第169話 誕生日 (5)


 聖堂内で休憩していると、先ほどの気分の悪さは夢か幻だったのではないかと不思議に思えてきた。


 何だったのだろう、あの気分の悪さは。


 ぽつんと一人で身体を休めるのも手持無沙汰になってきた。

 既にジェイクは仕事が残っているからと、何とカサンドラを置いて先に聖堂から出て行ってしまったのである。


 まぁ、彼にずっと傍についていてもらうのも気が引けるので、仕事があるなら是非そちらの方に向かって欲しい。


 一度内部に入ってしまえば、中に危険物があるわけでもないし聖職者の不審そうな視線さえやり過ごせればどうということはない。

 休憩所替わりにするなと文句を言われたら出て行けばいいだけの話だ。


 長椅子に座ってホッと一息ついたカサンドラに手を挙げ、忙しなく去って行く彼の後姿を見送って五分ほど経過した。


 二度とあの場所に近寄りたいなんて思えないが、少なくとも今現在カサンドラの体調は良好だった。

 だが良好だと思っているのは浮かれたカサンドラの心だけで、実は身体は無理をしていたのだろうか?

 王子と一緒にいることで心ばかりが浮き浮きと絶好調で、長距離を休むことなく歩き続けた身体に疲労が蓄積しているのかも知れない。


 だとすればジェイクの言う通り、もっと身体を鍛えないと今後もみっともない姿を晒すことになるだろう。



「カサンドラ嬢、具合はどうかな」


 うーん、と渋面を作って思い悩んでいたカサンドラの背後から王子の気遣わし気な声が聞こえる。

 全く近づいてくる気配に気づかなかったせいで、座ったまま飛び上がりそうなくらい驚いた。


「ありがとうございます、王子。

 本当に何でもないことだったようです、体調に問題はございません!」


 ホホホ、と口元を手の先で覆って殊更明るい口調で返答を返した。


「シリウス様方のお姿が見えませんが……」


「あの二人は持ち場に戻っているよ」


 学園生活だけでなく、公務的な面であの二人も忙しそうだ。

 近い将来国政に携わることが確定している身の上。学園内では貴族のリーダー的立場を固辞し足場や人脈を固めつつ、実地で経験を積んでいる。

 学園生活を婚活の場としかとらえていない生徒もいる中、その真面目さには頭が下がる想いだ。

 貴族なんだから他人の労働力を当てにして遊び暮らしていても誰も文句は言わないだろうに。


 勤勉さこそ尊いもの、という価値観は前世の社会みたいだ。


「シリウス様とはどのようなお話を?」


 カサンドラの様子を見に来るまでの十分程度、何やら真面目な顔で込み入った話をしているように見えた。

 すると王子は困ったように小首を傾げ、「それはカサンドラ嬢に話せないことだから」と言葉を濁されてしまう。


 ……しまった。


 シリウスが王子を呼び留め、深刻な顔で話をしているものだから……

 一体どんな重要な案件で邪魔をされたのかという嫉妬交じりで、王子を困らせてしまった。

 良く考えなくても、公務の内容を今はただの婚約者に過ぎないカサンドラに詳細を話すなど出来るわけがない。


 仕事と『私』のどちらが大切かと真正面から問いただす女性は女性の目から見ても「そんなこと聞くな」と思ってしまうというのに。

 自分は恋人でさえないのだ、物凄く鬱陶しい質問をしてしまったとカサンドラは後悔の渦に呑み込まれる。


「王子、わたくしはこのように元気です!

 どうか案内を続けて下さいませ」


 自分の失言を誤魔化すように、カサンドラは勢いよく長椅子から立ち上がる。

 あまり謝罪ばかりでは彼も余計に気を遣うだろうと、先ほどの行き過ぎた詮索をお互い無かったことにしようと思ったのだ。


 ……王子の友人に嫉妬してどうする、それも遊びでもない公務内容のことだろうに。

 もしかして自分は、誕生日だからと無意識に調子に乗っているのでは……

 自制心、自制心、と。

 カサンドラは可能な限り穏やかに微笑み、王子に向き直った。


「体調が良いのなら、それに越したことは無い。

 丁度次は昼食にしようと思っていたのだけど、食事は摂れそうかな。

 もしも食欲がないのなら、別室で休んでもらっても全く構わないよ」


「王子と昼食をご一緒できるなど、大変光栄な事です。

 是非ともご相伴にあずからせて下さい」

 

「無理はしないようにね、折角の誕生日に嫌な思い出を残して欲しくないから」


 若干、こちらが無理をしているのではないか? という王子の穿ったような視線を感じる。

 だがあの瞬間気分が悪くなっただけで、今は全く平常通りなのだ。お腹に手を当てれば心地よい疲労感とともに空腹を感じる。

 どさくさに紛れるように王子に手を握ってもらえ、それが中途半端に途絶えたことでジェイク達を逆恨みしそうになるくらいには元気なのだ。


 そこまで重病人のように接せられる方が心が痛い。


 王子に促され、聖堂を後にする。


 扉をくぐる瞬間、不意に背後を振り返ると――薔薇窓のステンドグラスが差し込む光が、水晶の女神像に重なる。

 七色、十色に照らされる大きな女神像が、カサンドラに向かってかすかに微笑んでいるように見えた。




 腕時計の針をちらと眺めると、既に正午を廻っていた。

 彼の言う通り、そもそも聖堂の後が休憩を兼ねた食事の予定だったのだろう。あと少し我慢すればお互いに気持ちよく食事の時間に移れたのだがしょうがない。

 予定通りに順風満帆にはいかないなど、往々にして良くあることだ。


 気持ちが悪い不快な想いもすっかり鳴りを潜め、血色も戻ったカサンドラの表情に王子は安堵した様子だった。本当に心配をかけて申し訳ないと忸怩たる思いだ。


 宮殿中央部の食堂のプレートには第二食堂と記されており、他にも食事を摂る広間があるのだと分かる。

 だが第二という名称を冠しているが、案内された食堂は流石はお城だと少し仰け反った。


 真っ白なテーブルクロスの敷かれたテーブルを前に、椅子をスッと引かれて腰を下ろす。

 食堂のテーブルはとても大きな長方形だった。


 王子が気を遣ってくれたのか、本来長い距離をとって対面し食事をするはずのテーブルも短い辺同士向かい合って座るので彼との距離は近い。

 あまりにも離れていたら会話にさえならない、声が届く範囲に座ってくれてよかったと変なところで安心した。


 二人の手元のグラスに果実酒が注がれている最中のことだ。


「バースデーケーキをお持ちしました」


 使用人の声とともに、誕生日と言えば思いつく食べ物第一位。誕生日のホールケーキが食堂ホールまで届けられたのである。

 女子のさがとでも言うべきか、ケーキと言われて嬉しくないわけがない。

 わぁ、と手を叩いて運び込まれたケーキ……を一目視界に入れて絶句した。



 一段どころじゃない。

 二段、三段……四段!?

 

 沢山の苺と生クリームでデコレーションされたバースデーケーキは、ケーキと言うよりもはや山である。




  え? え?




 その時カサンドラの脳裏に去来したのは、前世の世界で見たことがあるウェディングケーキであった。

 別に入刀するわけでもないが、そのデカさにかなり焦る。


 とても一人二人の胃袋には収まらないだろう常識外れの大きいケーキが視界を占領し衝撃に慄くカサンドラ。


「ず、随分大きな……ケーキですね……?」


「料理人には、一番大きなケーキをと注文したのだけど……

 確かにこれは大きいね」


 王子もまさかここまで段をなして積まれたケーキが登場するとは思わなかったのか呆気にとられた表情でグラスを持った手を止める。


「デザート用に切り分けた後、侍女やメイドの皆様に振る舞うことは可能ですか……?」


 これを全部食べるなど体積的に不可能だ。

 そして持ち帰ることも難しい、残したら廃棄一直線というのも食材に対する罪悪感が酷い。


「良いのかな? 君のために用意したものだけど」


「勿論です、どうか皆様には幸せのお裾分けとおことづけ下さい」


「この分量だと、何十人分も切り分けられそうだ。

 君の意見を有り難く採用させてもらおう」


 彼はそう言って爽やかな微笑みを浮かべる。

 余りにも王宮料理人が張り切った末の力作、もはやテーブルの上から天井に届きそうな四段構えのバースデーケーキ。

 そこにはカサンドラの名前が刻んであるのが、何とも気恥ずかしい。


「……誕生日おめでとう、カサンドラ嬢」


 紅い果実酒の入ったグラスを彼が掲げるのに合わせ、カサンドラもグラスを指で抓んで持ち上げる。

 グラス同士を重ねることが出来る距離ではないが、同時にそれを傾け口につけた。


 つい食堂の入り口辺りをチラチラと視線で確認してしまうのは、呼びもしていないのに本当に国王陛下が飛び入りで食事に乱入してきたらどうしようかという心配事のせいだ。

 あの王様は悪い人ではないのだろうが、あまり冗談を言うタイプには見えなかった。

 自分の発言に責任を持って、呼ばれなかったが寂しかろう――と扉を開けてくるのではないかと冷や冷やものだ。あまり良く知らない人だけに行動に予測がつかない。


「恐縮です、王子。

 ――誕生日にこのような個人的な時間を過ごせたのは初めてかも知れません」


「そうだね、私も誕生日と言えば多くの知人達を招待してのパーティを催してもらっていた。

 大勢と集まり話が出来る機会であることは間違いないけれど、ゆっくり過ごすというわけにはいかないものだ」


 これはカサンドラや王子に限らず、他の貴族の子供たちにとっても同じことだ。

 次期さえ来れば必ず『慶事』ということ招待する側もされる側も大きく気負うことなく機嫌伺が出来る。

 結局はまみえる手段の一つという習慣で開かれるパーティなので、祝われる本人があまり楽しくないという事態が頻発する。


「誕生日と言えば、結局ジェイク様は今年は誕生会を開かなかったのですよね?」


「そうだね、試験準備期間の真っ最中だから無理と理由はつけていたけれど。

 周囲からは結構な圧力があったのが嫌だったとか」


 学園に入ってからは、親の主宰で誕生日パーティを開くことは基本的にない。

 祝いたければ自分で企画して開けというスタンスの家が多く、学生で交友関係が広がった令嬢はお茶会の上位互換と言う体で誕生日に友人らを招く者が多かった。


 だがジェイクや王子ともなると、堂々と彼らに近づき祝える絶好の機会ということで「今年は開かないのですか?」と言外にプレッシャーを感じることも多いそうだ。

 当然そんな面倒なことをするジェイクではないので丸無視状態で現在に至る。


「王子は今年も誕生日パーティを?」


 運ばれてきたフルコースの料理を二人で一緒に食べる。

 テーブルの中央付近にデンと構え聳えるケーキの存在感は凄いが、一緒に食事を摂ること自体は観劇以来の話である。

 周囲に給仕係がずらっと並んでいるのも同じだが、同じ席にシリウスやラルフらがいないというだけで解放感を覚え心が軽くなるカサンドラ。


「今年は考えていないよ、長期休暇中だしね。

 皆がゆっくりしたい時期に遠方から集まってもらうのも気後れする。

 何かを成し遂げた祝いの席というならともかく」


 そうか、今年は王子の誕生日パーティはないのか。

 ……と言っても、カサンドラは王子の誕生日パーティにお呼ばれしたことは無い。

 記憶が正しければ父のクラウスが招待されていたはずだが、地方貴族の令嬢には声が掛からなかった。

 主に中央の貴族たちを招待していたと思われる。


 流石に往路で何日もかかる距離の貴族の子女を誕生日のためだけに呼ぶ、というのもキリがない話だ。

 王子の姿を知らなかった時はその事実に何とも思わなかったが、王子に一目惚れをした後はどうにかして誕生会に潜り込めないかと悶々としていたなぁと。

 遠い目をして思い出す。


 まさかその後婚約者に選ばれるなんて思ってもいなかった。

 喜びのあまりの大興奮で、母やアレクをドン引きさせてしまった事も記憶に新しい。


 ただの雑談ばかりだったが、相手が王子と言うだけでどんな話もとても興味深く楽しく聴くことが出来る。

 食事などあっという間に終わってしまう、学園での昼食は黙々と静まり返った中で進むのでこうはいかないのに。


 さて、規格外のバースデーケーキを給仕係に切り分けてもらうことになったのだが――

 山のような大きさの段重ねケーキが苺が数粒乗せられたショートケーキのサイズとの差があまりにも大きすぎる。


 互いにお皿の上のケーキを見比べて、同時に小さくクスクスと笑う。


「まさかこんなに大きなケーキを作ってくるなんて思わなかった。

 来年はもう少し小さめに作ってもらうようにするよ」


 肩を竦め何気ない風の彼の言葉、それら一つ一つに動揺が走る。


 来年も、こうやって王子の傍にいることが出来るのだろうか。

 一緒に誕生日を祝ってもらえる、気が早いが翌年のこの日が脳裏に思い浮かんで一瞬涙が目尻に溜まりそうになった。



 嬉しいな。


 




 ※





 食事が終わった後はカサンドラの要望通り、王子の執務室に案内してもらう。

 果たして彼が王城内でどんな環境で過ごしているのかな、という好奇心が強かった。


 基本的に土日は王城に通っているということだから、少なくない時間をこの彼専用の執務室で過ごしているはず――なのだが。



 焦げ茶色の扉についている金の取っ手はくすんで鈍い色に変じている。

 それは何度も人の手に触れられ、出入りが多いことを表しているかのように見えた。


 王子がドアを押し開き中に入ると、後ろに着いて入ろうとしたカサンドラは歩みを止める。


 室内の壁にはびっしりと書棚が並ぶ、資料だらけの広い執務室はイメージ通りだ。

 中央にデンと存在を誇示する重々しい執務室は整然とし、汚れ一つない綺麗な状態。


 だがそんな内装に感心するよりも嗅覚に心を擽られたのだ。



「この香りは……」



 ふんわりと室内から漂う香りは、まさしくラベンダーの香りだ。

 そして間違いなく、あの日王子にお土産としてプレゼントした香り袋サシェのそれだろう。


 ドキドキして、胸がきゅうっと締め付けられる。



「以前君にもらった香り袋は、城内で過ごす間この部屋に置かせてもらっている。

 落ち着いた香りで、確かにくつろぎ効果があるような気がするよ」



 書類仕事や勉強などで集中を強いられる時の、ふとした時のリラックス効果を期待した――というのはお題目で、本当は何でもいいから王子にお土産を渡したかっただけだ。


 素人が作った、不格好なあの小袋を机の端に置いていてくれているのか。


「あの香りはどのくらい保つのだろう」


「おおよそ半年、継続するのではないでしょうか」


「随分長い間効果があるものだね」


 へぇ、と彼は蒼い目を細めて嬉しそうにそう言った。





 嬉しさが、さっきのケーキのように積み重なって一人では持ち上げられないくらいまで大きくなっていく。



 


 ドキドキして言葉がすぐに浮かんでこない。





 この不意打ちは、カサンドラの心の急所を抉る。 

 

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