第180話 キーパーソン
王子との約束の放課後、午後の講義が終わった後シリウスに捕まったカサンドラ。
役員会の話を聞き、その後彼目線での指摘を受け時間を取られてしまった。
それだけの大変にシンプルな事情なのだが、王子を待たせていたことは大問題だ。
まさかの寝顔を見ることが出来た事を幸運に思う、そんな場合ではない。
滅多に見れる光景ではないことは確かだが、彼がここで待機したまま居眠りをしてしまう程長時間待たせてしまったのかと罪悪感に押しつぶされそうだ。
チラっと腕時計の時間を目で確認したが、王子が待機してくれていたとしていつもの時間を考えるなら十分程度か。
「長時間お待ちになられたのではありませんか?」
お互いに面と向かって頭を下げ合った後、言葉が途切れる。
おずおずとカサンドラが王子に問うと、彼はまだ頬の端っこを赤色に染めたまま。
カサンドラ同様、自身の左手首に視線を遣った。
「いいや、時間は全く経過していないようだ。
今日は良い天気で、つい目を閉じてしまったから……
カサンドラ嬢が遅かったからというわけではない、それは本当の事だ」
本当かどうか定かではないが、それを追求したところでお互いに得るものもない。
カサンドラは引き下がる他なく気まずい表情のまま視線を伏せた。
「ええと、その……王子はとても、お疲れなのですね」
躊躇いがちな言葉を口の端に乗せると、彼は微笑んで首を横に振る。
いくら木漏れ日が心地よいとは言えたった数分でうとうとと意識を手放すなんて相当疲れている証拠では?
以前チラっと垣間見た彼専用のスケジュールの豆粒のような文字を思い出して心が痛んだ。
王子は一つ隣のベンチを掌で指し示し「どうぞ」と勧めてくれた。
時間がないからこのまま帰宅すると言われたら大変ショックで、否が応でもシリウスを恨んでしまったかも知れない。
僅かでも彼と話をする時間があるというのなら僥倖だ。
今後、水曜日は即座に席を立って講義室を出ようと心に強く決めたカサンドラである。
失礼します、と一礼をした後隣の二人掛けのベンチに腰を下ろした。
鞄を空いたスペースに置き、ふと左隣に座る王子の横顔を眺める。
まだ僅かに照れの残る様子ではあったが、端麗な容姿の王子が表情をそのように緩めるというのは大変インパクトがあるものだ。
勝手に心臓が忙しくなる、こちらのせいで王子を待たせてしまった事実を脇に置いて嬉しく思ったりするのは良くないことなのに。
「急に曜日を変えてしまったことで、ちゃんと伝わったのか自信がなかったものだから。
今日は早めに足を運んでしまった」
あの時は騒々しかっただろう? と彼は苦笑する。
先週の役員会後のジェイクとシリウスのやりとりはパッと思い出せるような騒々しいやりとりであったし、気も逸れる。その時に曜日変更の打診があったのだ。
手紙には今週お話出来ることを楽しみにしているとは記したものの、水曜日だと明記はしていなかったかも知れない。
成程、王子はとても几帳面で約束事には拘る性格なのだと改めて知れた気がする。
「こちらこそ、講義が終わった後手間取ってしまいました。
……少々思案しなければいけないことにも気づかされ、こちらにお伺いすることが遅れてしまったこと、甚だ申し訳なく思います」
「カサンドラ嬢も多くの生徒から頼られて相談を受ける身の上だろう。
何事も時間通りに進まないことは私も重々承知しているよ、それにいつも私が待ってもらっている側なのだから」
決して人を責めることもなく、いつも暖かみのある言葉を向けてくれる。
今日の事は確かにお互いにそう気に病むような事態ではないかもしれないが、もしも――本当にカサンドラが彼に対して不愉快に思うような行動をとってしまっても。
彼はこうやって平気な顔をして”いいよいいよ”と微笑んでくれるのだろう。
親しき仲にも礼儀あり。
親しい人ほど約束や時間に疎かになりがちだが、きちんと守らなければいけないもの。今後も肝に銘じなければ。
何をしても許されるだなんて勿論思ってはいないが、いつか王子に対して取り返しのつかない大失態を演じてしまいそうで体の深奥が冷える。
「何か悩み事でも?」
俯き加減になってしまったせいか、自分が何か落ち込んでいるのかと勘違いさせてしまったようだ。
悩んでいることは悩んでいるが、結局は自分自身の問題だ。
対人関係のやりとりをいくら相談したところで、王子が自分に成り代わって相手をしてくれるわけではない。
この学園という狭い社交の世界でさえ、上手く掌握できないなんて――
次期王妃として適性がないことだと思われるのも非常に困るので、焦った。
「王子にご相談いただく程のものではございません、些細な事ですから。
ああ、お礼を申し上げる事が遅くなりました!
……わたくしの誕生日にお城を案内して下さったばかりか、このような贈り物までありがとうございます」
何はともあれ、まずはお礼を言わなければ。
誕生日以後、こうして面と向かって二人で話をするという機会もなかった。
同じ教室にいるのに会話をする機会がないと如実に物語る状況だが、大勢の前で公然と話をする機会より。
僅かな時間でも、こうして二人で話が出来る時間がある方が良い、とも思う。
傍にジェイクだラルフだシリウスだ、と。
彼らが控えていると思うと、何とも言葉選びに逐一緊張が走ってしまう。
そんなストレスフルな状態で王子と会話をするのは疲れてしまうもので。
「こちらこそ、誰かの誕生日を自分が企図して祝う貴重な機会を得たよ、ありがとう。
楽しんでくれたなら良かった。
……本当は後に残る物をプレゼントするのは、君にとって気が引けるものではないかと最後まで迷ったのだけどね」
そう言い、彼はカサンドラの左手を飾る真新しい腕時計を一瞥した。
彼の蒼い目に捉えられ、左手がビクッと震える。
贈り物に何が欲しいかと問われ、その回答として王子と一緒に過ごしたいと提示したわけだ。
その上で実際に贈り物をもらってしまっては、プレゼントの二重取り。
「大変畏れ多い事と恐縮致しました。
ですが王子のお立場であれば、その……観劇場でのわたくしの回答が浅慮であったと今になれば思います」
いくらカサンドラが物は要らないと言ったところで、普通の人なら案内だけして「じゃあね」と手を振って終わりなど出来ることではない。
お礼は要らないと言われてもシンシアに対して何かの場を設けたいと自然とカサンドラが思ったように、「そうは言っても」というケースは多々あるものだ。
だからカサンドラのように物を指定されたのに別のシチュエーションを強請る方がどうかしている。これもまた反省要素だ。
その後、カサンドラは当日の皆での合奏を聞けて楽しかった事。
自分も参加出来、その上ラルフの超絶技巧の奇想曲まで実演してもらえて驚いたことなど一通り声を弾ませる。
彼はその間とても穏やかな表情で話を聞いてくれ、それはあの誕生日の続きを体験しているのではないかと言う和やかな時間だった。
王子の声はとても聴き心地が良く、話に割り込んでくることもなく。
一頻りこちらの話を最後まで聞いてくれ、相変わらず聞き上手だなぁと思うばかりだ。
カサンドラの声が潜み、話過ぎたとばかりに己の胸元に手を添える。
呼吸の状態を静かに整えていると、王子は再度時計で時刻を確認し始めた。
――その仕草が意味するものを、カサンドラは厭と言う程知っている。
「折角カサンドラ嬢と会えたのに名残惜しいことだけど、そろそろ向かわなければ相手を待たせてしまう」
「今日はお待たせしてしまい大変申し訳ありませんでした。
今後お疲れでいらっしゃるならわたくしのことは気になさらず、どうかお部屋でお休みになって下さいね」
「ありがとう、だけど疲れているわけではないから大丈夫。
急に涼しくなって、陽射しも優しくなってきたからね。とても静かだし――
ここは格好の午睡場所だと思うよ」
彼は立ち上がり、笑顔を見せる。
でも自分が放課後に話が出来たらという初対面の頃の”我儘”を未だに律儀に叶えてくれようとしているのだとしたら。
自分は彼の時間をただ単に拘束しているだけに過ぎない。
何かしら彼に有益な情報を渡せるわけでもなく、雑談に興じるだけだ。
去って行く彼の後姿を見ながら、心がぎゅっと痛くなる。
王子があまり教室内でカサンドラと接触しようと思わないのは、周囲の貴族達の目があるからだろうか。
実際はどうか知らないが、カサンドラが王子の婚約者であることに反感を抱いている層があるのかもしれない。
彼女達をあまり刺激しないよう、敢えて距離を置いているという可能性も考えられるのではないか?
カサンドラの王妃候補としての立場がもっと盤石になれば、教室内でも普通に話をすることができるだろうか。
そう思うと、シリウスの言葉が依然重みを伴いカサンドラに覆いかぶさってくる。
※
「学園内の派閥……ですか?」
その日の夕食、浮かない顔をしているとアレクに目敏く質問攻めにされてしまった。
姉という立場でこんなことを相談するのもどうなのかというなけなしのプライドが抵抗したが、自分一人で考え込むよりも誰かに悩みを共有して欲しい。
そしてこんな悩みを共有してくれる存在など、この世界でも何人もいるはずがない。
カサンドラの口も緩む。
「レンドールは侯爵家、そして南部領を治める大貴族だという事は理解しています。
ですが中央の方々から見れば、やはりわたくしは王子の婚約者として不適格だと思われているのではないかと」
彼女達は身分、そして国王に対して大変従順だ。
己の立場が王政によって保持されているもので、それに逆らうことは自らの首を絞めるものと理解している。
だから内心どう思っていてもカサンドラが侯爵家の令嬢であり、王子の婚約者であればあからさまに反抗することは無い。
従順に諂うし、道を開けてくれる。
だが”面白くない”という感情までも縛り付けることは出来ない。
歓迎されない存在であれば、今後王宮に入った後の社交界で苦労するのはカサンドラだとハッキリ言われればその通りだと頷く他なかった。
見た目だけでも従順であれば善し、と割り切れれば問題はないかもしれない。
だが味方の殆どいない状況は厳しいと思う。
特に中央貴族に反感を抱れると諸々やりづらいし、かといってカサンドラと同じ境遇の地方貴族を蔑ろにしては地方自治に多大な影響を及ぼしかねない。
……冷静に考えれば考える程、「王子の婚約者になってラッキー!」なんて浮かれている場合ではない。
「不適格ならそもそも国王陛下が婚約話を受諾するはずがないでしょう。
いくら消去法まがいな状態で選ばれたのが姉上とは言え、王子ですよ、王子。
その気になれば御三家の方々がいくらでもお相手を見繕ってくるでしょうし」
「今のままでも表面上問題が起こっているわけではないのです。
ですがこのままどなたともつかず離れずでは、今後不利益になりうるでしょうか。
アレクはどう思いますか?」
そうですねぇ、と少年は一旦食事の手を止め、瞑目した。
「姉上もお考えだと思いますが。
……手っ取り早いのは、御三家周りの”頭”を抑える事でしょう」
それはジェイクやラルフ、シリウスという本家の嫡男ではない。
学園内でそれぞれに与する派閥の中で、最も中心的な存在として派閥の令嬢を従える女生徒と親しくなるのが最も早い。
「……そう、ですよね……」
言うは易し、行うは難し。
カサンドラも思わず渋面になってしまうほど、胃の痛い話ではある。
だが間接的に中央の貴族令嬢からの信認を得ようと思えば、彼女達と敵対するなど愚の骨頂。
逆に良好な交友関係を築くことが出来れば、自ずとシリウスが懸念するような事態は起こらなくなるだろう。
「ちなみに、各派閥のキーメンバーってどなたなんです?」
「……ヴァイル派に関してはアイリス様でしょうか。
ですがどちらかというと取り仕切っているのはキャロルさん……?」
アイリスとは懇意にさせてもらっているが、彼女の場合はカサンドラと同じ考えなのか実際に派閥を作ろうと画策したわけでもないようだった。
ケンヴィッジ侯爵家の総領姫としての立場だけではなく、その人柄人徳によって一目置かれる裏ボスのようなものだ。
女生徒版王子と表現しても差し支えない。
彼女に関しては派閥間を越え、数多の女生徒に慕われている。
そう、彼女のような姿こそまさしくカサンドラが目指すものだった。
表だってヴァイルの令嬢を一睨みするのは上級生のキャロルという名の伯爵令嬢。
来年度以降、アイリスが卒業した後は彼女が名実ともにヴァイル派の女生徒を統率することになる。
彼女に反目されたら大変厄介だ。
「ロンバルド派はミランダさんでしょう、エルディム派はシャルロッテさん。
……ハッキリ言って、あまり親交が無い方ばかりで」
ふふ、と暗い影を背負う。
お茶会やガーデンパーティに中央貴族を招待したことがあると言っても、同学年やクラスメイトを招待するばかり。
もしくは親しくしてくれているアイリスか。
派閥を率いて三すくみで睨み合う上位貴族の彼女達を招待するきっかけも中々ないというものだ。
例えばミランダを招待したことを知られれば、他の二人は「はぁ?」と眉を顰めることだろう。
だが三人同時に呼ぶなんて自殺行為だ。間に挟まれて胃が壊れる。
三つ巴の勢力の中心人物を一堂に集めることが出来ればそれだけで尊敬される偉業だとも思う。
「何かの機会に、その三名をここに招待するというのが手っ取り早いような気がします」
アレクの言う通り、それぞれの派閥に属する貴族の令嬢を一々捕まえて親し気に振る舞っているだけではらちが明かない。
やはり隗からアプローチするのが効率的なのだが……
「その機会が全く思いつかないのです」
そう考えると自分の誕生日は大きな理由付けなく、堂々と彼女達を自宅に招待するチャンスだったのか?
一年に一度しかない一日を逃してしまった――だが、王子との時間の方が大事だ、これはもうしょうがない。
「はぁ、アイリス様は凄いです。
入学した当初から生徒会の一員で、ミランダさんともお話が出来る仲で。
シャルロッテさんと親交があるのかまでは分かりませんが」
彼女が王妃候補と選定されていればカサンドラに太刀打ちできる要素などなかった。
様々な事情で自分が選ばれたという事になるが、カサンドラでさえ良く知らない上の方の事情を他の令嬢が知る由もなく。
だから「なんでレンドールが」と言う声が上がる可能性だって決してないわけではないのだ。
「そうですね、僕も簡単に言ってしまいましたが社交関係など一朝一夕でどうにかなるものではないですよ。
いきなり姉上が仲良くしてください、なんて下手に出るのも逆効果でしょうし。
ですが僕個人としては、その三名のお嬢さんたちと親しくなれれば解決する問題ではないかと軽く考えてしまいますね」
やや歳の離れた義弟、アレク。
この年齢で大変に目に麗しい美少年ぶりを発揮する彼の姿を対面で眺めながら、カサンドラは小さく嘆息をついた。
ミランダ、キャロル、シャルロッテ。この三人の伯爵令嬢の中では、まだミランダが一番会話をしたことがあると思う。
だがその会話した機会というものが、リゼの噴水水攻め事件という当事者各位が見事に思い出したくない出来事なのが困る。
アイリスに相談してみるか。
それとも、ジェイクの方から話を通してもらってミランダと接触するか。
どのみち一足飛びに関係が良化することはない。
シリウスとてすぐに結果が出せるなんて思っていないだろう。
これは三年間の学園生活でのカサンドラに背負わされた逃れ得ぬ”課題”なのだ。
攻略対象との関係性がやっと安定してきたかと思ったら、今度はこっちか。
儘ならないものだなぁ、と独り言ちた。
でも王子の足手纏いになりたくない。
彼の助けを得ずとも自分は学園内で確固たる立場を築けるのだと証明しなければ。
――これからも婚約者のままでいられるように。
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