第190話 <リゼ>
日曜日はリタもリナも夕方近くまでアルバイトをしている。
奇妙な偶然ではあるものの三つ子はそれぞれ同タイミングでアルバイトを始め、今ではすっかりその事実に慣れてしまった。
リナはまだメイドのアルバイトから戻ってきていないので、先に帰宅したリタと二人で夕食を食べようと食堂に向かったわけだが――
突如リタは、左腕を怪我したなどと言うではないか。
決して深い怪我ではない、ただの擦り傷だと本人は言う。
だが診療所に寄った後で、包帯をぐるぐる巻きにして帰ってきた彼女の姿に面食らった。
「やっちゃったー」と能天気に失態を隠すように無駄に明るく笑う彼女の様子に、リゼの脳内で何かがぷつんと切れた気がする。
寮内の夕食の席だというのに、カーッと頭に血が上ってしまったのだ。
「リタ! バイト先の責任者、呼んで来なさい!」
バシンと両の掌でテーブルを叩く。
日曜の夕方という時刻でもあったので、幸い食堂内にいる人影はポツンポツンと疎らだ。
それでもリゼの剣幕に、ビクッと空気が揺れたことは確かである。
「え? ええ!?
何言ってんのリゼ?」
ぽかんと口を開けたリタのあっけらかんとした様子が全く解せない。
その人の好い様に一層苛立ちを感じた。
「入ったばかりのアルバイトに怪我をさせるような酷い仕事ってことでしょ!?
一体どんなところなのよ、私、抗議に行ってくる!」
リタは素直で人を疑うようなことのない性格の持ち主だ。
言われたことは理不尽な事でも遂行しようとするだろうし、彼女の体力の無尽蔵さはリゼも良く知っている。
きっと現場では使い勝手の良い駒として無茶な仕事を割り振られているのでは……!
そうに違いない、と目を三角に尖らせる。
そもそも物理的危険回避能力の高さは折り紙付きの彼女だ。
二階から突き落とされてもピンピンしている素の身体能力の高さの持ち主のリタを怪我させるなんて、一体どんな危険な現場だというのか。
お互いアルバイトの詳しい仕事内容なんて語り合うことはないけれど、怪我をするような内容なら話は別だ。
「大丈夫だよ、ただの擦り傷だし。
あ、打ち身がちょっとかな? しばらくしたら治るってお医者さんも言ってたよ」
リゼの勢いに呑まれ、彼女は若干背を仰け反らせる。
まぁまぁ、と両手を翳してこちらのクールダウンを促す彼女の気楽さも腹立たしい。
「こんな怪我をさせられて黙っていられないでしょ、ちゃんと責任者は謝ったの?
なぁなぁにしてないでしょうね?」
「仕事中の怪我じゃないから!
勝手に勘違いして暴走するのやめてよ」
そう言われると、リゼも上げた拳を引っ込めざるを得ない。
彼女が仕事でもないただの私的な時間に怪我というのも、中々考え難い事態ではあるのだが。
疑い深く、彼女をじろじろと眺めやる。
「バイト中でもないのに、あんたがこんな怪我をするって……
まさか街中に熊でも出没したの……? ちゃんと倒せたの?」
「熊に遭遇してこんな傷で済む程、私人間やめてないよ!?」
どうだか。
彼女であれば、熊の攻撃さえ軽やかに躱して急所に一撃叩き込めそうな気がする。
そんな超人扱いをされたリタは、怪我をしたことよりそちらの方が不満だったらしい。
完全にむくれてしまった。
妹の事を心配して激昂してしまったというのに不愉快そうな態度を取られてしまうとは心外だ。
リゼも口を真一文字に結んで唸り、再び席に着く。
※
隣に座るジェイクはノートに書かれた問題を解いた後、こちらを向いてぎょっと瞠目する。
「……なんだ、リゼ。
眉間に皺が寄ってるけど、何処か痛いのか?」
「え? いえ、別にそういうわけでは……!」
今日は週明け、ジェイクの家庭教師の日だ。
折角の待ちに待った放課後だというのに、昨日のリタとのやりとりが思い出されてしまった上に――顔にも表出していたらしい。
何と言う失態、とリゼは顔を赤くした。
彼が真面目に問題を解いている間、沸々と昨日の不満を募らせていたのだから大変失礼な話である。
でもリタが怪我をするシーンなど平和事だとは全く思えない。何らかのトラブルに巻き込まれてしまったのではと、未だにモヤモヤしている。
詳しい経緯はリナに聞いてもらうことにしているがそれまで想像しか出来ないのがもどかしかった。
ジェイクに対する”何もなかった”との釈明が信じがたい程、リゼは険しい表情をしていたのだろう。彼の怪訝そうな視線がチクチクと痛い。
もしもこの時間を過ごしていることが不愉快なのだ、なんてまかり間違って彼が誤解しては大変なことだ。
授業内容の疑問とは違うが、彼が不思議に思った事だ。
下手に取り繕うよりは、正直に答えようとリゼも横を向く。
「実は昨日、リタが怪我をしてしまいまして……」
そう言うと、彼もまた真剣な面持ちで身を乗り出す。
ペンを机の上に置いて、リゼとの距離を詰めつつ「何があったんだ?」と聞いてきた。
――しまった。
そう後悔したのは、彼が殊の外心配そうにリゼに向き直ったからだ。
……そういえば、彼は……リタの事に興味がある人だった。
今更ながらに大切な事を思い出し、歯噛みする。
二学期に入ってからはジェイクもあまりリタに話しかけることもなくなったけれど、入学当初から夏休みに至るまでずっと彼の興味はリタの方にあったと思う。
常にジェイクを見ていたからこそ、彼の視線の先を知っている。
そこに何度リタがいて、何度心に棘を感じたことか。
自分など全く眼中にないだろうという無関心ぶりも良く覚えている。
こうして家庭教師の大役を任せてくれることになってからはリタの事を意識することも少なくなったように見受けられるが……
やっぱりまだ気になるのだろうなぁ、と心の底に仄暗い感情が浮かんでは消えていく。
「気になります?」
自嘲気味な響きを含めて訊いてしまったのは、己の愚かさに自棄になったせいだろうか。
未だ
結局、どう足掻いても彼の目には自分は映らないのではないかと言う諦観もあっただろうか。
「ん? そりゃあ気になるだろ」
彼は不思議そうに首を傾げる。
きっと本人でさえリタへの想いに自覚がないのだと思うと、今の自分が滑稽だ。
自ら言い出したこととは言え、そうまで妹の事が気にかかるのかと何とも表現しがたい心境に陥った。
「そうですね。
ジェイク様って――リタみたいな子、好きなタイプでしょうし、気になるのは当然だと思いますよ」
やっかみが入っていたのか。
それともやけっぱちだったのか。
一度口に出した言葉は無かったことには出来ないというのに、つい……
カッとなって変な事を口走った己の迂闊さに気づき、瞬時に全身から血の気が引いていく。
彼は鳩が豆鉄砲を食らったように目を見開いて、言い知れない衝撃を受けた様子だったからだ。
言葉に詰まる、というか。
彼の動きが完全に固まったからだ。
これは自業自得の藪蛇だったのではないか!?
何も言わなければ自覚しなかった感情を、自分が口にしてしまったせいで……!?
これをきっかけに、彼がリタを気にかけるという気持ちを恋愛感情だと自覚してしまったら藪蛇どころの騒ぎじゃない。
地獄の窯の蓋を自ら開けたようなものだ。
「そりゃ、タイプかそうじゃないかって言われたらそうだとは思うけどさ」
彼の言葉に太い槍で心臓を一突きにされた心境、まさに致命傷。
余計な言葉を言ってしまった。
取り返しのつかない事を勢いに任せて口走ったのではないか?
うわぁぁぁ、と心の中で頭を抱えて蹲る。
「俺が気になったのは、あいつが怪我する状況が想像できなかったからだけど?
街に熊か狼でも出たのか?」
照れ隠しでも何でもない、彼の素の反応がそれだった。
一瞬、エッと拍子抜けだ。
しかも感想が自分と被っている……。
好きな人が怪我をしたから物凄く心配して詰問しているという切羽詰まった勢いは、今は感じることはなかった。
それをどう思えば良いのか、とリゼの心臓が蘇ると同時に一気に速さを増していく。
彼がリタに興味があったことは明白だ、それはずっと彼の姿を追っている自分だから断言できること。
でも今は、”そういう”意味での興味ではないのだろうか。
ただの友人の一人、クラスメイトの一人として接している……?
全身の筋力が弛緩していく。
気を抜くと、つい涙腺まで緩みそうになって焦った。
まさしく延焼中の家屋に水をぶっかっけることもなく単身突入した状態でも、何と無傷で生還するに等しい奇跡を感じた。
本来ならその炎に巻かれて焼死してもおかしくなかったのに。
「っていうか、お前に好きなタイプだなんだの概念が存在してたって事実の方が吃驚した」
なんだって?
と、耳がピクリと動く。
彼が驚いた理由がリタに関わることではなく、自分に関わることだとしたら……
リタ並みに物凄く前向きに考えるのであれば、彼は自分に多少なりとも興味があるという事ではないだろうか。
一気に心が躍りだしそうになるのを懸命に抑えた。
「もしかして、好きな男のタイプがあったりするのか?」
まさか当人からダイレクトに聞かれる事があろうとは、予測もしていなかった事態だ。
平静を装って彼を見つめながらも、内心では動揺してパニック状態だ。
何と答えればいいのか咄嗟に言葉が出てこなくて、思考が空転する。
返答するにしたって、まさしく貴方です、なんて言えるわけもない。
そんなことを言ったが最後、ようやく少しずつ距離を縮めて来た努力の一切合切が水泡に帰してしまうようで恐ろしかった。
今はまだ、尚早過ぎる。
異性だと思われていない、ただのクラスメイト、良く言って友人の段階で言われても彼も困るだろう。
恋愛事情に疎いリゼだって、彼が自分を現状告白を受け入れてもらえるほど特別に意識しているなんて――無神経な勘違いは出来なかった。
「前にも言った通り、私、今はそういう事を考えていないので」
絞り出すように出た答えは、もしも採点方式なら落第確実だ。
もう少し言いようがあるだろう、と自分の言葉に瞬時に頭の中で突っ込みを入れてしまう。
何かあれば剣の話だの食の話だの馬の話だの、それはとても楽しい時間だが全く色絡みの話題など二人きりの時に出た事などなかった。
リゼの方こそ、彼にそういう好きな異性がなんだという色恋沙汰に纏わる話題を口に出せる素地があるのかと衝撃を受けたくらいだ。
あまりにも動揺しすぎた結果、恋する女子としては考えうる限り最も可愛げのない返答しか出来なかった。
せめて、ジェイクの持ち合わせている特徴の一つや二つ願望を乗せて口に出しても良いだろうに。
全く興味などありませんが? という大変ドライな返答になってしまったことを心の中で悔やむ。
今更付け加えて何か言うのも不自然か。
「だよなー、吃驚した。
興味ないって前に言ってたんだし、そりゃそうだ」
彼は朗らかに笑った。
そうか、やっぱり彼の中では自分は全く恋愛ごとに興味のない乾いた人間だと認知されてしまっている……!
身から出た錆とは言え、何という事だ。
意中の相手にこの扱いは惨め過ぎる。
いや、ジェイクが悪いわけではなく、全て自分の日頃の言動のせいなのだけど……!
彼に出会わなければ、自分は未だ「は? 好きなタイプ?」と、聞いてきた相手を蔑みの視線で見下ろしていたに違いない。
リゼ・フォスターは確かに、恋愛ごとなどこれっぽっちも縁のないカラカラに干上がった恋愛砂漠の住人だったのだから…!
「え、ええと……何故ジェイク様が、私に”そういう”概念があるのかないのか気にされる必要が?」
だが、これだけは聞いておかなければいけない。
勘違いするも、がっかりするもこの返答次第だ。
彼の意図、真意を確認しなければ心が全く落ち着かない。
多少なりとも自分に好意があるのなら。
それ相応の反応、理由が聞けるのではないかと思った。
彼は嘘があまり得意ではなさそうだし本音が聞けるのではないかと。
正直ちょっと、期待した。
別に「わからない」という返答でもよかった。
無意識の内にでも、自分を女性カウントしてくれていたのだと思えるから。
「いやー、それがフランツの奴、お前に男を紹介したいから好きなタイプ聞いてこいとか無茶ぶりしてきてさぁ。
……前言ってた通り、そういうのに全く興味は無いから無駄だろうって断っとくけど、それでいいか?」
フランツさん!?
貴方一体、彼に何をさせてるんですか!?
フランツが何故かリゼの異性関係について心配してくれていることは言葉の端々から感じていたが……
まさかそんなお節介のど真ん中を突っ切ってくるとは思っていなかったので「ぎゃーーー!」と声なき声で叫ぶ。
「あ、ありがとうございます……?」
つい疑問形になったのは、今の状況がこの上なく辛い事態、べっこりと凹んでしまうものに他ならなかったからだ。
このままでは彼の中から自分という存在が、恋愛とは全く無関係の乾いた無性類もどきだと思われてしまう……!
何とかしなければと思うのだけど。
「では、お話はこの辺りにしましょう。
そろそろ次の設問を解いてください、ジェイク様」
現実に出てくる表情と言葉が、内心とこれほど乖離している自分がいっそ清々しい。
……いや、本当にどうすれば彼の認識が覆ってくれるのだろうか? と頭を抱えたくなるのは変わらない。
フランツの指摘通り、可愛げという言葉が欠片も存在していない自分がどうやって?
リゼにとっては、手を付けることさえ憚られる難問に等しい問題だった。
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