第188話 表面上の平和
役員会議を直前に控えた、金曜午後の選択講義。
週の終わりの金曜日は身体を動かさずに済み、疲れない座学を選択することにしている。
そんなカサンドラがこの日受けた地理の講座にたまたま良く見知った人物が参加していた。
「まあ、カサンドラ様!」
こちらと視線が合うやいなや、にっこりとやわらかい微笑みを向けてくれる深窓の令嬢、アイリス。
同じ生徒会役員のメンバーで一週間に一度は必ず話をする機会がある最上級生の先輩だ。
王子の婚約者ということで生徒会入りが決まっていたカサンドラに、入学前から生徒会のことについて詳しく教えてくれた張本人。
――彼女は前年度、書記という立場で役員幹部の立場を担っていた。
その業務の引継ぎの側面もあったのだが、今思えば良くあの頃の自分を邸に招待し親しく接してくれたものだと懐の広さに慄く。
本人曰く、未来の王妃候補と顔を繋ぎたかった思惑があったそうだが。
彼女なら優しく教えるフリをしつつもカサンドラが「仕事の出来ない子」だと周囲に印象付けることは可能だっただろう。
事前に事細かく、カサンドラが入学して困らない様に心を配ってくれたのは彼女の優しさゆえのことだ。
本人が思う程、腹黒いわけではない。こちらとしては彼女の親切心に大変救われたものだ。
前世の記憶を思い出した後の活動でパニックにならずにいられたのも彼女の指導あってのことだと思っている。
彼女が親しげに声を掛けてくると、カサンドラもつられて笑顔になった。
傍にいる人が常に気難しい人だと空気も重苦しくなるが、華やかでありながら麗しいという表現がぴったりのお嬢様。
アイリスが背景に百合の花の幻影を纏って声を掛けて来たので、自然と足がそちらに向く。
彼女の隣に三人は友人らしき女生徒の姿がいたのだけれど。
「申し訳ありません、皆様。私、カサンドラ様とお話がありますの」
彼女が心底寂しそうな顔で友人たちに告げると、彼女達は思い思いにカサンドラの姿をじーっと確認し――
スカートの裾を軽く抓んで頭を下げる。
「ではあちらに座りましょう」と物静かな雰囲気で歩く彼女達の姿を見送った。
「わたくしにご用事ですか?」
話があるのなら、生徒会室でいくらでも聞けると思うのだが。
友人らを退けるような真似をさせてまで、一体自分に何の用が!?
平然とした顔をしながらも、内心では冷や汗が止まらなかった。
するとアイリスは口元にそっと手をあてがい、クスッと笑んだ。
「カサンドラ様と同じ講義を受ける機会、今後そう何度もありませんもの。
良ければ隣に座って下さらないかしら」
二学期が始まったばかりと思っていたら、既にもう十月に突入している。
周囲の生徒は白い長袖のブラウスを着て登校しており、季節の移り変わりを如実に表していた。
そう、もう十月。
アイリスの残りの学園生活はあと半年を切ってしまったと言ってよく、学園に未練がない立場だとしてもふと物寂しく感じる瞬間もあるだろう。
カサンドラとしてはこの半年で色々な事が起こり過ぎて、本当に濃い半年だったと肩が重たい時もある。
このヤキモキした状態が自分の卒業まで続くのだとしたら胃が保つのか、その方が心配になってしまうのだけど。
そんな内心を吐露することは出来ないのでひとまず棚に置く。
「ありがとうございます、わたくしで宜しければ是非」
彼女の清涼な癒しオーラは王子に通じるものがある。
講師が来るまで雑談に興じ、流れでラズエナの避暑地の話をしたらケンヴィッジ家もそちらに別荘を持っているそうで。
来年お呼びしますねと喜色を浮かべて誘われ驚いてしまった。
ただ淡々と講義を聴くだけの時間だが、隣に彼女が座って真剣に講師の話を書き留める姿に感銘を覚えつつ――カサンドラも彼女に幻滅されないよう程良い緊張感を保って講義を受けることが出来た。
アイリスが卒業した後は彼女の腹違いの妹が学園に入学してくるという話だが、勿論ゲーム内では義妹達の存在はおろかアイリスの存在さえ出て来た記憶が無い。
ただ単にその他大勢のエキストラ要員、背景に過ぎなかった生徒達一人一人に当然のことながら込み入った背景があるのだ。
王侯貴族の子女が通う学び舎というのは、斯くも面倒な人間関係で構築されている。
ただの平民として何も知らずに飛び込んで好きなように振る舞って、しがらみのない三つ子の存在が異例なのだ。
身軽で奔放な彼女達に、攻略対象が物珍し気に思い関わりたくなる理由もわかる気がした。
カサンドラは王子を『攻略』しなければならない使命があるので、レンドール侯爵令嬢という立場から道を踏み外すことは出来ない。
あくまでも彼に相応しい人間だと内外に示す必要があった。
……だが過度なアピールも目に余れば排斥の動きを招きかねない。
アイリスのように既に周囲から認められた存在で在れば、いきなり噂話からマイナス印象スタートのカサンドラよりよっぽどやりやすかったのではないかなと思う。
これが所謂、ハードモードなのだろうか。
まぁ、それもこれも記憶を思い出す前の己の行いの結果なので誰も責められない。
粛々と講義を終え、最中に雑談に興じることもなかった。
口を互いに開いたのは昼休憩以来、実に二時間ぶりの事だった。
「カサンドラ様はお茶を淹れる事がとてもお上手ですよね。
何かコツでもあるのでしょうか」
「え、お茶……ですか?」
筆記具を仕舞いつつ、カサンドラは彼女の言葉に動揺する。
あれはコーヒーだったが、ジェイクにもそれなりに味を評価されているという事が分かったが。
今度はアイリスにまで褒められてしまった。
「ありがとうございます、ですが急にどうなさったのですか?」
「ふふ、きっとあの試食会のお陰ですわね。
食後にお茶を振る舞っていただきましたが、皆様首を傾げていらしたでしょう」
「そうだったのですか?」
カサンドラはあの日、皆がそれぞれどんな事を指摘しているのか記憶するのに忙しかったし、何より完全にコックたちが撤収するまでにどのような問題があったのかの聞き取り調査もあった。
皆が満腹になって満足し、食後の飲み物を淹れてもらっている時は周囲の様子を確認する余裕もなかった。
「私も物足りなく感じましたもの。
今後ホストとしてお茶会で手ずから淹れる機会も増えることでしょうし……
宜しければご教授願いたいものです」
「特別なことは何もしておりませんし、アイリス様の方が手順に忠実かと存じますが」
「いつもカサンドラ様のお手元を確認しておりますが、特別な事をしているようには見えません。
それが不思議ですわ」
多分、慣れの問題だと思う。
湯沸かしが大変ということを除いて、前世と目立って変わった作法は要らない。
貴族のお嬢様は普通使用人に淹れてもらうものだが、お茶会のホストとして女主人が振る舞う機会もあった。
それまでは母親が担ってくれていた役割を、今後は自分達がしなければいけない場面も増えてくる。
だから礼法作法ではお茶の淹れ方講座はとっても人気だそうだ。
お世辞かも知れないが、まぁ上手だと褒めてくれるならそれに越したことは無い。
不味い飲み物を一々褒める程彼女は嫌味な人間ではないのだ。
素直に頷こう、とカサンドラははにかみながら軽く頷いた。
その後は生徒会室に向かうまでアイリスと試食会の感想を述べあう。
出来る限り味付けを中央向けにしてもらっているとはいえ、好みに合わない味付けの料理もあって困った話だとか。
また、当日は収穫祭で纏う色をどんな形で持ち込むかなどの確認をする。
「……ジェイク様には言いづらいですけど、あの方みたいなカラーリングだったら何も準備しなくてもよさそうですよね……」
シリウスに収穫祭カラーと揶揄されイラっとして突っかかったジェイクだが、確かに彼の素はそのままで十分目立つ。
一々装飾などしなくても良さそうなのは、当日に限り楽だろうなぁ、とは思う。
するとアイリスは珍しく口元を押さえ、顔を背けて笑った。
赤と橙ですものね、と小声で肯定する彼女の脳内にも彼の容姿が想起されているに違いない。
生徒会室まで辿り着いた後、二人で和気藹々と一緒に紅茶を淹れる準備をする。
ティーポッドを暖め、白いツルツルの陶器を掌で撫でていた。
この滑らかな感触は結構好きだ。
じんわりと暖まって来たポッドの取っ手を掴もうとした時、生徒会室の扉が開かれる――ノック一つもなく生徒会室を暴く不遜な生徒はごくわずか。
その内の一人、シリウスが相変わらずの仏頂面で部屋の中央に入って来た。
「シリウス様、ごきげんよう」
「ああ」
アイリスの挨拶にも視線を合わせずに適当に返す。
別にアイリスだけというわけではなく、彼が出会うことを歓迎している人間がいるのか甚だ疑問な程誰に対してもこんな調子だ。
彼がにこにこ「こんにちは!」などと破顔したら別人成り代わり説と記憶喪失説の二つで言い争いが起こるレベルだと思われる。
「……カサンドラ、この間の資料の件だが」
彼は自席に着いてパラパラと紙面を捲る。
その厚みのない数枚の用紙は、遠目から見てもこの間カサンドラが彼の机の上に置いていった報告書であろう。
いきなり呼びつけられ、カサンドラの肩がビクッと跳ね上がる。
役員会議の始まりまでしばしの猶予があるが、真面目な彼はその僅かな隙間時間で不明点を詰めようとしているようだ。
こちらは折角アイリスと楽しい女子タイムを楽しんでいたのに……
隣に佇むアイリスに困った顔を向ける。
「準備の続きは私が引き受けます。
どうかお気になさらず、カサンドラ様」
シリウスの無表情とは全く正反対の優しい微笑みを心の中で拝みつつ、カサンドラは彼の傍に向かった。
相変わらず本やら資料が堆く積み重なる彼の机の上は、しかしあまりモノがないジェイクの机の上よりよっぽど整頓されている。
普段自分で片付けるということを知らない彼と同じにしてはいけないのかも知れないが。
あの人、騎士団の書類仕事を一体どうやって管理しているのだろう。
そんな疑問が浮かんでは消えて行った。
「何か不備でもありましたか?」
恐る恐るシリウスの机に近寄り、カサンドラは冷や冷やする内心を必死で隠しながら努めて平生通りであろうとした。
「不備ではない。
全体的によくまとまっていて、問題はないのだが……
試食会の時に、端的に言って”不味い”と表すしかないメニューがあっただろう。
ほら、これだ」
そう言って彼は資料の中の一か所を指差した。
カサンドラもそれに従い、目で文字を追う。自筆の文字を基に話をされるのは大変に気恥ずかしいものである。
「ああ、あの……魚の香草蒸しのことですね」
珍味と思えば、食べられなくはない。
だがいくら現地でしか採れない香草を使用しているとは言っても、不味いものは不味かった。
調理法のせいかも知れないが、ふにゃっとした舌触りと饐えた香りが交じり合った魚の身。
……味の好みは好き好きとは言え、この酸っぱさは受け入れられないとカサンドラも一口分けてもらって思ったものだ。さっきもアイリスと話していた口に合わなかった料理でもあった。
味の改善法をどう考えているか聞き取り調査をしたが、香草を別のものに変えるくらいしか対処法がないと言われた。
「フォズの地で珍重される材料を使うから意味がある料理なのだろう?
それを一般的に普及しているものに変えてしまえば趣旨さえ変わる」
「では別のメニューに変えてもらうのですか?」
「いや、これはもう『こういうものだ』と言う事で押し通す。
不味いが身体に良い薬膳とし、フォズ出身の生徒には予め説明して納得してもらえばいい」
「そうですね」
不味いものを進んで食べる趣味はないが、身体に良いと言われれば少しくらい我慢できなくもない。
本当に食べられない程拒否反応が出るものなら、グルメの揃ったあの場所で吐き出すものがいただろうがその惨事は回避できたのだし。
ギリギリ行けるか……?
「では担当のコックにはそのようにお伝えしましょう。
シリウス様はお忙しいでしょうし、明日わたくしが直接伺いますね」
来週の火曜日ということで日は差し迫っている。
明日すぐに料理人に話をし、試食会の時のもので良いと言わなければ……
そんな風に考えて空を睨んでいると、シリウスは急に眼鏡のブリッジを指で押さえながら小さく笑った――気がした。
大事な案件をカサンドラに任せられるかという嘲笑の笑みかと再びビクッとしたが、そういうわけではなさそうだ。
「本当にお前は、事前の調査と比すべくもない。
随分と人が変わったようだが……」
流石宰相の息子と言うか、シリウスというべきか。
ジェイクやラルフはカサンドラに対して噂以上の興味は無かったように思う。
が、事前調査ということはしっかりと”裏”もとった上でカサンドラは王妃に相応しい人間ではないと確信を抱いて接していたというわけか。
レンドールという地方のお嬢さんの事を、王妃候補だからと人員を割いて調査して。
そして自分は明らかに不合格――だったのだろう。
「学園に入ってからというもの、調査書とはまるで違う様子に驚いたものだがな。
……己の生きざまを変えてまで王妃という立場に拘るか」
「シリウス様、それは……」
「ああ、アーサーに気に入られたいということか?
大して変わらん。
どちらにしても――滑稽な事だ」
王子の傍にいるための自分の行動が、彼に気に入られようと必死で己を偽って媚びへつらっているように見えているのだろうか。
「……………だな。」
彼が微かに呟いた言葉を上手く聞き取ることが出来なかったのは、激しく心が動転していたせいだ。
王子に善く思われたいと思っていることは事実で、そのために真面目に学園生活を送っているつもりである。
人に後ろ指をさされるようなことはしていないつもりだ。
それなのに、シリウスの目には似合わないことで足掻いて滑稽な姿にしか映っていないということ。
別にシリウスに好意をもってもらいたいわけではないけれども。
そう面と向かって言われれば、ズキッと心が痛む。
どう返答すれば良いのか固まっている内に、扉の向こうから役員達が順繰りに入室してくる。一気に人口密度の高くなった部屋の中、こっそりとシリウスの傍から離れた。
……彼の自分を見る目は、変わらないのだろうか。
それは仕方のない事だけど、モヤモヤが渦巻く。
媚びているわけではないのに彼の目にはそう映るのか。
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