第178話 触れてはならない
王子に手紙を書くか書かないかということで少々悩んだのは先週のことだった。
今でも本当に迷惑ではないかなぁと躊躇う気持ちはあるけれど――
日曜日は毎週、アレクに学園生活の事情聴取の真似事をされる。
それは二学期になったというのに代わり映えすることなく、アレクの手によってカサンドラがどのような学園生活を送っているのか父クラウスに報告されているようだった。
一学期の間、これ以上ない程良い子にしていたつもりだ。
舞踏会での親とのやりとり、そして帰省しなくてもいいとのお達し。
今までの親が知るカサンドラではないのだから、一々アレクに学園生活の報告書を作成させなくてもよさそうなものだ。
全く信用されていないと感じ、いい気持ちはしない。
それをアレクに伝えたこともあった。
だが義弟は困ったように首を傾け、カサンドラに父の意向を告げる。
『監視が外れ、姉上の行動を戒めるものが何もない状況では侯爵も心配なのですよ。
姉上はもはや姉上個人だけの存在ではないということなのでしょう』
アレクと言う同居人が逐一目と耳を使ってカサンドラの日常を把握し、それを父に知らせる。
例え定型文のようなやりとりであっても、野放しには出来ないという事だ。
クローレス王国の次期王妃という現状は、カサンドラをただの有力貴族令嬢という立ち位置から『レンドール』という南部地方の未来を一身に背負う象徴へと変えてしまった。
本当に何も余計な事はしていないが、余計な事をする心理的抵抗を上げる措置の一つだと言い切る。
問題を起こさないのは当たり前のことで、問題を起こさない良い子だからという理由で監視報告を解かれ野放しにされることはない。
自分の行動を把握され制限されているように感じるかもしれないが受け入れて欲しい、とはアレクの弁である。
親に「こんなことがありました」と定期報告を毎週する立場にもなってくれ。そう訴えたいが、アレクだってやりたくてやっているわけではないのだしなぁと思うと……
すごすご引き下がるしかない。
出来るだけ王子とのやりとりなどは伏せたいものだが、王子の婚約者としてうまく立ち回っていますというアピールも全くしないわけにはいかない。
先週は誕生日にお城に招待してくれたというイベント事を報告するので済んだが、毎週毎週親に言えるようなこともなく悩ましい。
変わりなく過ごしていますという報告を言葉を変え品を変え父に送らなければいけないのは大変困るし不毛だ。
毎週日曜日、繰り返されるアレクとの報告書作成のためのやりとりはかなり疲弊する時間と言えた。
それが終わった後はまるで流れ作業のように無意識に、カサンドラは王子に書く手紙の内容を考えて想像の世界に耽っている。
王子に手紙を書くということは、父への報告書と同じようになくてはならない生活の一部と化しているようだ。
王子本人に迷惑だと言われない限り、辞める踏ん切りがつかない。
恋文とまではいかずとも、こちらのことを発信できる現状唯一の方法。
それに――月曜恒例の早朝登校なくして、カサンドラの一週間は始まらないのだ。
※
月曜日と言えば放課後の王子との中庭歓談だったが、生憎日程が変わってしまった。
なので大変残念ながら、放課後の予定は白紙だ。
……でも、王子も月曜日が駄目なら水曜日と提案を持ちかけてくれているのだから彼がカサンドラと会いたくないわけじゃない、と思う。
ただ単に落胆するだけに終わらなかったことは救いだ。
もしも放課後に会う機会がなくなってしまったら――
カサンドラは一体どうやって王子に接触すればいいのだろう、と。偶然の接触に任せる他ないのかと絶望してしまうところだった。
王子の律義さに救われた形ではあるものの、楽しみが水曜日に持ち越しになっただけだと前向きに考えるようにした。
とりあえず、今日はジェイクの忠告に従うような形で選択講義を体術にして提出しておいた。
体力が無くて聖堂裏で眩暈を起こしてしまい、王子にも心配と迷惑をかけてしまった事が未だに口惜しいと思う。
普段部屋に閉じこもって勉強ばかりで、基礎体力がなければ不健康極まりない。
王族の仕事は体力勝負! という場面もいずれ巡ってくるだろう。
自分は攻略対象を相手にしているわけじゃないし……などと言い訳をして避けていた、身体を動かす講座を改めて選択することにしたわけだ。
ジェイクに言われたからというのも若干癪に障るが、彼に突っ込みを入れられるような体たらくではこの先が思いやられる。
足元を掬われないよう、自分に足りない箇所を補強することも大事な事だと言い聞かせ嫌々ではあるが足を向けた。
体術は得物を用いた戦闘を学ぶ講座ではない。
基礎体力をつけるトレーニングや柔軟性を養う体操など、こちらは男女別で講座が開かれている。
女子の参加率は極めて低いが、男子のように筋トレがメインではなく基礎体力の向上がメインということで、健康に気を遣っている女子が気軽に参加できるものだ。
特待生や貴族の子女ではない生徒が良く出入りし、日頃のストレスだか運動不足だかの解消に利用していると思われる。
そして今日の体術講座は、確かリゼのスケジュールにも入っていたはず。
リナはそろそろ体力作りよりも座学をメインに据えて勉強を頑張って欲しいと回数を調整していたので、姿は見えない。
三人ともきっちりカサンドラのアドバイスを採用してくれているのだと分かって、背筋がムズムズする。
着替え終わり、運動場に向かったカサンドラの前に栗色の髪の少女が立っている。
肩口で切り揃えたふわふわの髪の毛のサイドは赤いリボンが飾られていて、後姿だけでもそこにいるのがリゼだと分かった。
「リゼさん、ごきげんよ……う……?」
喜色を添え、声を掛けたカサンドラ。
だがどんよりとした空気を纏うリゼが――
苦虫を噛みつぶしたような憤懣やるかたない顔で立ち尽くしているではないか。
カサンドラが軽く上げた手を猫の手のように丸め、絶句してしまうのも無理はない。
「カサンドラ様……!」
彼女はこちらの存在に気づいて息を呑む。
そして腰に手を当て、クッと悔しそうに唇を噛み締め斜め下の地面を睨んだのだ。
意味が分からずカサンドラの脳内で再び疑問符が乱舞する。
この世界は自分が何周もした乙女ゲームを基に創られた世界のはずなのに、わけがわからず立ち竦んで呆然とする機会の何と多いことか。
カサンドラという目線でこの世界を生きるのは初めてのことだから仕方ないのかも知れないが。
もう少し前世の記憶が役立つような事態にならないかなぁ、とほんの少しヤキモキするところである。
講師が来るまで十分前後の時間がある。
その間友人同士で話をする生徒が運動場内に点在していた。
チラリチラリとカサンドラを見やる特待生、そして身体を動かすことが好きなお嬢様の視線が背中に痛い。
だが敢えてこちらの会話を割り入って話しかけてくる剛の者はいないようだ。
その事実にホッとし、カサンドラは控えめな声量でリゼに話しかけた。
「リゼさん、どうかされたのですか?」
彼女が落ち込んでいる姿なのが理解できない。
だって今日は放課後ジェイクの家庭教師役として一時間生徒会室で同じ時間を共有できる月曜日ではないか。
たった五分十分ほどしか王子と一緒にいられないカサンドラでさえ、この曜日は話が出来るのだと心が浮き立っていたものだ。
リゼが嬉しくないわけがないのになぁ、と首を捻る。
まさか勉強の準備が出来ていないとか――いや、彼女に限ってそのようないい加減なことはしないだろう。
とすれば、今日の家庭教師の話が急用か何かで反故になったのだと思った。
会いたい人に会えると思い期待に胸を膨らませたいたものの、現実が無情にその機会を攫って行く経験にカサンドラも何度も涙したものだ。
王子からの手紙だと喜んだら、今日は会えないという無情な一文を目の当たりにしたショックは忘れようにも忘れられない。
「カサンドラ様……。
私、やっちゃいました」
しかしカサンドラの安易な想像の斜め上を行く事態が彼女の身に起こっていた事など、この時点では全く知る術はなかったのである。
「何があったのですか?」
普段ハッキリとした声で話すリゼには珍しく、歯切れが悪かった。
「実は昨日、フランツ教官から乗馬訓練に誘ってもらったんです。
それで――ロンバルド邸にお邪魔させていただきました」
邸宅と言っても、裏の森を使わせてもらっただけです!
彼女はそう勢い込んで訂正した。
リゼの剣術講座で教官を任されて、現在もマンツーマン指導状態のフランツ。
彼のことはロンバルド派の貴族出身であることしか知らないけれど、実際にリゼと一緒に講座を受けた時には何の変哲もない壮年男性だった。
勿論体格はがっしりしていて、声も大きく覇気に満ちていた男性ではあった記憶が。
年齢的にもカサンドラの父とそう変わらないだろう彼のことを詳しく知る機会もなかった。
乗馬の訓練を受けるまで仲が良いとは驚きを禁じ得ない。
夏休みに特別指導を提案されるくらい気に入られているのだからさもありなん、とも言えるが。
「そこにジェイク様が合流して下さったんですけど」
はぁぁぁーーーー。
彼女は吐息で大地に穴を穿つつもりかと空目する特大の溜息を落とした。
ジェイク本人まで気にかけて顔を出してくれるとは。
随分仲が良くなったと目を丸くしこそすれ、彼女が落ち込む理由など全く予想できない。
そこでフランツとの不毛なやりとりの一部始終を聞かされた。
全てリゼ目線の話であって、フランツやジェイクの内心は当然伺い知れたものではない。
フランツに義理の娘になりたい的な勘違いをされてしまった事。
そしてかなり年下の彼の息子さんと会ってみないかと乗り気で提案された事。
その攻撃をかわすために、好きな人などいらない宣言をジェイクの前でさざるを得なかった事。
彼女が気にしているのはとりわけ最後の項目だった。
「私が余計な事を言ったばっかりに……!
もう最低ですよ!
ジェイク様だって、こんなドのつく庶民が何言ってんだって思ったでしょうし。
あああ……
なんで私、言わなくていいことを言うハメになっちゃったんでしょう」
好きな人の目の前で好きな人などいない! と言い切るのは確かに歯痒いものだ。
彼女の焦りは至極真っ当なもので、本当は目の前にいる彼の事が好きなのに……! というもどかしさで胃を焼いている。
だがカサンドラが「う、……わぁ……」と表情に出さないまでも脂汗を浮かべたのは、断じてリゼの台詞に対するものではない。
むしろリゼは最悪の事態の中で最善の方法を選び危機を脱したと言っても過言ではないのだ。
「それは災難でしたね」
同調し頷くカサンドラの顔は蒼かったかもしれない。
神様は、こんなところでも盛大な悪戯を仕掛けてくるのかと声が震え上擦っていたが、顔を覆って俯くリゼはこちらの些細な変化など気に留めることもできない。
ここでカサンドラは、前世の記憶を図らずも使ってしまうことになる。
ジェイクの初恋の相手が、彼より五つ年上のいとこのお姉さんだという情報がザーッと脳裏に蘇る。
この情報を踏まえた上で先程のリゼの話を俯瞰すると、カサンドラも胸をかきむしりたい程の居たたまれなさを覚える。
奇しくも自分が十歳前後の頃、ジェイクは初恋という形で歳の離れたお姉さんを本気で好きになっていたのだ。
さぞや当時の事を思い出し、叫びたくなるくらい色んな感情が込み上げていたものと思われる。
そんな年の離れた
もしも動揺や照れのあまり、年下なんか全く眼中にないしありえないだとか、ふざけているのかなんて感情を表してしまえば――
間違いなくジェイクの心の柔らかい部分をグッサーっと槍で突き刺して抉ったことだろう。
何せ彼の初恋は――その憧れのお姉さんが遠くの領地に嫁いでしまったという何とも言えない結末で終わったからだ。
別に告白したわけでも付き合っていたわけでも全くない、自分がもっと大人になったら告白しようと日々の励みとしていた対象がの親戚のお姉さん。
彼が騎士を目指す最後の一押し、キッカケになった女性でもある。
騎士団試験にジェイクが受かった直後、結婚して滅多に会えない遠くの領地へ嫁いだという経験をしてしまった。
しかも話ぶりから察するにおめでた婚と呼ぶべき状況であったようで、現在は恐らく一児の母だ。
一連の過程において、盛大なトラウマを彼に与えた事は想像に難くない。
去年あたりの事だから古い傷にさえなってないはず。
このような事情があるため、フランツの言い出した話の全ては導火線に火をつけた爆弾を足元に沢山転がされたようなもの。
彼のトラウマを遠慮なく鋭い角度で抉り取る、そんな会話でもあったのだ。
その場にカサンドラがいたらフランツの口を何が何でも塞いでいただろう。
一体ジェイクは何なんだ。
カサンドラに王子の過去の悲しい出来事を想起させるような無意識の罠を仕掛けるのと同時に、ジェイク自身も知らずの内にトラウマという名の底なし沼に足を踏み入れてしまう運命を持っているとでもいうのか。
別に誰も悪くないという事実が一層不憫だ。
恋愛の末結婚して嫁いでいく親戚のお姉さんを責めるのは酷だ。いかんともしがたい年の差に彼が悩んでいてもそれはどうしようもなかったこと。
事情を知らないフランツが己の息子に会ってみろというのも悪事を持ち掛けたわけでもないし、リゼだってそんな意味で”お父さんだったら”なんて話かけたわけでもない。
過去のトラウマと言い、昨日の事と言い……事故のような有様にカサンドラも絶句する。
元カノとまではいかずとも、攻略対象が過去好きになった人の話なんてさらっと流される話題である。
ゲームに描写自体は殆どない。そういうことがあったという話を聞かされただけだが、何故か印象に残っている。
そのような前世の記憶を呼び起こしたおかげで、リゼの話の中に登場するジェイクの心情を思うと、とっても居たたまれない気持ちになる。
事情を知らなければリゼも運が悪かったという結論で終わるだけの話だったのに……
リゼ自身がジェイクの過去を貶めるようなことはせず、年の差に言及しないままズバッと”己の事情だ”と言い切ったのは最善だった。
今は好きな人はいないと明言しても、人の気持ちは変わるもの。
ジェイクだって今はまだ過去の事で心が頑なになっているが、その気持ちもやがて別の想いに書き換わって行くはず。
人の想いなど移ろうものだ。永遠に現状のままというわけではない。
好きな人など要らない宣言は、リゼが失敗したと嘆く程の失言ではない。
むしろ好きな人がいると断言したは良いが、相手を言えずに誤魔化さなければいけない状況の方が不味かったと思う。
返答次第では惨事が引き起こされていただろう。
それらを何とか回避して、出来る限りジェイクの心をこれ以上苛むこともなく角を立てずにフランツの厚意も辞退してのけたのだ。
事情を知らない中で最善を選んだとも言えないだろうか。
「リゼさん、大丈夫です。どうか気になさらず。
折角一緒にいられる時間なのですから、そのように難しい顔をしていてはジェイク様も困ってしまいますよ?」
「そう、でしょうか。
はぁ……。
身体を動かしてる内に、スッキリすればいいんですけど」
人と距離を縮めようとすれば、全くトラブルが起きず順風満帆にいくことなど滅多にない。
遠くから見て憧れるだけという段階を越え、彼と親しくなっている過程だからこそ起こった出来事だ。
日曜日に彼と会える程仲が進展しているから起こったアクシデントとも言える。嘆く必要はない、前に進んでいる証拠だ。
午後の講義開始の鐘が鳴る。
一学期の最初はカサンドラと同じか、それ以下かという運動音痴ぶりを表していたリゼ。
だが今ではこの講座に参加している誰よりも彼女の動きは機敏で、体力もついている。
……変われば変わるものだなぁ、と成長を目の当たりにして感動したカサンドラ。
彼女の足に、全く追いつける気がしない。
このまま恋愛ごとでも置いて行かれたらと思うと身震いする。
カサンドラも真剣に、足元を蹴って走り始めた。
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