第179話 衝撃は二段構え


 月曜日の放課後に王子と会えなくなってしまったことに、その当日は大変ガッカリしたものだ。

 予め相談を受けているとはいえ、一学期からずっと毎週のように楽しみにしていた時間が空白になるのだから。


 ただ、過ぎてみれば一日、二日などあっという間の時間である。

 月曜、火曜と一日千秋の想いで待ちわび、中々過ぎない体感時間に溜息の連続だったけれども、実際に水曜日の午後になれば今まで予定が無かった水曜日が薔薇曜日に変わっていく。

 毎週水曜日はヴァイオリンの講師を呼んでレッスンを行おうかとアレクに話を持ち掛けていたけれど、王子との約束があるなら別の曜日にズラして来てもらおう。


 貴族の子女ともなれば、学園の授業や講義以外にも習い事に従事している者は多い。

 特に寮で生活しているお嬢様など殆どおらず、別宅や親戚宅から通っている者ばかりだ。つまり自分達には放課後完全にフリーな時間で過ごせる、奔放な学園生活など望むべくもない。

 お嬢様はお嬢様で、カサンドラのように家族親戚の監視を受けながらの学園生活なので私生活は厳しいものだ。


 水曜日の午後の講義が終わったら、すぐにいつもの中庭に向かって王子を待とう。

 必ずしも王子と話が出来るわけではない――ずっとそんな予防線を張っていても、おおよそ王子と顔を合わせて楽しい時間を過ごしていたのだ。

 当然期待は高まるし、気合は十分だ。


 誕生日に王城を案内してもらった事を真っ先にお礼を言って、と。

 そんな風に胸を躍らせているカサンドラは午後の講座、歴史学を開く講義室に足を運んだ。


 だがしかし。


 うっ、と息を詰まらせ顔が引き攣りそうになったのは……


 講義室の前方で、数人の女生徒に囲まれながらもしれっと無表情で適当な受け答えをしているシリウスの姿が視界をドンと占領したからだ。

 あんなけんもほろろな冷たい対応のシリウスに、よくもまぁきゃあきゃあ楽しそうに話しかけられるものよ。

 彼の対応が温かいものではないことなど、誰もが先刻承知。

 だが話しかけても決して冷たい言葉で遠ざけるわけでも、実力行使で黙れと怒られるわけでもない。


 笑顔はないが、そんな冷静でクールなところが騒々しくなくて好ましいと思う女生徒もいるわけだ。

 何せ眼鏡を掛けていてもわかる美形。

 眼鏡をとったら超美形だ。



 ――もしもカサンドラが庶民の生まれだとしたら、この青年と街ですれ違っただけで伏して拝みたくなる容姿をお持ちである。



 ジェイクやラルフのように友好的とまで言わずとも、もしかしたら他の令嬢を出し抜いて仲よくできるかも知れないと吸い寄せられるように近づく女生徒も中にはいるだろう。


 彼に話しかける令嬢達を横目に、カサンドラは出来る限り離れた場所に腰を下ろすことにした。

 出来れば彼に存在を認知されたくないと心から願うカサンドラだったが、残念ながらそういうわけにはいかない。


 カサンドラもこの学園では有名人の部類に入り、目立って近寄る生徒はいないにせよ遠巻きにヒソヒソと噂されることは常であった。

 ゆえに、一度も振り返ってカサンドラと目を合わせることもなかったシリウスでも――



「カサンドラ、お前もここ講義を選択していたとは丁度良い。

 ……話がある」


 講義が終わる鐘を聞き届ける前に、そそくさと後ろの扉から退出しよう。

 そう思っていたカサンドラの逃げ道を塞ぐように、前方より発された彼の声に絡めとられた。


 もしも廊下側の列に座っていたら逃げ切れたかもしれないが、ついいつもの癖で窓側に座ったのが敗因だったか。

 でも自由に席を選べるなら景色を見渡せる窓側の端っこに座りたい。


 彼がカサンドラを名指しで呼び留めると、教室にいた女生徒達が怯む。

 若干恨みがましさを帯びた視線を一身に受け止めながら、カサンドラは努めて笑顔で頷いた。


「何でしょう、シリウス様」


「今週末の試食会の事だ、二三確認したい」


 私用などあるわけがないと分かっているが、やはり生徒会の用事かと内心歯噛みする。

 出来れば別の日にして欲しかった。

 こちらの心は既に王子が来るだろう中庭に飛んでいる。


「畏まりました」


 だが用事がありますので! と逃げるように去って行く選択肢は無い。

 一体何の用だと突っ込まれる方が面倒だ。


 彼はとても真面目で勤勉な生徒だ、シリウスが生徒会の用でカサンドラを引き留めたのだと分かると名残惜しそうに周囲の生徒も捌けていく。

 出来るだけ早く話が終わりますようにと祈りながら、彼の話に耳を傾けることにした。


 普段あまり口数が多くないシリウスも、仕事のこととなると話は別だ。

 話しかけたくない相手でも遠慮せず長話。それは一学期の時から変わらず、日常カサンドラを視界に入れたくもないと避けるような動きをしていた彼も生徒会のこことなると何処でも呼び留めてくる。

 勿論、話が終われば剣呑とした表情となり、話は即座にお開きだ。


 気を遣って長口上の挨拶をしたり、雑談で機嫌を取る必要もない。

 だから王子の事が頭の中を占めていても、シリウスの話に付き合うことにしたのだ。

 下手に抵抗し逃げ出すより、ササッと用件を把握して解放された方が良いと。


 それはカサンドラにとって合理的な判断であるはず、だった。





「確認事項は以上だ」 


 淡々と告げるシリウスにホッと胸を撫でおろし、手元のメモからカサンドラは視線を上げる。

 だがホッと安堵したのもつかの間のことだった。

 ここで予期せぬ事態がカサンドラを襲う。


 他に人っ子一人いない、講義が終わった後の一室。

 窓の外には大勢の生徒が迷うことなく外門へ向かい、帰路へ着く。

 大過なく終わった一日に感謝し代わり映えのない明日という日常に備える学園の生徒達の雑踏が、二階の窓から微かに聞こえた。


「ところで、カサンドラ」


「……はい?」


 思わず目と耳を疑った。

 今までであれば、以上だ、と言う言葉が出た直後に彼は自分への興味の一切を失ったかのように視線を逸らすはずでは?


 渋々話をしてやったのだと言わんばかりの態度だが、逆に無駄のないやりとりの方が心情的にありがたいものだ。

 腹に一物も二物も抱えたまま、適当な雑談でこちらの情勢を探られる方が焦ってしまう。


 いつもならこの一言で解放されるはずだ。

 そう思い込んでいたがゆえ、カサンドラは我知らず返事の語尾のイントネーションを失敗してしまった。

 誤魔化すように引きつった笑みを浮かべた自分の顔は、まごう事なき愛想笑いなことだろう。


 彼は僅かに眉間に皺を寄せ、眼鏡の位置を人差し指で直した。


「先週の土曜日、クラスメイト二人を自宅に招待したのだな」


 馬車で二人を送り届けてくれた時の話か。

 先週末のシンシア達を自宅に招いてのお茶の時間を思い出す。とても楽しい一日で、肩の力を抜いてリラックスした時間を過ごせたと思う。

 

「はい、その節は大変シリウス様に感謝しております。

 リナさんもシンシアさんもシリウス様に助けていただきお礼を仰って――」


「それはどうでもいい」


 ピシャリ、と彼はこちらの言葉の続きを遮る。

 シリウスの冷たい容赦ない視線に晒され、カサンドラもぐっと喉を詰まらせた。

 一体何が彼の機嫌を損ねたのだろうと焦る。


「お前のやることに一々疑義を差し挟むつもりはなかった。

 ……だが、少々目に余る」


 彼の黒い双眸がこちらを真っ直ぐに射抜く。

 不愉快そうな顔を前にし、冷や汗が背中を伝い全身が震えた。


「他の生徒と交流を持たないやり方を選ぶ、それもお前の自由だからな。

 だが、いくらクラスメイトとは言えあのようなもの達ばかりを相手にするのは感心出来ることではない」


 あのような――つまり、貴族の令嬢ではない庶民にばかり傾注している事が目に余ると?

 彼が身分のあれこれについてカサンドラに直接物申してくるのも意外で、その予想外の出来事に正解の返答が思い浮かばず意味もなく口を開閉させ視線を床に落とす。


「それは……」


「お前は王妃になる心づもりがあるのだろう?

 ……アーサーのように社交的に振る舞えなど無茶は思わんが、口先だけで行動が伴っていない人間があいつの傍をウロウロされてはな。

 黙って見過ごすには不愉快だ」


「お言葉ですが、シリウス様。

 わたくしは決して、他の者を遠ざけているというわけでは」


「平民と親しくなるなとは言わない。

 だが、お前が本来相手にしなければいけないのは『そういう』層ではないだろう」


「………。」


 そこまで言われる程の事とは思わない。

 カサンドラだって、三つ子や現在親しい生徒だけではなく他の派閥の女生徒もしばしば家に招いたり招かれたりという、つかず離れずの関係性を維持していると思う。

 彼女達と深入りしてしまえば、その人間関係のいざこざに突き当たることもあるだろう。

 三つの派閥それぞれに平等に、誰にも不満を抱かせることなく接するのは難しい。


「次期王妃と言う事で表立って反抗する者もそうそういないだろうがな。

 贔屓も過ぎれば、余計な反感を買う。

 学生の間は取り繕えるものかもしれないが、今のまま社交の世界でそれなりに振る舞えるのか? 少々どころではない疑問が残る。

 アーサーの婚約者というだけで浮かれ、やるべき事を疎かにしているようにしか見えない」


 別にそういうつもりはなかったのだけど。

 たまたまあの日はシンシアへのお礼の席を設けたというだけで、日頃彼女達だけと親しく過ごしているわけではない。

 でも実際にカサンドラ邸に遊びに来ようとした二人を家まで送ってくれたのはシリウスだ。休みの日までいつも彼女達と過ごしているのかと誤解されたのだろう。

 ここで「たまたま」だと言い訳をしても彼の心に訴えることは出来ないに違いない。


「……ご忠告痛み入ります。

 身の処し方について、改めて見直したいと思います」


「庶民派王妃を気取るのは容易いが、あれは『基』があってのことだ。

 お前がそうそう先代のような真似が出来ると思うな」



 媚びを売れとは言わないが、気位の高い彼女達を掌握するだけの”強かさ”は必要だ。



 やれロンバルド派だエルディムだヴァイルだ、と。

 御三家に連なる貴族達の人間関係は確かに難しく、不用意にどこかに近づけば他派閥からの圧を受けることは明白。

 それでも今は学園生活という閉ざされた環境だから綻びが出ない様に取り繕えても、卒業して本当の社交界にポンと放り出された時を想像すると、確かに現状は心許ないかもしれない。


 他にもいる多くの貴族おとな達に呑まれないよう、信のおける味方を増やすのは大事なことだ。

 言われてみれば、アイリスとは仲良くしてもらっているが来年は卒業していなくなってしまう。第一彼女だけ仲良くしていると認識されれば、良く思わない生徒もいるはずだ。

 


 言いたいことを言うだけ言って、彼はスタスタと講義室を出る。


 

 カサンドラは額を押さえて呻り立ち尽くすだけだ。


 これはシリウスなりの激励の一つなのだろうか。

 本当にどうでもいいなら、遠くからカサンドラの失態や失脚する様を眺めていればいい、こちらの困っている姿に「それ見た事か」とほくそ笑むだけでいいのだ。

 わざわざ彼らしくもない「ところで」なんて接続詞を使い忠告めいたことを話すくらいは、カサンドラの身の振り方に意見があるというわけで。



 落ち込むけれど、決してそれだけで終わってはいけないことだ。


 ……落ち込むけど。

 誰だって面と向かってシリウスに駄目出しされれば落ち込むと思う。



 そもそも三つ子と仲良くするのは今のカサンドラには命題のようなものだ。

 彼女達の動向を伺い知ることは、この世界の方向性、明暗を知ることでもある。


 いざと言う時に聖女の素質を持つ彼女達の力が必要になる可能性、そして主人公であるがゆえに――この世界の運命の起点は彼女達の傍に在る。

 運命力とカサンドラが常日頃思う不可視の引力は、その必然性を表しているはずだ。


 でもカサンドラはこの世界の現実に足を着け根を張る貴族の令嬢。

 そんな言い訳は他の人には通用しない。



 王妃となる未来か。

 正直、シリウスに今後についての指摘を受けるとは思わなかった。




  そんな未来が訪れるとしたら、この上なく幸せだろうな。




 でもそこに至るまでの不安要素は、何一つ解決されてはいないのだ。


 儘ならないものだな、と肩を落としてしまう。


 同じ学園の生徒である高位貴族令嬢達を今後の味方に……

 味方……?


 今まであまり親しく話したことのない令嬢達の姿をザッと脳裏に呼び起こすが、寝首を掻かれる想像しか出来ない。

 アイリスの聖母のような優しさは奇跡の賜物なのだと今更思い知ったカサンドラである。





 ※

 


 

  

 大変だ、あまりにも衝撃的な出来事に遭遇したせいで王子との約束のことが抜け落ちてしまっていた。

 情けない話だが唐突なシリウスの話に動揺して、立ち直るのに少々時間を要したのが原因だ。


 王子はもう既に着いているだろうか。

 もしかしてカサンドラの姿が無いことを確認し、そのまま素通りして帰宅してしまったのではないか。


 あまり時間がとれないと明言している王子を待たせるなど考えられない、頭が混乱して走ってはいけない廊下を可能な限り早足で歩く。

 カッカッカッ、と靴音を響かせカサンドラはいつのも中庭に向かって歩みを速める。





「………!」



 そこに王子が待っていて欲しいのか、それともいない方が良いのか。

 指の先が急速に冷え、小刻みに揺れる。


 生徒会室側の段から中庭に降り、奥のベンチに恐る恐る視線を遣ろうと首を動かす。


 どちらのケースにしてもカサンドラの胸は焼け焦げてしまうだろう。

 だが状況を確認しなくては善後策も考えることが出来ない。


 王子が待っていたら待たせてしまった事を謝罪しなければ!


 意気込んで顔を向けた。




「…………っ……!?」



 そんなカサンドラの目に飛び込んできたのは……

 ベンチに腰を下ろした状態で、スヤスヤと眠る王子の姿であった。


 背もたれに身体を預けたまま僅かに舟を漕いでいる。

 こっくりこっくりと揺れる王子の姿を目の当たりにして、カサンドラの脳内は更に混乱を極める。



 待たせてしまって心から申し訳ないという想いと。

 待っていてくれて嬉しいという素直な想いと。




 寝顔が穏やか過ぎて声を掛けるのも憚られ、ドギマギと冷静でいられない自分の感情と……!



 いつまでも遠くからこっそり様子を伺っているわけにもいかないので、そろそろと彼に近づく。

 カサンドラの足音が耳に障ったのか、ベンチまで後二メートルという距離で彼の目がパチッと開いた。

 まだぼんやりとした蒼い目が、こちらの姿を茫洋と写し……


 しばらく互いに微動だにせず視線を交わし合った間は十秒以上。

 まるで永遠とも勘違いする長い時間、カサンドラは目瞬きも忘れそうだった。



「か、カサンドラ嬢…!?」



 ようやく意識が現世に戻ったのか、彼はカァッと一瞬で顔を朱に染めて片手で口元を覆った。




「王子、遅くなって大変申し訳ございません」


「………ええと……

 その、みっともない姿を………ご、ごめん……」


 未だ赤みがひかず、気まずそうに視線を逸らす王子の貴重な姿にさっきまで抱いていたモヤモヤが瞬時に蒸発した。



「いいえ、いいえ。決してそのようなことは!

 王子にお待ちいただくなど、お詫びの言葉もないことです」



 物凄く可愛かったです!

 という本音はしっかりと心にしまい込んだ結果、謝罪合戦に移行してしまう。





 もっと近くで眺めていたかった……!

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