第194話 励ましと現実と


 収穫祭自体はシャルロッテ以外の予定外のハプニングもなく、そのままお開きとなった。

 毎日全校生徒が揃って食堂で昼食をとっているのが、今日は場所や出される料理が変わったというだけの話である。

 ただ昼食後は選択講義に移ることなくそのまま生徒達は解散、帰宅することとなるからそこは平時とは違うところか。


 役員達は後片付け、後処理が残っているのでそのまま会場に待機してテキパキと動く。

 カサンドラも当然当初決められた流れに沿うように身体を動かしているものの、激しく身悶えるような焦燥によって丸焦げにされた後だ。

 思考と行動はまるでそれぞれ別の器に分かたれたかのように一致せず、茫洋とした意識のまま広いホール内を行ったり来たりを繰り返す。


 役員は合計で十名しかいない上に、ビクターはシャルロッテを連れて帰宅した後。


 ホール内を動き回っていれば、王子とすれ違うことも多々あった。

 今は彼の顔を見ることが出来ず、さぞかし強張った表情のままだと思われる。


 まともに正面から彼と向き合えないまま、イベントが終わってしまった。

 対外的には滞りなく終了したはずの行事だが、カサンドラの心に大きな風穴を開ける大嵐が巻き起こったのである。




 ※



 午後の講義が無いので、後片付けや反省会を経た後でも早めの帰宅となった。

 空を見上げればまだ陽は高く、黄昏時には余裕がある。


 馬車の窓から見える風景が黄色だのオレンジだの赤色だの、そんなめでたい色に染め上げられていた。カラフルな色どりが街全体を覆っている。

 そんな陽気な光景も今のカサンドラの心象風景とは全く対照的で、一層気分が落ち込んだ。


 鞄を片手に持ってレンドール家別邸の玄関に入り――


「おかえりなさい、姉上。今日は楽しかったです……」


 か、という疑問の声を皆まで言わせない。

 歳の離れた義弟、アレクの姿が視界の中に映るや否や恥も外聞もなく駆け出した。

 手に持っていた鞄を玄関の上に投げ出すという何とも行儀の悪い醜態を晒しつつ。


 カサンドラはぎょっと恐れ戦き身体を仰け反らせるアレクの手をぎゅーっと握りしめたのだ。


「アレク、もう、もうわたくしはどうすれば良いのか……」


 今にも滂沱と涙が決壊し流れ落ちそうなカサンドラが間近に迫り、「???」とアレクは力いっぱい口元を引きつらせる。


「あ、姉上……?

 ええと、落ち着いて下さい。帰って早々、一体全体どういうことなのですか?」


 義弟に縋りつくようになりふり構わないカサンドラの姿は、屋敷の者にとっても異様な光景だっただろう。

 だがアレクが困惑して家令やメイド長に狼狽した視線を向けても、彼らはすすーっと静かに玄関ホールから退いていくだけではないか。

 満ちていた潮が一気に引き、足元から水がみるみる内に遠くへと去って行くかのように。


 巻き込まれたくないというよりは、姉弟のことなのでそっとしておいてあげましょう、という使用人達なりの気の遣い方だったのだろう。

 普段カサンドラが彼を精神面でも恃みにしていることは屋敷の人間なら承知の事だ。

 歳の割にしっかり者で、まさにカサンドラの目付け役として別邸に滞在するアレクに『全てお任せ』と言わんばかりの状況。


「ちゃんと話は聞きますから。

 気をしっかり持ってください、姉上」


 カサンドラにとって、現状王子との関係性を唯一赤裸々に語れる相手はアレクしかいない。

 身内を恋愛駆け込み寺扱いするのは自分でもどうかと思うが、今日の衝撃は計り知れないものがあった。


 何となく気づいていたことだが、現実に王子の口から直接呟かれるのは想像していたよりもダメージが酷い。


 一学期、夏休み、そして誕生日――

 コツコツと積み上げてきた彼との思い出の積み木、それが一気にガラガラと音を立てて崩れ落ちていく気がする。




 自分は一目見た時から、王子に恋をしていた。

 カサンドラが前世の記憶を思い出す以前、何も知らないままの無知なカサンドラ自身が彼の存在に惹かれていたのだ。

 そして外見上の一目惚れだけに終わらず実際に会う機会を経れば経る程、想いは募って行った。


 王子を救いたいという当初は”王子が死んでしまうなんて納得できない”という前世を大きく引きずった正義感や義侠心が混じっていたと思う。

 自分がこの世界で未来を歩むために婚約者の王子が倒されては困る。破滅したいわけではないという焦りもあった。

 仮に彼との婚約を解消したところで、主人公が聖女に覚醒しなければこの世界は悪魔に乗っ取られた王子に蹂躙されてしまう不安もぬぐえない。

 王子を救うことは自分を救うこととイコールだった。



 自分が何もしなくても三つ子が聖女になったら、倒せたら、世界は平和のままでカサンドラは別の人生を模索する余地もある『かもしれない』。

 でも世界の選択、その全ての一切合切を何も知らない主人公に委ねてヤキモキするだけなのが嫌だった。

 知らないならまだしも、未来を知っているのに何もできないことほど歯痒くもどかしいことがあろうか。


 だからカサンドラは王子を自らの手で救いたいと思った。

 ゲーム上の攻略対象でなかった王子をもしも真の意味で攻略できたのなら、違う未来が待ち受けているかもしれない。

 彼は間違いなく根幹の鍵たるキャラクターだ。

 何故なら、ラスボスとして主人公の前に立ち塞がる役割を与えられた人だから。



 何も出来ないまま、遠くで主人公達の選択をぼんやりと眺めているのは想像しただけでも嫌。

 無駄な努力だとしても足掻きたかった。

 少なくとも自分はそのラスボスの婚約者という立場で、誰に憚ることなく彼に接触できる唯一の立場の女性。


 ――ゲームに記述がない裏で彼に起こったことを紐解く役は、自分にしかできないことだ。


 王子を攻略することは、彼を悪魔に奪われることを未然に阻止する可能性を齎す。

 ひいては世界を救いカサンドラに未来をもたらすため。いわば『手段』であったはずだ。


 だが早々に、その手段は目的そのものに変わっていた。



 自分は彼に好きになって欲しいし、信頼されたいし、未来を一緒に歩いて欲しい。


 好きだから、救いたい。


 彼をどうしようもなく好きになってしまったから、同じように好きになってもらいたい。

 国や世界を救いたいなどという壮大な決意は、いつの間にか自分の恋心を成就させたいと言う矮小な欲に成り代わってしまっていた。


 自分は何と言う利己的な人間なのだ。


 「恋などしたことがない」という彼の独り言に――

 王子を救えないのではないかと言う焦りよりも、カサンドラの事を好きなわけではないと宣言されたことがひたすらショックで悲しかった。


 あくまで”自分が”悲しかったのだ。


 何と言うか、そんな自分勝手で欲深い自分に気づかされた事で、二重に落ち込んだ。


 彼のため。

 彼を救いたいだの言いながら、結局恋愛的な意味で好かれていないというだけでこの世の不幸を一身に背負ったような気になる自分の我儘さに呆れた。


 恋人じゃなくたって、恋愛的な意味で好きになってもらわなくたって。

 彼の傍にいることが出来れば、ラスボスにいたる契機を知るチャンスがあるかも知れないのに。


   

 ……なんで自分は、こんなに泣いているのだ。

 まだ何も始まっていないし、終わってもいないのに。

 恋が全てではないのに、彼の何気ない一言で”終わった”かのような絶望に包まれるなんて。


 本気で王子を助けたいという気があるのか? と、自分を叱咤する。


 王子の優しさに触れて喜んで浮かれて勘違いをして――勝手に絶望してアレクに泣きついている自分が恥ずかしくなった。 







「……はぁ、成程。

 姉上はご自身が現状、王子の恋愛対象ではないという事実に多大なショックを受けられたと」


「取り乱してしまって申し訳ありません」


 実際はそれだけではなく、浅ましい自己中心的な自分にもショックを受けてしまったのだけど。

 当然義弟のアレクに一から十まで説明できるはずもなく、婚約者に好きと思ってもらえない哀れな一令嬢という立場から現状をぶちまけてしまった。


 全く以て浮かれていた自分に呆れかえりはするものの、それはそれとして王子を好きであることは変わりはない。

 出来る事ならば彼にも好いて欲しいと思う素直な感情まで消し去ることは出来なかった。


「僕だって愛だの恋だのよくわからない感情なので何とも言い難いのですが」


 うーん、とアレクは腕組みをして宙を睨む。

 大きなガラス窓のお陰で採光が抜群の一階サロンはお茶会にしばしば利用しているが、アレクとこうして向かい合って話をするのは久しぶりな気がする。

 自室で学園内での活動状況を質問されるのは毎週の事だが、状況は全く違った。


 こちらの胸のモヤモヤを義弟にひたすら聞いてもらうという、彼にとっては迷惑極まりない状況だ。

 それでも根が真面目な少年は、彼なりに真剣な表情でしばらくの間考えをまとめているようであった。


「別に姉上に問題があるだとか、直接言われたわけではないのでしょう?」


 それはそうだ、と頷く。

 あくまでも彼の何気ない呟きに、カサンドラが尋常ではないショックを受けたというだけの話である。

 それで王子が何かをしたというのは責任転嫁も甚だしく、彼はカサンドラに対してネガティブな発言をしたとさえ思っていないことだろう。


「確か明日は王子と放課後お会いする日ですよね」


「そうですね……」


 更に頷く。

 彼がそのような詳しいことを知っているのは、水曜日に限ってカサンドラの帰宅が遅いせいだ。

 水曜日に入れていた音楽講師のレッスンを別の曜日に替えてもらった。そのようないつもと異なる行動をすれば彼も不思議に思うし、一応報告はしている。


 何度も思うが、彼はいくら銀髪碧眼の美少年とは雖も五歳年下の”義弟”である。

 ……他にもっと信用、相談できる親友でもいればよかったのに。


 生憎今まで十五年のカサンドラ人生で、そのような麗しい絆を持つ『他人』など存在しなかった。

 こちらは立場が上なのだからと常に上から目線のお嬢様と親友になってくれる奇特な幼馴染などいなかったのである。


 少なくとも、友人なんて馬鹿らしいと心底思っていたことだけは今でも覚えているわけで。


 あああ、身から出た錆が心を貫く。

 恋愛相談相手が身内の、それも義弟しかいないだなんて。


「王子の姉上への態度が変わったわけではなく、明日の約束だって変更や機会消失の打診があったわけでもない。

 ――今までの王子の言動等から察するに、姉上を疎んでいるとは到底思えませんし……。

 少なくとも、王子にとって好きか嫌いかの大雑把なくくりで言えば好きの線上に位置しているでしょう」


 客観的にそう思います、と彼は理知的な光を宿す瞳をこちらに向ける。

 その凛々しい顔立ちはカサンドラには頼もしく見えた。

 力強くそうだと言われれば、反芻するまでもなく納得できる。


「特に気にされることなく、今後も同じように接していかれればいいと思います。

 聞かなかったことにすればいいんですよ。

 まだ王子と実際にお会いして半年程度でしょう?

 全くの初対面から、現状まで仲良くなれたのです。

 きっと半年後はもっと仲良くなれているのではないでしょうか」


 それは楽観的過ぎやしないだろうか。


「第一――ジェイク様や王子に限らず、多くの男子は好きだ嫌いだなど。

 姉上のように常日頃から意識して生きていないと思います。

 自覚があるかないかだけの問題というケースもあるでしょうし、些細な言動にいちいち振り回されては疲れるだけですよ?」


 きっぱりと彼は言い切った。

 恋愛関係について考えたことがない、現状多忙過ぎて恋愛どころではない、そもそも自覚がない。

 男子の多くはそうらしい。本当か?


 他ならぬ男子の一員であるアレクに断言され勢いに呑まれそうになった。


 王子はまだいい。

 だが乙女ゲームという恋愛主体の世界、それも攻略対象として君臨するジェイクよりも恋愛脳で恋の事しか考えてない、と正面から斬られるのは釈然としないものがある。

 確かに自分は王子の事が好きなのは自覚しているが、生粋の恋愛世界の住人よりも花畑なのか……と、ちょっぴり衝撃を受けた。


 まぁ、主人公の三つ子も同じように好きだという気持ちを原動力に動いているようなものだと思うから、カサンドラだけではないはずだけど。


「アレクに尋ねたいのですが……

 実は王子はわたくしの想いに気づかれていて、好かれても困るという牽制の意味であのような独り言を――わたくしに聴こえるようわざと仰られたという可能性はありませんか?」



 全く以て考えたくない事だが、可能性として排除できるものではない。


 カサンドラの秋波に辟易していた王子が、もうこれ以上近寄らないで欲しいという精一杯の意思表示だったとしたら……?


 それは一大事だ。

 婚約者という立場にいても、彼が自分を必要以上に遠ざけるようになってしまっては何の意味もないではないか。

 ショックだなんて表現では表しきれない、あまりの事態に寝込むレベルだ。



「そんなこと、王子に何のメリットがあるのですか?」


「え?」


「仮に王子にその気がなくて姉上が慕うこと自体を牽制するような方だとすれば――

 婚約者だからと、今までドレスのアドバイスをしたりお見舞いに花をくれたり誕生日に一緒にデートしてくれるような行動に出る意味がさっぱり分かりません。

 円滑な婚約関係を維持したいと王子が望まれていてのそれらの行動アクションなのに、支離滅裂だと思いませんか?

 気持ちをわかった上、意図的な一言で姉上を傷つけては……今まで円滑にいっていた関係がご破算になっちゃいますよね。

 王子が何をされたいのか全く分からないんですけど」


 そうなると、カサンドラの想いを牽制し遠ざけたい思惑が王子にあったのでは? と思うのは早計か。

 流石に、そこまで鬱陶しがられているわけではないと信じたい……!




「姉上が不安になる気持ちは理解できます。

 ですが現状、姉上は王子と良好な関係を築かれていると僕は思っていますし。

 これからですよ、これから!」



 普段カサンドラに対し、年上とも思っていないような態度を端々に感じるアレク。

 今彼は、努めて明るく天井を指差しながら励ましてくれる。



「お互い、学園時代が終わってもずっと一緒にいる関係なわけですし。

 焦らなくてもいいんじゃないですか?


 ――大丈夫です、王子は逃げませんよ!」




 余程の事情、それこそカサンドラが浮気をしただとか犯罪行為を犯しただとかの理由で婚約を破棄されることはあるかも知れないが。

 そんな可能性を追う意味もない、現実に自分と王子は婚約関係にある。



 王子は逃げない、か。


 確かに入学当初を思えば、恋愛対象とは言わずともそれなりに親しく接してもらっていると思う。いずれは――という希望は煌々と灯っている。




 でも……

 あと二年半。

 いや少なくとも、ゲームのシナリオ通りにいけば次の年度には王子は行動に移ってしまう。


 アレクには言えないが、時間がない。

 あと半年……


 長く見積もっても、あと一年。



 アレクの晴れやかな笑顔とは真逆に、自分は王子を攻略しなければいけないという焦燥感に圧し潰されそうになった。






 ――心象風景が広がる。




 大きな大きな砂時計の中に閉じ込められ、さらさらとした細かい砂が頭上から降り注ぐ。

 腿の辺りまで、既に黄金の砂で埋まっていた。





 無慈悲に一定量ずつ降り注ぐ砂を掴もうとしても、開いた指の間から零れ落ちていくだけだ。




 僅かでも掴んでいるのではと己惚れていた彼の心のように――するりするりと掌から落ちていく。 

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