第219話 その心は
気づけば、水曜日。
王子と話が出来るという期待感に満ちた気持ちで中庭に向かうことになる。
カサンドラは放課後になればすぐに講義から解放されてここで待つことが出来るのだが、王子は必ずしもすぐに解放されるとは限らない。
大勢に囲まれることもあるだろうし、他の案件で捕まることもあるだろう。
中庭に来てくれる時間が多少遅くなったとしても、たった十数分に満たない僅かな時間のためにやってきてくれる王子には感謝しかないわけで。
逆に自分との約束のせいで彼を縛り付けているような気がして罪悪感に包まれるくらいだ。
本当に無理な時は無理だと言ってくれる彼の誠実な対応のお陰で救われている。
今日もカサンドラは生徒会室と医務室の回廊の間に造られた中庭で王子を待っていた。
噴水の飛沫がかかるのではないかという奥のベンチで、ひらひらと落ちていく赤い葉っぱを背景に。
時折、丁度開いている本のページの上に落ち葉が乗り、嫌でも季節を感じる一幕を体感する。
「やぁ、カサンドラ嬢。
遅くなってしまって申し訳ない……
――?」
王子が足早にベンチに座るカサンドラの元へとやってくる。
だがカサンドラは至って真剣な表情で、そのページを凝視して待ち惚けてた王子の存在に声を聴いて初めて気づくという体たらくだった。
――真剣な顔で何を読んでいるのかと、彼はカサンドラの手元を覗き込み……
そして、絶句して蒼い目を丸くしたのだ。
王子がこんな風にあからさまな引き気味のリアクションをしたのは初めてのことかもしれない。
カサンドラはそれに気づいて、サーっと顔を青ざめさせた。
「王子、来て下さってとても嬉しく思います」
「う、うん……。
カサンドラ嬢、急にどうしたのかな?」
見て見ぬふりをするという選択肢もあったかも知れないが、王子にとってはかなりインパクトが強かったのだろう。聞かずにはいられないという躊躇いがちの質問だった。
カサンドラは慌ててバタンと大判の本を閉じたが、それを指差して尋ねて来たのだ。
「これには事情がありまして、その、決してわたくしの個人的な興味というわけではありません」
カサンドラが険しい表情でじーっと見つめていたページは、ある図鑑の一ページだった。
それは蜘蛛の生態が書かれた箇所だった。
どーん、と蜘蛛のリアリスティックなイラストが色んな角度から描かれているページ。
それを真剣な眼差しで食い入るようにカサンドラが見つめていたので、流石に王子も何があったのかと聞きたくなるのは仕方のない事だ。
むしろ何も聞かずに『この人は節足動物が好きなのか…』と勘違いされる方が困る。
尋ねてくれて、首の皮一枚で繋がった状態と言える。
大慌てで今日図書館で借りて来たばかりの図鑑を仕舞う。
ジェイクから蜘蛛の玩具の制作を依頼され、どうしたらいいのか昨日一日中考え込んでいた。
蜘蛛なんてデフォルメで描くくらいしか出来ないし、立体的なモノを作って仕上げろと言われてもカサンドラには何の知識もない。
何はともあれ、まずは正確な蜘蛛の形を知らなければお話にならない。
そう思って、お昼に図書館で図鑑を借りてきたのだ。
だがカサンドラは普通の女の子である。
正直、こんな虫の写実的なイラストなど見たいわけではない。
眉を顰めつつ、渋面を作って一応の全体図を把握する――と言ったところを王子に見られてしまったのだ。
何もこんなところで広げて確認する必要などなかったが、逆に自分の部屋でこれを広げてまじまじと研究するのも背中が痒くなりそうで嫌だった。
「……一体どういう事情なのか、良かったら聞かせてもらえないだろうか?」
急に婚約者が蜘蛛に傾注し始めた事を座視しているわけにはいかないと思ったのか、彼は隣のベンチに座って再度カサンドラにそう問いかけた。
今のところは書面上だけとは言え、将来結婚する予定の相手が一般的に許容しがたい趣味や執着を持っていると考えたら……確認したくなる気持ちもよくわかる。
こんなところで広げて王子に見られるまで気づかなかった自分が悪いのだが、勘違いしないで頂きたい……!
「こちらはジェイク様からお受けした依頼の、いわば資料です。
精巧な蜘蛛の玩具を作って持ってきて欲しいと言われまして、参考に眺めていただけなのです」
当然これだけでは王子が事情を理解できないのは、百の承知だ。
だがとりあえず結論、回答を先に伝えた後にそこに至るまでの過程を説明するのがセオリーである。
彼は不思議そうな表情をしていたが、カサンドラの述懐を黙ってじっと待っていた。
「実はこの度、わたくしとシャルロッテさん、キャロルさん、ミランダさんの四名でお食事会でもと考えているのですが」
「へぇ……」
彼は感嘆の声を上げ、感心したような素振りで大きく頷く。
王子と言う立場でも女生徒の強固な派閥関係には直接的な指導や命令をするわけではない。
女生徒を統率するのは王子の役目ではないからだ。
今のところ三つ巴の拮抗状態で保たれている仮初の平和とは言え、決して良い雰囲気とは言えないことは彼も良く分かっているだろう。
場の空気を読むのに長けている人だから。
「キャロルさん、シャルロッテさんとはわたくしも個人的にお話が可能な状況なのですが……」
最悪、シャルロッテの方は生徒会のメンバーであるビクターを通せばどうにでもなるのではないかと思っている。
彼自身は「妹を招待!? 勘弁してください」と頭を抱えることになるかもしれないが、シャルロッテが断る理由は無いだろう。
「ミランダさんへの伝手が見当たらず困っていたところ、アンディさんのことを思い出しました。
彼であればきっと、わたくしの真意を色眼鏡なくミランダさんに伝えていただけるのでは、と。
アンディさんはとても真面目で誠実な人柄をお持ちの方だと、勝手ながら推察しております」
カサンドラの融和的なお誘いを悪し様に捉え、無理矢理悪意を吹き込むようなことだけはしないだろう。彼女の警戒心を解いてもらいたいだけだ。
「ああ、アンディへの伝言役にジェイクを使おうとしたわけだね。
それは正しいよ、アンディは彼の近い将来の右腕というか側近が内定しているから――話は誰よりスムーズに伝わるだろう。
彼の言葉ならミランダ嬢も大きく心乱される事無く、君の誘いに耳を傾ける心構えが出来るはずだ」
物凄く迂遠な誘い方ではあるものの、極力内々に、そして彼女の気持ちを逆なですることのない最大限の配慮をしたルートだと思う。
これから仲良く食事でもしましょう! なんてストレートに話が出来る関係でないのなら、どうにかして誘える素地を整えなければいけない。
学園生活を送っているとはいえ、皆が皆即座に友達になれるかと言われれば難しい。
色んな方向からアプローチせざるを得ないのだ。
そういう話をしていたはずなのに、緩衝役とは言わずとも伝言役を頼まれたジェイク本人がわけのわからないことを言ってきた。
「ジェイク様には協力して下さる旨の返答をいただいたのですが……
その条件として、蜘蛛の玩具を持ってきて欲しいと依頼を受けたのです」
それで、この図鑑でフォルムを調べることにしたのだとカサンドラは冒頭の結論に結び付けた。
王子は瞑目してしばらく黙り込んだ。
腕組みをして、何事か心に引っ掛かっていることを総浚いしているような様子だ。
「……一体ジェイクの中で何がどういうことになっているのか、私にも全く分からないな。
ラルフが学園で蜘蛛騒ぎが起きたらジェイクのせいだと呆れたように言っていたのも不思議に思っていたのだけど、更にカサンドラ嬢の話――
それらを重ねて聞いても全容が掴めないな」
「ラルフ様が、ですか?」
もしかして手当たり次第に依頼をしているのか?
一体、何のために?
「そうだね……一つだけ、想像の範疇に過ぎないが推測できることがある……かな?
これは私の杞憂であって欲しいというか、違っていて欲しい予想だけどね」
彼は若干、浮かない顔だ。
膝の上に肘をつき、己の顎をそこに乗せる。うーん、と眉根を寄せる彼の横顔は、苦渋を感じるというのにそれさえ芸術表現の一部だと思ってしまうくらい美しいものだった。
美形はどんな表情でも美しい。
「どのようなことが予測されますが? 生憎、わたくしには全くつかみどころのない話です」
「以前、ジェイクがリゼ君の事を好いているのか? という質問を君にしたことがあると思う」
「……はい。覚えております」
ドキッとした。
こうして目の前に思いを寄せている男性がいて、その人は全く無関係な場所にいる
その解析のベクトルが自分達の関係のないところに向かっている、でも彼の口から好きだ嫌いだ、腫れた惚れたの話題が出ることに心臓がバクバクと音を立てて騒ぎ出す。
「それを一旦肯定して、以前の植物園であったことを思い出してみたんだ。
あの日、リゼ君が足を捻った原因をカサンドラ嬢も知っているだろう?」
「確か、蜘蛛が背中に……」
蜘蛛?
そうだ、キーワードとしてはそこに繋がるものである。
「彼女は、虫がとても苦手だと言っていた。
焦って怪我をするくらいだから相当ではないかな」
カサンドラもまさか普段冷静な彼女があそこまで動揺して素っ転ぶなんて思ってもいなかった。
まぁ、そのお陰でジェイクにお姫様抱っこで部屋まで連れて行ってもらえたのだからリゼにとっては結果オーライという顛末になったはずである。
「もしかして、リゼ君が虫が嫌いだということを利用して蜘蛛の玩具で脅かしたりする悪戯を考えているのでは……?」
一体どこの小学生だ。
……王子に対してそんな突っ込みが喉元まで出かかった、危ない。
「流石にジェイク様もそんなつもりはないと思いますが」
「そうであって欲しいと思う。
でも好きな人をつい虐めてしまう、そういうケースも多々あるのだろう?
ジェイクがそういう行動様式を持っている人間ではないと、私も断言することはできないから」
王子は真顔だった。
その発言内容と表情のギャップにカサンドラは呼吸困難に陥りそうな程動揺する。
本当に自分とは無関係で、聞いてきた話――彼にとって恋愛とは伝聞であり、誰かが経験した知識であり、典型的なパターンを雑談から一般常識、教養の一部として『知っている』だけなのだ。
そこに己の意見や体験というものは一切混入していない。
友人の恋愛事情についてだって、劇や物語の世界を外側から見ているのと同じ感覚なのではないだろうか。
いつもと様子が違うから相手を好きなのか? と勘付いてもそれを自分の経験と照らし合わせることはない。
だからこんなにもむずむずとした違和感を覚えるのだ。
カサンドラの心が一気に壊死しそうになるが、この際それは関係ない事だと無理矢理考えないようにした。
「まぁ、真実彼がどう考えているのかは分からない。
だからこんな推測は外れていて欲しいと思うよ」
「そう……ですね。
わたくしも、リゼさんを脅かすために玩具を作成するなんてとんでもない話だと思います。
あまり想像したくはないですね」
確かに虫嫌いのリゼを脅かすには、かなり有効なカードだと思う。
一見本物と間違うような、そんな玩具が目の前に降ってきたら?
きっと彼女は驚くだろうな。
……驚いて、また叫んで誰かにしがみついたり……
そこまで想像して、あっ、と口から声を漏れそうになった。
急にぐるぐると思考が回り始める、凄く明瞭な光景が脳内に再現されて全身が
――まさか二匹目のどじょうを狙って、玩具でリゼを脅かそうとしているのではあるまいな?
いやいや、とすぐにそんな嫌な考えを振りほどく。
流石にそんな考えを基に行動するような人ではないと思うし。
何より、カサンドラとリゼが仲が良いことは彼も良く知っていることだ。
本当に良からぬ魂胆があったとしたら、まず肝心かなめの道具作成を自分に依頼するなんてありえないだろう。
誰にも気取られない手配の仕方などいくらでもあるはずだ。
だから王子の言っていた悪戯をして好きな子の気を惹きたいという幼稚な男子メンタルともまた違うと思う。
というか、シナリオを知っている身としては――
今、彼はまだ自覚していないし、意地でもそれを認めない段階のはずなのだ。
例え誰に核心を突かれても絶対肯定できない状況。
その想いを肯定するような、気を惹きたいから虐めてやれだとか接触を図りたいから玩具を使って驚かしてやろう、という思考はまだないんじゃないかな……
それに少なくともジェイクは真っ当な判断能力を持った人だ。
半年以上クラスメイトとして過ごしてきて疑いなく思える事だし、自分達のあれこれはきっと杞憂に過ぎないのだろう。
人に言うのも憚られるような理由なら、カサンドラに依頼をフルオープンすることはないと思う。
「恐らく、リゼさんには関わりのないことなのではないでしょうか。
お身内での何かの催しで使用するものかも知れません」
当人を問い詰めないと分からない事を考え、折角の王子との時間の全てを浪費するのも癪な話だ。
リゼの事かも知れないと思い至ったから真剣に考えてしまったが、元々彼が日常どんな人付き合いをしているかなど知らないし興味もない。
「そうだね、私もリゼ君のことで先入観から入ってしまったのかもしれない。
カサンドラ嬢を困惑させるつもりではなかった、また機会があったら直接ジェイクに聞いてみるよ。
気にならないと言えばウソになるからね」
彼はそう言ってニコッと微笑んだ。
突拍子もない依頼によってこの場の空気がざわめいたが、きっと、自分の思い込みのせいだ。
すぐ何かにつけ、愛だ恋だのという言葉に結びつけてしまうのは――この世界が恋愛ゲームを基にした世界だという前提条件のせいだろうか?
ジェイクだってまだ恋愛脳のスイッチは入っていないはずなのに、カサンドラの思考の方がお花畑状態ではないかと自嘲した。
そんな懸念を脇に置いて、残り少ない彼との時間をガーデンパーティの感想で費やすことにしたのである。
※
「ところで、思ったのだけど……
カサンドラ嬢が自分の手で依頼の制作物を作る必要はないのでは?」
帰り際に王子に言われ、ハッと気づく。
だが、根が真面目なのか何なのか。
自分の要望を聞いてもらう条件と言われれば、自ら手を動かさなければいけないという思い込みがあったのだ。
誰かに頼むという手もあったのか。
だがお願いする相手もすぐには思いつかない。
「わ、わたくしがジェイク様直々にお受けした依頼ですので……」
彼はそんなカサンドラを要領が悪いと思ったのか、それとも融通が利かないと思ったのか。推しはかることは出来なかった。
「無理はしなくていいからね、じっくり観察したいものでもないだろうし。
玩具の現物さえあれば、ジェイクは何も言わないと思うよ。
――もし無理そうなら私も手伝おう、遠慮なく言って欲しい」
「いえ! まさか! どうかお気になさらないでください……!」
どこの世界に、王子にこんなものを作って欲しいと言い出すお嬢様がいると言うのか。肩を震わせ、悲鳴が口から漏れた。
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