講座を選択した女生徒は自分だけらしい。

 ジェシカがいる場合は着替えをリゼより早く終え、先に別棟の演習場に向かっているはずだ。が、今日の更衣室は誰かが使用した気配がない。

 籠の中には誰の着替えも入っていないことからも瞭然だ。


 元々女生徒が剣術を習うということが想定されていないのか、校舎裏の小路の奥という脇に押しやられた部屋での支度を指示されている。

 男子生徒達は演習場のある別棟で用意をしているらしいが、行ったこともないので内実は分からない。

 体術の講義は女子も多いのだが、運動場を使うので全く別方向に更衣室が設けられていた。ここは掘っ立て小屋のようなものだ。


 勿論、本物の掘っ立て小屋と比べればただ狭いだけで小奇麗なスペースではあるのだが。

 他が広々としているので、余計狭く感じるのかも知れない。


 まぁ、ジェシカがいなければ今年剣術に興味のある女生徒がいなかったかもしれない事を想像すれば、便利な場所にスペースを確保するのも無駄と言えば無駄である。


 幸い、リゼが訓練を受けるのは別棟ではなくその手前の野ざらしの修練場だ。女子更衣室から最も近い。

 屋根もなく、雨の日は庇の下で素振りをすなければいけないような環境だが近いことは良い事だ。

 専用の演習場は流石に用意してもらえなかったとフランツが言っていた記憶はある。


 それに関しては不満もない。

 フランツと言う講師を改めてリゼのために用意してくれた学園側の厚意にただただ感謝するのみだ。

 どれだけ潤沢な資金があるんだ、とちょっと怖く思うけれど。


 支度を終え、リゼはフランツの待っている訓練場へと向かう。

 四方を樹々で囲まれ、土の上に石畳を敷いただけで訓練場と言うのもおこがましい場所だが、人目に着くこともないし気に入っている場所でもある。


 更衣室を出て細い小道を道なりに進んでいると――

 正面からこっちに向かって手を挙げている生徒に気づいてリゼは足をその場で止めることになる。


 誰何する必要などない。

 人懐っこい笑顔で片手を挙げてリゼの名を呼んでいる大柄の生徒は、どこからどう見てもジェイクとしか思えなかった。


「……ジェイク様!?」


 ぎょっとして動きが固くなる。

 全く心構えが出来ていない時にいきなり視界に入ると、気が動転しそうになるではないか。会えて嬉しいのに、思考が空転しそうでリゼは背中に冷や汗を掻く。


 ここでわざわざ声を掛けに来なくたって、あと二時間もすればアルバイトの時間。

 だから彼がやってくるなんて全く予想していなかったのだが……


「あの、今日はジェシカ先輩は来ていないようですよ?」


 辛うじて、彼がこちら側まで足を運んできた理由をひねり出す。

 以前近くの岩前でジェシカに抗議を受けていたあのシーンを思い出し、恐る恐る声を出す。

 きっと彼女に用があってきたに違いないと思ったのだが……


「いや、ジェシカを探してるわけじゃない。

 お前に用があってさ」


「……私に?」


 本来であれば嬉しい出来事のはずだ。

 だが表情を曇らせてしまったのは、何故今? という疑問が付きまとっていたせいである。

 さっきも思ったように、あと二時間もすれば誰の目も気にせず正々堂々一緒に過ごせる時間が訪れるのだ。

 それにも拘わらずこうして彼が会いに来たという事に、胸がざわつく。

 彼が手に何か持っているなということにもすぐに気づかない程動揺している。


「そうそう。――悪いが、今日の放課後は用が出来てな、また別の日に替えてもらってもいいか?

 急な話で、伝えそこなったからな」


 このままでは完全に待ちぼうけを食らわせてしまうと、慌ててリゼを探しに来たのだと言う。


 ああ、やっぱり。

 内心ガックリと肩を落とすが、こればかりはしょうがない。

 彼が多忙なのは承知の上だし、わざわざ人伝ではなく本人が言いに来てくれたことには感謝しかない。

 リゼが彼の家庭教師をしているなんて大っぴらにはしていないので、伝言が難しかったという事情はあろうが。


 彼がそこまで気を遣ってくれるのは意外な事だな、と自分を慰めてみる。

 一、二時間生徒会室前で待ち惚けて、明日の朝に「急用が出来て行けなかった」と言われても何も言えない立場なのだから。


 こうして残り少ない昼休憩の時間を使って会いに来てくれた。それは素直に嬉しい事だ。

 彼と今日過ごす時間が消滅したことは残念で仕方ないが、露骨に嫌な顔をしても彼の気を悪くするだけである。


「そうなんですね、ではまた都合の良い日を教えてください」


「明日ならいけると思う、多分だけど」


「了解しました」


 うーん、と渋面でそう答えるジェイクの言葉にホッとした。今週分は無かったことに、と言われたらもうお通夜確定だ。絶望の一週間のスタート。

 楽しみにしていた時間が消えるというのは、それくらいダメージを負うものである。


 それにしても、間近に立たれると思うが相変わらず顔の良い青年だなぁと改めて感心してしまった。

 面食いではないつもりだし、もともと異性に興味などなかったはずなのだが。

 一度刷り込みのように好意を抱いてしまうと、更に何割か増しで見目良く感じてしまうものなのだろうか。


 顔が良い、美形と言えば王子やラルフ、シリウスなども当てはまるだろうに。

 彼らを見ていても”あ、綺麗ですね、ハイ。”という感想しか出てこないので、美的感覚は人並みだがそれに拘泥しているわけではない――と、思う。



「で、本当は今日会った時に渡そうと思ってたんだけどな。

 早い方がいいだろ、ほら」


 彼は良く分からない事をぼやき、手に持っていた白い箱をリゼにスッと差し出した。

 


 ――これは、なんだ?



 片手には余る大きさの箱を両手で受け取り、リゼはぽかんと口を開ける。


 ジェイクが無造作に渡してきたものと、彼の機嫌の良さそうな晴れやかな笑顔を順繰りに眺めやるリゼ。

 彼に何かをもらう理由も見当たらなければ、中身が何かも一切推測不能である。


「あの、こちらは……? 私に?」


 ほうけた顔をしていても仕方ない、リゼはその箱を眼前に掲げ彼に首を傾げて聞いてみることにした。


「それ、お前にやるよ」


 やるよ、と言われても……


 一体この箱の中には何が!? と、自然に心臓の音が早くなっていく。

 これは所謂プレゼント、贈り物というものか?

 でも今日は誕生日でも何かの記念日でもないし。


 もしかしてラルフの誕生日と間違えている? でも彼の誕生日は明日だとかでリタが騒いでいたのは知っているので、彼の友人の誕生日と混濁したわけでもなさそうだ。そもそもジェイクが彼らにプレゼントを渡す姿は想像しがたい。


「開けてみてもいいですか?

 というか、中身って一体何なんです?」



「お、開けるなら覚悟しとけよ。

 お前が使うんじゃないかと、蜘蛛の玩具を持って来たんだ」 


 彼は何故か誇らしげだった。



  くも の  おもちゃ ……?




 目が点になるとはこのことを指すのだろうか。

 一気にズドーン、と谷底に突き落とされたような衝撃を受け、指先がぷるぷると震える。



「お前、前に虫に慣れたいだとか言ってただろ。

 それっぽい形の作り物があったら、練習になるんじゃないかって考えてさ」 



 ――問一、好きな人から初めてもらったプレゼントが蜘蛛の玩具だった時の気持ちを述べよ。



 そんな文章がザァッと脳裏を掠めて行った。

 わざわざ自分の言葉を覚えていてくれて、更にそのために労を賭して準備してくれたのだろうと推測できる。

 その優しさ、親切心はとてもありがたい。

 ここまでしてもらうのは本当に申し訳ないと恐縮してしかるべき事態だが、まさかの蜘蛛の玩具……という話にリゼは戸惑い過ぎてどんな表情をしていいのかさっぱりわからなかった。


 嬉し……え? でも、この中身って蜘蛛……の、玩具……?

 蜘蛛に慣れる練習のためって……

 感謝したいのに、様々な葛藤に苛まれて素直に喜べない自分がいた。


 彼からもらえるものなら何でも嬉しいと言っても、結構限度があると思う。

 例え純度百パーセントの厚意からくるものであったとしても、乙女心は複雑なものだ。

 ロマンティックであれとは思わないが、まさかの蜘蛛の模型とか……


 だが彼はかなりの善行を施したと言わんばかりに清々しい笑顔を向けているのだ。

 まさか”要りません”というわけにもいかない。


 そんな身も蓋もないことを言えば、彼も自分の厚意が踏みにじられたと気を悪くするだろうし。そもそもこれをもらうきっかけになったのは自分の言動のせいだし。

 身から出た錆という言葉がこれほど染み渡る事態が訪れるとは。


「蜘蛛……ですか……」


 引き攣った笑みを浮かべ、リゼはその白い箱の蓋を開けた。

 まぁ、折角のプレゼントという点を除くのであれば彼の言う通り、慣れるためなら本物の蜘蛛より抵抗が少ないだろう。

 玩具とは言え、蜘蛛をつつけるようになったら実際の感覚も変わってくるかもしれない。


 本物を愛でることは出来ずとも、その前段階と思えば良いのか。

 少なくとも作り物の蜘蛛で慣れてみるなんて思いもよらなかった、言われてみれば効果的かもしれない。


 どんな玩具なのだろうか。

 何の気なしに開けてみたリゼは――


「――っ!!?

 ひゃああ!?」


 思わずその箱から両手を離し、地面の上にばらばらとそれを落としてしまったのである。


「こ、これホントに玩具なんですか!? しかもこれ……

 何匹いるんですか!?」


 最初からそこにあると分かっていても、一見して本物にしか見えない精巧な作り、質量を感じる蜘蛛が一匹ではなく数匹も「やぁ!」と挨拶せんばかりに視界に広がる事は想像できなかった。



 何だ、この無駄な完成度!?

 たかが蜘蛛の玩具を、何処の職人に造らせたのだ、この人は!?



「はは、本物そっくりだろ? 俺も吃驚した。

 これなら十分練習台になるんじゃないか?

 本物よりは抵抗がないだろうし、まぁ好きに使ってくれ」


 プレゼントを地面に放り投げるように落としてしまったけれど、むしろそのリゼの反応が面白かったのか彼はやっぱり笑っている。


 リゼの貧困なイメージなんかよりずっとリアリスティックな造形の玩具。

 ここまでのクオリティだとは思っていなかった、そんなリゼの驚き具合に満足してくれたようだ。


 気づかない内に、彼の期待通りの反応を示してしまったのかと思うと少々悔しい。


「……ありがとうございます」


 リゼは口を引き結び、その場にしゃがみこむ。

 箱を手に取り、自らが散らばせてしまった玩具の蜘蛛に指先を伸ばしたのだ。

 まさかこのまま捨て置くわけにもいかない、何匹いただろうか。

 四匹、五匹……

 一体どこの暇人がこんなモノを作ったのだと頭を抱えたくなるが、及び腰のままそーっと指を伸ばす。


「手伝おうか?」 



「いえ! これも訓練になりますから!」


 これだけ本物に近いものを玩具といえども触るのはやはり抵抗がある。

 だが、一つ抓んでその出来の良さに驚いた。

 まじまじと虫を観察したことなどないが、一見して光沢やら足の付き具合やら、今にも動き出しそうな本物感には恐れ入った。

 手先が器用であるのと同時に観察眼もないと中々こんな実物に即した生物模型は作れないだろう。


 一つ、二つと抓んで箱の中に仕舞う。

 成程、玩具だと分かっていれば、この気味が悪いフォルムでも何とか悲鳴を上げずに掴めるものだ。

 今日明日でどうにかなるものではないが、少しずつ慣らしていくにはこのリアルさがちょうどいいのかも知れない。


 樹の下にも一匹落ちているのを発見し、手を伸ばして拾い上げる。


「わー、本物みたいに動くものあるんですね。

 どんな魔法技術を使ってるんですか?」


 掴んだ指の間でカサカサ足を動かすそれを眺め、最近の技術は凄いなとリゼはジェイクを見上げた。

 この時点では呑気だった。

 玩具だと、思っていたから。




「何の話だ?」


 彼は不審に思ってリゼの隣に腰を屈めてしゃがみこみ、リゼの手をしげしげと眺める。

 そして苦笑いを浮かべ、ぽつりとつぶやいた。


「それ、本物……」


 一拍置いて、リゼは彼の言葉の真意に気づく。

 今、自分が指で拾い上げている『それ』は本物そっくりの玩具なんかじゃない。


 奇妙に足を動かし苦しみもがく、哀れな蜘蛛そのものだった。





「いやーーーーっ!」



 ぶんと腕を振ってそれを遠くへと放り投げ、我知らず上げた叫び声に自分の鼓膜が破れるかと思った。

 小路の周囲に植わった木の枝に止まっていた鳥たち。それらも一斉に慌ただしく飛び立つ。

 バサバサと頭上から羽ばたきや葉擦れの音が聞こえるがそんなものは全く耳に入らなかった。



 全く行動を制御できない。

 生理的嫌悪感に突き動かされ、身近なモノにがしっとしがみついた。


 真横でこちらの手を覗き込んでいた彼の右肩を――思いっきりひっ掴んでいた。

 手にあったソレを放り出した後、ダッシュでその場から逃げ去らなかっただけ反応はマシになったのかもしれない。


 だが、完全にやらかしてしまった事に気づいた時には遅かった。

 あの時の感触が勝手に再現されて思考が停まる。


 しばらく無言の時が流れ、一気に気恥ずかしさがこみあげてきた。


「先は長そうだな」


 彼は苦笑いでリゼの頭に軽く掌を乗せた。

 ぽんぽん、と宥めるように叩かれてリゼは両手で顔を覆う。




「……はい、申し訳ありません……」





 恥ずかしさのあまり、今この場で消えてしまいたかった。

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