第217話 <リゼ>


 昨日の出来事を思い出すと、実は夢だったのではないかと自分の記憶力を疑ってしまいたくなる。

 その場には自分だけではなくリタも、リナも、そしてカサンドラもいた。だから夢でも妄想でもないと理解しているけれど。


 まるで見えざる何かに導かれたような奇妙な偶然の力で、昨日はあのお茶会メンバーで夕食を一緒に摂ることになったのだ。


 ”メンバー”とは言っても、自分達は場違い過ぎる……!


 何故王子やジェイク達と同席しているのかよく分からない状況。

 それでも彼らは自分達を見下すでも低く扱いでもなく、ごく自然なクラスメイトとして接してくれるのだから器が大きい話だ。


 特に王子の心が見たこともないが、海のように広いとつくづく思う。

 ジェイクやラルフ達は最初から分かっていて庶民を食事に誘ってくれたのだから心構えは最初からあったはず。

 でも王子はカサンドラと二人きりで食事をしたかったのではないだろうか。


 いや、そもそも大前提として。

 リゼが今まで想像していた『王族』のイメージと彼は随分乖離している。庶民と何の理由もなく同席させられるとか嫌がるものだとばかり。

 何といっても、相手は王子だし……。


 彼の心の広さに支えられ、楽しいひと時を過ごすことが出来た。

 この学園に入ってから、常識外の出来事が数多くリゼの身に起こっている気がしてならない。




 ※




 月曜日の放課後、生徒会室を借りてジェイクの家庭教師役の時間を過ごしていた。

 一応最初に顔を合わせた時は昨日のお礼は言った。


 ……いっぱい話したいことはある。さっき畏まって伝えた”誘ってくださってありがとうございました”なんて通り一遍のお礼だけでこの気持ちが伝わるわけがない。

 もっともっと、遡れば人違いが原因で騎士に尋問されるという困った状況を助けてもらったことにも改めてお礼を言いたい。


 でも一度生徒会室に入って勉強するぞ、というモードにスイッチが入ると雑談や関わりのないことを口にするのが一気に難しくなる。

 限られた時間、多忙な彼がわざわざ空けてくれている貴重な時間をリゼの「話をしたい」という我儘で潰すわけにはいかないのだ。


 何せ今学期末の試験で十五位以内とかいう相当困難な順位を目標に掲げられているのだ、リゼだって一層真面目に取り組まなければいけない。

 付け焼刃や一夜漬けで採れるような順位ではない、しっかりと基本から理解してもらわないとその順位の壁は厚いと覚悟が必要だ。


 だからと言って、元々勉強熱心とは言いづらい彼に毎日うんざりするほどの問題を解けなんて押し付けても良い結果にはなるまい。


 ……こうして傍で教えられる今この時が、一週間で彼に関われる唯一の機会であると同時に大きなプレッシャーの中で頭をフル回転させる時間でもあった。


 自分はリタのように、おしゃべりが好きではないはずだった。

 なのに今は彼と話がしたくて凄くうずうずする。

 共有できる思い出が一つ、また一つと積み上がっていく最中、それを確認したいと思う。



 生まれも育ちも価値観も全く異なる相手を理解するのは、結局対話を続ける他ない。

 今まで自分は他の人の事を知りたいと思ったことが無かったのだと気づく。

 話をすることが億劫でさえあった。


 ちらりと横で難しい顔をして計算を続ける彼の顔を眺める。

 ――隣に視線を遣ると真っ先に目に入る首の喉仏にいちいちドキッとしてしまう。


 ……彼に対してなら、質問事項を数百個作って持ってきて一問一答したいくらいだ。

 知りたいことに枚挙に暇がない、でも常識という枷を填められて聞きたくても聞けない状況が続いている。

 自分だったらそんな風に好きでも何でもない人間に根掘り葉掘り聞かれるのは鬱陶しいと思うだろう。間違いなくうんざりする。


 同じ場所で過ごした一場面の話を掘り下げて話すくらいなら許されるのかな、とか。モヤモヤばかりが募っていく。


 自分一人では答えを知ることの出来ない問題を、あの日からずっと抱えている気がする。

 難問過ぎて手が付けられない。




「……あ、もう解けましたか?」


 どうも思考が迷走している。

 集中しなければいけないのに、つい手元のやるべきことがおろそかになってしまったようだ。

 既に計算を終えた後のジェイクが、頬杖をついたまま無言でこっちを見ていたのに気づいてヒヤッとした。


 折角彼が真面目に取り組んでくれているにに自分が上の空でどうするのだ! と、心の中で自分の頬をフルスイングでビンタした。


 手を止めてこっちを見ている彼が、少しだけ目をリゼから逸らす。

 だがそれも一瞬のことだった。


「昨日は、急に誘って悪かったな」


 そうやって正面から話の口火を切られては、全く無視するなど出来るわけがない。


「いえ! 先ほども言いましたけど、昨日は凄く楽しかったです!」


 それに話しかけたかったのはリゼも同じだ。

 鋼の精神で雑談を我慢していただけで、この時間が終わったら――もう一度改めてお礼を言わなければと思っていた。

 先に彼の方から話題を振って来たので、戸惑いつつも勢い込んで応えることになる。


「まさかあいつらまで揃ってるとか思わなかった。

 しかも帰りは送れなかったし、何もなかっただろうな?」


「全然、大丈夫でした。ジェイク様が気にされること、ないですよ」


 自身の手元に引き寄せた彼の回答を横目で確認した後、大袈裟な程左手を横に振った。


 餐館レストハウスまで寮から距離があったことは確かだ。

 待ち合わせの場所から結構歩くことになったが、その数十分はリゼもとても楽しくて全く苦にならなかった。

 彼らの共用する特別な建物に呼んでもらえたというのも嬉しかったし。


 帰りは――……

 今更同じことは無いだろうと思うが。ミランダの顔が頭をちらついてしょうがなかったので、リゼは三つ子で揃って一緒に帰宅することにした。

 送ろうという彼らの提案を手を突き出して「結構です」と固辞させてもらった事は、後悔していないとは言い難い。


 でもこんな豪華な面子と自分達がぞろぞろと寮に帰ることになったら、それを誰かに目撃されたら……!?


 どんな噂が尾ひれを着いて言いふらされるのか分かったものではない。


 リタ達が一緒だったのは自分にとっては好都合だった。

 またどこかの令嬢に因縁をつけられては堪らないという、そんな意識がずっと燻っている。

 無意味に他のお嬢様達を刺激して回ることに良い効果を見い出せなかったのだ。


 ジェイクと二人だけで食事が出来たとしても同じことを考えただろう。

 リゼは帰りは別々で、という決意が鈍らないよう心に刻んで出陣したのだ。決意は固かった。


 解散が午後七時頃だったので陽はとっくに暮れていたけれど。

 大通りを姉妹揃って帰ることに何の不安もなかった。リタも一緒で心強く、彼が気にすることは全く無いと言えるだろう。リナが一人で帰宅することなく、一緒にバイトから戻れたことも良かったと思う。


「馬車の件で助けていただいた上に食事までご馳走になって、昨日はありがとうございました」


「ああ、あれは本当に迷惑かけたな。

 思い込みが激しい奴も多いんだよ、うちの奴ら」


 ジェイクも大きな溜息を一つ落とす。

 騎士と言えば、皆高貴な生まれで間違いない。紳士的で正義の味方なイメージが先行しているが、プライドが高い人ばかりなのだろう。

 一度こうだと決めつけらた自分の決定を疑わない、そんな頑なさは確かに感じた。


「今度同じことがあったら、アーサーや俺の名前使っていいからな。

 そしたら昨日みたいな嫌な目には遭わないだろ」


「はは……

 お気持ちだけ受け取っておきます」


 どんな図太い神経をしていたら、ただ同じ学年で同じクラスというだけの縁を振りかざして騎士やら衛兵やらに詰め寄れるのか。

 最終的には誤解はいずれ解けたのだろうし、彼が言う程そこまで苦痛を味わったわけではない。

 時間をとられてひたすら迷惑だったというだけで。

 しかもその迷惑の駄賃にジェイクに食事に誘ってもらえたのだから収支は明らかにプラスである。


「あ、ジェイク様。

 こちらの計算、途中間違ってます。

 もう一回やり直してください」


「……。」


 危ない、会話にかまけて肝心の役目を疎かにするところだった。

 見逃さずに済んで良かったという安堵の表情で彼にもう一度差し戻す。


 若干倦んだ顔でそれを受け取り、彼が問題の再考に入ったのを確認した。

 折角早く終わっても間違っていたら意味がない、と彼の手元を覗きこもうとした直後のことだ。



「――ひゃっ……」


 リゼはそのにっくき存在がカサカサと気色の悪い進み方で机の上を這って行くのに気づいてしまった。

 小指の爪ほどの蜘蛛で、別にこちらを刺してくるような凶悪な種類ではない――はずだ。多分。


 だが視界の中に虫がいることが耐え難い。

 見ないようにしても机の奥からこちらに進路を向けて蠢くその蜘蛛を前に、リゼは硬直してしまう。

 こんな小さな、たかが虫に怯える必要など何処にある。


 つい変な声を上げてしまったが、黙っていればどこかに消える小さな虫ごときに意識をとられていること自体が情けない。

 早くどこかに去ってくれないかとそればかり考え、蜘蛛の動きを見たくもないのに注視することになる。


 自分で払いのけることも出来ない。

 そのくせ、行き先を確認しないと気が済まない。


 これだから、部屋の中に現れるような虫がリゼは嫌いだった。

 こっちが近寄らなくても向こうから「やぁこんにちは」とばかりに呑気に姿を現してくるのだから。


 こんなに体格差がある生物を前にしているのだから、向こうの方が怯えて姿を出さずに逃げ回っていればいいものを…!


 だがリゼだって田舎生まれの田舎育ち。

 室内に虫が現れるのなんか慣れっこだ。

 今は――こういう身動きが取れず逃げ出せない状況だから、天敵と見つめ合っている状態になっているだけ。

 いつもなら見なかったことにして自ら部屋を出てしばらく待っている。

 蜘蛛の姿が消えていることを確認して、ホッと胸を撫でおろすのだ。

 苦手は苦手だが、一々悲鳴を上げてキャーキャー逃げ回っているわけではない。


「ん? なんだ、蜘蛛か」


 彼はそう呟くと同時に立ち上がる。

 全く躊躇いなく、淡々とした所作でその蜘蛛を大きな掌で掴んだ。


 握りつぶさないように捕まえたその小さな虫を、彼はそのまま――窓を開いてポイっと外に捨てたのだ。

 その間、僅か十数秒。


 ピシャリ、と彼は窓を閉めた。

 一瞬開けた窓からひんやりした外気が室内に吹き込んで、カーテンを揺らす。


「ああいう蜘蛛って、益虫らしいからな。

 むやみに殺すのも良くないんだってさ」


 秋の風にさらわれてしまった小さき生き物がどうなったかなど一切興味は無いが、目の前からアレが消えた事に強張っていた身体が弛緩する。

 ホッとするあまり椅子の背もたれにしなだれかかりそうになって、慌てて首を横に振った。


「あ、ありがとうございます。

 どうも、虫が苦手で。……お手数おかけしました……」


「それは知ってる。

 今日は大騒ぎして人に抱き着いたりはしないんだな?」


 彼はからかい交じりの軽い口調で揶揄してきた。

 ガンと横っ面をはたかれたような衝撃を受ける。


 こいつはたかが蜘蛛如きで大騒ぎして足を捻るのか……というリゼの虫嫌いの印象を決定づけたに違いない、あの植物園の事がさーーーっと脳裏に色鮮やかに蘇る。


 恥ずかしさの余り記憶から消去してしまいたいのに、悲しいかなあの日の事を忘れられるはずもなかった。

 カッと顔が紅潮し、リゼはそれを掻き消すように叫ぶ。

 

「あ、あれはですね!

 見えもしない背中に落ちて来たから、吃驚しただけで!

 普段はあんな風に逃げ出したり、パニックになったりはしませんから!

 どうか……忘れて下さい!」


「そうか?

 ま、別に誰にだって苦手なものの一つくらいあるだろ、そこまで気にすることないだろ」


「……。

 信じて下さい、あんな奇行に走ることはもうありません!」


 当時の事を思い出そうとする度に、勝手に身体の感覚まで蘇ってくるのがたちが悪い。

 完全に前後不覚、誰にぶつかったかも見えないくらい見えない恐怖に混乱を強いられていた。

 たまたまその先にいたのがジェイクだったというだけで、あんなに迷惑を掛けたかったわけではない。


 虫ごときに大袈裟だと後で自分でも落ち込んだことも相俟って、一層彼の言葉がボディブローのようにめり込んでくる。

  

「いや、虫くらい近くにいたらどうにかしてやるから。

 そこまで躍起に否定する必要ないだろ」


 もう二度と、あんなに大混乱して迷惑をかけることはない――と、思う。

 基本的に、虫が多くいそうなところは避けるし。

 目に見える範囲なら、悲鳴を上げるかもしれないが逃げ出すことは可能だ。


 だが、それを踏まえて、だ。


 今掛けられたジェイクなりのフォローを考えると胃が痛くなった。


 もしもまた、植物園や室内に虫が出た! という事態になったら自分は、また彼に手を焼かせることになってしまう。

 面倒くさい人間だとか、普段強気な態度の癖に虫如きを怖がるのか、だとか。

 そんな風に思われることは、リゼにとっては大変プライドの問題で許しがたいものがある。


 実際問題リゼが虫が苦手であんな小さな蜘蛛さえも不意打ちで悲鳴が出てしまうのは事実だ。

 パニック状態で大迷惑をかけたことも記憶にまざまざと残っている、出来れば彼の記憶からはそこだけ切り落として自分の記憶に残る感触だけ残しておきたいが流石に不可能だ。


 幼い頃の嫌な思い出で爬虫類全般、ついでに虫も苦手になった。

 別に彼らに直接痛い想いをさせられたり、何かを失ったという事は無い。


 全てはリゼの内面、苦手意識の問題だ。


 苦手でなければ、さっきのジェイクのように素手で掴んで窓の外に自然にポイ捨て出来るのだろう。



「………虫……平気になれるよう、克服します……」




「――は?」


 彼は唖然とした顔でこちらを凝視する。


「何とかなると思うんです。こっちが勝手に苦手意識持ってるだけですし、それさえ解決すれば……!」



 弱みがあるというのは、確かに人間らしい側面だと思う。

 だが、それは人に迷惑を掛けなければという大前提がつくのではないか。

 

 ジェイクが傍にいてくれたら、本人の言うとおりなんてことはなく全部適切に対処してくれるのかもしれない。


 だが良く考えろ。


 浮かれそうになる自分にそう言い聞かせる。


 相手は、気安く話をしてくれると言っても大貴族の御曹司だぞ?

 家庭教師という縁があるから話をする機会も持てるけれど、本来は話しかけることもできたものではない存在の位相が全く違う相手ではないか。


 身分の差は覚悟の上で懸想をしているのは自分の問題だからいいとして。

 それは棚上げしても、一々そんなこちらの苦手事項に付き合わせ、あろうことか虫払いを頼るような状況って何様なのかという話である。


 己がどこぞのお姫様というならいざ知らず、サラッと言われた彼の言葉に礼を言って乗っかるなど、流石に図々し過ぎでは?

 危うく、過去ミランダに言われた通りの身の程知らずになるところだった、危ない危ない。

 額に掻いた冷や汗を袖口で拭う。



 相手の厚意に全力で凭れかかるのは、どうにも性に合わない。

 



「ジェイク様にそんなに気にかけてもらうのも申し訳ないですし、今後は自分で対処できるよう何とか克服してみます」 






「……。まぁ、苦手じゃなくなるならそれに越したことは無いだろうけどさ。

 あんまり無理するなよ?」

 




 励ましてくれる彼の苦笑。

 その裏に潜む諦観に全く気づけないまま、再びリゼは『家庭教師』という本来の任務に戻ったのである。






 ※







「……ところで、お前どうやって虫嫌い克服するつもりなんだ?

 見るのも嫌なんだろ?」


「これから検討します」


 帰り道、一緒に外門まで歩いている最中彼に突っ込みを受けて、リゼは言葉に詰まった。


 生態を詳しく調べたり、見慣れれば多少は平気になったりしないだろうか。


 良い歳をした人間が、虫を怖がっているのも情けない話だ。

 これもいいきっかけだと、リゼは自分にもう一つ課題を積み増した。


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