第172話 クローバー柄


 週明けの月曜日、カサンドラはいつになく上機嫌で学園に向かっていた。


 王子に手紙を渡すべくしっかりと誕生日のお礼をしたため、鞄に忍ばせる。

 早起きなど全く苦にならず、むしろ一分一秒でも早く登校したいと明け方に目覚めてしまったくらいだ。


 るんるんとスキップしたい気持ちを抑え、カサンドラはまだ生徒が誰も登校していない早朝に校舎へと入る。

 そして毎週月曜日のお決まりの習慣として、生徒会室の王子の机に胃いの一番に向かったのだ。


 手紙を置いておこうと視線を王子の机の上に這わせるカサンドラ、彼女の目に飛び込んできたのは――自分宛ての手紙。

 ズクンと胸が痛んだ。


 これには覚えがあったから。


 『カサンドラ嬢へ』と書かれた手紙は間違いなく自分宛てに置かれたもので、王子も自分がここに真っ先に訪れることを見越したものだ。

 整然と片付けられた埃一つない綺麗な広い机の上、羽ペンの近くに手紙を置くことが一学期から毎週のように続いている。


 きっかけは些細なことで、慣習化するはずではなかったのだけど。

 王子が受け取ってくれるし、こちらの近況を誰にも邪魔されずに伝える最適な手段であると未だに続けているやり取りだった。

 やり取りと言っても王子からの返事は、基本的にはない。

 カサンドラが一方的に送り届けている、迷惑一直線と紙一重の行為だ。


 しかしこうしてイレギュラー的に王子から置手紙がある、そう気づいた瞬間心停止するかと思う程驚いた。

 いそいそと置こうとした手紙が、空中でぷるぷると小刻みに震えていた。


 このイレギュラーには覚えがあった。

 あの時は、月曜の放課後に用事があるから先に帰っていて欲しいという事務的な伝言で物凄くガッカリした事をよく覚えている。

 初めて王子からお返事が! と狂喜乱舞しそうになったのに、一瞬で死んだ魚のような濁った眼に変じたのだから。


 そういう過去を経ているのだ、覚悟はできている。

 きっと先に帰っていて欲しいという伝言、事務的な行動に過ぎないのだと思う。


 だが、もしかしてという一縷の望みに託し、恐る恐る王子からの封書を手に取る。

 土曜日の誕生日のことで、何か彼から言い忘れたこととか個人的なメッセージとか。

 そのような追加の幸福、幸運という形でカサンドラを喜ばせてくれるのではないか。


 可能性は限りなく低いと思ったが、開けるまではシュレディンガーの猫状態だ。

 前世の世界でお決まりのギャグのように使われていた言葉でこの世界には存在しないものだが、追い詰められた今となってはもはやその二分の一の可能性に縋る他ない。


 王子からの手紙が、自分をがっかりさせるものであるか。それとも喜びを運んでくれるものであるか。

 二つに一つだ、えいや、と封書を開いて文面を確認する。



 果たして――

 現実とは斯くも無情であることを、改めて思い知らされる。


 どうやら先日の日曜日に王子が予め置手紙をしてくれたのは、カサンドラが最初に予想したとおりの事務的案件だった。


 カサンドラの誕生日は一日楽しかったという文章が最初にあるものの、すぐに月曜日は用事があるので会いに行くことが出来ない。待たずに帰宅して欲しいと、流麗な文字で淡々と書き連ねているのみだった。



 折角の週明けが、いきなり曇天模様に突入。

 カサンドラは大きく肩を落とす。


 自分の持ち込んだ手紙とそれを入れ替えて――生徒会室を後にした。すごすごと。


 お城での話を王子としたかった。会って直接お礼を言いたかった。

 チラ、と左の手首を視界に入れる。



 銀の腕時計が、無機質にカチカチと時間を刻むばかりだった。



 ※ 



 ブルーな気分を引きずってもしょうがない。

 前回の時も思ったが、カサンドラが待ちぼうけしてはいけないと思って、休日にわざわざカサンドラあての手紙を置いてくれたのだ。

 手間をかけてくれただけでありがたい話ではないか。


 ただ、若干モヤモヤした気持ちがあるのは事実だ。ありていに言うのならば、不満か。

 人間とはやはり欲深い。

 あんなにも幸せだったのに、幸せを忘れたかのように今は不幸を感じる。


 主観で生きているのだから当然かもしれないが、カサンドラはそんな自分に自己嫌悪だ。


 同じ教室にいるクラスメイトではないか。

 たったその程度の用事なら、一言直接伝えてくれれば事足りる話ではないのか?

 全く初対面だった四月とは違う、互いに何度も会って時間を過ごし、おとといは一日中王城を案内してくれたではないか。

 それなのに、そんな一言さえ教室内で交わすことは嫌なのか……?


 一言二言雑談するのもハードルが高いと王子は考えていることになる。

 これでは何も変わっているようには思えない。相変わらず学園内では他人に等しい距離感で、縮まったようには一向に感じない。


 以前も感じたことだから既視感を覚える。進んだと思った関係が全く進んでいないという焦燥感。

 そんなに他人行儀にならずとも、とこちらは思う。でも彼は、他人の前では今のままの距離感を保とうと思っている、そういうことなのだと思い知らされる。


 浮かれた心を一気に叩き落とされるのは慣れっことは言え、心の奥がじんわりと悲しみで浸食されていく。


 今以上の幸せなんてありえないと思った二日後に、こんなに打ちひしがれることになるとは。

 本当に王子の存在には右往左往させられる、彼にとっては何と言うことは無い何かのついでかもしれない行為かもしれないのに。

 そんな些細な事でも、カサンドラはこの世が終わったかのような絶望に支配されるのだ。




 暗い顔をしていてもしょうがない。

 しかめっ面をして席に着いている姿を目撃され、変な噂を立てられるのもきまりが悪いというものだ。

 今更手紙をなかったことに出来ない以上、そのモヤモヤを誤魔化す行為に出る他ない。


 カサンドラは早すぎて誰もいない教室の中、自席に座って図書館から借りている本を紐解くことにした。


 ささくれ立ちそうな自分の心を慰めてくれたもの、それは三つ子がカサンドラにと贈ってくれたブックカバーである。

 それは手造りにしては良くできたもので、カサンドラが良く読む本のサイズに合致していた。

 本の厚みに対応できるよう背表紙部分にゴムが入って弛まない様になっているなど、外装も可愛らしいが手触りの良い布で実用的なものだ。


 栞を挟むポケットがあるので、以前自分が作った栞を持ち運ぶのにとても便利。

 彼女達が探してくれた四葉のクローバーの栞もちゃんとしまって、その幸運パワーにあやかりたいものだとそっと手を翳す。


「……あら?」


 実際に本にカバーを付けていると、いくつか刺されているクローバーの刺繍の中に一つだけリナの施したものと思えない、若干形の歪んだ小さなクローバーを発見してしまった。

 全体にクローバーの形が散りばめてあるわけではなく、四隅にいくつもクローバーが描かれている。

 その一か所に何となく違和感を抱き、指の腹でそっとなぞった。


 他のクローバーと比べて凹凸が大きい気がするし、まさかリナがこのような刺し方をするとも思えず首を捻る。


 もしかして時間が無くて焦ってしまったのかな? と結論付けようとした、そんな時のことだ。

 まだ時計は八時前、そろそろクラスメイトの誰かが教室に入って来てもおかしくなかった。


「あ、カサンドラ様。おはようございます!」


 扉をガラッと横に開けて前方から入ってきたのは三つ子の一人のリゼだ。

 赤いリボンを髪に飾る、蒼い瞳の女の子。

 栗色の柔らかい髪が肩口で揺れるている。


「おはようございます」


 リゼは持ってきた鞄を自分の机に掛けた後、他に誰もいない無人の教室の前方から近づいてきた。

 この時間帯に彼女が一人で登校するのは非情に珍しい、と。カサンドラは席に座ったまま、にこっと微笑んで会釈を一度。


「今朝は早いのですね、リゼさん」


「はい。今日は放課後アルバイトなので、その準備と言いますか。まぁ、その。

 何となく落ち着かないので、早めに来て確認でもしようかなと……」


 若干歯切れが悪く、リゼの視線が僅かに揺らぐ。

 アルバイトという言葉で濁しているものの、要は今日の放課後ジェイクの家庭教師役を務めるのでそわそわと落ち着かない心境なのだろうと推測できる。

 

 成程、とカサンドラが頷いているとリゼも机の上の本に気づいたようだ。

 既に図書館の本を覆っている、クローバー柄のブックカバーを目にして驚き目を丸くする。


「早速使って下さってるんですか、ありがとうございます!

 ――じゃなくて、二日遅れましたけどお誕生日おめでとうございます。急に当日押し掛けてすみませんでした」


「こちらこそ折角訪ねて来て下さったのに不在で申し訳ありませんでした。

 贈り物、とても素敵ですね。大切に使わせていただきますね」


「いえ、そのようなものしか準備できなくて……!

 お恥ずかしい限りです」


 彼女は泡を食ったように顔を左右に振る。

 そんなに遜らずとも良いというのに、やはりクラスメイトと言っても立場の差というのは大きいのだなぁ、と思い知らされる。


「こちらの刺繍はリナさんが?」


 カサンドラは、そっとブックカバーの表紙部分を掌で撫でた。刺繍で模様がある箇所の凹凸が直接肌に触れる。


「そう、ですね。

 九割以上、リナが縫ってくれました」


 全く全てがリナの作品というわけではないらしい。

 そして落ち着きかけていた彼女が再度動揺し、うっと言葉に詰まりかけるのをカサンドラは見逃さなかった。


「まぁ、それでは残りの一割は?」


 それは、と彼女は息を詰まらせる。

 普段自信に満ちたリゼにしては、狼狽ぶりが目立つ。

 彼女が狼狽するとしたら、予期せぬところでジェイクと会うくらいしかイメージできないが、今は自分達以外に教室に登校してきた生徒の影はない。

 賑やかで騒がしい休憩時間とは打って変わって静まり返った教室は、がらんとしていて少々物悲しささえ感じる。


「不格好な模様があると思うんですけど……すみません、それ、私がやりました」


 まるで犯人の自白ではないか。

 そんなつもりはなかったのだけど。


「まぁ、そうだったのですか!

 わたくしのために、ありがとうございます」


 ついつい大きな声を出し、掌をパチンと合わせて喜色に染まるカサンドラ。

 まさかとは思っていたけれど、本当にリゼがこのクローバーの刺繍を刺してくれたのかと驚きを禁じ得ない。

 彼女は決して不器用な女性ではないはずだ。が、裁縫に興味がある女性には見えなかった。

 そのような手作業をちまちま時間を掛けるなんてことはせず、同じ時間なら一題でも多くの問題を解けるよう机に齧りついているタイプに思える。


 だからリゼがこの刺繍に針を入れていたのだと思うと感動を覚えたのは当然のことだ。


「いえ、あの……

 練習の成果を出したかったんですけど、正直リナとは雲泥の差で申し訳なくて」


 意気込みだけでは駄目でした、と彼女は顔を覆う。


「そのようなことはありません、とてもお上手ですよ」


 リナの刺繍した模様と比べたら多少歪で不格好に見える。だがちゃんとクローバーの形に見えるし体裁は整っているのだから大したものだ。

 三つ子の妹に教えを乞いながら一針一針刺してくれたなんて、と胸がじーんと熱くなる。


 そんなカサンドラの感動に打ち震えた視線を前に、彼女は「違うんです!」と慌てたように何度も己の行いを否定するようにかぶりを振った。


 一体何をそんなに恥ずかしがっているのか、狼狽しているのか事情が分からないカサンドラは首を傾げる一方なのだけど。

 細長い吐息を斜めに落とし、リゼはようやく何とも言えない悔しそうな――それでいて赤い顔のまま口を開いてくれた。


「夏休みに避暑地に連れて行ってもらいましたよね?」


 そうですね、と頷く他ない。とても楽しい思い出で、忘れるわけもない話だが。

 今更何故?


「そこで、その……ジェイク様に……」


 そこでジェイクの名が出るなら、彼女がどうにも落ち着かない様子なのは分かる。

 だが裁縫と避暑地とジェイクという単語が全くつながらないバラバラのピースなので、彼女自身の口から説明されるのをじっと待つ他なかった。


 カサンドラは想像力が豊かではない。


「ジェイク様と乗馬の練習に行く前にですね。

 私、玄関先で護衛の人の袖のボタンが取れかかっているのを見つけたんです」


 言われてみれば、確かにリゼが裁縫道具をリナに持って来るよう頼んだ場面は覚えている。

 あの時はエレナとジェイクとその日の予定を話していて――


 記憶力が良い方ではないカサンドラだが、急に裁縫道具を求めたのは確かにおかしな話だと当時の様子を必死で思い出す。

 結局、裁縫道具は使わずにリナも怪訝そうな表情で戸惑い、再度自室に道具を持って帰ったのだから意味が分からない話ではあった。


「私、ジェイク様にボタン付けも出来ないような不器用だと思われてるようで!

 ……そりゃあ確かに得意ではないですけどね」


 くっと拳を固めて今にも歯ぎしりをしそうなくらい悔しがっているリゼの様子にちょっと慄く。

 一体どんなやりとりが行われていたのか、カサンドラは現場を見ていない。


 彼女の視点からの状況説明を、真剣に頷き聞く他なかった。



「――というわけで。

 あれから多少裁縫にも挑戦しようかとリナに教えてもらってて。

 ……折角だから私も練習の成果を出そうとチャレンジしたんですが……。

 リナのと比べたら雲泥の差ですし、私、やっぱりジェイク様の言う通り、裁縫苦手みたいです」




   でもボタン付けくらいは! 出来るのに!




 苦悶の表情で唸る。

 頭を抱えて声を捩じらせるリゼが目の前にいた。


 だがカサンドラとしてはそれどころではない。


 話を聞いていると、「ん?」と疑問が湧き上がってきたからだ。


 組んだ手に顎を乗せ、彼女の話を頭の中で統合して当時のやりとりをイメージで再現する。


「……リゼさん、それ、もしかして……」


 その想像が正しいのかどうか、本人に聞かなければ分からない。

 ただの推測で、リゼの捉え方の方が真実に即しているのかも知れないけれど。




 しかし、時間が時間だ。教室には多くの生徒達が入り乱れるように入室してくる、そこでジェイクがどうのこうのという話題を大声で話す気にはなれない。

 それはリゼも同じことなのか、話はこれで終わりなんですけどね、と遠い目をして呟くのみだ。


 負けず嫌いが服を着て歩いているような性格のリゼのこと。

 リゼを気遣ったジェイクの要らぬフォローに、いたく彼女のプライドが刺激されたのだという事は良く分かった。

 その結果裁縫の訓練にまで手を染め、ブックカバーのクローバーの刺繍にも挑戦したが撃沈したらしいというのは確かだろう。

 実際に彼女が嘆く程変な模様ではない。

 リナが仕事師さながらの腕前なだけであって、リゼだってボタン付けの一つ二つ、余裕でこなせたに違いない。



 そもそも、だ。




   本当に気遣いの言葉だったのかな!?




 カサンドラとしては声を大にして問いただしたいところだ。


  




 教室前方の扉が開き、そこには王子と一緒に他の三人も一緒に入ってくる。

 半数は登校済みの教室内だ、当然そこから騒然とした空気に。更にこのクラスの生徒だけではなく、待ってましたと言わんばかりに他所の階や教室から大勢が集ってくる毎日の光景。

 とても話しかけられたものではない。


 彼らの取り巻かれ状態に絶句しつつ、カサンドラは目を細めて前方を見やる。

 顎を手の甲に乗せ頬杖をついたままの姿勢で、めつけると言った方が正しいか。



 王子とは視線も合うこともなく、上級生の女生徒数名に囲まれて会話を続けている。

 それはいつものことなので今更意見があるわけでもなく、すーっと視線を横に滑らせジェイクの方に視線を遣った。


 どこにいても目立つ赤の髪、そして仕草そのものは普通の男子と何ら変わることもないものだ。

 両手をズボンのポケットに突っ込んだままクラスメイトと話をしている彼が、何を思いそんな言動に及んだのか糺すことは出来ない。



 リゼが他の人間の世話をするのが嫌だったという一種の独占欲か? とも邪推したくなる。


 だがジェイクは元々心配性且つ過保護な一面を持つ人間だ。




 彼の性格上、本心からリゼが恥を掻かないか気遣っていたという可能性も否めない。






    うーーん……






「カサンドラ様、おはようございまーす」


 リゼよりも随分遅れ、いつの通りの時間に登校してきたリタとリナがこちらに気づいて大きく手を振る。

 彼女達の挨拶に手を振って答えながら、ジェイクの表情を後方部から確認しようとしたが――





 普段と何も変わることのない、それこそカサンドラの誕生日にあったことなど夢か幻かという無変化状態の彼らの態度では窺い知ることが出来なかった。



 王子の気持ちもジェイクの気持ちも、ゲームのように視覚的に数値化されてはいない。





 気持ちは見えるものではないから、一喜一憂の繰り返し。


 ヤキモキして、心がこんなに乱されるのだ。

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