第173話 <リゼ>


 カサンドラの誕生日が近いという話を聞いた時、物凄く焦ったことを思い出す。

 何とかその後三人で相談し知恵を出し合い、カサンドラに受け取ってもらえるだろう贈り物を用意することが出来たのだが。


 一番大変だったのは四葉のクローバー探しだった。

 担当はリタということで放課後の河川敷や広場の花壇でクローバーを探してくれたが、中々見つからないものだ。

 だからこそ、見つけたら『幸運』と呼ばれるレアな代物である。

 根気よく探せば子供でも見つけることが出来る、必要なのは根性だとリタも頑張った。

 早めに探さないと押し花にする時間がないということで、二学期が始まってリゼも一緒に河川敷に通った。


 その間リナは刺繍を宜しくということで、チクチク刺してもらっていたが良く間に合ったものだと思う。


 準備期間があったのは僥倖だ。

 あの日ジェイクと一緒に夏休みの宿題が出来て良かったことの一つだと今でも思う。

 あの日彼が話題に出してくれなければ、自分達は彼女が誕生日だったことさえ知らないままスルーしていたに違いない。なんて恐ろしい!



 カサンドラが贈り物を使用してくれていることに感動していたリゼだが、ホッと一息をつくと同時に――


 今日が『アルバイト』の月曜日であることを意識すると、本当に日中落ち着かずに困ってしまった。

 単なる労働というだけであればこうはならない。


 誰にも文句を言われる事無く、正当な権利を行使して一時間一緒にいられるのだ。

 一週間に一度訪れるこの機会を一分一秒たりとも無駄にしたくないと、週末から延々とシミュレーションを続けている。

 おかげで先週の授業内容は完璧だ。


 人様に教えようと思えば自分も把握していないと教えることはできない。

 リゼにとっては復習の強い動機付けにもなるし、何一つデメリットの存在しないアルバイトである。

 自分の学力の補強も出来るのだ、これなら二学期末の試験はシリウスを上回ることも夢ではないかもしれない。


 労働と称して賃金をもらうのが大変申し訳ない状況と言える。




 午後の講義を終え、先週と同じくリゼは生徒会室の前に早く着き過ぎてしまった。

 やる気が迸り過ぎて空回っているという自覚はある。


 着替え終わった瞬間から、鬼のような形相で廊下を大股で歩いて目的地に向かうリゼの姿を見かけた教師は――ぎょっとした顔で眺めていたが気づかないふりでやり過ごした。

 

 出来るだけ他の生徒に姿を見られないように、という意味もある。

 早めに動くか遅めに動くか、どちらが合理的かと言われれば前者だ。


 まだ帰り支度を始めたばかりの生徒達の目を掻い潜るよう、リゼは西奥の建屋へと向かう。

 万一にでも、ジェイクが先に来て待たせてしまうなんてありえないことだし。


「………。」


 ノックをしても反応など返ってこない、無人の扉前で肩を落とす。

 分かっていた事だが、こればかりは早く来過ぎた自分のせいだ。


 これは予想の範囲内なので、中庭の備え付けベンチで彼の到着を待つつもりだ。

 だが先週は奥にカサンドラと王子が一緒に座っていたな、と。妙に印象的な光景だったので記憶も鮮明に思い出す。


 彼女達の逢瀬を邪魔して馬に蹴られたくないリゼは、恐る恐る気配を消して中庭を一望する。片目を瞑り、そろそろと視線を向けるが……


 今日は誰の姿も見えない。

 まぁ、考えてみればまだ午後の講義は終わったばかりだ。

 これから帰宅する生徒達に紛れて、カサンドラがここに移動してくる可能性はゼロではない。


 しばらく迷った末、リゼは生徒会室に一番近い場所に置かれた向かいのベンチに腰を下ろす。そこでジェイクを待つことにした。

 もしもカサンドラが来たら別の場所に移動すればいいし、端から端までの会話が聞こえるわけがないのでリゼの事など無視して会話をしてくれても構わない。

 要は図らずも盗み見盗み聞きの真似をして、彼女達のリゼに対する心象を著しく毀損したくないというだけのことだ。


 中庭のベンチに所有権があるわけではない、一々教室まで移動するのも面倒なのでしばらく待機させてもらおうとリゼは腰を下ろした。




 ※

  



「早いな、もう来てたのか」


 自作のノートを膝に開き、書き込みを続けていたリゼ。

 俯き加減のままぶつぶつと独り言を呟き、熟考を続けていたせいか。

 近づいてくる人影に気づくのが数拍遅れた。


 バッと顔を上げると、正面にジェイクが立っているではないか。

 慌てて時計を確認するが、今回は約束の時間ジャストだ。ひゅっと息を呑む。


 集中すると周囲が見えなくなるのはいつもの事だが、まさか彼が来たことに気づかないとは迂闊である。

 鞄の中に無造作にノート類を突っ込み、泡を食ってベンチから立った。


「気づかなくてすみません」


 折角目的地に早く到着しても、結局は外で待つしかない。

 勝手に一人で入室してはいけないという縛りが結構しんどいことに今更気づくリゼであった。


 こればかりは文句を言える立場ではないので、今後もこうやってジェイクが生徒会室の中に入れてくれるまで待ち続けるしかないのだろう。


「それは良いんだけどな、うーん……

 ほら、入るぞ」


 彼は鞄を小脇に抱えたまま腕を組み、渋面を作って厳めしい造りの生徒会室の扉を開ける。

 機嫌が良さそうに見えない。

 ジェイクは勉強が好きではないから、こんな渋い顔なのも仕方ないのかも知れない。

 折角一緒にいられる時間なのに、その時間が彼にとって苦痛の時間というのは結構、由々しき問題だ。

 どうにか勉強を好きになってもらいたいが、そうなると家庭教師自体も必要なくなるのでは? というジレンマに挟まれる。


「やっぱり中で待てるよう、頼むか?」


「……?」


 彼の後ろについて扉をくぐり、リゼは室内の空気を入れ替えるために窓をガラッと開ける。

 大きな窓は生憎北側に設置されているので、明るい日差しが室内に入り込むことは無い。その代わり、初秋特有の涼しい風がカーテンの裾を揺らし広い室内を撫でていく。

 つい先月まではあんなに暑い夏だったのに。四時も近くになれば、一気に過ごしやすい気温に下がっていく。

 午後の体術の講座は汗だくになる程気温が高かったというのに、もうすっかり秋めいてきたなぁとリゼはカーテンを際にくくりつけながらジェイクを振り返る。


「今は外で待つのも良いけど、寒くなったら風邪ひくんじゃないか?

 俺も時間通りに来れるとは限らないからなぁ」


 そう言って彼は横に広い自席に鞄を放り投げる。

 他の机と比べて乱雑な彼の机の上に、ドサッと音が鳴った。


「いいえ! 本来の役員でもないのに勝手に入るのは遠慮したいです。

 外で待つくらい平気ですから気にしないでください」


「そうか?」


「全く問題ありません、寒ければ時間まで教室で待機します。

 真冬だろうが暖のない教会の奥で勉強していた頃に比べたら、天国みたいなものですよ!」


 リゼはごく普通の小さい村の農家に生まれた娘だ。

 別に学が無くても生きていける、むしろある方が『生意気だ』と快く思われない場所だった。

 王立学院に通うため、農作業の手伝いをサボって行商人から仕入れた本を延々と読み耽っていた幼い頃を思えば――何と言うことは無い。

 

 しかも用件がジェイクを待つためなのだ、その程度の苦労は苦労と呼ばれる事物に対して失礼に値する。


「はぁ?

 今までどんな生活送ってたんだ、お前……」


 ジェイクはぎょっとした顔でこちらに視線を向ける。

 確かに言葉尻だけ捉えたら、虐待か何かと勘違いされそうだ。


「元々、両親は私が王都の学院を目指すことを快く思っていなかったので。

 隠れて勉強するしかなかったんですよね、格好の隠れ場所が近所の教会だったというだけです。

 神父さんがいない日は、暖が取れなくて……」


 つい過去を思い出して、フッと遠い目をしてしまう。

 一年前からと今を思い返すと雲泥の差だ、全く世界が反転してしまったようなものである。


「お前、結構苦労してるんだな」


 はぁー、とジェイクは椅子に座って頬杖をつく。

 何とも言えない表情とはこのことだろうか、いくら普段クラスメイトだという単語でくくられていても、貴族と平民の絶対的な差は揺らがない。

 彼にしてみれば想像もできない世界だろう、リゼが彼の日常をさっぱり想像できないのと同じように。


「私は恵まれてますよ。

 両親は健在ですし別に餓えて死ぬわけじゃないですし、リタやリナが私の分まで色々フォローしてくれてましたからね」


 吹き入る風に揺れる髪を押さえ、リゼは先週と同じように丸椅子を運んでくる。

 ジェイクと人一人分程度の距離を置き、そこに腰を下ろした。

 一人分の机としては横長で助かっている、狭くて肩が触れる程近ければ多分自分は正気のまま話が出来ないだろう。


 パーソナルスペースは大事だ。

 緊張のあまり、変な事を口走らないためにも。


「そこまでの執念だ、学院ここに入れて良かったな。

 どうだ、半年近く王都で過ごしてみて」


 鞄の中からこれから使うものをごそごそと取り出す。

 毎日授業で使っている教書、そして彼と一週間の学習要点を短時間でおさらいするために書き込んでいるノートと。

 そして試験に出るならこういう形式で出るだろうという自作問題も一緒に重ねておく。

 試験前にそれをもう一回解けば赤点は免れるだろう、別に彼は頭が悪いわけではない。


「――そうですね、勉強が際限なくできるのは素晴らしい環境です。

 が、やっぱり食事のメニューが桁違いですよね。

 生活で一番変わったと言いますか、舌が無駄に肥えてしまったおかげで帰省した時は大変でした」


「はは、そうか」


「寮の食堂やカフェで食べられるような美味しいデザートなんか、村にはありませんからね!

 人間贅沢を覚えたらもう駄目ですね、元に戻れません」


 とても凝った美味しいデザートの多くは特殊な製法が必要だそうだ。

 村に帰っても器材がなく作ることが出来ないものばかりだ、食材だって全く違う。

 王都には年中王国内から多種多様な材料を仕入れ、高価な調味料も使いたい放題。


 リタが食べ過ぎで体重が増えたと嘆いていた理由もわかる。

 自分だって、勉強ばかりで毎日運動をしていなかったら……と想像するとぞっとする話だ。

 その点でも、剣術を薦めてくれたカサンドラには感謝している。



 ジェイクと話をするのは好きだ。

 自分に多少なりとも興味を持ってくれているのなら嬉しいし、逆に相手の何気ない事情を聞くことが出来ればもっと嬉しいし。


 だが、悲しいかな――



「では、始めましょうか」

 


 リゼは真面目な人間である。

 

 少しでも長く話をしていたいと思っても、本来の自分のやるべきことが最優先だと真剣な顔で『仕事』に向き合うことになる。

 雑談をしたって彼は怒りはしないかも知れないが、そんな不真面目なことは自分自身が許せない。


 夏休みのカサンドラ邸での宿題会だって、結局少し話を聞いた後は延々ずーっと黙々と宿題を進める彼の様子を眺めていただけだ。

 中途半端な事が苦手な性分なので、リゼは本来の自分の責務で浮かれる心を縛り上げる。


 ……貴重な一時間だ。

 自分との会話などで無駄にしてやるべきことが終わらなかったら大問題。

 ジェイクがお母さんから直々に『家庭教師を頼め』と指示を受けたという事は、リゼに当然”結果”を期待しているということだ。


 期待される相手が誰であれ、裏切るなどできるわけがない。


 隣に座る彼の存在、この状況が奇跡なのだとしみじみと実感するよりも淡々と自分の役割をこなそうとする。

 少し彼の気が逸れた時だとか、若干続く無言の時間だとか。

 話しかけるタイミングは一時間の中に何度もあった。


 だが自分の声は、指は、躊躇うことなく彼の確認するべき資料や文章を指して”余計なこと”で彼の思考を奪う事など出来やしない。

 こういう杓子定規で融通の利かない性格は、可愛げがないなぁと自覚している。

 

 一々彼の姿や反応に動揺しては仕事にならない。

 もしもこの時間でなければ仰け反ったり飛びずさったりしそうな近い距離でも、リゼは平常心を保つように頑張った。

 そうは言っても、ごく近いところで呟かれる彼の声が、身を屈めたリゼの耳近くで聞こえた時には――

 机の下で自分の足を自分で叩き、気を確かに持つようにと気合を何度も入れ直すことになった。


 リゼはジェイクの事が好きである。

 外見だとか中身だとか関係なく、結論としてジェイクだから好き! という凄く単純な、もはやカルガモの雛状態である。

 

 が、勿論好きな個所を言えと言われればいくつも指を折ってあげつらうことが出来るわけで。

 その中でも取り分け、声が好きだ。

 普段の張り上げるような大きな声――ではなく、時折真面目に、重低音でぼそっと呟く声が特に。

 あまり聞けるものではないが、勉強をしている時は状況が状況なので小声で呟く機会が多い。


 通常とは違う、低い呟き。時に囁きめいた声を聞いてしまうと、腰から砕けそうになるので不意打ちは大変困る。

 なので、不意打ちを食らわない様に常に心は臨戦態勢だ。

    

 この瞬間だけは『役得』と思ってしまうリゼである。




 ※




 当初立てた予定通り、きっかり一時間で終わらせる。

 過不足があったかどうかはすぐにわからないが、来週以降もこのペースで復習が出来るなら成績の面で彼のご両親が心配する結果にはならないだろう。

 その手伝いが再度出来る事が嬉しくてしょうがない。



「ジェイク様、お疲れさまでした」



「はぁぁぁぁ、疲れたー!」


 彼はそのまま上体を机に突っ伏す。

 集中力が一時間近く保てるのも大したものだ、途中何度か『休憩求む』と目で訴えかけられたが、何せ一時間しかない時間だ。

 一度集中を途切れさせて、短時間で再度思考を切り替えて励む方が疲れるだろうと見なかったフリをした。


「大丈夫ですか? あの、一時間、押し通してしまいましたけど」


「正直しんどい。

 けど、ここまで事前に用意して来られたら放り出すわけにもいかないだろ」


「また分からない箇所が出てきたらちゃんと聞いて下さいね。

 ふわっと分かったつもりなのが、教える時に一番困るんです!」


 分かった分かった、と彼は苦笑しながら数度頷いた。


 そろそろ帰り支度を始めるだろうか、と。

 彼の様子を伺っていると、彼は意外にも左肘を机に乗せたままリゼを振り仰ぐ。


「今週の日曜、予定あるか?」


「え? いえ、特には……」


 藪から棒にそう質問されて、動揺のあまり声が上滑る。

 何故休みの事を聞いてくるのかと、どんな難問を解いている時でもこんなにフル回転しないだろうというくらい思考を巡らせる。


 まさか、何かのお誘――


「フランツが、日曜日に乗馬の指導をしたいとか言っててな」


「教官が?」


 これは思わぬ変化球だ。

 勝手に早とちりした自分が恥ずかしく、顔が赤くなりかけた。



「もし話がまとまったら、俺も一緒についてやろうか?」


「……えっ」


 リゼの横を軽やかに過ぎて行ったボールがまるでブーメランのようなありえない軌道を描いて、リゼの後頭部にぶつかった。


「あの、嬉しいですけど、忙しいのでは?」


「昨日、城で祈念祀に参列しててな。朝から晩まで拘束されて、俺もいい加減うんざりだ。次の日曜は絶対休んでやる。

 日曜って基本、非番なんだよ。それなのに毎週毎週駆り出されて、今や常勤状態だからな」


 一瞬ジェイクが仄暗い表情を見せた気がした。

 どうやら相当ストレスらしきものが溜まっている様子だが、考えてみれば夏休みだって長期休暇とは程遠く。

 そして二学期に入ってからも学園の行事と騎士としての公務とを並行してこなしているわけだ、休みを寄越せというジェイクの嘆きも仕方ない。


「で、休むって決めた以上、先に予定を決めておきたくてな。

 お前がフランツと乗馬の練習って言うなら俺も付き合おうかと」


 予め私用で日程を埋めておけば、なし崩しに職場に引きずり出されることもないだろうという判断はある意味で正しいかもしれないが……


「お部屋でゆっくり休むべきでは!?」


 だが斯様に貴重な休みにわざわざ顔を出してもらうなど、大変申し訳ない話だ。


「家庭教師受けてくれた礼もしたかったしな。

 お前、甘いもの好きだろ? 何か食わせてやるよ」


 俺は別のモノにするけどな、と。飄逸とした態度のまま補足するジェイク。

 あまりにも気軽過ぎて吃驚だ。


 リゼは信じられないものを見るかのような目で彼を凝視してしまった。



 そもそもアルバイトの給金の話は既についているわけで。

 この上彼に食べ物をおごってもらう理由など何一つない。



 良いのか?

 ここでジェイクの厚意に乗っかって、図々しいと思われないか!?



 勿論、そのプランが実現するなら嬉しい。


 何と言うラッキーなのだろう、と自室に戻ったら床の上に転がりかねないくらい嬉しい話だ。


 急に降って沸いた話にリゼの頭は混乱の一途を辿る。

 世の中、自分にそんなに都合の良い話が何度も続くわけがないという理性的な自分の声が戒める。



 奇跡は起こらないから奇跡で、それが続くようならそれは作為めいた意思を感じる。

 それがないなら、ただの夢。





 ……以前夜半に見た、ありえない夢を思い出して心臓が早鐘のように身体を打ち付ける。


 震える右手を、反対の手で覆い隠した。







 夢はいつか醒める。



 今は思うのは自由だと胸を張って言い切れるが、彼に好きな人や恋人、若しくは正式な婚約者が決まればそういうわけはいかない。

 想う事さえ罪悪感を抱くことになる。




 いずれ来るその日が 怖い。

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