第170話 誕生日 (6)
その後も、王子によって王宮内の施設を案内してもらう。
だがいくら王子自ら順路を効率よく考えてくれていても、宮殿内は常識外れな広さである。
部屋に滞在している時間よりも歩いて移動している方が長いのでは、と思う時もあった。
亡き王妃が改装した薔薇園を一通り眺め、王子の反応に内心ビクビク状態で過ごした。
幸い彼は全く変わらない表情で穏やかに微笑んでいるのみだ。
彼が本当は何を想い考えているのか外側から判断するのはとても難しい、と。改めて実感する。
『薔薇園を案内して欲しい』とお願いしたことを思い出す。
あの日カサンドラがジェイクに教えてもらったという王子にとっての予期せぬ情報があり、薔薇園という単語に彼は動揺してしまったわけだ。
もしも事前に彼がカサンドラの提案を予期し、心構えをしていたら動揺の欠片も見せなかったと思う。
実は彼が内心負の感情を持ったなど気づかないままスルーしていただろう。
本心は王子がモヤモヤした悲しい想いを抱えているなど、絶対に気づかなかった。
たまたま、誤魔化しきれない動揺を引き出すことが出来たから――正直に話してくれただけのこと。
そう、彼はとても優しい。
他人に自分の負の感情を悟られないよう振る舞うスキルが高すぎる。
だからカサンドラも彼の自分に対する肯定的な態度を真に受けて浮かれている場合ではないのだと思う。
普段通りの紳士で優しい彼の言動のどこまでが本心で、どこからが本心を覆い隠しているものなのか……
相手を不快にさせない、喜んでもらえるよう歓待するのは人として当たり前のことだ。
彼はカサンドラにだけではなく、多くの人にそのようなポリシーを持って接していると思う。
素晴らしい事だが――距離を感じることもある。
これ以上は踏み入ってくれるな、と。
言外に牽制を受けているような気もするのだ、具体的に言葉に出来ないけれども。
言われる言葉は嬉しいものだし、行動は自分を肯定してくれているわけで。
素直に受け取ればいいのに、見えない透明なガラスに遮られているような錯覚を覚えるのだ。
それが凄く、不思議だった。
※
そして最後にカサンドラが連れられて入った部屋は、一見した限り何の目的で使用される部屋なのか分からなかった。
先ほどまで滞在していた娯楽室であれば、ビリヤード台、チェス台、ダーツの的などが揃っているので「ああ、娯楽室だ」と見て取れたのだけれど。
数脚の椅子が磨き上げられた木の床の上に置かれ、陽の射さない部屋なのかまだ昼の時間だというのに室内に照明が灯っていた。
壁際には大きな棚があり、何となく多目的な用途で使われるホールなのだろうと漠然と理解する。
大小様々な箱が並んでいるようだが、少々離れて棚の方に置かれているので詳細が分からない。
おいかけっこやボール遊びと言う年齢ではないが、幼い子供たちが存分に駆け回れるだけの広さはある。
物音一つない静けさの中、カサンドラはとても落ち着かない気持ちだ。
「王子、こちらの部屋は……?」
部屋の壁掛け時計はそろそろ三時半を回る。
本当に随分長いことこの城を歩き回っていたのだなと自分でも驚いた。
王子と一緒にいる時間が楽しすぎて時間の感覚が何処かおかしくなったのかも知れない。
小首を傾げて王子を振り返ると彼もまた壁掛け時計を見上げ、そして間違いがないか己の腕時計に視線を移している場面であった。
部屋の時計に誤りはなさそうだが……
「丁度良い時間だ」
王子が呟くと同時に、部屋の扉が軽くノックされてぎょっと顔を強張らせる。
何に使うか用途の分からない部屋に、一体誰が何の用事で――
と疑問を思い浮かべたものの、次の瞬間には秒速で氷解。
「やぁ、アーサー。意外に早かったね」
珍しいことに、ごくカジュアルな格好のラルフが部屋に入って来たのである。
髪型は普段と変わらず首の後ろで長い金髪を束ねているが、それ以外は全く着飾らずにラフとも言える格好の彼の姿。
カサンドラはつい凝視し、彼の登場に呆気に取られて立ち尽くす。
「……それと、誕生日おめでとう」
ラルフの紅い瞳がこちらを向き、素っ気ない口調で言われてしまった。
その事実に驚き、思わずお礼を言うのが遅れてしまう。
「あ、ありがとうございます」
感情が籠っていない事甚だしいが、そういえばジェイクにもシリウスにも何も言われていないので逆に新鮮だ。
彼らにとっては誕生日と言うアニバーサリー自体が至極どうでもいいものに過ぎない。
が、女性たちとの人付き合いを難なくこなすラルフにとっては『言うだけなら易い』という通り一遍の習慣なのか。
カサンドラの顔を見たら反射的にそう言葉が出てきたようだった。
多分カサンドラじゃなくても、そこに誕生日のクラスメイトがいたら普通にそう話しかけるのだろう。
マメな男よ……。
「忙しい中来てくれてありがとう」
「今日は取り立てて用事があったわけではないから、それは良いのだけど」
ラルフがここに来た、ということでピンときた。
ここは現在、だだっ広い何もない多目的空間であるが、あの椅子を見るに……
ここでカサンドラのためにラルフに何か音楽を奏でてもらおうという趣旨があるのだ、と。
わざわざラルフを王宮に呼び寄せて、一曲なりとも弾かせようなんて。
王子の口調は最初から結構軽かったけれど、冷静に考えたら贅沢が過ぎる。
そうか、部屋の隅に置かれた黒い箱は楽器を収めている箱かと合点が入った。
並べてある椅子に座って演奏してくれるのだろうか。
こんな風に彼を使うなんて、とカサンドラも居たたまれない想いだ。
指先が落ち着かずもぞもぞ動く。
「ところで、
しかしラルフは何故か室内をぐるっと一望し、わけのわからない事を王子に問いただす。
「もう少しで来るんじゃないかな」
しかし王子も、訳知り顔でそう答えるだけだ。
……二人?
王子が声を掛けたのはラルフだけのはず、もしかして他に伴奏要員に音楽家の手配でもしたのだろうか。
でも手配をしたとして、この人の指定した時間に遅れてのこのこ姿を現すような呑気な宮廷音楽家がいるとも思えない。
音楽に携わる者にとってラルフは、神様に並び立ち影さえ踏めない畏れ多い存在であろうに。
何も事情を知らされていないカサンドラは、向かい合って小声で話をする彼らに果たして声をどう掛けたものかと眉根を寄せる。
すると再び、扉が開く。
今度はノックさえなかった。
思い切り体当たりするような入室っぷりにカサンドラは口をあんぐりと開けたのだが、それも仕方がないことだろう。
「悪い、遅れた!」
「………。」
どたばたと騒がしく、鎧を脱いで上下とも黒い軽装姿で入って来たのはジェイクで。
そんな彼の後ろから物憂げな表情で一緒にやってきたのは――シリウスか。
――ん?
いや、現在も公務中だろう彼らが何故こんな場所に……?
頭の周囲を疑問符が飛び交う現状に、再び立ち眩みに襲われそうだ。
シリウスもローブを脱いだ普段着姿とは言え、既に疲れ切った様子で眉間に皺を寄せている。
かなり機嫌が悪そうなこの人を含め、彼らが一堂に会した理由が全く思い至らず緊張で喉が鳴った。
ないとは思うが、まさかカサンドラ糾弾会が密やかに行われるとか!?
本来卒業パーティで衆目の前にて彼らに断罪を受けるはずのカサンドラだが、シナリオの狂いでまさかの今!?
いや、彼らに後ろ指を指されるようなことはしていないはずだ。
もしや気に障るようなことでもしたのか?
混迷し、ぐるぐると嫌な想像ばかりが脳裏を駆け巡るカサンドラ。
そんな自分に言い聞かせるよう、王子はにこやかな笑顔を向けてくれたのだ。
「今日ラルフに一曲弾いてもらうつもりだと、カサンドラ嬢にも既に話をしていたと思う」
「は、はい……」
「ラルフにその提案をしたら、最初は二人で弾けば良いのではという意見をもらってね」
ピクッと耳が動く。
ラルフの演奏は確かにピアノでもヴァイオリンでもカサンドラには全く及びもつかない素晴らしい音色だと思う。
実際に聞いたことがあるから、実力に疑義をさしはさむ余地はない。
だがそれとは別に、王子の演奏も合わせて聞けるというのなら……!
一学期の生誕祭の再現?
しかも、こんな特等席で自分のためだけに弾いてもらえるなんて、考えただけで喜びの余り血流が早くなりそうだ。
王子の言葉を引き継ぐように、ラルフが前髪を掻き上げながらカサンドラに経緯を説明してくれた。
「二人で合奏をしようかと話をしてはいたものの、どうせならとジェイクやシリウスも呼ぶことにしたんだ。
……まぁ、これは僕の個人的な趣味だよ。
こういう機会でもなければ、声をかける事もないしね」
この間、生誕祭前の合奏でも結局ジェイクは用事があると参加することは終ぞ無かった。四人揃って演奏? 何だ、何のドッキリだ?
「幸運にも同日に城に滞在しているという話だ、前もって声をかけておいた」
ラルフの一声だけで、公務中の二人を呼び寄せるとかどんな魔法を使ったのだろう。
背中にうっすらと汗をかき、恐る恐る新たなる来訪者を向き直ると――
「休憩がてらに抜けられるからな、まぁいっかって」
ジェイクは特に気にした様子もない、基本的に付き合いの良い性格らしい。
普段王子の護衛などに始まり、様々な場所に帯同する機会の多い彼のフットワークは軽かった。
……良いけど、楽器の演奏……できるの……?
そういえばチェロだのコントラバスだのは弾けると言っていたな、この人達のスペックの底が知れない。
ジェイクはまだいい。
だが予期せぬ豊穣祈念祀の司祭役に大抜擢されてここのところずっと機嫌の悪かったシリウスに、こんなお遊びに付き合ってもらうとか。
ラルフも王子も正気か、と一歩後ろに下がって彼の様子を伺う。
カサンドラが固唾を呑んで見守っていることに気づき、彼はムッとした表情のまま眼鏡の位置を直す。
眼鏡の奥の真っ黒で小さな瞳が殺意に満ち溢れていたらどうしよう。
カサンドラの視線は完全に泳いでいた。
「そうだな、気分転換になる。
爺共の話から抜ける口実が出来たのは僥倖だ、今だけはお前の生まれた日が今日だったことに感謝する」
しかしながら、案外彼は気分を害していないように見える。
逆に安堵していると言ってもいいくらいの反応だ。
ハァ、と何度も溜息をついているのはこの場所にいることに嫌悪しているわけではなく余程現在の環境が嫌で嫌でしょうがないということなのだろう。
いかにシリウスと雖も、高齢の聖職者達に囲まれたり司祭役に大抜擢だと殊更祭り上げられるのは嫌なのだと思われる。
「――ということで、私達も四人揃うのは本当に何年振りだろうかという話でね。
少々耳障りな合奏になる可能性もある、容赦願いたい」
王子はそう言いながらも、大変気分が良さそうで溌溂としていた。
部屋の奥、棚の傍の楽器ケースは彼らの私物。それを手にとって扱う慣れた様子は貴族のお坊ちゃんならではだなぁ、と感動した。
そもそも音楽家は男性の方が多い、それは楽器の演奏にはそれなりに体力も使うからだろう。
指先の強さも音に如実に表れるし、姿勢保持に筋力も要するわけで。
料理人と同じく、案外男性の方が”向いている”職業なのかも知れない。
「い、いえ! 決してそのようなことは……!」
カサンドラは両手を横に振り、彼らの行動をただただ唖然と見守る他なかった。
どうしてこんな大掛かりな事に……
いや、まだ大ホールだの演奏会用に用意された専門の場所を使われなかった分マシなのだろうか。
彼らの四重奏など、もしも宮廷音楽隊たちが屯する場所で聞こえたら絶対に注目を集めるだけだ。
このような何もない室内を利用するのは事を大げさにしたくないという王子やラルフの配慮かもしれないけれど。
この面子の演奏会を『ささやかな』感じで受け取って本当に良いのだろうか?
※
王子とラルフのヴァイオリン、そしてシリウスのヴィオラ、その上本当に一際大きな楽器ケースから取り出したチェロを抱えるように座るジェイクの四人で――
この世界ではごくありふれたメロディーが奏でられる。
讃美歌を少しアレンジし、耳馴染みが良いようにテンポを速めたものであった。
子供でも普通に口ずさむ、広く浸透した曲だ。
誕生日に必ず共通して奏でられる音楽はないが、お祝いの時にはこのような讃美歌の明るいバージョンとも呼べるフレーズが度々演奏される。
過去のカサンドラの誕生日パーティでも良く聞こえたメロディで原曲は大変厳かな雰囲気なのに、編曲された曲は単調だけれども爽やかな音階である。
難しい技巧も必要としないシンプルな曲だが、流石にヴァイオリン組の音の透りが半端ない。なんと心にも体の表面にも響く音か。
正面に座って、無料で聴いているのが申し訳なくなるレベルだ。
本当になんて贅沢な誕生日なんだ、と今更分不相応な現状に冷や汗ものである。
特にジェイクなどは彼の誕生日にカサンドラ個人で何かしたわけではないのに、付き合わせて申し訳ないと思う。
「ありがとうございます、まさかこのような機会を頂戴できるとは思いもよらず……
感謝いたします」
最初はラルフ一人に演奏してもらうという話だったはずなのに、と心の中で言い訳を述べる。
勿論ラルフ一人だって、普通に頼んで弾いてくれるような御仁でもないのだが。
一曲弾き終わった後の充足した表情の王子。
その笑顔はとても魅力的だが、今はなんだか悪戯っぽい雰囲気が隠しきれていない気がする。
嫌な予感がして背もたれに背中が着く程上体を後ろに引いてしまった。
「カサンドラ嬢。
実は、この部屋にフルートを持ち込んでいてね」
「えっ」
「彼らももう少し付き合ってくれるというからね。
――エメリアの楽曲、もう一度君も合わせてみるのはどうだろう」
……生誕祭前に皆で合奏した曲名が頭に打ちこまれ、あの夜遅くまで練習練習と指を動かしていた地獄の週間を思い出して肩が跳ねた。
あの合奏の話はもうとっくの昔に終わったことなのでは!?
「えー。別に時間は良いんだけどさ、俺そっち練習してないから絶対トチるぞ」
ジェイクが憮然とした顔で王子に不満を表明する。
ただのお遊びで誰かに聞かせるわけでもないんだし、と。ラルフは彼の抗議を軽く一蹴した。
誕生日に一曲捧げるという本来の目的は既に達成し、祝われる本人まで合奏に参加するのであれば……
学校の休み時間に音楽室で思い思いに楽器で音を鳴らす時間と何ら変わるものではない。
真っ新に見える銀筒、フルートを王子自ら手渡されてカサンドラは焦った。
でも彼らに一曲弾いてもらったのは確かであり、王子に声を掛けられたのだ。
頑なに嫌です無理です、と首を横に振ることは物凄く失礼なことではないかと、意を決してカサンドラは恭しくフルートを受け取った。
普段自分が使っているわけでもない、新品同然のこの楽器で果たして自分は演奏なんてできるのか。
猛練習したとはいえ、もう三か月も前の事だからちゃんと覚えているのかと不安は尽きない。
やはり楽器は、毎日触っていないと格段に腕が鈍るものだ。
ずっしりと重たい銀色のフルートを掲げ、カサンドラは盛大に音を外す恐怖に打ち震えながら、彼らと一緒にあの日の合奏を再現することに心を決めた。
「………はは、全然音が出ていないじゃないか」
堪えきれず、ラルフがヴァイオリンの弓を一旦弦から外して可笑しそうにそう揶揄する。
「いきなり弾けって言われて出来るか。
お前と一緒にするな!」
言われた張本人、ジェイクが仏頂面で目の前の楽譜を指でなぞるが、その隙にも曲はどんどん先に進んでいき、慌てる重低音のチェロが大迷走。
それに引きずられるように隣のシリウスが思いっきり音を外してしまい、ピタッと動きを止める。
ギィーーーと、およそシリウスの楽器から出たとは思えない酷い音が室内を
「ジェイク、お前な……!」
指が覚えていてくれたおかげで何とか余裕を持って曲を吹き進めていたカサンドラ。
だがシリウスがプルプルと小刻みに震え戦慄く様子が目に入ってつい指が滑り変な長音が飛び出てしまった。
うわぁ! と焦って視線を上げると……
王子も可笑しそうに、座ったまま身体を前傾姿勢で身を屈めて笑っている。
音も完全にバラバラで先導するメロディラインさえ空中分解した有様。
でも失敗しても曲が全く形を成さずに途中で終わってしまっても、皆楽しそうだ。
いつでも何でも完璧に、という面子に見えたが意外と内輪では適当に過ごしているのだなぁ。
王子と視線が合った。
まるで童心に帰ったような素直な表情にドキッとした。
釣られてカサンドラもつい笑顔になってしまう。
ここに自分がいる事が、とても不思議な気持ちだ。
こんな楽しい誕生日は もう二度とないだろう
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